空蝉

弓月いのり

空蝉

 遠い蒼空。過ぎ行くそよ風。懐かしい道のり。

 そして、その総てを彩るは蝉時雨。空の彼方で乱反射し、風に乗って肌を撫で、ふと後ろに振り向かせる。

 蝉の鳴き声を聞くと彼女を思い出す。

 ──嗚呼、また夏がくる。




▼01.




 高校二年の夏休みも中盤に差し掛かった。部活に所属していない私は、惰性のような毎日を貪っていた。

 退屈は悪魔だ。その悪魔から逃げるように、皆何かを探している。正直、部活や習い事を始める人はそんな動機の人が多いと思う。やりたいと思って始める人なんて、きっとひと握りだ。

 かくいう私だが、現在は退屈に屈していた。

 夏休みの宿題は終わってしまったし、仲の良い友人たちは部活動に熱心だ。皆は青春ってやつを謳歌しているのか、眩しいな。

 おかげで、毎日することと言えばスマホで動画を観ることくらいだ。ただ徒に時間を浪費している感覚。新しい何かを欲すれど、探すことをしない怠惰な私。何もしないで手に入るものなど無いというのに。

 そろそろ外に出てみようかな、なんて思ってみる。田舎だからこの辺には何にもないけど。でもこのまま夏休みの残りを家に引きこもって過ごしていたら太りそうだ。うわぁ、考えただけでも恐ろしい。

 頭を振って嫌な考えを追い出す。

 ぴんぽーん。突如、間の抜けたベルの音が私しかいない家に響いた。

 心当たりは無い。どうせ親がネットで頼んだ物でも届いたのだろう。だらけた部屋着のまま玄関の扉を開ける。

 眩しい。日差しが外景を白く塗り潰し、入り込む外気が汗を誘う。

 思わずかざした手のひら。しかしそれは思わぬことに、柔らかい何かに包まれて。


「久しぶりね、はーちゃん」


 握った私の手を千切らんばかりに振る、あの頃から随分と大人びた幼馴染の七草冬優がそこに居た。

 その再会は、実に五年ぶりのものだった。







 小学生の頃、隣の家に同い年の女の子がいた。

 お人形さんみたいに可愛い彼女のことを、私はすぐに好きになって、たくさん話しかけたのだった。

 体が弱く人見知りな彼女だったが、徐々に打ち解けていって、次第に仲良くなった。

 私は冬優彼女のことをふーちゃんと呼び、彼女は遥香のことをはーちゃんと呼んだ。

 当時の友達の中では一番仲が良かった。それこそ、親友と言っても差し支えないくらいに。

 そんな親友のふーちゃんは、小学六年生の夏休みを目前にして、転校していった。

 理由は知らない。

 あの時の訳が分からなかった私は、泣きながら「さよなら」と言った。

 確かふーちゃんも、泣きながら「さよなら」と言っていた。

 けれど最後に、ごめんね、と唇が動いていたのを、今でも鮮明に覚えている。







 とりあえず外は暑いからとふーちゃんを家に上げて、部屋着では恥ずかしかったので着替えた。


「粗茶ですが」

「どうしてかしこまっているの? でも、ありがとう」


 麦茶の入ったコップをテーブルに置くと、中の氷がカランと涼やかに鳴った。透明のガラスには水滴が汗のように流れている。

 リビングのテーブルを挟んで向かいに座る。私は数年来の幼馴染を改めて視界の中心に置いた。

 同性の私から見ても羨ましいと思うほどに整った顔立ち。日焼けを知らないみたいに真っ白な素肌と、腰まで届く長い黒髪のコントラストが眩しい。簡素な白のワンピースがまるで舞踏会のドレスのように美しく見えるのは、きっとそれを着る素材が良いからだろう。

 ふーちゃんは細い腕を伸ばしてコップを掴み、ゆっくりと麦茶を口に運んだ。ほっそりとした喉の動きが不安になるくらい頼りなかった。


「久しぶりね」


 コップが静かにテーブルに置かれる。カラン、と氷が滑るように崩れた。


「うん。本当に、久しぶり」

「玄関でのはーちゃんの顔、とても面白かったわ。すごくビックリしてた」

「そりゃそうだよ。急なんてものじゃない、ちょっとしたドッキリみたいだったもん」


 それもそうね。

 気を抜けば霞んでしまいそうなくらいに細い指を唇に当てて、ふーちゃんはクスクスと笑った。

 妖精みたいだ、なんて思った。


「それで、一体何しに来たの?」


 聞きたいことは山ほどあった。どこに住んでいたのとか、今まで何をしていたのとか、逆にこっちが話したいことだって。

 だけど、ふーちゃんの急な来訪は、何か目的を感じられずにはいられなかった。


「まずは、驚かせてしまってごめんなさい。とても急な訪問になってしまったから、困らせてしまうことも分かっていたわ」


 笑顔から一変、ひどく申し訳なさそうに細い眉を歪めて、ふーちゃんは言った。


「これから話すことも、あるいはとても驚かせてしまうと思うのだけど、聞いてほしいの」


 乾いたクーラーの音。軽やかな氷の舞踏。私は緊張で唾を飲み込む。

 ふーちゃんの声以外、この空間にある音の全てがバックグラウンドに成り下がった。


「私、もう長くないの」


 遠くで、蝉が鳴いていた。


「…………え?」


 ガツンと、頭を鈍器で殴られたみたいだった。


「冬まで持つかどうか。いいえ、たぶん秋にはもう」


 途端に、確かに目の前にいるはずのふーちゃんが、蜃気楼みたいに霞んで見えた。


「小学六年生の時、私は理由も言わずに転校したわ。覚えてる?」

「うん、もちろん」


 震える声音で頷きを返す。


「その理由を今言うわ。あれは、都会で大きな手術をするためだったの」


 無慈悲に、あるいは痛快に、ふーちゃんの口から紡がれる事実の残響が耳にこびりつく。頭が、そして何より心が、話についていかない。ついていけない。ただ、言葉が耳の奥で響いているだけだ。


