黄昏の来訪者

 剥がれ落ちて垂れ下がる天井板。朽ち果てた祭壇。漆喰がほとんど剥げて、むき出しになった荒壁。廃墟に近い教会の真ん中で、僕は聖句を唱え終えてアグアの印を結んだ。


「……第六の円弧開放。具現化。出でよ、守護天使 バクティ!」


 そのとたん僕を取り囲んだ村人たちの口から、おおっ、という感嘆と畏敬の声がいっせいに湧き起こった。


 広いとは言えなかった礼拝堂が、うっそうと木々の生い茂る森の中の光景に変わる。ひんやりとした空気。小川のせせらぎ。分厚い枝葉の層をくぐり抜けてきた陽光が、苔に覆われた地面のあちこちに、淡い光の模様を描く。遠くで聞こえる鳥の声。

 僕の守護天使バクティは、青銀色の長い髪をまっすぐ背後に垂らした、ほとんど無色の肌と目をもつ青年の姿をしている。守護天使は大きな水瓶を携えて、列をなした病人たちにゆっくりと近づいていった。病人たちの先頭にいるのは、怨憎熱で皮膚がただれ、痛々しい赤みをさらけ出している老婆だ。

 バクティは水瓶を傾け、老婆の患部に水を注ぎかけた。老婆は心地よさげに目を細めた。


「おおっ……冷たくて気持ちがいい……いや……なんじゃ、これは……あたたかい……とろけるようじゃ。おおっ、これは……!」


 水の触れた部分から、老婆の皮膚が元の肌色を取り戻し始めている。

 悲鳴に近い驚きの声が村人たちの口から漏れた。何人かがすばやく跪いて三根源タラースの印を切り、祈り始めた。


 これこそ、神が使徒に対して特に許し給うた奇跡の御業。使徒の守護天使は人の魂に直接働きかけ、病んだ魂を癒す力を持っている。魂が癒されれば、魂と一体の存在である肉体と心も癒される。医者も見放す難しい病気をたちどころに治す――それが守護天使の力であり本分だ。


 バクティは、教会に集まった希望者全員に対し、癒しを行った。病人や怪我人が次々と回復していった。初めて目のあたりにする神の御業に皆が感激していた。感きわまって目をうるませた村長は僕の手をかたく握りしめ、教会を建て直して御神体を清めることを約束した。


 日が沈みかける頃になっても、僕はなかなか解放してもらえなかった。癒しを求める病人の数は多かったし、熱心な村人たちが詳しい教理を聞きたがったからだ。長時間バクティを具現化しているのは身体にも負担が大きかったが、僕は疲れなど感じなかった。使徒としての務め、神に与えられた使命を果たしているのだという喜びの方が大きかった。

 教理については翌日改めて話をさせてもらう、ということで村人たちに納得してもらい、僕はようやく帰路につくことができた。


 大平原の夕陽は不吉なほど濃い赤色だ。地平線近くは燃え上がるように明るいのに、頭上の空は曖昧な闇に沈み始めている。僕が、宿泊している旅籠に向かって歩いていると、五、六人の子供たちが後をついてきた。どの子も十歳ぐらい。好奇心で幼い顔を輝かせている。


「ねえねえ使徒様。どうしてあんな魔法みたいなことができるの? 部屋を森に変えたり、病気の人を治したり……」


 僕はほほえみ、できるだけていねいに答えた。


「あれはね、神様の力さ。君たちも天使を見ただろう? 銀色の髪をして、水瓶を持っていた男の人が天使なんだ。天使は神様から力を借りて、この世に不思議を起こすことができるんだよ」

「天使って誰? どこから来たの?」

「天使は人間の魂の一部。誰でも魂の中に天使を一人持ってるんだ。君たちの中にも、天使が一人ずついるんだよ。まだ名前がついていないだけで」


 僕の言葉は子供たちに激しい興奮を引き起こした。顔を見合わせ、さえずるように早口の囁きを交わす。

 一人の子供が目をきらきら輝かせながら僕を見上げた。


「じゃあ僕たちもいつか、あんな魔法が使えるようになるの? 使徒様みたいに?」


 僕は笑いながらうなずいた。


「きちんと勉強すればね。天使を呼び出せるようになるためには、一つ大切なことがある。聞きたいかい?」


 聞きたい、と子供たちが高い声を揃える。僕は子供たちにも理解できるよう、ゆっくり言葉を選んで説明した。


「君たちは、天使を呼び出すための『力』を身につけなくちゃならない。人間が神様と話をして、神様の力を借りるためには、大変なエネルギーが必要なんだ。そのエネルギーを法力といってね。人によって、生まれ持った法力の量には差があるけど、神様を信じて一生懸命勉強して、『人のために役立ちたい』と願っていれば、どんどん強い力を手に入れることができる。そのために神学校というところに入って勉強するんだよ」

