夫婦の秘密

 翌日は忙しい一日だった。僕が教会に顔を出すと、埃と泥にまみれていた礼拝堂はすでに村人たちの手によって清められ、誰かが説教台になりそうな古い小卓と数脚の椅子を寄付してくれていた。そうなってみると、何年も前に打ち捨てられたぼろぼろの廃屋ではあるが、だいぶ神の家らしく見えてくる。

 教会の復興手続について村長と相談。癒しを求める病人たちの治療。さらに、悩みを抱えた人たちの相談に乗ったりもしているうちに、あっという間に時は過ぎていった。


 日中何度かロランの姿を見かけた。村人をつかまえては、何か熱心に話しこんでいる様子だった。


 夕刻、僕はへとへとになって、でも力を出し切った充実感とともに教会を後にした。

 旅籠へ向かって歩いている途中、また今日も免罪符を売らずに終わったことを思い出した。


 しまった。またロランに嫌味を言われる。せめて無印免罪符一枚でも売れていれば話は違っただろうが。


 いや、いいんだ。売上目標なんかどうでもいい。僕の今日の働きは神に喜んでいただけるものだったはずだ。

 僕は自分を励まし、あえて胸を張って旅籠へ帰りついた。

 ロランは妙に上機嫌な様子で僕を待ち受けていた。


「おまえ、今日も一枚も免罪符を売れずに終わったってのに、よくもまあそんな呑気のんきつらして戻って来られるな? 神に対して申し訳ないとかそういう気持ちはねぇのか?」


 上機嫌でも、こうなんだからな。

 いきなり真正面から痛いところを直撃され、僕は懸命に動揺を隠した。


「ど……どうしてわかるんだよ、一枚も売れなかったなんて? 僕、そんな事、ひとことも言ってないだろう?」

「貧乏くさい雰囲気がまとわりついてるからだよ。失敗続きの人間の雰囲気だ」

「君さぁ。いくら何でも言い過ぎだろ? 僕だって何もしてないわけじゃない。村の人々に神の教えを広めるため、力を尽くしてるんだ」

「免罪符を売れねぇんじゃ、何もしてないのと同じさ。……喜べ。そんなダメダメなおまえでも、神のお役に立てる方法がある。動物は好きか、シグルド?」


 話題が変わって、僕はほっとした。ほほえんで胸を張った。

 

「自慢じゃないが、僕は動物と子供の扱いなら得意だよ。なつかれやすいタイプなんだ」

「あー、そーだろな。おまえのおつむの中身は人間より動物に近いからな。じゃあ今度のは、やっぱり、おまえの仕事だ」

「……どういうことだ?」


 僕は笑いがひとりでに顔から消えるのを自覚しながら尋ねた。嫌な予感がする。

 ロランはこともなげに説明した。


「村の連中の話じゃ二月ほど前から、夜になると、あのミレイユって女の家から獣の吼えるような声が聞こえてくるそうだ。二月前というのはちょうど、亭主のタクマインがガラス工房をやめた頃にあたる。タクマインってのはそれ以来仕事もせずに家にこもってるらしい。おかしな動物でも飼い始めたんじゃねーか、というのが近所の噂だ」

「動物、ね……」


 僕はミレイユの背中のひどい傷跡を思い出した。彼女の言っていた「夫婦の間のちょっとした事」とは、夫の愛玩動物という意味だったのか? 夫の飼っている獣が彼女を傷つけているのだろうか。


「というわけで。おまえは女を助けるため、その動物を何とかしろ。それで万事解決だ」

「何とかって……たぶん、それってかなり凶暴な猛獣だよね。僕になついてくれるとは思えないんだけど?」

「いいじゃねーか。手なずけられなきゃ、ぶちのめせば」

「ぶちのめすって誰が?」


 ロランは肩をすくめ、「おまえ、馬鹿力だけがとりえだろーが。自分の長所を積極的に生かせよ」と、あっさり答えた。僕は床に倒れ伏して神に祈りを捧げたい気分になった。

 わけのわからない(少なくとも、鋭い爪を持っていることだけは確かな)凶暴な猛獣との格闘。僕が神学校で夢見ていた使徒の仕事に、そんなものは含まれていなかった。神はどこまで僕を試そうというのか。