「小学生の頃、私、体育なんて一度も参加したことがなかったでしょう?」


 体が弱いのだと聞いていた。


「何度も早退を繰り返していたでしょう?」


 体が弱いのだと納得していた。


「特に冬なんて、学校をほとんど休みがちだったでしょう?」


 体が弱いのだと疑いもしなかった。


「で、でも、命に関わるほどだなんて」

「そうね。そこまでは言ってなかったわね」


 でも嘘は言っていない。

 ふーちゃんの、まるで経年劣化で薄れた絵画のような微笑みが、言外にそう語っていた。


『私、体が弱いの』


 不意に、古びたビデオテープのノイズだらけの音響が、頭の中に流れた。

 やめて、と心が軋む。

 蓋を開ければ溢れだすように、埋まらなかったはずのピースが埋まっていく。

 胸の奥にしまっていたキラキラした思い出が、とても残酷でみっともないくらい尊く思えて、涙が溢れて仕方なかった。


「一週間の自由をもらったわ」


 悲壮な空気など微塵も感じられないふーちゃんの声が、私の鼓膜を貫いた。


「今日を合わせて一週間。はーちゃんと一緒に過ごすために、こうして会いに来たの」


 顔を上げた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの私を、ふーちゃんはひどく愛おしそうに見つめている。


「とても酷いことを言っているのは分かっているわ。でもどうかお願い。私が生きていた証拠を、貴方の中に残させてください」


 ──こんなこと、親友にしか頼めないもの。


 ズルいなぁ。そんなこと言われたら、断れないに決まっているのに。

 ふーちゃんはコップに手を伸ばす。もう氷は全部溶けてしまっていた。

 久しぶりに会った親友は、恨めしいほどに残酷で、心做しか、笑ってしまうくらい優しかった。





「心の整理もあるでしょうし、今日はもう帰るわ」


 時計を見れば、ふーちゃんが来てから過ぎた時間はたったの30分だった。


「ああ、よかったらこれ読んでみて」


 ふーちゃんは帰り際、一冊の本を置いていった。

 夜の海に蛍火が連なっているような絵。いや違う、これは銀河だ。そして、ひっそりと溶け込むように星の海を横断する汽車。やけに古めかしい絵が表紙のそのタイトルは、『銀河鉄道の夜』。

 あまりにも有名なタイトル。もちろん私も知っている。だけど、実際に読んだことはなかった。


「私が一番好きな本よ」


 普段、私は小説とか読まないから、一気に読むのはなかなか難しいかもしれない。


「大丈夫よ。一週間もあるんだから」


 いつもだったらそう言えるだろう。けれど、先ほどの話を聞いた手前、ふーちゃんを前にすると、僅か一週間しかないのだと、焦燥のような気持ちが胸いっぱいに広がるのだった。







 孤独で空想好きの少年、ジョバンニ。家は貧しく、母親が病気で寝込んでいるので、早朝と放課後にアルバイトをしている。父親は長らく家に帰っていない。漁に出ているとジョバンニは信じているが、ラッコを密漁して投獄されていると噂され、近所の子ども達にそのことでからかわれている。


 ジョバンニの同級生で親友のカムパネルラ。裕福で人気者の優等生。孤立気味のジョバンニを気に掛けている。


 ジョバンニの父とカムパネルラの父は小さい頃からの友人で、ジョバンニはよくカムパネルラの家に連れて行かれた。二人の父親と同じように、ジョバンニとカムパネルラは幼馴染だった。二人は親友だった。




▼02.




 翌日、昼過ぎ頃に玄関チャイムが鳴った。


「こんにちは。はーちゃん、準備はできているかしら」


 扉を開けると、ふーちゃんがそこに居た。昨日と変わらず、端正な顔立ちで、白い肌で、長い黒髪で、ドレスみたいなワンピースで。


「どこかに行くの?」

「ええ、そうよ」


 昨日は何も聞いていなかったから、いつ何を言われてもいいように早起きして準備は整えていた。


「うん、わかった」


 ふーちゃんは満足そうに笑って、白い日傘を差した。

 私は靴を履いて、カバンを持って横に並んだ。

 家に鍵を掛けて、私たちは揃って歩き出した。


「昨日の本は読んだ?」

「ちょっとだけ読んだよ」

「どの辺?」

「ジョバンニがお祭りに行こうと家を出るところまで」

「本当にちょっとね」


 ふーちゃんはくすぐるような笑みを零す。

 仕方ないでしょ、活字読んでたら眠くなったんだから。

 私は子どもみたいに頬を膨らませて分かり易くむくれた。

 それを見てふーちゃんはさらに笑った。

 私もなんだか可笑しくなって、一緒になって笑った。

 とても懐かしい感じがした。そっか、五年ぶりだもんね。


「『それどこでなくカムパネルラは、その雑誌を読むと、すぐお父さんの書斎から巨きな本をもってきて、ぎんがというところをひろげ、真っ黒なページいっぱいに白い点々のある美しい写真を二人でいつまでも見たのでした』」


