第十二章 オールドリバーブリッジのケンホープ
セルリア歴5333年獅子の月一目
屋敷に着くと懐かしい顔が出迎えてくれた。
「ハギノ様、ご無沙汰しております。その後いかがですか?」
グレーの髪の毛とカイゼル髭のいかにも執事然とした人は、見まごうこともないチョ・ハさん。
「特に変わりませんよ。まあ研究所の方はクビになってしまいましたけどね。その代わりと言ってはなんですが、伯爵に新しい仕事をお世話してもらったので、しばらくは此処とガレスを行き来するような生活が続きますが」と僕は彼と握手をして久々の再会を喜んだ。
「そちらのお嬢様が、今ハギノ様を御世話しているメイドさんですな、えっとなんて申されたかな?」とセシリアに握手を求めてすっと右手を差し出した。
カノジョは少しおずおずしながらも、右手をだして彼と握手をすると、
「セシリアです。初めまして」と、かわいい声で返事をした。
「セシリア殿ですか、初めまして。フランチェスコ家の執事長を任されているチョ・ハと申します。暫くご一緒することになるようですからよろしく頼みます。ああ、詳しいことは、この後セバスチャンに案内させます」と、横に突っ立って居るセバスチャンに言う。
「フランチェスコ家の執事、セバスチャンです」と右手を差し出すとセシリアは顔を赤くして、彼の方に手を差し出した。
セバスチャンは彼女の手をがっしりと掴んで大きく手を振るように握手をする。
いかにも彼らしいダイナミックな握手だが、セシリアには少し刺激が強かったようだ。赤い顔をますます赤くして、
「あ、あの、えっと、ガレス城のメイドで、あ、あの、ハ、ハギノ様に、じゃなかったハギノ様のお世話をしている、せ、せ、セシリアです」としどろもどろになって答える。
まるで今にも、泣きそうな顔しているが、緊張してパニックになっているらしい。
どうも、僕以外の若い男性と手を触れることに慣れていないらしい。
それに彼は僕が見ても端整な顔立ちで執事服がよく似合ってかっこいい。彼女がドギマギしてしまうのは判るような気がする。
「ユウキ! ひさしぶりだな! あっちにはジラーが無いから恋しくならなかったか?」とセシリアと握手し終わった彼は、僕の方に向いて爽やかに言った。
「セバス、ひさしぶりだ。一年ぶりくらいか? あっちはジラー無いから偶には食べに行きたくなるよ」と僕は彼と握手をしながら答えた。まるで古くからの戦友みたいだ。
「ジラーってなんですか?」とセシリアが横から目をくりくりさせて尋ねてくる。
「ああ、ラーン…」と僕が言いかけたところでセバスチャンが、僕を遮って、
「ジラーってのは大人の男子の嗜みだ。女子供が立ち入って良い領域じゃないぜ」と冗談めかして言った。
しかし、彼女は冗談でなく本気で言われたと勘違いしたようで、少し涙目になってしょぼんとしてしまった。
「いや、冗談だよ。ただのラーンさ。な、ユウキ?」と慌てて訂正するが、彼女は今にも泣き出しそうだ。
「セシリア、ホントだよ。ラーンだよ。だけど普通のラーンとは違うけど。そうだ、今度三人で食べに行こう」と僕がフォロー入れると、ようやく表情に明るさをとりもどしてきた。
「本当ですか? 私セバスチャンに意地悪されたのかなと思って…。なんか気に障ること言っちゃって、嫌われたのかと思って…」とふたたび思い出して悲しくなってしまったようでまた泣き顔になってしまう。
「だから違うって。こんな妹みたいなかわいい子に意地悪なんてしないよ! だから泣かないでくれ! そうだ、明日早速行こう! ほら俺が奢るから」とセバスチャンも困り顔で彼女に言った。泣きたいのはこっちの方だよ! と言わんばかりだ。
彼がほとほと困った顔をしているので、彼女もそれにようやく気がついたみたいだ。泣き顔が段々収まってきた。
「ホントですか? ホントにホントですか? あした起きたら私を置いて食べに行っちゃうなんてこと無いですか?」
「ああ、ホントにホント! マジで約束するからさ! だからもう泣かないでおくれよ! ほらユウキも一緒に謝ってくれよ!」と、彼は僕の頭をがっつりと掴み、一緒に頭を下げさせようとする。
ハッキリ言って僕は何も悪いことしていないのになんか損した気分だが、セシリアに機嫌を直して貰いたい、と言うことでは意見は一致している。仕方が無いから一緒に頭を下げたが、この義理は絶対に返して貰うぞ!
「うん、わかった。もういいよ二人とも。明日は絶対連れてってね。置いていったら怒っちゃうから」と涙目ながらも笑いをこぼして彼女は言った。
翌日、僕はけたたましい音で目が覚めた。何事かと思ったら、セシリアが僕の部屋の前で激しくノックをしながら呼びつけている。
寝ぼけ眼で辺りを見回すと、まだ日が昇り始めたばかりで朝日が眩しい。時間にしたら五時前辺りだ。
この時期はセルリアで、一番日が昇るのが早い時期になるから、この時間にはもう日が昇っているのだ。
「なんだい、こんな朝早く」と僕は寝間着姿のまま、部屋のドアを開けた。
外にはセシリアがおめかしをして立っている。何処かの夜会にでもいくのか? ってくらいこれまでにないきっちりした身なりだ。
「ちょっと早いのですが、少し不安だったので」ともじもじ赤くなりながら言っている。
恥じらいながら言う彼女は身なりのせいかいつもより大人っぽく見えるけど、幼い顔立ちがアンマッチで逆に一層かわいらしく見えた。僕はロリコンではないが、少しきゅんっとしてしまった。
だが、まだ朝の五時。さすがにジラーに行くには少し早い。執事であるセバスチャンはこのくらいの時間には起きているのだろうが、僕はまだ寝ていたかった。
だが、彼女をそのまま帰すわけにも行かないので、とりあえず一旦は外で待たせて僕はさっさと着替えを済ませた。
実は今日は僕は仕事が休みの訳ではない。
つまり午前十時までには観測舎に着いてなければならないのだが、セバスによると、実はジラーの開店時間は朝八時と意外に早くて、朝一番に行けば、十時までにノンマルトの森に戻ることは造作も無いとのことだ。
昨晩、セバスと打ち合わせした段取りは、朝八時少し前に到着するように七時にクルウマーで出発、八時に到着、調理時間含め、三十分で食事を済ませ、そのままクルウマーで、ノンマルトの森に直行するというものだった。
手筈通りにいけば、余裕で間に合うと言う計算だ。
行列が心配だが、彼曰く、休日の場合は早朝から行列必至だが、平日はそうでもなく、開店時間までに行けば、ほぼ行列の心配ないとのことだ。
着替えが済み、彼女を部屋に招き入れて、ソファに座ってもらった。