「ずるいよ、ロラン。いつも面倒な事は僕に押しつけるんだから」


 思わず泣き言がこぼれたが、ロランは気にも留めていないようだった。


「何言ってやがる。『人の嫌がる仕事を引き受ける者は尊い』んだろ? 俺と同行することを承諾するぐらい心の広いおまえだ。猛獣との死闘など楽勝なはずだ」

「……!」


 確かに始祖ドヴァラスは「人が行きたがらぬ道を進みなさい」とおっしゃった。原典にもはっきりとそう書かれている。

 でも――教団内の人間は始祖のお言葉を、都合よく使い過ぎているような気がしてならない。ドヴァラス様はそんなつもりでおっしゃったんじゃないと思うんだ。


 謎の獣との闘いを想像して僕が落ち込んでいると、ロランが僕の肩をぽんと叩いた。


「心配するな。おまえが獣と戦うのを、女の亭主が邪魔しようとしたら、そっちは俺がぶちのめしてやるから」


 それ、僕を勇気づけているつもりなんだろうか。

 ――これっぽっちも勇気づけられなかった。


 夜が更けるのを待って、僕らは村外れにあるミレイユの家へ向かった。周囲の家々からぽつんと離れて建っている小さな石造りの家だった。きちんと整頓された家周りが住人の几帳面な性格を物語っている。


 夜中だというのに辺りはぼんやりと明るく、足元には困らなかった。少し離れた街道沿いに大きな直方体の建物があって、その窓という窓に灯りがともっていたからだ。その建物は光を放散しているかのように見えた。輝ける巨人のように周囲を睥睨していた。

 建物からは、自動工具を動かすような音もひっきりなしに響いてくる。あれがタクマインの勤めていたガラス工房だ、とロランが説明してくれた。夜更けなので当然だが、見渡す限り人の姿はなかった。

 ミレイユの家のすぐ横に物置小屋があったので、僕らはその陰に身をひそめた。


 そのまま長い時間が過ぎた。家の灯りはとうに消え、家人は眠りについているようだった。ガラス工房から響いてくるガタン、ガタン、という音が夜の静寂をいっそう深く感じさせる役割をしていた。

 こんなに遅くまで職人は働いているのか、と僕は感心した。ずいぶん仕事熱心だな。夜明けと共に起き出し、日暮れと共に仕事を終えるのが人の自然な暮らしぶりであり、神の摂理にもかなう行いのはずだが……。


 無言で物陰に座り込んでいるうちに、疲れもあって、僕はいつの間にかうとうとしていたのかもしれない。

 異様な気配にはっとして目を開けた。うぐぉぉっ、という低い唸り声がする。まさに荒れ狂う獣の声そのもの。家の中からだ。


「おい、出やがったぞ、シグルド」


というロランの囁きを聞くまでもなかった。僕は一瞬で完全に覚醒し、立ち上がった。心の臓の鼓動がいやおうなしに高まった。


 威嚇するように、あるいは人知れぬ苦悶を吐き出すかのように、不気味な唸り声は続いている。不意に「あうっ」という女の悲鳴が鋭く響いた。それを耳にしたとたん僕の頭の中は真っ白に弾けた。


「ミレイユさん!」


 考えるより早く体が動いて、玄関に駆け寄っていた。押してみたが当然中から鍵がかかっている。僕は扉に体当たりした。三回目に肩をぶち当てたところで扉は激しく開いた。僕らは家に駆け込んだ。


「ミレイユさん! どこです! 大丈夫ですか!?」


 戸外の光に慣れた目は、暗い室内の様子をほとんど見分けることができない。僕は手探りで進んだ。荒々しい咆哮は奥から聞こえてくる。閉じた扉に突き当たった。僕はためらわずに押し開け、飛び込んだ。


 そして立ちすくんだ。


 寝台一つを置いただけでいっぱいになってしまうような、狭い寝室。獣などいなかった。寝台の上で男女が抱き合って横たわっていた。

 仰向けに寝ている男はタクマインだろう。がっしりした体格の三十前後の男。

 これほどまでの苦痛に歪んだ顔を、僕はこれまでに見たことがなかった。顔は紅潮し、目はいっぱいに見開かれ、口は泡を吹いていた。太い筋が額に何本も浮き上がっていた。


 夫に覆いかぶさるようにして、ミレイユがうつ伏せに横たわっていた。彼女の白い夜着の背中に血がにじんでいた。その背中をタクマインがしっかりと抱きしめている。


 苦痛は波状に襲ってくるようだ。不意に、タクマインの体がびくんとはねた。目が完全に裏返って白眼になった。


「ううぎょおおあああっ!!」


 男は身もだえた。そしてミレイユの背中に爪を立てた。苦痛で錯乱した、容赦のない力で掻きむしられて、彼女の背中に血が広がるのが見てとれた。


 駆けつけたロランと力を合わせて、僕は夫婦を引き離そうとした。二人は死んでも離れないと言わんばかりに固く抱き合っていたので、それを離させるのは並大抵のことではなかった。タクマインはわめき散らしながら激しく暴れた。尋常ではない苦痛のあまり、完全に正気を失っている様子だった。ミレイユも目を閉じたまま、暴れる夫にしがみついていた。


 僕はもう、どうしていいのかわからなかった。守護天使バクティを呼び出せれば、タクマインを苦しめている原因が何であれ、とにかく今の痛みを取り除くことはできる。気の間違いを正すのは難しいが、暴れるのをやめさせておとなしくさせることはできる。けれども僕はこの状況で、心を静めて最後まで聖句を唱えきる自信がなかった。