 遠くを見るように目を細めて、ふーちゃんは云った。

 昨日読んだ中にそんな文章があったように思う。


「覚えてるの?」

「もう何回も読んだから、全部暗記しているわ」

「すごいね」

「ふふ、ありがとう」


 天上の太陽が真珠のように輝いていた。


「ねえ。やっぱり私、ふーちゃんと居る時間が好きだわ」


 晴れ渡る青空。降りしきる蝉時雨。道路にはゆらゆらと陽炎が立ち上っている。

 体全身で暑さを感じる。


「ええ、とても好きよ」


 日傘の下で上る太陽よりも眩しい綺麗な笑顔。

 網膜が焼けてしまいそう。

 暑いのも、眩しいのも、きっと全部、夏のせいだ。





 ふーちゃんが買い物をしたいとのことだったので、ショーピングモールにやって来た。クーラーが涼しい。

 まあこの辺はここくらいしか遊びに行く所なんて無いんだけど。田舎だし。


「何買うの?」

「服よ。恥ずかしいことだけど、私これしか持っていないの」


 言いながら、ふーちゃんはワンピースを指さした。昨日も、その服を着ていた。


「手術をしてから、ずっと病院生活だったから」


 私は何も言えなかった。

 雪みたいに白い肌も、水流みたいに長い髪も、着回しのワンピースも、その全てがふーちゃんの言葉を重くした。私ではきっと、味わったこともない重さだ。


「ごめんね、でもそんなに暗い顔をしないで。私、楽しみなんだから。はーちゃんに服を選んでもらうの」

「え、私が選ぶの?」

「そうよ。だって私、流行りとかオシャレとか分からないもの」


 あっけらかんと言い放つ美少女。けれど、どこか期待に瞳を輝かせている。

 その様子から分かる。ふーちゃんは、本当に楽しみにしているんだ。


「うん、わかった」


 だったら、私も応えなきゃ。

 それに、ふーちゃんを楽しませたいなら、自分も楽しまなくちゃ。


「似合うのがいいわ。でも変なのは嫌よ?」


 でも確かに、こんなに可愛い子を着せ替え人形にできるのは、密かに興奮することだった。


「大丈夫だって! 任せて!」


 私が元気よく宣言すると、ふーちゃんはニッコリと笑った。

 その瞬間、天啓のようなものが閃いた。

 嗚呼、分かったよ。この一週間の私の役目はこれなんだ。

 ふーちゃんを笑顔にすること。

 そして、笑顔のふーちゃんを覚えていること。

 ずっと、ずっと。いつまでも。





「今日はありがとう。あっという間だったわ」

「ううん。私もすごく楽しかった」


 気が付けばもう夕方。青空が橙を帯び始めていた。

 ふーちゃんとアパレルショップを回るだけで四時間以上過ごした。

 私が選んで、ふーちゃんが気に入ったものを買う。

 まあ、ふーちゃんは私が選んだものを全部買う勢いだったけど。もちろん金銭的な問題でそれは無理な訳で。

 ふーちゃんはちょっぴり悔しそうにしていた。それを見て私は苦笑いしていたけど、本当は胸の奥が少しこそばゆかった。

 それから最後に映画を観た。今流行りの青春映画。女の子は流行に弱いのだ。


「映画なんて久しぶりに観たわ。それこそ小学生以来ね」

「そうなんだ」

「ええ。病室では本ばかり読んでいたから」


 雲が重なり、にわかに日が陰る。

 蝉は未だ、強く鳴いていた。


「帰ったら、続き読んでね」


 言うまでもなく、『銀河鉄道の夜』のことだ。


「もちろん」


 そうして、二日目が終わった。







 ジョバンニの同級生、ザネリ。仲間と共に「お父さんから、らっこの上着が来るよ」と言ってジョバンニを揶揄う。ジョバンニはザネリの仲間の中にカムパネルラを見つける。カムパネルラの裏切りを受けたジョバンニは悲しみに暮れ、天気輪の柱が立つ丘へと走る。


 ジョバンニがしばらく丘でぼんやりとしていると、銀河ステーション、銀河ステーション、と云う声がする。いきなり目の前が明るくなって、気が付けば列車の車窓から銀河のような景色を眺めていた。そして、すぐ前の席には、見覚えのある子どもが居た。カムパネルラだった。




▼03.




 今度は昨日より一時間遅くふーちゃんはやって来た。


「今日はカラオケというのに行ってみたいわ」


 子どものように目を輝かせるふーちゃんは、やけに凛々しい声でそう言った。


「わかった」


 昨日と同じように、並んで歩く。


「そういえば、どうかしら」


 日傘を差しながら、その場でぎこちないターンをするふーちゃん。長い黒髪が扇のように舞う。

 淡い水色のノースリーブカットソーに、膝下まである白のプリーツスカート。足首をさらして涼しげなサンダル姿が夏らしさを演出する。ふーちゃんの綺麗な肌を活かしたコーディネート。テーマはザ・清楚。


