第11話或る一夜の女
その女性とはそこまで深く関わっていたわけではない。パートナーの友人の友人という立ち位置で、二度会ったきりとなってしまった。一度目はパートナーと、その友人たちを交えた場で、そして二度目は彼女に誘われた新宿のバーで。その夜のことを、時々その場にいるかのように思い出す。遊び慣れている彼女は、手慣れた口調でお酒を注文し、下戸の私はノンアルコールカクテルを頼んで、ぽつぽつと語った。そうしているうちに、お互いが腐女子であることがわかって、私たちは一段と声を落として、それぞれのジャンルについて語り合った。昔私が書いていて、いくらかpixivで注目を集めた小説を、彼女も読んでいたらしく、その場が一瞬熱くなったのだが、それから互いにハッとトーンダウンしたのを今でもよく覚えている。
私はかれこれ歴が20年になる、今となってはもはや貴腐人だが、いにしえの腐女子は公の場で自らのハマっているジャンルやキャラクターについて話したりしない、という暗黙のルールが、彼女と私との間、さらには当時の腐女子の間にはあり、またXがTwitterと呼ばれていた2009〜2010年ごろにもその空気があった。
腐女子たちは鍵垢で日々それぞれの妄想を披瀝し、密なコミュニケーションを交わしたのだった。
自分自身がそのような時期、そういう暗黙のルールが敷かれたジャンルに長く身を置いていたので、それからはずっと鍵垢を使っていて、今となってはもはや余人と関わるのも煩わしくなってしまって、ひとりきりの鍵垢に壁打ちをしては、そのログをGoogle Keepに移して、Xからは消している。
いずれツイログ本を何かしらの形でまとめられればと思っているが、それを実現するかどうかはまだ決めていない。ただ、少なくともオープンな形で、誰もの目が届く場で、そのジャンルやカップリングにまつわる妄想を語ることは今後もないだろう。
「萌え」が「推し」に変わってからは世の中の風潮も大きく変わったけれど、私はまだ「萌え」の文化の中に自分が生きていると思っていて、Xの使用状況もそのような有様だ。
ほぼpixivにのみ作品を置いて、他ではあまり宣伝をしない「支部専」として、作品を投稿しているのだが、pixivの古いジャンルにはまだあの頃の「萌え」文化が残っている気がして、今自分が身を置いているジャンルも、ほとんどアンティークのようなジャンルで、メディアの特性上、新規の同性ファンが限られるので、すこぶる居心地がいい。新規作品はほとんど望み薄だが、自分自身の解釈に満足していられればそれで十分だし、覇権コンテンツにはない居心地の良さを感じている。いわば自分自身がXに代わって連日投稿しているBlueskyのようなブルーオーシャンとなっている。
元々私は腐女子のリアルの友人はいない環境で過ごしてきていて、女オタクはいても、彼女たちは腐ってはいない。そうした環境もあって、公の場で声高に思いの丈を捲し立てるような真似をすることには至らずに済んでいて良かったと思う。
そうしてあの一夜を何度となく思い起こし、Diana Krallをかけながら薄暗い部屋でひとりキーボードを叩いていると、その場がだんだんあの日のバーのカウンターへと変わってゆくような錯覚を覚える。
諸般の事情もあって彼女とはもうなかなか会えそうにないけれど、まだあの夜のつづきに、あの頃の年恰好のままの彼女がいる気がして、その幻影がとても希少なものに思える。そしてあの夜の帰り際に、黒いトレンチコートのデザインをした冬のコートを褒められたことを思い出す。かつて、別の友人が「黒は詩音さんの色だから」と語ったこともあったほど、学生時代は黒い服ばかり着ていたのを思い起こす。
もう一度黒い服を纏ったら、少しでもあの頃のような気持ちに戻れるのだろうか。三十路の病弱主婦となった私に、黒い夜は甘く、そして切なく吐息を吹きかける。
2024.08.09
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