第16怪 トイレの花子さん②

 ぴちゃん……と水が滴る音がした。


 たからは二階の女子トイレに閉じこもり、奥の個室で1人項垂れていた。


 暗く、狭い。

 目の前のベニヤ板は、間近で見ると所々傷が目立った。芳香剤の甘ったるい香りと、拭きれないアンモニア臭が小部屋を満たす。膝の上に置いたお弁当には、もちろん手をつける気にもならなかった。


 どれくらい時間が経っただろうか。

 たからの透明な『AIグラス』は、起動できないよう白川に電波遮断されてしまった。ネットに繋がっていない『グラス』など、単なるサングラスと変わりない。おかげで『ユピテル』を起動することも、誰かと連絡を取り合うこともできなかった。

「……っ」

 何だか急に、世界から1人切り離されたような気分になり、たからはブルっと身を震わせた。すると、


 コン、コン。


 と不意に誰かが、たからの入っている個室をノックした。


 たからは座ったまま飛び上がった。

 足音も何もしなかったから、誰かがトイレに入ってきているなど、全く気づかなかった。扉の前に立った主は再びノックを繰り返した。急いで彼女が扉の下の隙間を見ると、確かに誰かが向こうに立っているような、薄い影のような、そんな気配がした。たからは息を殺して向こうの様子をうかがった。自分がこんなところに閉じこもっていると知られるのが、悔しくって恥ずかしくって、とても出て行く気にはなれなかった。


「きーよーすーみーさーん」

「……!」


 足元を、冷たい風が撫でて行く。扉の向こうから微かな声で、たからの名前を呼ぶ声がした。今まで聞いたこともない、幼い少女の声だった。たからはもう少しで叫び出しそうになるのを必死に堪えながら、ガタガタと体を震わせた。すると、彼女の見ている前で電子ロックのはずの鍵が自動的に開いていき……。


「きーよーすーみ、さーん……」

「ひっ……!?」


 ギィィィ……と鈍い音を立て、扉がひとりでに開いて行った。思わず顔を覆った指の隙間から、彼女は開かれた扉の向こうを覗き見た。誰もいなかった。声の主も、どこにも見当たらなかった。たからはゴクリと唾を飲み込んだ。それからしばらく待ってみても、誰も姿を現しはしなかった。たからは意を決して、恐る恐る個室から足を踏み出した。すると、


「あれ、清澄さん。こんなところにいたんですか」


 ちょうどトイレの入り口のところに立っていた四谷が、顔を出したたからに気づいて歩み寄ってきた。たからは思わず身を強張らせた。


「四谷さん……」

「探してたんですよ。小泉様から、この『VRビデオ』を渡すようにと頼まれてて」

「ビデオ?」

 たからは怪訝そうな顔をした。四谷は無表情のまま、たからに小さな記録媒体フィルムを差し出した。


「ええ。いかに『審美眼』が出来上がったのか、いかに小泉様が偉大なものかをまとめたビデオです。それを観れば、たからさんもきっとと思いますよ」


 ……恐らくは洗脳映像の類に違いない。

 たからは眉をひそめたまま、四谷をまじまじと眺めた。


「……さっきのは、あなた?」

「? なんの話ですか?」

「違うの?」

「だから何が?」

「…………」

「……では、私はこれで」

「待って!」


 踵を返し出て行こうとする四谷を、たからは急いで呼び止めた。


「ねえ四谷さん……あなたはそんな人じゃなかった……」

「……まだそんなこと言ってるんですか」


 四谷が足を止め、ゆっくりと振り返った。その表情は、ニコリともしていなかった。たからは慎重に四谷に近づいて行った。


「四谷さん。あなたは本当は優しい人で……いろんなことによく気がついて……だから……」

「いい加減にしてください。たかだか生徒会で数日知り合っただけで、あなたが私の何を知っていると言うんですか? あなたも早くそのビデオを観て……」

「じゃあ何故……泣いているの?」

「え……」


 気がつくと、四谷の黒い『グラス』の縁から、一筋の涙が頬を伝って溢れ落ちていた。

 四谷は自分の涙を驚いたように指で触って確かめた。


「これは……?」

 たからは四谷の前に立ち、動揺する彼女の肩を掴んだ。


「これ、は……」

「四谷さん、お願い。思い出して!」

「私……私、は……」


 不意に四谷はたからにしがみつき、彼女の胸に顔を埋めた。

 

「四谷さ……」

「お願い……! お願い、『ウェヌス』の仇を取って……!!」



 言葉にもならない嗚咽が、女子トイレに響き渡った。

 子供のように泣きじゃくる四谷を、たからは驚きながらも優しく抱きとめた。


 涙だ。


 無意識に溢れた水滴によって、『グラス』の電気回路が不具合を起こした一瞬、抑え込まれていた四谷の感情が解放された。


「四谷さん……待って!」

 だがそれもつかの間。『AIグラス』は自動修復プログラムで四谷の涙を乾かした。彼女はたからにしがみついたまま、耳元の『差し込み口』を探った。


「観ろ……映像を観ロ!! 清澄たから……!!」

「待って……!」


 再び『審美眼』の支配下に置かれた四谷は、たからの手から記録媒体フィルムを奪うと、彼女の『AIグラス』のプラグ端子に無理やり『VRビデオ』をねじ込んだ。


 その瞬間、たからの視界は薄暗い女子トイレから『0』と『1』の羅列に切り替わり、彼女の意識はデジタル信号が創り出す『VRヴァーチャル・リアリティ』の中へと吸い込まれて行った。


□□□


 ……そして気がつくと、たからは見知らぬベッドの上で目を覚ました。


「ここは……」


 たからはゆっくりと上半身を起こし、辺りを見渡した。


 柔らかな白の毛布。

 天井からぶら下がる、穏やかな橙の灯り。

 壁際に飾られたどこかの海の風景画と、家族写真。

 

 たからは再びぐるりと部屋の中を見渡した。ここは……ビデオの中だ。少しばかりが欠けているが……『VR映像』の中にいるに違いない。誰かが撮影した過去の映像の中に、たからは今入り込んでいるのだった。


 たからはベッドから這い出ると、窓際へと近づいた。窓ガラスの向こうから、朝を知らせる雀の鳴き声と、暖かな日差しが差し込んでいた。そしてその日差しを浴びて、すやすやと眠っているのは……。


「おはよう。七星、七雲」


 たからの口が勝手に動いて、見下ろした赤ん坊に優しく声をかけた。

 小さなベッドで並んで穏やかな寝息を立てているのは、幼い頃の小泉七雲と、それから七星と呼ばれた2人の赤子だった。


 たからは窓ガラスにうっすらと映る、姿を確認した。


 たからは見知らぬ女性と目が合った。その女性は……少しばかりウェーブがかった髪で、朝起きたばかりだというのに、白衣を身にまとっていた。年齢は20代後半か、それとも30代だろうか。やせ細った体に、ほっそりとした顔立ち。その顔立ちは、何となく七雲を彷彿とさせた。そしてその女性こそ、今のたからの姿だった。


 『映像』の撮影者は、七雲の母親だった。


 たからは『VRビデオ』によって、母親の見ていた過去の景色へと放り込まれたのだった。

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