「うん、すごくよく似合ってるよ!」

「ふふふ、ありがとう」


 花のような笑顔。選んだ甲斐があったなぁとしみじみ思う。


「嬉しそうで良かった」

「はーちゃんが選んでくれたんだもの。宝物よ」

「その言い草……もしかして、昨日の全部?」

「当たり前じゃない」

「宝物、多いね」

「そうかしら。普通の人よりずっと少ないと思うわ」


 そのいい切りはやけにさっぱりしていた。

 ふーちゃんの言った「普通」に、自分を当てはめてみる。

 けれど、具体的な宝物をうまく思い浮かべることはできなかった。


「皆、気付いていないだけなの」


 草木が風にそよぐように、ふーちゃんは優し気に語る。


「人は新鮮で綺麗なものばかり追いかけてしまうけど、本当はすぐ近くに一番綺麗で尊いものがあるのよ」


 難しい。

 残念ながら、出来の悪い私の頭では、うまく理解できなかった。


「ふーちゃんは難しいことを言うね」

「そんなことないわ。はーちゃんにだって、今は分からなくても、その内分かるようになるわ」


 今日も遠くで、蝉が鳴いていた。





 この辺でカラオケといえばショッピングモールの中の店が最も安い。という訳で、昨日に引き続きショッピングモールに来ていた。

 二時間コースで部屋を取り、ドリンクバーへ向かう。


「はーちゃんはーちゃん。これって、好きなものを飲んでいいの?」

「うん、そうだよ」


 予想はしていたけど、どうやらふーちゃんはドリンクバーが初めてらしい。


「時間内なら、ここにあるものを好きなだけ飲んでいいんだよ。このソフトクリームも食べ放題」


 正しく、その表情はショックを受けていた。


「か、革命だわ」


 革命なんだ。

 でもまあ、好きなだけ歌えて好きなだけドリンクバーを堪能できるのはすごいことだと思う。

 グラスにドリンクを注いで、部屋へ向かう。

 荷物を置いて、リモコンとマイクを準備する。

 ふーちゃんはその細い腕でリモコンを持ち上げ、不思議そうに観察している。


「はーちゃん、これは何に使うの?」

「それで歌いたい曲を選択するんだよ。そしたら前の画面に歌詞が流れるから、後は歌うだけ。音程も表示できるよ」

「そうなのね。ちなみに私は歌える曲とかないのだけど」

「えぇ……何しに来たの」


 てっきり、歌いたいからカラオケに来たかと思っていたのに、とんだ肩透かしを食らった気分だ。


「昨日帰ってから若い子が何をして遊ぶのか聞いたら、カラオケって言われたから、来てみたかったの」


 ふーちゃんは小六で手術をしてから病院生活を送っていたと言っていた。なら、中学にも、高校にも通っていないということだ。同い年の子たちと触れ合う機会がなかったのだ。

 私が当たり前のように過ごしてきた普通の休日を、ふーちゃんは知らない。そして、それは逆も同じことだった。

 ふーちゃんの苦しみを、私は知らない。同じように、私が楽しんできたことを、ふーちゃんは知らない。


「ふーちゃん、一緒に歌おうよ」

「聞いてなかったの? 私に歌える歌なんて無いわ」

「国歌ぐらいわかるでしょ」

「あるの!?」

「あるよ。他の国のも」


 カラオケってすごいのね。

 呆然と呟くふーちゃんをよそに曲を入れる。

 転送が完了し、前方の画面にでかでかと三文字が表示され、イントロが始まる。


「ほら、始まるよ」

「え? わ、わ」


 混乱するふーちゃんと歌う。ちょっと恥ずかしそう。カラオケで羞恥なんて勿体ないなと思った。気持ちよく歌うのが一番なのに。

 少し大袈裟に歌ってみる。そんな私を見て肩の力が抜けたらしい。重苦しい旋律の中で、ふーちゃんは確かに笑っていた。

 その一曲をもって私たちのカラオケは終わった。

 残りの時間は存分に語らった。

 今までのこと。思い出話。離れていた時のこと。面白い話から悲しい話まで、裸の自分をさらけ出すように。

 時間がきても延長を繰り返し、結局帰るまでに三時間も延長したのだった。







『みんなはねずいぶん走ったけれども遅れてしまったよ。ザネリもね、ずいぶん走ったけれどもおいつかなかった。』


『どこかで待っていようか』


『ザネリはもう帰ったよ。お父さんが迎いにきたんだ。』




▼04.




 昨日の時間になってもふーちゃんが来ることはなかった。

 玄関の前で一人、そわそわしていた。

 その内、所在無いのを紛らわそうと思い、『銀河鉄道の夜』を開いた。


 ジョバンニとカムパネルラは、車窓から外を覗きながら、会話を広げる。それはとても親し気で、移り気で、尊いものだった。二人は、幼馴染で、親友だった。


『おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。』


 いきなり、カムパネルラは、思い切ったというように、少しどもりながら、急きこんで云いました。


 ぴんぽーん。玄関チャイムが響く。

 ページを指で挟んで扉を開けると、ふーちゃんがいた。目を細めてしまいそうになる白い肌が、いつもより少し青白く見えた。


「こんにちは、はーちゃん。遅れてごめんなさい」


 何かとても悪いことをしてしまったという風に、ふーちゃんは勢いよく頭を下げた。長い髪が、ゆらゆらと揺れていた。


「ふーちゃん、頭を上げて。全然謝ることじゃないよ」


 頭を上げたふーちゃんは、それでもまだとんでもなく申し訳なさそうな表情をしていた。


「でも、日に日に来る時間が遅くなっているのは事実だわ」

「そうは言っても、集合時間とか決めてなかったからねぇ」

「そういえば、そうだったわね」

「寧ろ、私が迎えに行った方がいいかなって思っていたんだけど」

「ううん、それは大丈夫よ。ちゃんと、来るから」


 一言ずつ噛み締めるように、自分に言い聞かせるように、ふーちゃんは言った。

 それからふーちゃんは、目聡いことに私の手にある『銀河鉄道の夜』を見つけて、「待っている間に読んでくれていたのね」と頬を柔らかくした。


「どこまで読んだの?」


 デジャヴ。一昨日くらいにもした会話。それだけのことが、ふーちゃんと居る日々を色濃くしてくれているみたいで嬉しかった。

 説明するのがどうにも難しいと思った私は、「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。」と口に出した。印象的だったので、本を開かずともするりと声に乗ってくれた。

 それを聞いたふーちゃんは、カムパネルラね、と頗る嬉しそうに目を輝かせて、


「『ぼくはおっかさんが、ほんとうのさいわいになるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんのさいわいなんだろう。』」


 と、云った。実際に声に出して投げかけられると、なんだかこの台詞にとてつもなく深い意味があるのではないかという気がしてくる。

 ふーちゃんは「本を開いて、続きのセリフを読んで聞かせて。ああ、でも、地の分もしっかり読むのよ。そっちは口に出さなくていいわ」と、忙しない指揮棒のように口を動かした。


「『きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。』」


 私はジョバンニの台詞を云う。

 ふーちゃんは瞼を閉じる、星空へ祈るように、あるいは呪文でも唱えるように。


「『ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばんさいわいなんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。』」


 云って、突如ふーちゃんが抱きついてきた。驚きと、困惑と、ひんやりとした肌の冷たさと、僅かに香るアルコールの匂い。全部が一緒くたに私を包み込んで、脳がパンクしそうだった。