「へーーっ」


 と子供たち。ぴんとこない、といった表情だ。

 少し難しすぎる話だったかな。僕は足を止めて、子供たち一人一人の顔を順にのぞき見た。神の使徒に憧れていた、幼い日の自分を思い出しながら。


「難しく考えなくてもいいよ。僕だって、君たちぐらいの年頃は、何も知らない子供だった。……毎日、お父さんやお母さんの手伝いを一生懸命して、友達と仲よくして、そして夜寝る前には神様にお祈りしていればいい。正しい生活は魂の力を強くするからね。そして大きくなったら、教会で神様との『契約』の儀式をしてもらいなさい」


-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-


 僕が旅籠に戻ると、正しい生活とは縁もゆかりもない僕の同行者プラスチが思いっきり怠惰なありさまで長椅子に転がり、カロリック大平原に関する本部の資料を読んでいるところだった。


 ロランは小柄なので長椅子に良い感じで収まる。でも、彼を小男と侮る人はいないだろう。「危険」「取扱注意」の雰囲気をびりびりと発散させているからだ。目つきも人相も口も悪い。刃のごとく鋭い灰青色の双眸は、これまで何人も殺してきたような凄みを帯びている。

 年齢はたぶん僕より少し上で、二十歳過ぎだろうと思うが、人相が凶悪すぎるのでよくわからない。ふてぶてしく見えるが、意外と若いのかもしれない。

 このあたりでは珍しい銀色の髪と褐色の肌は、北部諸島出身の証だ。


 ふわあ、とロランがのんきに欠伸をした。僕はひとこと言わずにいられなくなった。


「君も外へ出て、人々に教えを説いて歩こうとは思わないのか? 夜昼かまわず寝てばかりで……」

「なに? 『今さら睡眠をとったところで背なんか伸びない』とでも言いてぇのか?」


 僕を見上げるロランの瞳に険悪な光が宿る。僕はうんざりした表情を見せないよう注意しながら、


「そ・ん・な・事ひとことも言ってないだろう? 勤勉は使徒の第一の務めだ、って言ってるんだ。一人でも多くの人に神の言葉を伝えるのが僕たちの役目だ」

「ほぉー。で、今日は免罪符を何枚売った、シグルド?」

「うっ……!」


 情けないが言葉につまる。答えはゼロだ。人々を癒すのに夢中になっていて、免罪符のことは念頭になかったのだ。

 ロランはふんと鼻を鳴らした。


「また今日も売上ゼロか。これだから布教バカは。……やみくもに歩き回ったって何にもならねえんだよ。テメエもちったぁ資料とか読んだらどうだ。布教先の情勢を把握しておくのも使徒の大事な務めだぞ? 免罪符を売るには戦略が必要なんだ」

「ぼ……僕だって、成果を上げていないわけじゃない。村長さんが、村をあげて教会を維持していくことを約束してくれた。明日あたり、本部への司祭派遣申請手続について相談できるだろう……」


 ロランは再び鼻を鳴らした。免罪符を売れなければ意味がない、と言いたいのだろう。


 教皇の教勢復活令から八年。今では免罪符の販売が布教師の至上課題とされている。どれだけ多くの人を癒したか、どれだけ多くの教会を復興したかよりも、免罪符をいくら売り上げたかによって神への貢献が量られる。

 だから僕みたいに、癒しに夢中になって免罪符のことを忘れてしまうような人間は使徒として評価されないし、下手をすると無能扱いされるのだ。


「まったく、とんだ貧乏クジだぜ。教団本部のクソどもめ、テメェみたいなお荷物と組ませるなんて、よっぽど俺を恨んでやがるな。……おまえ忘れてやしねぇだろーな? 使徒の成績は二人組の売上で評価されんだぞ? おまえがぐずぐずしてやがるから、俺が二人分以上売らなきゃ売上一位を維持できねぇだろーが」