ホントは彼女は僕のメイドとして付いて来た訳だから、着替えの手伝いも彼女の仕事の訳だが、どうも、そういう如何にも貴族の様に召使いに何でも任せるなんてことは、慣れてないし、自分の性に合わない。
日本人の習慣では自分の事は自分でやるのが、当たり前だから(中にはそうでも無い、お金持ちも居るだろうが)ついつい一人でやってしまう。
セシリアの仕事を奪ってしまうようで申し訳ないが、仕方無い。
その代わりと言ってはなんだけど、観測所所長に頼み込んで、彼女には僕のアシスタントをして貰おうかとは思っている。
日本でなら部外者が仕事場に入ってくるなんて御法度(セキュリティーや企業秘密の点で致し方ないところもあるから仕方無いのだが)だろうけど、此処セルリアはそういうところはおおらかだ。もちろんガレスの研究所は例外であるが。
さて、未だ出発するまでには一時間以上もある。予定では七時に此処を出発だから、十分前位には待ち合わせ場所のガレージにいければ良い。
それまでは少し暇を持て余したから、彼女とたわいもない会話で時間を潰した。
よく彼女は僕の国のことを聞きたがった。だがあまりにも文化が違うので、彼女の理解を超えることもあり、たまに会話がかみ合わなくなる。
例えば日本で言うテレビのことだが、彼女にはそれがなんであるか理解出来ないらしい。
それもそうだ、この世界には映画すら無い。お芝居のような物があるが、貧民出の彼女は一般大衆向けの芝居すら縁遠い物だ。
また、僕等日本人が良く嗜むゲームについても説明が難しかった。
もちろん、セルリア帝国に対しては極秘にはなっているが、アンシブルやコンピュータの技術がいちおうガレス国内には存在する。
しかし、それらはあくまでも研究、開発のために使用する物であって、たとえガレスでもそれらは一般大衆に触れる物ではないし、財務など金銭の計算では相変わらず、計算尺やソロバンの様な単純な道具などでまかなっている。
だから、コンピュータを使ったゲームなんて此処では、未だ誰も知らない。
ただ、将棋やチェスのようなゲームは存在するし、ラグビー、此処で言うラギーの様な集団競技や、競馬の様な賭け事を伴う動物や人を競争させるような本来の意味でのゲームは存在するが、ビデオゲームのような架空の空間で遊ぶような物はない。
だが、麻薬のような薬を使った魔術で、意識を共有させ想像の中の空間で遊ぶゲームのようなものはある。
さながら日本で言う異世界ダンジョン物みたいに自分がヘラクレスやコナンの様な超人になり美女を救ったりクエストをクリアしたりする遊びだ。
有名なSF映画に、自分の精神世界で冒険するサービスを提供する会社が出てくる物があったが、あれをイメージすれば判りやすいかもしれない。
ただし、あちらは機械を使っているが、こっちは麻薬と魔術だ。
麻薬を使う位だから、当然体には良くなく何人もの廃人を出したとされ、禁止になったようだ。
もちろんセシリアは、未だ年端もいかない子供だ。
そんなものは当然知るはずも無く、知っているのはせいぜい、チェスのようなボードゲームくらいだ。だから、ぼくの言うビデオゲームなんて理解の範疇を越えていて判るわけ無い。
だが判らないからよけい興味を持ったらしく、やってみたい! やってみたい! と彼女は言った。
だけど、僕は、セシリアが大人になるくらいには実現しているよ、と根拠もなく言う事しか出来なかった。
いや、ガレスの技術をならば今にでも実現出来るだろうが、そこまでこの世界は文化的に成熟していない。
一方的に僕の事ばかり話していたので、今度は逆にセシリアのことを尋ねようとしたが、その前に集合場所に行く時間である八時を知らせる鐘が鳴っていた。
「あら、もうこんな時間になってしまいましたよ。急いで行かないと」とセシリアは慌てて立ち上がり身なりを直した。
本当はセシリアのことについても聞きたいことがいっぱい有ったのだが、結局聞けずじまいであった。
「おまえら遅いぞ!」とセバスチャンは腕を組んで車庫の前で仁王立ちして居る。
すでにクルウマーは車庫外に出てて、ナビゲータはハシシという日本で言うところのたばこを吸って待機中だった。
「そんなに焦らなくとも大丈夫ではないですか?」とセシリアが言うと、彼は、
「ダメダメ! 朝の八エイチには着いていないとオウケイ生が来ちまう」と言って、コーチのドアを開き、さっさと乗れと言わんばかりに素早く手招きをして促す。
オウケイ生とはジラーの裏手にある貴族子女向け学校の学生だ。
「随分、気合いを入れないといけないお店なんですね」とセシリアが言う。
「もちろんさ。だから『女子供は』って言ったんだ」とセバスチャンはぶっきらぼうに言う。
セシリアはまた涙目になるが、頭を撫でてなだめてあげると少し落ち着いたらしく、なんとか泣かないでいてくれた。
僕等が乗ったクルウマーは、いつもよりも力強い勢いで屋敷から離れていった。
「もうキリル橋だ。結構速いペースだな。時間前には着くかもね」と僕は窓の外を見ていった。ナビゲータ達が頑張ってくれているのかもしれない。
「ところで、ユウキ向こうの暮らしはどうだい?」と、セバスチャンは僕に尋ねてくる。
「そうだね、悪くはないよ。ただ、仕事上少しトラブルがあってね。いろいろあって結局プロジェクト自体が休止中なんだ。責任者と側近が辞めてしまってね、新しい人が決まるまではとりあえず中断なんだ」
「そうか、今回こっちでやる仕事は関連があるのかい?」
「いや、まったく関係無いんだよ。ただ、人が足りないってことと、僕の技術が活かせるってことで伯爵が口利きしてくれたんだ」
「なるほどね。でも良くユリアお嬢様が許してくれたな。だって週の半分はこっちだろ?」
「そうなんだけど、向こうは向こうで僕がいなくとも何とかなるのだろう。付き人もメイドもいるし」
「いや、そういう身の回りのことではなくて、精神的なものだ。君がいなくて寂しいんじゃないのか? お嬢様はかなり君に精神的依存はしていたし」
「それなら皇太子殿下がいるからね」
「ああそうか。皇太子殿下ね、すっかり忘れていたよ。彼がいるなら問題はないか。でも彼は彼で忙しいのではないのか?」
「公務は殆ど彼女と一緒だし、却って僕なんかより一緒に居る時間は長いよ。もともと従姉妹だから気心も知れているだろうし」
「ふ〜ん。まあ、せいぜい捨てられない様にしてくれよ。おまえが居なくなると俺もつまらなくなる」
「まあ、そう言うなよ。この仕事も何時までだか判らないがそう長くはないと思っている。近いうちにまたガレスに戻るさ。でもそうしたらセバスとも暫くは会うこともなくなってしまうが」
