第8話あの夏の紅茶

 同棲している彼に紅茶を淹れてあげるたびに、私はある紅茶のことを思い出す。それはルピシアのキャラメレという銘柄のフレーバードティーで、名前の通りキャラメルのような甘い香りのする紅茶だった。彼はこの紅茶が一等お気に入りで、今でも時折注文して味わっているのだが、彼と知り合って二年ほど経った夏の日の午後、彼の借りている部屋で淹れてもらったことを今でも思い出す。

 当時の私は不真面目な学生で、しょっちゅう授業をサボっては彼の部屋に遊びに行って、文学談義に花を咲かせたものだった。日の光がきらめく夏の陽気の中、彼とともに都心のさる街のはずれにある部屋まで歩きながら、私たちが夢中になっていた谷崎や、彼が魅了されていたドストエフスキー、バルザックについて話していたのを未だに覚えている。

 平安時代の貴族の通い婚というのは、夫が妻の元へ訪ねてくるという方式だったが、私たちの場合はまったく逆で、今にして思えば、彼の部屋に通うことが私にとって密かな楽しみになっていたのだろう。別段人目を忍ぶようなロマンティックな恋ではなかったけれど、授業をサボタージュしてふしだらな時間を過ごすというのが蜜の味よりも蠱惑的に思えたのだった。

 彼と話すうちにいろんな作家のことを学び、自分自身も深く近代文学に傾倒していった。中でも好きなのが鏡花で、大学時代に出会ったもっとも愛する作家だったと云っていい。今に続く世間の鏡花ブームは私の大学時代からはじまっていて、彼とともにシネマ歌舞伎の「海神別荘」「天守物語」を観たのも良い思い出だ。坂東玉三郎演じる鏡花ヒロインたちの美貌とたおやかさに心を動かされ、趣味が高じて玉三郎が主演を務める舞台「日本橋」や歌舞伎「天守物語」を家族たちと鑑賞したのも懐かしい。

 そして折しも大学に客員教授として鏡花を専門にしておられる先生がおいでになるというので、その授業だけは一度もサボらずに授業に出てお話を拝聴した。先生が「近代文学は読み尽くしてしまったから、もう読む本がない」とおっしゃっていたのが忘れられない。その境地まで達するにはどれほど多くの本を読まねばならないのかと思うと気が遠くなった。また先生は鏡花の足跡を追って地方を回り、その土地土地の郷土資料を丹念に集めて鏡花の文学に迫るという地道な研究を積み重ねていらっしゃるとのことで、尊敬の念を抱かずにはいられなかった。

 その先生は私の「竜潭譚」にまつわるレポートを「『母との関係性』と『生死』という2つのテーマと作品の物語構造を、先行研究を丁寧に裁きつつ、慎重に繋げていく精緻な論考で、その粘り強さに感心しました。研究者に向いていますよ」とたいへん褒めてくださった。鏡花に関しては私も愛執とも云うべき執着が強すぎるところがあって、自ら余人を遠ざけてしまうところがあっただけに、専門家である先生に認めていただいたことが何よりもうれしかったのだった。

 今にして思えば当時の私は文化的に恵まれた場所にいて、豊かな時間を過ごしたのだと思う。大学を出て持病が悪化し、やがて郊外に住むようになってからは、そうした場所との縁もふっつりと途絶えた。そうした中で青春時代を共にしてきた彼とともにキャラメレを淹れていただくと、まだあの夏の続きにいるような気がして、ノスタルジックな気分になる。学生時代に志していたものの、結局私は持病により研究の道を諦めざるを得なかった。いつまでも大人になれないまま、世間から遠ざかってひっそりと生きている私の思い出の味は、甘くて、少しほろ苦い。


2019.10.06

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