「貧乏クジを引かされたのは僕の方だ。君みたいな問題児を押しつけられて。君がやることなすことメチャクチャ過ぎるから、誰も同行者になってくれなかったんだろ? 本部の人たちに『皆が嫌がる仕事を引き受ける者こそが尊い』とか何とかうまいこと言われて、ついその気になっちゃったけど。……君がここまでだと知ってたら絶対に引き受けなかったよ」


 それに、僕は教団内での成績なんかどうでもいい。出世したくて使徒をやっているわけではない。

 そう言ってやろうとしたとき、部屋の扉に控えめなノックが響いた。


 荒々しい呼吸を抑えて「どうぞ」と扉を開けると、そこに立っていたのは二十代半ばと見える小柄な女性だった。

 いわゆる美人ではない。でも、卵型の顔に浮かぶ素直で親切そうな表情と、無造作に背中に流した長い黒髪のつややかさが、好ましい印象を与える人だった。こんな辺境には珍しい、真新しい華やかなドレスをまとっている。女性は憂い顔で僕を見上げた。


「突然お訪ねする無礼をお許しくださいませ、使徒様。お疲れのところ大変申し訳ないのですが……」


 朴訥とした、でもまぎれもない真剣さの伝わってくる口調で女性はしゃべり始めた。


「私、この村の北の外れに住んでおります、ミレイユ・タクマインと申します。昼間教会で見せていただいた奇跡を、この私にも施していただけないでしょうか?」

「無礼だと自覚してるんなら、ノコノコやって来るんじゃねえ、このバカ女。もう夜だぞ? 日が暮れたら、神も営業終了だ。明日出直して来い」


 いきなりロランの罵声が飛んだ。ミレイユと名乗った女性はびくりと身を震わせ、泣き出しそうな顔になった。


「そんなひどい言い方はやめろ、ロラン! 神を求める気持ちに時間は関係ないだろう?」

「自分が助かるためなら、人の迷惑なんぞどうでもいい、ってわけか。使徒相手なら多少のわがままは通ると思ってる、その甘ったれた態度が気に入らねえ。癒しの業を受けたいんなら、昼間教会でこいつに頼めばよかっただろう? 他の村人と同じように?」

「す、すみません……! 傷を……他の人に見られたくなかったものですからっ……」

「それが甘ったれてるってんだ。てめえ、自分がどれだけ特別だと思ってんだよ」

「あー、もうっ! 君は黙ってろよ」


 僕はミレイユの背に手を添えて、部屋の中へ招き入れた。


「どうぞ、中へお入りください。この男の言うことなんか気にしないで。神の使い僕たちには昼も夜も関係ありませんから」


 これまで布教に歩いてきた町々で、「内密に」と癒しを頼まれることは珍しくなかった。

 他人に知られたくない病や傷を抱えている人は大勢いる。誰もが公衆の面前で患部をさらせるわけじゃない。


 ミレイユがおずおずと部屋の中央まで入ってきた。


 長椅子に横たわったロランは、資料を顔に乗せて寝たふりを始めた。

 共に旅するようになってこのかた、僕はロランが癒しを行うところを一度も見たことがない。あの禍々しいアヴァドゥータじゃ癒しは無理なのかもしれない。


 僕は瞳を閉じて心を澄まし、聖句の詠唱を始めた。第一から第六までの円弧を順に開放し、ベントの印を結んで守護天使バクティを具現化した。

 狭い旅籠の部屋が広々した緑の平原に変わる。頭上には光に満ちた青空。平原を覆いつくす背の高い草を、風がざああっとなびかせて通る。


 ミレイユはこちらに背を向けて、床にしゃがみこんでいた。ドレスをはだけているので、ほっそりした背中がむき出しになっている。

 その肌には数えきれないほどの傷跡が刻まれていた。

 鋭い爪を持つ猛獣に襲われた跡のようだった。そのほとんどは、まだ血をにじませた生傷だ。傷ついていない元の白い肌をみつける方が難しい。


「……気の毒に。痛いでしょう」


 暖かいそよ風がミレイユの背中をそっと撫でて通る。風の通ったところから、きれいな肌が見る見るうちに甦ってくる。彼女の口から嗚咽が漏れる。彼女は涙にむせびながら神の名を呼ぶ。