「まあ、お互い元気でやっているってことが判れば良いんだよ。便りが無くともね。おっと、もうそろそろじゃないか?」とセバスチャンが外見ていった。
ちょっと前から乗り心地が変わったから、街に入ったのは薄々気づいていたが、もうすぐで中央広場の近くのクルウマー駐車場所だ。
駐車場に着くとナビゲータ達は早速ハシシで一服している。彼らはこれで気分を落ち着かせるのだ。そうでないと彼等の中の野生が戻ってしまい我々人間にとって危険になるのだ。
僕等はここから歩いて、目的地であるジラーを目指す。
しかし、ジラーなんて食べるの何年ぶりだろうか? すくなくともガレスに移ってから二年近くは経っているはずだから、そのくらい食べてないことになる。
まだ、ジラーまで大分ある筈だが、すでにあの豚とニンニク(ここではワブとニンニンだがこの際どっちでも良い)を煮込んだような臭いが漂っている様な気がする。
だがこれは気のせいだ。あの懐かしい臭いを嗅いだら、きっと口の中に唾液で満たされ、居ても立っても居られなくなるからだ。
ああ、想像するだけで涎が出てくる。
早く着かないかな。ところが、その期待を裏切るようなことが起きてしまった。
「ああ? なんかおかしいぞ」というセバスチャンの一声が嫌な予感を起こさせた。
「どうしたんですか?」とセシリアは不思議そうにセバスチャンに尋ねた。
「臭いがしないんだ。ここまで来たらワブとニンニンを煮込んだ強烈な臭いが漂ってくる筈なんだが…」と、セバスチャンは険しい表情になる。
「風上に居るからなのでは?」とセシリアも少し不安げだ。
「そうかもしれないけど、今までこんなことは無かった」セバスチャンの表情は険しいまま。
暫く進み、緩い丘の上にあるジラーが見えてきたが、セバスチャンはまた、
「やっぱりおかしいぞ」と嘆いた。
「なにが?」と、僕は彼に尋ねると、
「誰も並んでいない」とつぶやく様に言った。
「単に僕等が一番乗りだからじゃないか?」何も違和感を感じられなかった、と僕は脳天気に言った。
「いや、ちがう。あれを見てみろ!」と彼が指さすが、特に何も変わったことも無い。
「判らない」相変わらず、僕は理解出来なかった。
「判らないのか? 見てみろよ。何時も開いている裏口のドアが開いていないし、店主のメイト(魔法仕掛けのオートバイ)も無い」
確かに言われてみればそうだ。ドアもバイクもない。だが、偶々閉まっているだけではないのか?
そんな疑念を抱きつつも僕等は店に一歩一歩近づいていったのだが、彼の嫌な予感は的中してしまった。
「店内清掃のため暫くお休みします。獅子の月十四目再開予定。ですって」とセシリアが残念そうな顔で扉に張ってある張り紙を読んだ。
「三週(セルリアでは一週間は五日)も休み? そんな、あり得ない! 昨日来たときはそんなことおくびにも出してなかったぞ。あの親父」とセバスチャン。
どうやら彼は昨日も食べに来ていたらしい。
「と、言うことは、この休みは急に決まった?」と僕は彼に言った。
「そういうことになるな。きっと。ああ、せっかくユウキとちっちゃいお友達に食わせてあげたかったのに」とセバスチャンは地団駄を踏んで悔しがった。
「で、どうする? ここまできて何もせずに帰るのか?」と僕が言うと、セバスチャンは
「しかたるまい。他に薦められる店もないし…、ああ無くもないな。ここからまた暫く歩くけど。どうする?」
「うーん、直ぐ戻れるなら良いが、戻れるような距離か?」
「微妙だな。十マインくらいは歩くし、クルウマーを停められる場所もない」とセバスチャン。
「おう、セバス!」と後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。
なんと、ジラーの店主の親父が立っているではないか。
「ああ、オヤジさん、おはようございます!」
「なんだ、なんだみんな揃ってこんなところ突っ立って、ひーひひひ」
「あ、いや今日は友達久しぶりにこっちに遊びに来たんで、久し振りに食わせてやろうかな思って連れてきちゃったんですが」
「なあんだ、そうかあ。悪りいな、店休んじまって。まあ、いいか。ま入れよ、いま仕込んでいるからよ」とオヤジさんは僕等を裏口に招いた。
「店休みじゃないんすか?」セバスはオヤジさんに尋ねた。
「ま、休みだけどよ。昨日仕込んだスープ処分して新しいの創らなきゃだから来たんだよ」
「清掃するんじゃ?」とセシリアが尋ねた。
「掃除なんてしねえよ、ひひひ。なんか腹壊したって学生の親に保健所にちくられちまってよ、ひひひ。二週間休まなきゃなんなくてな。ひひひ」
あれれ? 三週間じゃないの?
「残りのスープ捨てに来たんだけど、おまえら腹壊しても気にしねえなら、つくってやっから食ってけよ。うひひひ」とオヤジさんは笑いながら言った。
「いや、さすがにそれは遠慮しておくっす」とセバスチャンは両手を盾にするポーズをした。ノーサンキューのポーズだ。
「ひーっひひひ! そうだよなあ。まあ、今のは冗談だけどよ、麺も打ってねえしな。とにかく三週間は店開けられねえから、お前らには迷惑かけるけどよ、また来いよ!」と、オヤジさんは厨房に入って、どこからともなくウーロン茶の様な液体を湯飲みに注いだ物を、僕等に渡した。
「ええ、絶対来ますよ! オヤジさんも無理しないで下さい!」とセバスチャンはごく当たり前のようにぐいっと飲み干した。
僕等もせっかく貰ったものだからと彼に続いて飲み干した。味はなんとなく麦茶のような感じだった。
「おう、ありがとよー!」と店主は僕等が使った湯飲みを受け取ると店の裏口から中に消えていった。
「で、どうするか? やめておくか?」とセバスチャンが残念そうに言った。
いずれにしろ此処以外の店に行く気も無かった僕は、時間がそれほど無いと言うこともあり、
「ああ、そうだな。今日はやめよう」と同意をした。
「ああ、残念ですぅ」とセシリアだけは不満そうで、ちょっとふくれっ面だ。
でもしかたない。ラーメン食っていって遅刻するわけに行かない。
中央公園前のクルウマー待機所まで来てから、セバスチャンは何気なく口を開いた。
「ここからそう遠くない場所なんだが、ジラーではないラーン店があるんだけどさ、行ってみようか?」
そんな店があるなんて、カロンに一年住んでいたが、全く知らなかった。セバスチャンとの付き合いも長いが全く聞いてない。
「ええ! ほんとですか? 行ってみたいですぅ!」とセシリアが母に甘える幼女のように言った。
ジラーが食べれなくてがっかりしてたところにセバスチャンがそんなこと言うから、反動でよけい嬉しいのだろうか?
