第10話ネットの海に消えていった人たちへ

 師と仰いでいた詩人の姿をネットで見かけなくなって久しい。

 個人的にお目にかかったのはたった一度きりで、そこまで親密というわけでもなかったのに、詩人の持つ危うさと、そこに併せ持つ、えも云われぬ魅力は私を虜にしたものだった。

 彼はアマチュアの詩人だったけども、なにせ後にも先にも彼の詩ほど魅せられたものはない。焦がれて詩作をはじめた私に「自分が詩だと思えば詩なんだよ」という言葉を授けてくださった。もう新しい作品を読めないのが悔やまれてならない。

 時々思い出したように彼のサイトを訪ねて、そっと私をモデルにして書いてくださった詩を読み返す。それもいつまでできるかわからない。

 彼はまだ生きているのだろうけれど、詩からは離れてしまったようで、私にとってはそのサイトがかけがえのない墓標のように思われてならない。

 連絡が絶えたあとも、こうして未練がましく背中を追いつづけて、気づけば十年の月日が流れていた。

 私は詩を書きつづけている。私の詩は詩ではないと、詩を書くことにある種の後ろめたさを感じながら、それでも書きつづけている。

 先日、まったく見知らずの人に作品「死出の旅」を「散文詩」と評していただいて、「ああ、これは散文詩なのだな。私は詩を書いていたのだな」という実感をようやく得られたのだが、あまりにも意味の世界に縛られすぎる私の詩は、やはり素人の手遊びに過ぎないのだろうと思っている。


 そうしてネットの海に消えていってしまった人に、ひとりの女性がいる。彼女とは同年輩で、紡ぎ出される美しい文章と、洋の東西を問わず造詣の深い知識にすっかり魅せられ、彼女のフォロワーとなった。

 しかし数年が経つにつれ、私は大学院への進学を諦めざるを得ず、そんな私とは相反して大学院へ進み、さらには作品の商業誌への掲載も決まった彼女に対して、云いようのない嫉妬心を抱いた。私が心から欲していた、作家と研究職というふたつの職業への道が拓けた彼女が、羨ましくてしかたがなかった。

 私も別の出版社の商業誌への掲載が二年連続で続いていたとはいえ、高校時代から心に決めていた大学院への未練を断ち切れず、彼女の姿をTLで見かけるたびに云いようのない思いをした。

 しかし彼女もまたネットの海へと消えていった。その後、彼女が作品を書いたという話は聞かない。


 小説を書きはじめて二十五年ほどになる。二十代半ばまでは、周りに詩や小説を書く同年代の人々が数多くいたのだが、二十代も終わりになり、やがて三十代になるのを来月に控えて、あらためて見渡してみると、その多くが書くことを手放して仕事に、あるいは家事や育児に励んでいる。

 今や私よりも若い人々が詩作に励み、あるいは小説を書くことを志しているのを目にするようになった。世間一般的な常識から云えば、それが順当な道なのだろう。三十代を目前に控えて、文芸ジャンルの創作に打ちこんでいる人間は、私の見る限りでは、よほど限られている。

 だがそれでも私は書きつづけていたい。たとえプロになれなかったとしても、書くことをやめることは私にはできない。人生の大半を書くことに費やしてきた私には、今さら他にやりたいことなどないのだ。

 詩の師匠も、先に触れた女性も、私には到底超えがたい高みにいることに変わりはない。

 今の私は彼らを超えることができているとはつゆほどにも思わない。

 彼らの代わりに書くことはできないし、そうするつもりは毛頭ないが、ただ彼らの気高く研ぎすまされた志を夜中を進む舟の星明かりとして進んでゆきたい。

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