「ふ、ふーちゃん? どうしたの?」

「はーちゃんは、ジョバンニのこと、どう思う?」


 言われて、少しだけ冷静さを取り戻すのに時間がかかって、それから出来の悪い頭で考えてみた。

 孤独で空想好きの少年、ジョバンニ。家は貧しく、母親が病気で寝込んでいるので、早朝と放課後にアルバイトをしている。父親は長らく家に帰っていない。漁に出ているとジョバンニは信じているが、ラッコを密漁して投獄されていると噂され、近所の子ども達にそのことでからかわれている。幼馴染のカムパネルラとは親友で、列車に乗ってからの様子を見ればわかるように、彼の前では心を開く。


「とても、人間くさい子だなって思う」


 恵まれない環境。それに引きずられる立場。けれども、拠り所は確かに在って。なんだかとても泥臭さを感じてしまう。だからだろう、その生き下手な感じが共感を呼ぶ。


「ふうん。なら、カムパネルラは?」

「綺麗な子」


 カムパネルラに関しては迷うことなく答えられる。


「どうして?」

「優しくて、かっこよくて、クラスの人気者で。気品があって、大人びていて、でもどこか年相応で。謎めいて見えるのに、不思議と憧れるの。だから、綺麗だなって」


 まだ途中までしか読んでいないけど、これまでの中で綴られたカムパネルラに私が抱いた印象はそれだった。手を伸ばせば触れられそうなのに、蜃気楼のように霞んで見える。その儚さは、蝉の鳴き声に似ていた。


「……そう」


 ふーちゃんの抱きしめる力が、少し強まった気がした。

 ふわりと、初めから私たちは触れ合っていなかったかのように、それがまったく何でもないことのように、ふーちゃんは離れていった。


「今日はもう、あまり一緒に居られる時間が無いわね」


 そういえば、いつも夕方には解散していた。集合時間を決めていないように、具体的に何時まで一緒に居られるのか、私は知らない。


「困ったわね」

「何か、したいことがあった?」

「……言ってもいいかしら?」

「もちろんだよ」


 ふーちゃんは、恥じらうように目を逸らした。白い頬が僅かに朱を帯びている。


「学校に、行ってみたいわ」


 一瞬、息が詰まった。


「小学校?」

「ううん。はーちゃんの通っている高校」


 果たして、ふーちゃんはどんな気持ちでその望みを口にしたのだろう。私には計り知れない。

 分からないけど、きっと、とても行きたいのだと思う。だって、今までがそうだったから。


「なら行こう。大丈夫。私の高校、家から近いから」

「そうなの?」

「うん。寧ろ近いからそこにしたくらい」


 ふーちゃんは、面白い決め方ね、と静かに笑みを零した。

 たまには私も役に立つなぁ。


「折角だからさ、制服着ていこうよ」


 突拍子もない提案だった。

 ふーちゃんは目を丸めて驚いている。


「私、制服なんて持ってないわ」

「私の貸すよ。予備の綺麗なやつ」


 ふーちゃんは悩んでいるようで、だけど、キラキラと瞳を輝かせて。


「……いいの?」


 と言った。

 だから私は、高らかに返すのだ。


「もちろん!」と。





 うちの高校の制服はセーラー服だ。ふーちゃんは冬服がいいと言ったので、冬服を準備した。気乗りして、私も制服を着た。夏服だけど。いや、今は夏だから本来は夏服を着る方が正しいはずだ。


「どうして冬服なの?」


 潮のように光の波を加えていく空の色。季節が進む事にその色は濃くなる。

 夏の午後の蒸し暑い沈黙を突き破るように、遠くで蝉が鳴いていた。


「最近、夢を見るの」


 日傘を差すふーちゃん。影を冬服に重ね着させている。一粒の汗がその白い頬をなぞった。


「だからよ」


 私には何を言っているのかこれっぽっちも分からなかった。

 不思議そうにふーちゃんを見つめていたら、彼女は観念したように再度口を開いた。


「蝉って、成虫になったら一週間しか生きられないって話、聞いたことある?」

「うん」

「なら蝉は、何のために鳴くのかしら。何を思って、その今際の際を謳うのかしら」


 ふーちゃんはよく難しいことを言う。

 独特というか、哲学的というか。


「幼虫の間は地下で何年何十年と籠るの。でも、地上に出て成虫になると、たったの一週間しか生きられない」


 一見とても悲しいことのように思えた。ゴールの決まった生は、神様の作為を感じさせる。それはひどく虚しいものだ。


「でも蝉の鳴き声は、夏のどんなものよりも存在感がある。私たちがどんな場所に居たってその声を届かせる。命を燃やして『ここにいるぞ!』って叫び続ける」


 ふーちゃんの声に熱が篭る。蜃気楼のような彼女が感情的になるのは珍しい。


「きっと蝉は、夢を見ているんだわ」


 脈絡が無いような言葉だった。一方で、ふーちゃんは確信しているような口ぶりだった。言葉にできない感覚的な部分で、先ほどの説明は成立しているらしかった。

 白い日差しが照り付けている。

 風は無く、汗がどっと噴き出るばかり。

 歩くたびに命を削っているような気さえする。

 だけど遠くで、蝉が鳴いていた。





 私の通う高校は坂の上にある。家から近い代わりに、少しだけ体力を使う。


「着いたよ」


 上がった息を無理やり抑えつけて、ふーちゃんに振り替える。

 ふーちゃんは胸を押さえて、目の前の校舎やグラウンドを見渡す。


「ここが、はーちゃんの高校」


 子どものように無邪気な表情で、ふーちゃんは呟いた。

 色んな音がする。運動部の掛け声、バットがボールを飛ばす音、サッカーボールを蹴る音、吹奏楽部の演奏。

 年中聞いているはずのそれら全てが、今この瞬間、どうしようもなく夏の音だった。


「ふーちゃん、行こう!」

「……ええ!」


 どちらともなく、私たちは手を繋いだ。

 二人で手を繋いで、校舎に入る。


「はーちゃんの教室はどこ?」

「こっちだよ」


 下駄箱で靴を脱ぎ、靴下まで脱いで、裸足でリノリウムの床を行く。ひんやりとした硬質な感触を踏みしめて、二人で手を繋いで、私たちは歩く。

 不意に、郷愁感が喉元をせり上がって来た。泣きそうになりながら、私はそれを飲み込んだ。隣のふーちゃんはどんな顔をしているんだろう。訳もなく恐ろしくなって、見ることができなかった。