「そんなの初耳だよ」と僕は彼に言ったが嬉しくないはずはない。
新しい店を開拓するのは楽しいし、期待感で気分も高揚する。だが、そんな悠長なことをしている暇は無い。
「でも、今から並ぶとすると仕事に間に合わなくなる」
今日は顔合わせの日だ。遅れる訳には行かない。
「大丈夫。その店は大して混むことはない。昼時をはずせばガラガラだし、ちょうど、ノンマルトの森に行く途中だから、時間もロスしない」
「なら、良いけど」とちょっと気乗りしないような反応になってしまったが、実際は凄く乗り気であった。はたしてどんなラーメンなのだろうか?
「よし、ユウキのOK貰ったから心置きなく行けるぞ。そうと決まればもう乗るしかないね。このビッグウエーブに」とセバスチャンはどこで覚えたかもわからないネットスラングを口ずさむと、クルウマーのナビゲータ達に、
「グリ、グラ! 出発だ。まずはオールドリバーブリッジまでいくぞ」と指図すると、コーチを開いて僕たちを押し込み、しんがりで乗りこんで、扉をバタンとしめた。
この道は良く来る道だ。中央広場よりも西側にあるジラーよりさらに北西に進んだ道だ。
この辺りはカロンでも裕福な者達が暮らす地帯で、通り沿いは平民や学生が入れるようなお手軽で安い店は無く、この辺りに暮らす役人(大抵は貴族だが)や、裕福な商人のご婦人が旦那の居ない隙に友人同士で来たりするような高級な店が多い。
僕も偶にユリアのお付きで、この辺に食事しに来たことがあったが、さすがに高い報酬を貰ってた僕でも、こんなところで毎日食べていたら破産してしまうだろう、と言うほど結構な値段が当たり前のような場所だった。
だが、そんなところに、ぽつんとそのお店はあった。
ジラーと同様、そのたたずまいは周りから浮きまくっていた。だが、今まで何度も目にしているはずだったのに、こんな店が存在していることに全く気付かなかった。
いや、その黄色い布製の看板だけは見覚えがある。ただし、僕にとってそれは風景の一部としか認識しておらず、まさかラーメン店とは全く思わなかったのだ。
ここはオールドリバーブリッジと呼ばれていて、その名の通り橋が掛かっていて、その橋の名が地名になっていた。
シビヤ川というゴッドフィールド川と同規模の川が流れていて、かの川と同様水運を担っている。
クルウマーをラーメン店に横付けするように停車すると、セバスチャンは、
「さあ、降りて降りて」とまくし立てるような早口で言った。
僕はそんなに慌てさせるなと思っていたが、それが顔に出てしまったのだろう、彼はそれを察したかのように、
「まくし立ててすまん。この通りはクルウマーを停めると交通警察に捕まる。だからさっさと食って、さっと去らないといけない」
「クルウマー待機所は無いのかい?」と僕が尋ねると、
「有るにはあるが、生憎この時間はすべて満杯だ。それに停める所を探している暇は無い。だが、早く食えれば大丈夫だ。此処で食う奴はみんなそうやっている」と店に入りながら説明する。
「さて、何にする? といっても判らんだろうから俺が勝手に決めてしまうぞ」というと、彼は店員に「ラーンを三つ。一つはワブ入りで」と注文をした。
ワブ入りは当然セバスが食べるんだろうな、と僕は思った。
実は自分もワブ入りを食べたいが、この店は初めてで、リスクが大きい。
あわてて、口から『自分もワブ入りで』と出かかったが、止めておいた。
だが、セシリアは普通盛りで大丈夫だろうか?
レイブンと昨日のバーベキューを見る限り、かなりの大食漢と見た。
大人しいこぢんまりとしたラーメンが出て来たら、不満なのでは無いか?
かといって、替え玉とかされても困る。それならば最初から大盛りの方が良いのでは無いかと思ったが時既に遅かったようだ。
「はい、ラーン三つ、一つはワブ入りで」と黒縁眼鏡をかけた気がよさそうな店員が僕等の前にどんぶりを置いた。
「お、美味そう!」思わず口から声が漏れた。
豚の絵があしらってある、白いどんぶりになみなみと盛られた麺とスープ。
麺はジラーやヨシムラケ、レイブン並みの太麺だ。
そして少し茶色い白濁したスープがなみなみと注がれその上に雪のように背脂が覆う。
日本で言うところの背脂豚骨醤油ラーメンだ。
そして、具はゆで卵にもやし、それにチャーシュー麺を見紛うごとく載せられた三枚のチャーシュー。
ジラー程の暴力的な量でもないが、これでも充分普通のラーメンにくらべたら充分大盛りだ。これならセシリアも不満に思うこともあるまい。
そして何より特筆すべきはカウンターの上に置いてある山盛りのネギ(のような何かの野菜)の千切り。
入れ放題と言うことらしい。現にセバスチャンはざるから掻き出すようにどんぶりに載せている。
僕はネギ好きって訳でも無いから、入っても薬味程度で充分だ。だから、あえて入れるなんてしなかった。
一方、セシリアはセバスチャンのまねをして同じように掻き入れている。
そんなに入れたら辛くて食えなくなるぞと、忠告しようとしたが、よく考えればそういうのが彼女の好みなのかもしれないと思い、あえて口に出すのは止めておいた。
まずは予め店員さんが淹れてくれた水を飲んで、口の中をさっぱりとリセットさせる。
お、これは水じゃ無い。華やかな香りとくどくない渋みがある。これは日本で言うところのジャスミン茶の様だ。
何という嬉しい気遣い。しかも、テーブルに水差しがあると言うことはこれも飲み放題か。嬉しいサービスだ。
さらにテーブルにはネギ、水差しの他に唐辛子、タレ、ニンニク、酢(いずれもそう見えるだけで味は似ても似つかないかもしれないが)と味変アイテムもばっちり揃っている。
特に酢があるのは気に入った。この手の脂っこい食べ物には酢をかけるとサッパリするのだ。
だが、今の所未だ取りあえず味変アイテムは要らない。
先ずはいつも通りスープを一啜り。ジラーとは異なり意外とさっぱりしているぞ、このスープ。それに、少し甘めだ。嫌いじゃ無い。
いや、僕もすっかりラーメン、もといラーンマニアになってしまったな。最近は太り気味だし、自重せねば。
と思いつつも、そんなことはこの際お構いなしでがっつりとかっくらう。
太麺はなかなか歯ごたえがあって美味い。固すぎるわけでもなく、かといってやわらかい訳では無いが、ジラーやレイブンとは似ても似つかない。
粉が違うのだろうか? やっぱり此処もこのスープにはこの麺しかないと思わせるほどスープ合っている。これがジラーの麺だと、スープが負けてしまうし、レイブンの麺だとなんか違う様な気がする。
そしてこのチャーシュー。チャーシュー麺でも無いのに手のひら大の大ぶりなものが三枚も入っている。
これは普通のラーメン屋なら、六枚入っているのと同等な量だ。まさか店員さん、ワブ入りと勘違いして居るのだろうか?