 そのとき、寝室の中で、ぼこっ、というような鈍い音が響いた。


「?」


 あれほど激しく歪んでいたタクマインの顔が、呆けたような表情に変わっている。その表情のまま、妻から腕を放して、仰向けにずるずると寝台から滑り落ちた。半分まで滑り落ちたところで床に頭が着いて止まった。その姿勢で目を閉じ、いびきをかき始めた。

 完全に眠り込んだようだった。


 僕はびっくりしてタクマインを見下ろした。あんなに苦しそうだった人が、こんなに突然眠り込むなんてあり得るだろうか? ミレイユも寝台に座り直し、目を丸くして夫をみつめている。


 ふと気づいて、僕はロランに視線を向けた。ロランの左手には短い木の棒が握られていた。棒の表面には黒い線で複雑な模様が描かれている。

 線と見えるのは実際は細かく書き込まれた神聖文字で、ゴーラクシャー=バガヴァッド聖典の一節を綴ったものであることを、見なくても僕は知り尽くしていた。


「まさか……殴ったのか、ロラン?」

「楽にしてやったんだよ。神の力でな」

「な・に・が神の力だ! また本部支給の〈シャーンティの杖〉をそんな事に使って! 命名の儀式を仲介するための神聖な杖なのに……」

「うるせぇな。人助けに使ったんだから、神だって気にしやしねーよ。それよりとっととバクティ呼び出してその男を癒してやれ。意外と出血がひどいみたいだ」

「誰のせいだよ!?」


-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-


 僕は寝室で聖句を唱えて守護天使バクティを具現化し、癒しを行った。ミレイユの背中とタクマインの後頭部の傷はすぐに治った。


 タクマインが深く寝入っている間に、僕らは寝室の隣の居間で話をすることにした。ミレイユがランプを点すと、家の質素な外見とは裏腹に、質の良い調度品でととのえられた室内の様子が浮かび上がった。僕らは光沢のあるテーブルを囲んで腰を下ろした。


 夫がこのような発作を起こすようになってもう二月になる、とミレイユは重い口を開いた。もともと丈夫な働き者で、病気一つしたことのない人だった。ある夜突然、尋常ではない苦痛に襲われ、わめきながらのたうち回るようになった。

 発作は毎夜のように襲ってくる。医者にかかるよう彼女が勧めても、夫は「医者は要らない」とかたくなに拒絶するだけだ。

 一人で苦しむ夫を見かねて、彼女は暴れる夫の体を抱きしめるようになった。自分の背中に爪を立てることによって、夫が少しでも苦しみをこらえやすくなるのではないかと思って。


「理由が……わからないのです。こんなに苦しいのならお医者にかかればいいのに……なぜ我慢し続けるのか」


 うなだれたミレイユの頬を二筋の涙が伝い、光の尾を引いてぽたりと落ちた。彼女は急に顔を上げて、僕の目をまっすぐみつめた。


「使徒様。あなたの奇跡で、夫の病気を治すことはできませんか? ……医者にかかることさえ嫌がる主人ですから、きっと使徒様のお世話になることも嫌がるだろうと思うのですが、今ならちょうど眠っておりますから。主人が目を覚まさないうちに。後生です、どうか……!」

「……残念ですが。治せるかどうかはわかりません」


 涙に濡れた目でみつめられて心が痛んだが、僕は正直に答えるしかなかった。


「癒しを受け入れられるかどうかは、その人の魂によって決まるのです。素直な魂――信仰心の篤い魂には癒しはよく効くのですが、かたくなな魂や神を拒む魂、神の光も届かないほど歪んでしまった魂は、癒しを受け入れることができません。その場の苦痛を止めることはできても、苦痛の原因となっている病を完治させることはできないんです」

「そう……ですか」


 ミレイユは再び悲しげにうなだれてしまう。その表情を見て、僕はたまらなくなった。苦しんでいるこの夫婦をなんとしてでも助けたい、という強い感情が改めて湧き上がってきた。


「僕が明日にでもご主人と話をしてみましょう。神に帰依し、癒しを受け入れる気持ちになれるように、僕から説得してみます。ご主人の魂が神に向けば、どんな難病でもすぐに治りますよ。ですからミレイユさんも、ご主人が信仰を受け入れることを祈っていてください。夫婦の心が一つになればきっと素晴らしい奇跡が……」

「一度この男を医者にかからせろ。本人が嫌がろうが何だろうが関係ねぇ」


 ロランの低い声が、刺すように響いた。


 僕は驚いてロランに向き直った。――せっかく信仰の話をしているところなのに。使徒の方から医者を勧めるなんて、筋違いもいいところだ。


 目を丸くしているミレイユに向かって、ロランは断固たる口調で言い渡した。


「この病気は普通の病気じゃない。原因を知っとく必要がある」

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