 角を曲がり、渡り廊下を抜ける。外景に晒された渡り廊下はひどく無防備で、足元が心もとない。だけど私たちは、砂の入り混じったコンクリートの上を踏み越えた。

 リノリウムの床と再会し、階段を上る。ふーちゃんとペースを合わせて、一段ずつ、一段ずつ。

 二階に上がり、すぐ正面の教室が目的地。

 ガラガラと引き戸を開けて入った教室は、日陰みたいにしっとりした空間だった。

 私は手慣れたように自分の席までふーちゃんの手を引いて、彼女をそこに座らせた。私は隣の席に座った。他人の席は感触が違って、しっくりこなかった。


「ここ、はーちゃんの席?」

「うん。だけど、今はふーちゃんの席」


 ふーちゃんの顔が火照っていた。夏の暑さと、たくさん歩いたせい?

 無理させたかな、ごめんね。


「はーちゃんは、時々ズルいわ」

「そうなの?」

「そうよ」


 祭囃子のような私たちの笑い声が響く。私とふーちゃんしかいない教室。奇妙なくらいに心地のいい空間だった。


「学校はどう?」

「普通」

「普通って何よ」

「普通は普通だよ。授業はつまんないけど、友達と居られるのは嬉しいし。退屈だなって思うことは多いけど、なんだかんだ楽しいこともあるし。上手いことバランスが取れてるって感じかな」

「それは普通とは言わないわ。青春っていうのよ」

「そうかな」

「ええ、きっとそうよ」


 埃っぽいにおい。椅子の足が擦れる音。囁くような会話。


「私には、はーちゃんの言う普通が分からないもの」


 チャイムが鳴る。遠くへ、遠くへと響いていく。残響が尾を引いて、やがて薄れていく。後に残ったのは、運動部の掛け声と、吹奏楽部の演奏と、セミの鳴き声。


「でも、ふーちゃんがいないのは、とってもつまんない」


 汗が流れる。タオルを持ってくればよかった。

 ふーちゃんも、額から零れた汗を手の甲で拭っている。目尻が水気で光っていた。


「はーちゃんはバカね」

「そうかな」

「そうよ」


 どこにでもあるようなありふれた関係。ただの幼馴染。それなのに、こんなにも彼女との時間を掛け替えなく思うのはどうしてだろう。


「時間なんて、止まってしまえばいいのに」


 きっと全部、夏のせいだ。







 二人は、その白い岩の上を、一生けん命汽車におくれないように走りました。そしてほんとうに、風のように走れたのです。息も切れず膝もあつくなりませんでした。


 こんなにしてかけるなら、もう世界中だってかけれると、ジョバンニは思いました。




▼05.




 翌日、ふーちゃんは来なかった。

 いくら待っても来なかった。

 連絡先くらい聞いておけばと後悔する。

 無性に湧き上がる心配と、どうしようもなく拭えない不安が、鎖のように心に絡みつく。

 何があったんだろう。そういえば昨日、顔色が悪かった気がする。坂を上ったりしたから、負担をかけさせてしまった。

 もしかしたら、私のせいかもしれない。

 まだ何もわからない。そんな状況なのに、勝手に自分を責めて、逃げ出して楽になろうとしている。

 自分の醜さに自己嫌悪。

 日が沈んでからも、自室で呆とふーちゃんのことを考えていた。

 会いたい。会って、また何でもないように話したい。お出かけしたい、手を繋ぎたい、笑い合いたい。


『今日を合わせて一週間。はーちゃんと一緒に過ごすために、こうして会いに来たの』


 楽しい時間には、いつか終わりが来るように。

 私たちが一緒に居られる時間にも限りがある。

 たった一週間。今日はもう五日目。

 ずっと続くのだと、当たり前のように信じてしまう時間の流れが、私とふーちゃんの関係をより残酷に浮き彫らせる。


『時間なんて、止まってしまえばいいのに』


 例えどんなに私たちが願っても、時間は進む。

 それはまるで、季節のように、風のように、灯を掲げる蝋燭のように。

 本を手に取る。『銀河鉄道の夜』

 たった66ページの物語。

 続きを開く。

 ジョバンニとカムパネルラ。二人は幼馴染で、親友だった。

 二人で過ごす当ての無い銀河の旅。楽しい時間がいつまでも続く。


 ──こんなにしてかけるなら、もう世界中だってかけれると、ジョバンニは思いました。


 やがて、様々な乗客たちが、二人の前に現れては消えていく。


『切符を拝見します』


 どこからともなく現れた車掌が云う。

 カムパネルラや他の乗客は造作もないという風に切符を取り出す。

 ジョバンニは心当たりがなく、上着のポケットに入っていた大きな畳まれた紙切れを差し出す。


『これは三次元空間の方からおもちになったのですか。』

『おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ。天上どこじゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。』


 ジョバンニだけが、乗客の中で、一人だけ、何かが違った。

 それから、一人の青年と、その両脇に中学生くらいの女の子と小学生ほどの男の子が立っていた。

 彼らと話すと、船が沈んだという。だからここへ至ったのだと。


『ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。』


 青年が祈るようにそう云った。

 この物語の中で、登場人物たちが何度も「さいわい」という言葉を口にする。

 さいわい、しあわせ。

 私の幸せは、ふーちゃんが笑顔でいてくれること。

 なら、ふーちゃんの幸せは?

 重たくなる瞼の裏で、ふーちゃんの横顔を思い浮かべた。




▼蝎




『ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなのさいわいのために私のからだをおつかい下さい。』




▼06.