そう思ってセバスチャンのどんぶりを見ると、さらに倍量のワブチャーシューが載っている。
間違いない。ここはチャーシュー麺を頼まずとも充分満足出来るだけのチャーシューが載っているのだ。なんともお得なお店では無いか?
チャーシューはバラ肉っぽく、脂身がその半分を占めているので、一枚食っただけでも少し持て余してしまう。
それに背脂のせいか、それほど食べていないにも拘わらず、お腹がいっぱいになってきた。
ジャスミン茶で口をすっきりさせようとしてても脂が温度で固まってしまうようで、今ひとつすっきりしない。
ふと、卓上の調味料に目が行く。そうだ、この酢のような物をかけてみてはどうだろうか?
僕は酢のようなものが入っている小瓶を取り出して、少しラーンにかけてみた。そして一啜りしてみる。
確かに酢だが日本の酢とは少し異なる様だ。だが悪くは無い。
こうなるといろいろ試してみたくなるのが僕の性分だ。きっとこれは天性の科学者気質から来るのだろう。
次に、一味唐辛子のような赤い粉を少しかけてみる。あまり辛いのは苦手なので、かけ過ぎて食べられなくなるのは怖い。
一振りだけかけて赤い粉が浮かんでいる部分のスープをレンゲで飲んで見る。
ん? 全く辛くないぞ。スープだけ飲んだだからだろうか? それではと今度は麺の上にさっきより少し多めにかけてまた味見。全く辛くない。
いや、これは唐辛子では無いのかもしれん。かといって不思議なのは味的には全く変化もしない。
香り付けだけなのかと、思ったが、その割には香りもしない。謎だな。まあいい。
ふとカウンター上に山盛りなったネギを入れたざるが目に付いた。
さっきセバスチャンとセシリアがざるが空になるのでは? って位に入れてたのに何でまだ山盛り一杯あるのだろう? と思ったが、店員さんが補充しているのだと察した。
さっきは敬遠していたが、よくよく考えれば、これだけ山盛りのネギをアピっているかのように置いてあるラーメン店など見たこと無い。きっと、ネギがこの店の売りに違いない。セバスチャンもチョモランマかと思うくらい入れてたし、絶対そうだ。
そういうことであれば、このネギを入れねば此処のラーメンを百パーセント堪能出来るとは言えない。
僕はざるを手に取り、トングでネギをひとつまみほど入れ、ほんの少しだけ摘まみ、口の中に放りこんだ。
全然辛くない。元々辛くないネギなのか、水にさらして辛みを抜いたのかは判らないが、辛みが抜けて、しゃくしゃくとした食感だけが残ったネギを噛み締めて思った。
これはジラーのもやしキャベツと同じだ。ネギの成分のせいかわからないが脂っこくなった口の中がリセットされる。おもしろい!
ざるを手に取り、さらにひとつまみ、二つまみ、いやもっとどんぶりに流し込むように入れた。
そして、麺を一啜り、二啜りしたのちネギを箸でひとつかみして食べる。うむ、良い感じ。
お次は、一緒に食べてみよう。ネギと麺を箸で同時に掴み、スープに浸して啜ってみる。
ネギはスープの熱で幾分、しなっとなったが、逆にそれが美味い! これは大発見だ。
だがよくよく考えるとジラーでも同じことをしていた事に気がついた。
そうだ、麺、野菜、スープが三位一体となった美味しさ、これは別々に味わっていたら永遠に判らない楽しさだ。
まるで真面目君、ヤンキー、中二病がそれぞれ単独では単に半端物だけど三人一緒になったときにパワーが発揮される、某国民的アニメの話みたいだ。
実際にはそんなことは稀なんだろうけど、美味く組み合わさって力を発揮する様は見てて痛快なことは間違いない。
この麺、スープ、野菜も似たような物である、という勝手なラーメン理論を論文にしてみようか、等と下らないことを考えつつ、あっという間に完食してしまった。
残って居るのは背脂がびっしり詰まったスープがどんぶり半分くらい。
「ハギノ様、スープは飲まれないんですか?」とセシリアが僕に話しかける。見ると、彼女は既にスープまでも完飲していた。
「セシリア、さすがに良い食べっぷりだね。でも僕はこのへんにしておくよ」と言うと、「えっ、あの、その…」なにかもじもじと赤くなりながらなにかぼそぼそと言っている。
「あ、欲しいんだね?」と僕は彼女の様子からきっと残りのスープが欲しいのかと思い、そっとどんぶりを彼女の前にずらして置いた。「はい、すみません。戴きます」と彼女はまだ真っ赤になりながらおずおずとどんぶりを自分の前に寄せると、カウンターのネギをどさっとかきいれ、赤い粉をスプーンで何杯もかけて、凄い宇勢いで掻き込んだ。
いままで彼女の食べっぷりをちゃんと見たこと無かったので、びっくりした。まるで飢えたオオカミのようでは無いのか?
