第2話見立てのこころ

近頃はとかく物事を具象的に描き出し、人間の想像力をそのまま表現することに重きが置かれているという気がしてならない。その最たるものが3D映像だ。

私は先月、映画ジャングルブックを3Dで観たのだが、そこにはもはや想像の余地は残されてはいない。ディズニーランドやディズニーシーのアトラクションのように、すべてが余すことなく描き出され、人々は他人の生み出した仮想現実を体感することによって娯楽を得る。


 私にはそれが至極つまらないもののように思えてしかたがない。先日、島根県は福田屋の秋出雲という銘菓をお茶請けに、小石原焼の湯のみで緑茶を飲んだ。秋出雲は小豆と栗を寒天と水飴で固めたシンプルな和菓子で、かくべつ値の張るものではない。

たまたま生協のカタログに載っていたのを母が見つけて注文した、という日常の一幕のなかで我が家に届けられ、茶菓子として食卓にのぼったもので、エピソードとしてはなんらおもしろみがあるものではない。


ところがこの秋出雲、包装紙から取り出して器に盛ってみるとなんともうつくしいのだ。寒天は薄く氷が張ったような風情で小豆と栗とを包んでおり、小豆のほの暗さと端に寄った栗の金色は群雲がかった夜空と月に似て、寒天の奥にけむって見える。

さながら晩秋の夜、窓越しにながめる月夜のようでうつくしい。口に運んでみると味は上品な甘さをたたえて、けっして緑茶の繊細な味をそこなうことなく栗や小豆の食感を素直に楽しめる。

と、ここまで書いてきたが、実のところ味のことは二の次だ。なにより大切なのは和菓子の見立てにほかならない。

普段の生活を忘れてほんのひとときの間、手中の月夜に見入る。そういう時間が私にとってはなにものにもかえがたい喜びなのだ。


見立てといえば小石原焼の湯のみも同様だ。こちらも焼きもののよしあしもわからぬまま、ただ青い釉薬がうつくしかったからという理由だけで福岡で購入したもので、特別ないわれがあるものではない。形も湯のみ然としたオーソドックスなものであるし、二十代半ばの女が好んで使うようなデザインでもない。

それでも使いつづけて五年ほどにはなるだろうか。使いこむうちに釉薬の色が熱で変化して、深海のように濃い青一色だったのが、むらのある渋い青へと変わった。濃淡をえがきながら湯のみの表に流れる景色をながめていると、川のようにも海のようにも見えて、あるいは星々がめぐる銀河も思い描かれる。


私は情趣を解するような人間ではないけれど、こうして水の流れ、星々の運行を目で追いながら緑茶をあじわっていると、つかの間のまぼろしにこころ惹かれてしまう。そして思うのだ。見立てこそ遊びのこころにほかならないのではないか、と。

現代にはいくらでも娯楽がある。そして娯楽はよりリアリティを求めて変化しつづけてきた。より現実味のある表現がもてはやされ、身体的に、あるいは直感的に体感できる芸術がよしとされはじめている。


だが私は余白に夢を見ていたいのだ。表現されないもの、表現されたものの枠内に収まらないもの、意図された表現とは異なるものを味わい、そこに遊びを見いだしたい。すべてを語り尽くすことも、すべてを描き尽くすこともしなくていい。

安アパートの和室を囲むふすまに描かれた模様を見て、これは茅だろうか、すすきだろうか、それとも波だろうかと想像をふくらませ、蛍光灯の豆球に浮かび上がったその模様に、月光の下に照り映える茅を、あるいは月下にそよぐすすきを、または月明かりに揺れる波を夢想して眠りにつくしあわせを忘れたくはない。


2016.10

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