 目が覚めると、恐ろしいほど寝汗をかいていた。

 頬や額に張り付いた髪の毛が鬱陶しい。

 シャワーを浴びて、いつものように支度をする。

 準備をしながら、もしかすると今日もふーちゃんは来ないかもしれないと不安になった。

 体が鉛のように重い。

 1分が長かった。10分はさらに長く、一時間は気が遠くなる程だった。

 待つのって、こんなに苦しいことだったっけ。

 食欲がなくて、朝も昼も水分を取るだけ。

 そうして、お昼を過ぎた頃、遂に玄関のチャイムが鳴った。

 私は跳ねるように玄関まで駆けて、扉を開いた。


「遥香ちゃん? こんにちは。大きくなったわね」


 ふーちゃんのお母さんだった。

 記憶よりかなり老けて見えるけど、その声や表情や仕草は、間違いなくふーちゃんのお母さんだ。


「おばさん、お久しぶりです。あの、どうしたんですか」

「いやね、冬優のことでね」


 慈しむように、おばさんは答える。


「ちょっと来てもらえるかしら」


 私は即座に頷いた。





 車に乗せられて10分ほど行くと、目的地に着いたらしい。

 場所は大学病院。

 病院だろうなということは何となく予想がついていたけど、こんなに大きなところとは思いもよらなかった。

 白、というよりは暖色がかった院内。

 キョロキョロと物珍しく辺りを見渡しながら、おばさんの後に付いていく。


「冬優はね。この一週間のために、毎日リハビリを頑張ったのよ」


 問いかけるように、おばさんが語る。


「でもやっぱり、夏の暑さで外に出るのは、大変だったみたい」


 日に日にふーちゃんが来るのが遅くなっていたのを思い出した。やっぱり、あれにはちゃんと理由があったのだ。

 少しずつ押し寄せる事実が、言葉でしか語られていなかった「死」を裏付ける。

 やがて、おばさんは病室を前に立ち止まった。

 ネームプレートには「七草冬優」と書いてある。


「行ってあげて」


 おばさんの言葉に頷き、扉をノックする。

 すると、中から弱弱しい「どうぞ」が聞こえた。

 引き戸を開ける。

 その部屋は個室だった。広さは大体七畳くらい。ドアの横に鏡と洗面台があって、その向かいにはトイレが備え付けられている。部屋の奥にはぽっかりと穴が開いたみたいに空間が広がっていて、そこの中央東側を病院特有の鉄製のベッドが占拠していた。そのベッドは何やら色んな機械や器具に囲まれていた。

 白と暖色の境界が曖昧な世界で、置き去りにされた子どものように、ふーちゃんはベッドで横になっていた。


「はーちゃん、いらっしゃい」


 ここが自分の家であるかのような気安さでふーちゃんは私を迎える。挙げられた細い腕に、一本の管が繋がれている。それはなんだか命綱のようで、だけどふーちゃんの細い喉みたいに頼りなかった。

 私は引き寄せられるようにベッドに近づいて、傍らにある小さな丸椅子に腰かけた。ギシリ、とひび割れたような音が鳴った。


「今日はごめんね」

「何が?」

「遊びに行けなくて」


 なんだか、まるでこれが最後のような、今生の別れのような態度で、ふーちゃんが口を動かす。

 私はひどく虚ろな気持ちになった。虚しいのに、涙が零れそうだった。


「本はもう読んだ?」

「ううん、まだ途中」

「本当に、はーちゃんは読むのが遅いわね」


 くすくすと、揶揄うように笑うふーちゃんの姿が、どうしようもなく切なかった。


「もしかして、ふーちゃんのことだから、持って来ていたりするのかしら」

「うん、持って来たよ」


 鞄から『銀河鉄道の夜』を取り出す。

 ふーちゃんに差し出すと、それを受け取った彼女は栞紐の挟まれたページを開いた。


「あら、もう少しじゃない」


 たった66ページの物語。

 いくら私が本を読み慣れていないとはいえ、読もうと思えばあっさりと読み切ることができそうな物語。

 それをこうしてゆっくり読んでいるのは、読み切ってしまえばふーちゃんと一緒に居られる時間が、泡沫の夢みたいに消えていってしまいそうだったから。

 ふーちゃんがページを開いたまま私に向ける。

 台詞を読んで、と聖母のような微笑みで、いつかと同じようにふーちゃんが言った。


「『カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなのさいわいのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。』」


 言葉と一緒に、色んなものが溢れてきそうだった。


「『うん。僕だってそうだ。』」

「『けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。』」


 私の幸せは、ふーちゃんが笑顔でいてくれること。

 でも、ふーちゃんの幸せは一体何だろう。


「『僕わからない。』」

「『僕たちしっかりやろうねえ。』」


 とても希望的なジョバンニの台詞を口にするのが、ひどく辛い。


「『あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ。』」


 カムパネルラは天の川の一箇所を指さす。天の川の一箇所に底の見えない真っ暗な孔が開いていた。

 ふーちゃんはまるで本当にそれが見えているような瞳で、病室の天井を見上げていた。


「『僕もうあんな大きな闇の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。』」


 私の思いとは裏腹にジョバンニは言葉を並べる。私はそれをなぞることしかできなくて、虚ろな気持ちが彼の孔のように私の心を穿つ。


 ──こんなにしてかけるなら、もう世界中だってかけれると、ジョバンニは思いました。


「『ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集まってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。』」


 ジョバンニもカムパネルラの云う方を見るけれど、そこはぼんやりと白く煙っているだけで、どうにもカムパネルラの云うようには見えなかった。カムパネルラと同じ景色を見ることができないジョバンニは、何とも言えず寂しい気持ちを抱える。