しかも、あの味もしない赤い粉をいっぱい入れて。
「セシリア、その赤い粉って美味しいのかい?」と僕は一心不乱でスープを飲み干す彼女に言った。だが、彼女は僕の声が聞こえないのか、まったく此方も見ずに一心不乱で食べている。ようやく飲み干し終わったタイミングで、
「あ、あのさ、聞こえるかな?」と尋ねると、
「あ?はい? なんですか?」と、我に返った様に答えた。
どうやら僕の言うことはまったく聞こえなかったらしい。しかもどんぶりは既に空っぽだ。
「ああ、いや、その赤い粉って随分入れてたけど美味しいのかい?」
「ええ、ぴりっと辛くなって美味しかったですよ。ハギノ様は入れなかったのですか?」
「なんの調味料か判らないから、少ししか入れなかったんだ」
「少し? どの位ですか?」
「スプーンの先少しくらいかな。僕の国では赤い物は大抵辛いって相場が決まっていて、入れすぎるとホント舌がやけどするくらい辛くなって食べられなくなるから」
「そうなんですね。ここでも赤い食べ物は辛いですよ。でもスプーン二〜三杯ではやけどするなんてことは無いです。逆にいっぱい入れないと辛くならないですから、わたしこんなに入れちゃったんです。実は私、辛いのも大好きなので」と、赤い粉で真っ赤に染まったどんぶりを指さした。
なるほど、やはりあの赤い粉は唐辛子の類いなのだ。
だが、あまり辛くない種類でいっぱい入れないと辛くならない。
だから、自分のラーメンに少し入れただけではあまり辛くならなかったんだ。
そうと判ればもっと入れてみれば良かった。
辛いのはあまり好きでは無いが、ピリ辛くらいなら全然問題ない。
「そっかあ、なら僕も試してみれば良かったなあ」と僕はちょっと残念がった。
「良かったら、俺のをあげるからやってみたらどうだ?」とセバスが、まだ麺が少し残ったどんぶりを僕に差し出す。
「良いのかい? 未だ少し麺が残っているぜ?」
「ああ、大丈夫さ。これでもダイエット中でね。最近、ほらお腹が少しぽっこりしてきたから、これでも控えているんだよ」と、お腹をさすりながら言うが、おいちょっと待て? ワブ増しを頼んでいてダイエット中だと? と突っ込みを入れたくなったが、せっかく残りを恵んでくれるのだ、感謝しなくては。
僕はセバスチャンの好意を受け入れ、「セバス、サンキュ。感謝するよ」と答えて、彼のどんぶりを僕の方によせようと、セシリアの向こう側の彼の前に手を伸ばした。
「ハギノ様、私がラーンにトンガラシを入れて差し上げます!」とセシリアは僕の手を差し戻すと、どんぶりをセバスチャンの前から引き寄せ、自分の前に置き卓上のトンガラシの入れ物を持ってスプーンで一杯、二杯と入れ始めた。
しかし、三杯目を入れ終わった後でも彼女の手は止まらない。五杯目を過ぎた辺りから、僕は少し不安になってきた。そして十杯目を入れてもまだ続けようとする彼女にさすがの僕の不安も限界に達した。
「セシリア、もう大丈夫だよ!」と僕は彼女が十一杯目のトンガラシをどんぶりに入れる寸前で手で丼を塞いだ。
「あら、これではまだ全然辛くならないですよ!」
「いいんだ、取りあえず、味見してみるから」
「ぷぅう!」とセシリアは少し不満のようだ。
この量では全然美味しくないと言いたそうな雰囲気がひしひしと伝わる。
僕は彼女からどんぶりを取り上げると、レンゲで一口スープを啜ってみた。
「○△□※?」と思わず、言葉にならない声を漏らしてしまった。
いや、声ではない。叫び、悲鳴の方が近い。僕はコップをばっと掴んで、中のお茶をごくごく飲む。
それだけでは足りない。卓上の水差しをひったくって、コップに注いでは飲み、ついでは飲みと繰り返した。
「おい、ユウキ、大丈夫か?」とセバスチャンは心配そうに見ている。
ようやく辛さも和らぎ、やっとしゃべれるようになった僕は開口一番に、
「セシリア! これは辛すぎだよ!」と叫んだ。店内の客達がびっくりして僕の方を振り向くが、またやれやれと言った感じで姿勢を戻しラーメンを食べ始め、数秒後にはまるで何事も無かったように普段どおりの店の雰囲気に戻る。
「ユウキ、あの子はとんでもない悪食だな」とセバスチャンが僕にそっと耳打ちをする。
全くだ。セバスチャンは知らないかもしれないが、加えてあの大食漢。呆れすぎて却って尊敬の念まで浮かんでくる。とうのセシリアはそんなこと我関せずと涼しい顔だ。
「さ、ハギノ様、そろそろ時間になりますよ。早く行かないと所長に怒られてしまうのでは?」
「おお、そうだった。やばいやばい」と僕は時計をチェックした。約束の時間まで一時間を切っている。セシリアの件ですっかり忘れていた。
「おじさん! ごちそうさま。また来ますよ」
この店は気に入った。ジラーよりも敷居が低く行きやすい。
ジラーはなんというか、単に飯を食うだけの行為なのにまるでこれから勝負でもするような殺気だったお店だ。
店員も客も一触即発のような雰囲気で、少しでも粗相をしたら、客の舌打ちや文句の応酬を受ける。
ジラーを食べなければ気が狂うとか死ぬとかいうなら話は別だが、別に美味しい物でお腹を満たしたいだけなら、この店のほうが緩くて好きだなと思う。
僕たちは会計を済ませ、店の外に出ると何やら憲兵らしき制服を着た数人にクルウマーのナビゲータたちが囲まれていた。
「何事だ」とセバスチャンが声を上げると、憲兵達の一人がよってきて、険しい顔で僕等に向かって、
「このクルウマーの持ち主は君たちのかね?」
「いや、持ち主ではありません。私たちのご主人様の持ち物ですが、私が一時的に借りております」とセバスチャンが答える。
「なるほど。証明できる物はあるかね?」
「はい、ここに」とセバスが胸ポケットから、紙切れ一枚だした。
「判った。だが此処は駐停車禁止区域だ。調書を取らせてもらおう。それと、重大な違反では無いが、それなりに責任を負って貰うことになるから、覚悟しておきなさい」
「はあ。それで今すぐじゃ無いとダメですか? それ」とセバスチャンは不満げに言った。
「もちろんだ。これから君たちはアザッブ署まで来て貰う」我々のホルセィのあとについてきたまえ。逃げようと思っても無駄だぞ、君等のクルウマーでは其程スピードは出ないからな」と憲兵はクルウマーの先に繋いであるホルセィを指さした。
彼等のホルセィはコーチもカブリオレも牽引しておらず、そのまま鞍の上に乗馬するタイプだ。
しかも普通のホルセイとは異なり大きくて足も長く、無駄な肉がついてないスピードが出る特別仕立てだ。
