夢幻図書館

雨伽詩音

第1話うつくしい人

 あなたが去ってしまって、もうすぐふた月が経とうとしています。この間、あれこれと自分の中で整理をしようと思っていたのに、「忘れえぬ人々」を書いた独歩の筆は私にはなく、ただ心の奥のもっとも大事なところにしまって、時々思い出したようにその部屋を訪ねては、触れるか触れないかのところで手を引っ込めるという有様でした。一週間というわずかな時間をあなたと過ごしただけなのに、どうしてこれほどにもあなたの記憶は鮮やかなのでしょう。

 お昼時に板チョコレートを一枚ほおばっていたあなた、楽しげに家族のことを語っていたあなた。私の思い出の中のあなたは、いつでも晴れやかな笑みを浮かべています。

 私に「裏表のない人なのね」と云ってくれたあなたは、心の底から晴れ晴れと笑っているあなたは、東京で出会った人のなかでもっともうつくしい人でした。「をんなが附属品をだんだん棄てると/どうしてこんなにきれいになるのか」と歌い上げた高村光太郎も、きっとこんな気持ちだったのだろうと思います。

 上品な出で立ちで、立ち振る舞いも凜として、礼儀正しい人はたくさんいます。それでもあなたは、彼女たちよりもはるかに清らかで、心根のきれいな人でした。けれどもあなたはある日突然去ってゆきました。あなたはその間際に私に向かってひとつの爆弾を落としていきました。「あなたは作家になりたいの?」と。あなたのメモを見て、文章が整っていると感じたから訊いてみたの、とやさしいまなざしで語っていました。かつてあなたに何があったのか、私にはわかりません。それでも話しているうちに、あなたがおそらく小説の道を志して、その道半ばで筆を折ったことだけは伝わってきました。

 あなたの気持ちは、今の私にはまだわかりません。この先、身をもって味わうことになるかもしれないし、もしかしたら幸運にめぐまれて道を進んでいけるかもしれません。あなたの傷はまだ癒えていないようでした。私にはかける言葉もなく、ただあなたの言葉を受けて「がんばります」としか云えませんでした。あなたの落とした爆弾は、あまりにも高い殺傷力を持っていたようで、私の心の奥はまだひりひりと痛みます。「あなたの分まで」とは云いません。小説を書こうと書くまいと、あなたはこの東京でもっともうつくしい人ですから。


2017.03.30

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