「『カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。』」


 ジョバンニが云いながら振り返ると、カムパネルラの座っていた席にはもう誰もいなかった。カムパネルラは、旅立った。

 病室に、夏には相応しくないしんとした沈黙が舞い降りた。

 ふーちゃんは変わらず天井を見つめている。

 私は堪らず残りの数ページを読破した。

 そうして、『銀河鉄道の夜』の話の全容を少しだけ理解した。

 嗚呼、そうか。だからふーちゃんは、私にこの本を渡したのか。


「ジョバンニは気づけば天気輪の丘に戻っていて、帰りの町でカムパネルラの死を知らされる」


 ともすれば哀しいことであるはずなのに、ふーちゃんは何の臆面もなく告げる。


「銀河鉄道は死への旅路の物語」


 星巡りの旅。見知らぬ人や大切な人達との出会いと別れを繰り返すだけのお話。

 だけれど、『銀河鉄道の夜』は、どうしようもなく、別れの物語だ。

 人はいつか死ぬ。どんな人だって必ず死ぬ。

 でも本来私たちには遠い未来の話のはずで、今はまだ幸せに笑い合えるだけのはずだった。


 ──こんなにしてかけるなら、もう世界中だってかけれると、ジョバンニは思いました。


「大人は皆、私のことを可哀想だと言うわ。まだ若いのに、って。昔からそう。はーちゃんも、そう思うかしら」


 私は何も言えなかった。それはきっと、心のどこかでそう思う自分がいて、健やかに暮らしていることが当たり前のことなのだと甘受しているからに違いなかった。

 どう取り繕ったって、決してそんなはずはないのに。


「責めてる訳じゃないわ。寧ろそう思うのが普通なのよね。でもその普通が当たり前すぎて、誰もその幸せに気付かない」


 図星だった。故に何も言えず、俯くしかなかった。

 人は自分の人生分の杓子定規しか持ちえない。その偏った見方でもって、物事を推し測る。

 私たちは、自分を取り巻く環境から作られた定規でしか、物事を測ることができない。

 多くの人は死が身近に無く、私もその通りで、死に対して漠然としたイメージしか持つことができないでいる。


「でも私は幸せだわ」


 ハッキリと、まるで夏の濃厚な青空みたいに、ふーちゃんは言った。


「だって、はーちゃんが居てくれたもの」


 静かなクーラーの音。窓の外は夏に明るく煌めいて、蒼空に飛行機雲が一筋の線を残している。


 ──こんなにしてかけるなら、もう世界中だってかけれると、ジョバンニは思いました。


 きっとどこかで、蝉がないていた。




▼07.




 目を開けると見慣れない天井が飛び込んできた。

 昨日、おばさんの計らいで病院に泊まることになった。

 泊まれたのはふーちゃんの部屋じゃなくて仮眠室だけど。

 消灯時間まで、長いことふーちゃんとお話をした。私の好きな音楽の話。ふーちゃんの好きな本の話。私の身の回りの話。それから、ふーちゃんの病気の話。話題は尽きることなく、兎に角たくさんの色んな話をしたのだった。

 今日、ふーちゃんは都会の方のこれまで入院していた大きな病院に行くという。元々一週間という条件付きのことだったから、約束された別れになる。だけれど、多分私たちはもう会うことはないだろう。

 ふーちゃんは「帰る」という言葉を使わなかった。あくまでもふーちゃんにとってはここが故郷で、それは今でも変わらずそう思っているらしかった。私はそれが、言葉にできないくらい嬉しかった。

 寝間着から着替えて、昨日のうちに買っておいた朝ご飯を食べて、ふーちゃんの病室へ向かう。

 軽いノック、応えるふーちゃんの声。

 引き戸を開く。部屋にはふーちゃんとおばさんが居て、ベッド以外もうすっかり綺麗に整理されていた。都会は遠いからお昼前には帰るのだとおばさんが教えてくれた。

 気を使ってくれたのか、おばさんは静かに席を外す。脇を通り過ぎる際、私は深く頭を下げた。

 カタン、と戸が閉まる。

 病室は電気をつけていないというのに明るくて、カーテンの開かれた窓から夏の光がいっぱいに入り込んでいるからだと気が付いた。青空は遠く、窓をひらけばそよ風と共に蝉の鳴き声が流れてくる。風で髪が宙を舞い、逆らわずに振り返ると、ベッドから上半身を起こしたふーちゃんの長い髪もしかと靡いて、その広大な黒のスクリーンに星のような輝きが宿っているのを私はこの目で確かに見た。


「蝉の鳴き声が聞こえるわ」

「そうだねえ」

「皆、夢を見ているのね」

「どんな夢?」


 ふーちゃんの世界に触れたいと手を伸ばす。

 彼女は淡く微笑んで、「惠蛄春秋を知らず、って知ってる?」

 知らない私は首を傾げて、ふーちゃんの言葉を待つ。


「春や秋を知らない蝉は、実は夏も知らない。道理よね。夏しか知らない蝉は、暑くても世界はこんなものだと思ってしまう。季節は相対的だから、春や秋を知らないと夏であるということも知りえない。でも蝉は一心に鳴く。その短い命を枯らそうとも、鳴き続ける。きっと夢を見ているんだわ。夏を超えて、冬に出逢えるその日を夢見ている。だから蝉は鳴くんだわ」


 先の無い人生で、希望を持てぬまま死ぬことはあるだろう。それに異議を唱えることは間違ってはいないし、神様に文句だって言ってもいい。でも時間は止まらない。時間は確実に進み、いつか必ず死を連れてくる。

 そういう時、どうするだろうか。

 きっと、諦める。

 だけれど、蝉は鳴いている。


「ふーちゃんも夢を見るんだね」

「ええ、そうよ」


 夏空で太陽が輝いていた。抗うように一羽の鳥が光へ羽ばたく。風への憧憬を翼に乗せて。


「私は冬の夢を見るの」


 遠くで、あるいはすぐ隣で、蝉が鳴いていた。







 また夏がくる。


 キミのいない夏がくる。


 ──そして、冬の夢を見る。

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空蝉 弓月いのり @allalone

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