「と、言うわけだ」とセバスチャンは両手をかるくあげ、降参だと、ポーズを取った。
「お前らは、間に合わないだろうから、流しのホルセィでもチャーターして、ノンマルトの森へいけ。少し金は掛かるが仕方ないだろう」
「警察に一緒に行かなくても良いのです?」
「お前らは来る必要は無かろう。後は俺が何とかするから、お前らは気にせず行け」
「判りました。この場はお任せします」
「おう、気にすんな。だがあとで酒でもおごれよ」とセバスチャンは言うと、警官に、
「彼等はこの一件は関係ありません。それに将来を左右する急ぎの用事があります。この場は僕だけにして彼等は行かせて下さい」
「そうだな。本当はダメなんだが、許可する」と憲兵が勿体ぶった調子話すと、セバスチャンはウィンクをして僕等に早く行けと促す。
僕等は他の憲兵に気付かれない様に物陰から反対側の通りに抜け出た。
問題は流しのホルセイが直ぐに見つかるかどうかだったが、幸いなことに、此処の通りはクルウマーやホルセイなどの通りが激しい道路の為、流しのホルセィも直ぐに見つけることが出来た。
僕等はセバスチャンが憲兵とまだ話しているのを横目で見ながら、ノンマルトの森へ急いだ。
途中の駐車違反のトラブルで到着が遅れることを危惧していたのだが、さすがホルセイはクルウマーなどよりも段違いで速く、あっという間に着いてしまった。
とは言っても、約束の時間ぎりぎりであることは変わりなく、急がないといけない事には変わりない。
「ハギノ様、コーチの中にわすれものです!」とセシリアから豪奢な封筒を手渡された。
伯爵からの紹介状だ。鞄からいつの間にか抜け落ちてしまったみたいだ。
「セシリア、助かったよ! これが無ければ正式に赴任出来ないところだったよ」
そう、これは会社の採用通知みたいなもの。これがないと僕はどこの誰だか得体の知れない奴になってしまうのだ。実際にはトールマンさんと顔見知りだし、昨日のバーベキューで知り合ったマーさんも居る。
だがこの大事な書類を忘れてくる様な人間はそれだけでも、そういう奴だと人格を判断されてしまう可能性があるのだ。
もちろん少しくらいの忘れ物なら気にしない人も居るが、些細な物でも忘れたり、へましたりすると見下される可能性がある。気を付けなければいけない。
僕は受け取った封筒を懐に忍ばせ観測所である、古い豪邸に入っていった。
驚いたことに昨日の荷物はもう綺麗に片付いた。みんな朝早く来て頑張って片付けたのだろう。恐れ入る。
入って直ぐ正面にはいつの間にか受け付け用の机が置かれていたが、特に受付嬢などが居る様子は無く、景気の悪化でコストダウンされた会社のように机だけがぽつんとあった。 そして用をなさくなって暫く経ったように、人が座ってた気配はみじんも無かった。
「こんにちは!」と、僕としては大きめの声で挨拶をしたが、特に誰か出迎えてくれる様な気配は無かった。
だれも居ないのだろうか? 一緒にきたセシリアも不安げな目で僕を見上げ、
「ひょっとして皆さんお仕事に夢中なのでは無いですか?」と、言った。
しかし、きちんと十時に此処に来るようにと約束したはずなのだが? 仕事が忙しいからと、誰も出てこないなんて不自然ではないか?
僕等は暫くそこで待ってみたが、一向にだれも出てくる気配が無かったの不安になってきた。
ひょっとして約束の日付、時間を間違えている可能性は無いか? 僕は慌ててアンシブルのメッセージログを確認したが、特に勘違いをしていると言うことは無かった。
確かにアンシブル上は、今日十時にこの場所ということでメッセージが直々に伯爵から届いているし、所長にもカーボンコピーがはいっているのだ。
「どうしようか?」と僕は不安になり一回り以上も下の少女に尋ねてみる。
「此処で、待っていても仕方ないのでは無いでしょうか? 先ほど申し上げたように、皆さんお仕事に夢中なだけかもしれませんし、伯爵様が時刻を勘違いなされていた、あるいは書き損じただけかもしれません。手始めに右側のお部屋に、左側は食堂でしたから行って見られては?」
「そ、そうだな。そうしてみるよ」
情けないことに僕はこう言う不測の事態になった場合に判断力が極端に落ちるという悪い性分だった。
少年時代、年が離れた兄に頼りっきりだったからかもしれない。自分で判断する事に対して不安になってしまうのだ。
「一緒に付いてきてくれないか?」
「もちろんですとも!」とセシリアはにこやかに答える。
まだ十二歳の、日本で言えば小学校六年生か、中学一年生くらいの年頃だが小さい頃から大人の中で苦労を重ねているせいか、随分しっかりしている。
人によって性格はや資質は異なるけど、環境によってこうも違う物だろうか? 僕は自分の不甲斐なさを恥じた。
「おはようございます」と僕は右側にある部屋の扉をそーっと開けてみた。
だが、そこにはたくさんの機材や机があるだけで人の気配は無い。
「だれか居ませんか?」と声を少し大きめに発して尋ねるが、まったく返答も何も無い。
それどころか物音は機材が発するファンやハム音だけだ。
「こんにちは!」とセシリアも呼びかけたが誰も返事をしない。
「此処には誰も居ないようですよ」とセシリアは両腕をあげて言った。
これ以上此処を探しても仕方無いと意思表示しているのだろう。
「少し待って」と僕は彼女に言った。この雑多に散らかった机と書きかけのノートと万年筆、コンピュータ。
ふとその高級そうな万年筆を手に取ってみる。モンブランの万年筆だ。買えば十万円位する高価なもの。
驚いたことにキャップの部分はひんやりしているにも拘わらず、ペン握り部分は温かい。
「セシリア、万年筆が温かい。ついさっきまで誰かいたんだ」
「他の部屋に行ってみましょう」とセシリアは僕の手を掴んで元来た扉からまた部屋の外に出た。
玄関ホールから出ると暫く僕等はどこから手始めに行くかを考えた。
素直に行けば次は一番手近の左側にある
コーヒータイムという可能性もあるがそしたら談笑する声くらい聞こえそうなものだ。
「カフェテリアには誰も居ないのですか?」
「どうだろう? 特に誰も居る気配はないが?」
「行ってみましょう! わざわざ上の階に行くより手っ取り早いじゃ無いですか?」
「そうだな」
どうせ誰も居るわけ無いから行くだけ無駄かとも思ったが、よくよく考えれば少し立ち寄るくらいはなんてことも無いのだ。
「おはようございます」と僕は食堂に行く扉を開けた。