 傷の数は多いが深くはなかったので、癒すのにさほど時間はかからなかった。癒しが済むとミレイユは立ち上がって服装を直し、丁重に礼を述べた。

 僕は訊きたくてたまらなかった質問を吐き出した。


「どうしたんです、そのひどい傷は。……何かお困りなら、手助けさせてください。僕にできる事はありませんか?」


 彼女は長い睫毛をしばたかせ、涙をこらえた。でも言葉は出てこなかった。


「何が起きているんですか。あなたにそんなむごい事をしているのは、いったい誰です」


 僕の再度の質問に、無言を続けるのは失礼だとでも思ったのか、ミレイユは青ざめた顔に無理に笑みを浮かべてみせた。


「つまらない事ですわ……夫婦の間の、ちょっとした事なのです。夫は優しい人で、普段は私に手など上げたりしないのですけど。ヴォルダさんのガラス工房を辞めて以来少し体調を崩しているようで……。ありがとうございました、使徒様。どうかお気遣いなさらないで……」


-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-


 夫婦喧嘩の傷か。そう言われてしまうと困るんだよな。

 よほどのことでない限り、夫婦の問題に部外者は口出ししにくい。


 あの傷は尋常ではない。絶対にただの夫婦喧嘩なんかじゃない。彼女は「つまらない事だ」と言っているけれど――どんなにひどい目に遭わされていても女性は愛する男をかばうものだということを、僕は今までの布教経験で学んでいる。


 どうしようか。彼女を助けたいけれど、彼女が他人の介入を望んでいないのは明らかだし……。

 僕が迷っていると、それまで身じろぎ一つしなかったロランが、

「ちょっと調べてみるか」

 とひとりごちて、長椅子に座り直した。

 僕は驚いてロランの顔を眺めた。


「珍しいじゃないか。仕事嫌いの君が自分から動くだなんて」

「失敬なこと言うんじゃねーよ。俺は誰よりも勤勉だぜ。だからこそ一位なんだ」

「あの人の夫に免罪符を売りつけるつもりなのか?」

「いや。それじゃせいぜい五十ファーイラの無印免罪符がいいとこだ。俺は、小物は相手にしねぇ」

「……この村に、金印免罪符を買わなきゃ助からないような大罪人がいるとは思えないけど。僕が見たところ平和でいい村だったよ」

「だから、おまえは甘いっていうんだ。悪い奴はどこにでもいるんだよ」


 ロランは絶対に聖職者には見えない凶悪な面構えで笑った。僕は吐息を押し殺した。

 この男は、誰かが困っているのを見過ごせないとか、そんな思考方法を持ち合わせている人間では全然ない。ロランが動くのは十中八九、陰に大きな悪事が潜んでいる時だけだ。そしてそういう事についてのこの男の勘は、これまで外れたことがない。


 人間の魂とは本来純粋で無垢なものだが、数え切れないほどこの世に転生を繰り返しているうちに、少しずつ汚れ、歪んでいく。汚れた魂を持つ者は、悪い運命をたどり、ますます罪と穢れを重ねていく。そして最後に魂は地獄に落ちる――二度と新たに肉体を借りることもできず、魂のまま苦痛に満ちた永遠をさまよわなければならないのだ。

 生命あるうちに悔い改めて善行を積めば地獄行きを逃れることもできる。しかし悪に汚れきった魂がそこまで更正できることは、めったにない。

 そんな魂をてっとり早く救済するための手段が免罪符だった。過去の数多の聖人たちの功徳のおかげをもって、どんな罪人でも免罪符さえ買えば、ただちに救済が約束された。そして今、僕らの教団がいちばん力を入れているのが、免罪符の販売を通じた罪人の救済だった。


 犯してきた罪が大きければ大きいほど、高額の免罪符を買わなければ助からない。

 そういう罪深き者を闇の中から引きずり出し、免罪符を買わせて救済するのは、ロランの最も得意とするところだった。

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