その瞬間、パンパンパンと大きな破裂音が何度も何度も鳴った。一瞬その音にひるんだ僕は、セシリアの肩を抑えて床に伏せようと身をかがめたが、間髪を入れずに何人もの歓声が響いた。
「ウエルカム! ハギノ! ウエルカム! エヌエフオー《ノンマルトの森観測所》」
伏せ気味だった体を起こし、目を開けて周りを見回すと綺麗に飾り付けをされた食堂に何人もの男女が、まるでクリスマスパーティーでも始めたかのような格好ですでに使用済みで紙紐が垂れ出たクラッカーを僕等に向けていた。
「な、何ですか?」と僕は混乱して思わず尋ねた。
だが言われるまでもなくこれはサプライズ歓迎パーティーだという事は直ぐに理解出来た。
「いやあ、ようこそMハギノ! 君を驚かせようと思ってね! ま、歓迎パーティだよ! 改めて、ようこそ我々の観測所に!」
と、代表らしい男性が言った。
「紹介が未だだったな。私は所長のニール・ロウだ。そしてこっちの女性は秘書のクリスティーナ・テナント」
ニール所長は僕と同じくらいの身長で髪の毛が薄く年配の男性だが、顔は若々しく見える。
秘書のクリスティーナさんは年齢は四〇〜五〇代だろうが、美しい女性だった。
「そして既に顔見知りだろうが、副所長のコージー・マー」
昨日送ってくれた人だ。副所長だっとは。結構偉い人だったのだな。
「あとは、ほぼ顔見知りか? まあ、良い一人ずつ自己紹介してくれ。そうだな。じゃ左からいこうか? ミッジ、君から初めてくれ」と、ニール所長は左端に居た口ひげを生やした、小柄な男性に声をかけた。
「俺はミッジだ。主に電磁波関連を担当しているよろしくな」と彼は右手を差し出してきたので、僕も握手を返した。
小柄な割には大きい手でゴツゴツしている。小柄だけどスーツを着こなしてダンディー風な感じだ。
「私はクリス。ミッジと同じ星からの電磁波解析だ」
「ウォーレンだ。よろしく」
「ビリーだ。昨晩のバーベキューに居たよ。覚えているか?」といった感じで総勢二十三名の観測員達が此処に一同に会して、歓迎してくれた。
だが、主賓は僕の筈なのだが何故か皆の注目はセシリアに集中していた。
やはり年端もいかぬ少女が何故此処に? と、みな興味をもったようだ。中には同じ年齢の娘さんがいる人も居るのだから、それはびっくりするのだろう。
「お嬢ちゃんはMハギノのアシスタントということで一緒についてきたと言うことだが、生憎、所内では特定の一般研究員個人にこういう助手をつけると言うことはしていない。それはMハギノでも同じだ」と所長は言った。
セシリアは彼にそう言われて、少しショックだったようだ。うっすらと涙目になっている。
「そこでだ、彼女には所内全員のアシスタントとして働いて貰おうかと思う。もちろん報酬は払おう。さすがにボランティアでは可哀想だからな。お嬢さん大丈夫かな?」と所長はちっちゃい女の子に顔を近づけて言った。
「は、はい! 大丈夫です!」とセシリアは言うと、泣きだしてしまった。
「どうしたの? Mハギノの個人アシスタントじゃなきゃ嫌かい?」
「そうでなくて! 違くて! 私要らないのかなと思って! でもみんなのお世話するってことで雇って下さって! ほっとしたんです。そしたら何故か涙が止まらなくて。うぅうっ」と目をこすりながら彼女は言った。
さすがにしっかりしているとは言えこういうところはまだまだ子供だなあ。
「それでは彼女の主人であるMハギノ、了解してくれるかな?」
「もちろんです! 彼女の為にもなりますし大歓迎です!」と答えた。
もちろん嘘偽りなく本心からそう言った。
「それでは決まりだな」と所長は言うと、彼女にウィンクをして、
「じゃ、これからよろしく頼むよ。ちっちゃいお手伝いさん」と言った。
観測所の仕事を始めてひと月が経過。判らないなりにも仕事に慣れてきた僕は、初めてのガレスへの里帰りの準備中だった。
本例であれば週の半分をノンマルトの森で過ごし、残りの半分はガレスに戻るはずだったが、仕事を覚える事を優先したのと、突発的に大量のデータ解析の仕事がはいり、里帰りが難しかったのだ。
だから、今回の里帰りはなんと、二週間まるまる休暇を貰った。
だが可哀想にセシリアは観測所のアシスタントの仕事があるため、生憎、僕と一緒に帰れず、不満顔だったが、彼女は此処でわがままを言うような子ではない。
「ハギノ様、暫く離れてしまうの心配ですが、あちらにはユリア様も皇太子殿下もおられます。身の回りのお世話はたぶんジャニスかパッツィがやってくれるでしょう。だから安心といえば安心ですが」と僕の手を握り名残惜しそうに言った。まるでお母さんのようだ。ちっさいお母さん。
「ありがとう。仕事は大変だけど、頑張ってな。二週間後には戻ってくるから」と彼女の頭をなでなでして僕は言った。
まるで妹のようなお母さんのような、不思議な感覚だ。
「ユウキ! そろそろ時間だぞ。ミイタステーションの定期便に乗れなくなると、また明日まで待たなきゃだぞ」とセバスチャンがノックもせずにドアを開けて言った。
彼はガレスまで一日一往復しかないホルセイ路線の駅まで僕を送ってくれることになっていた。
「私もセバスチャンと駅までお見送りします」とセシリアは言って、僕の手荷物を持ち自家用のクルウマーに運んでくれた。
セバスチャンはこの間、憲兵に捕まったときにあやうく許可証を取り上げられそうになったらしいが、伯爵が手を回してなんとか握りつぶしてくれたとのことだった。
だが、そのお陰で暫くは正当な理由が無い限り借りることが出来なくなってしまった。
だから借りるには、なにかと理由をつけなくてはならなくなり、今回駅まで送ると言うのも半分はその口実である。
だが、普段はそんなことおくびにも出さないから却って助かってはいる。
いつもの見慣れた田園風景を過ぎ、街中にはいると此処とは暫くお別れだなと言う気分になる。例えたった二週間でも、この町も見納めだと思うのは何故だろう?
きっとガレスに引っ越すときに思ったことがデジャブの様にそう思えさせるのだろう。
ただ、前回は残してくる大切な人は居なかったが、今回はセシリアを残して行くことになる。
気のせいかもしれないがそのことがとても心配で不安になった。ひょっとしたら彼女と顔を合わせるのは最後なのかもと。
天気は午後から下り坂になるようだ。真っ黒い雲が西側にあるガレスの山々に立ちこめていた。
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