第八章 ラーメンの神様
セルリア歴5332年女の月二十
「それにしても熱い」初夏の日差しを恨みながら僕は一人ごちた。その日は伯爵の依頼があり、ラゲートと言うカロンの北部にある都市に来ていた。ここはケイブボウル共和国との国境から近く、隣国首都ラウワとカロンのポンヌフを結ぶ、
徒歩で二十分強という場所ではあるが、日本のように地下鉄やバスなどは無く、交通手段はホルセィやクルウマーなどの日本で言えばタクシーのようなサービスを利用するしかないのだが、わざわざそれらを捕まえるほどの距離でもないから、少し遠いけどテクテクと歩くことにした。大きな通りをいくつか横切り、大きな橋をくぐり、小さな公園を抜けるとその店はあった。
ここラゲートには、これまでの伝統的な建築様式と全く異なる、近代建築デザインの『ソルリッジ』と言う名の巨大な建物が、数年前に完成しており、其処を中心とした都市開発が進みつつある。此処イースタンラゲートは、そこからわりと近い場所なのだが、まだ開発の手は伸びておらず、未だ前時代の香りが色強く残る町だった。そしてその店は、再開発から取り残されている地域の中でひときわ古かった。壁ははがれ落ち、修繕もされておらず、一時しのぎ的に雨風の進入を防ぐためのシートが張ってあったが、劣化具合から見て長い間そのままになっているのは明白だった。おそらく修繕なんてする気もないのだろう。
そんなクソぼろい店に朝十時だというのにすでに二十人近くは並んでいる。こんな時間で学生以外で並ぶことが出来る人なんて限られると思うのだが、意外な事に年配の客が大半だった。しかも三十代ならまだ若い方で白髪の混じった壮年の男性が目立つ。あまりの行列の凄さに、並ぶのをためらったのだが、せっかくこんな所まで来たことだし、だいいち、この機会を逃したら二度と来ることもないだろう、と思った僕は結局、意を決して並ぶことにした。
実を言うと似たような店が日本にあったことは知っている。何故って、その店はラーメンブーム以前からの超人気店で、テレビでも何度か紹介もされていたからだ。そんな有名店であるから、実を言うと僕も、すごくおいしいラーメン店だとの噂に、以前から興味はあり、機会があれば行きたいとは思っていたのだが、創業者のお爺さんはとっくに亡くなってたと聞きガッカリしていた。
それが、ある日、トシから異世界のこの店の話を聞き、雰囲気が凄く似ていると感じ、日に日に興味を募らせていた。そんなある日、伯爵から『修理を依頼していた、ラゲートの百貨店から修理完了の連絡があったから、受け取りに行ってくれ』と仰せつかったので、これはチャンスと思って二つ返事で快諾した。勿論主目的はここのラーメンを食べたいからだ。だから、行列が長いくらいで、諦めたくはは無かったのだ。だってこんな時でも無いと此処まで来る事なんて、滅多に無いのだから。
僕は意を決して行列の最後尾に付けた。多少並んでいようが、構わない。だって、この後に特段予定が入っているわけでもないから。初夏の太陽は昇るのが早い。朝十時少し回った位なのにすでに天頂にあり、並ぶ者達を激しく照りつけてくる。生憎、僕等が並んでいる店の横は全くと言っていいほど日陰がない。ほかの客もみんなハンカチで汗を拭いたり扇子で扇いだりしている。おそらくこのぼろさからすると、店内を冷房する魔法道具なんてのも期待できないだろう。
そんなことを考えながら長い行列の最後尾で順番が来るのを待っているのだが、すでに三十分近く並んでいて、全く列が進む気配がない。暑さも然る事ながら只ボーッと並んでいるとその時間を持て余す。小説でも良いから持ってくればよかったと後悔した。以前の
さっきも触れたのだが、ここの行列はジラーやサラスバスティと比べている年齢層が高い。平日のくせに二十代の若者が皆無なのだ。それほど、昔からの常連が多いのだろうか? 暇すぎるとそんなどうでも良いところに目が行くし、考えてしまう。前にいるおじさんは独身か妻帯者か、無職か有職か、無理に隠しているハゲはみっともないと思わないか、など。普段なら気にもとめないしどうでもいいが、暇すぎるとそんなどうでもいいところに目が行くし考えてしまう。
さて、そんなどうでも良いことを考えながら、苦行の様な長い行列もようやく終着駅を迎えたようで、お弟子さんが注文を取りにきた。普通はこういうのは弟子の中でも下っ端がやるような仕事だから、どちらかと言うと若い人、せいぜい年食ってても三十代かと思っていたのだが、ここの注文取りのお弟子さんはどう見ても五十代は下らない。それと、年齢とは直接関係は無いだろうが、鼻毛がぼうぼうに伸びきっていて、不潔な感じだ。ある意味、相当の迫力があるが仮にも飲食店の店員として如何なものか? と思う。だが、気にいらなかったのは其処では無い。客を客と思ってない、不快な接客だ。「注文!」たった一言だけ。しかもメニューの提示もなし。この接客と言うにはほど遠い、威圧的な感じにイラッときてしまった。僕はトシに聞いていたお勧めメニューが頭の中から消えてしまい、何を注文すれば良いか判らなくなっていた。
「ああン? 早くしてくんないかな?」
優柔不断にしていた僕も悪いかもしれないが、この店員はイライラしすぎだ。たまに見かける、なぜかしょっちゅうイライラしているようなタイプの人間だ。正直、あまり関わりたく無い人物である。
「あのさ、他の客さんも待っているんだから、早く決めろよ、坊主」と顔を歪めて、あからさまに苛ついているアピールをしてくる。苛つくのは勝手だが、もう少し丁寧に出来ない物なのか? 彼の態度かなり酷く、物言いもつっけんどんで、接客しているとは思えない人だ。さすがに温厚な僕もでも、『態度もでかいな! こっちは客だぞ!』 と一喝したくなるのだが、元来小心者の僕はそんなことも言えず、
「じゃ、あつ盛りってのをください」と、訳も判らず、近くの人たちの会話を盗み聞きして仕入れたキーワードを口走ってしまった。これが大失敗だったというのは後々分かった事なのだが、この時はどういったメニューかも全く想像出来ていなかった。
「十二万ポスクレッドだ」と彼は汚い手を差し出してきた。は? 前金かよ? しかも十二万ポスクレッドって、並みのラーメン屋と比べるとずいぶん高い。余所に行くとチャーシュー麺大盛りにフルコーストッピングの値段だ。安い所ならセットメニューで餃子が付けられる。だが、せっかくここまで来たことだし、とても食べたいとも思っていたのだから、諦めてそのまま言い値で払うことにした。
だが、金入れを出して、十万ポスクレッド銀貨を探すが一万ポスクレッド銅貨数枚と百万ポスクレッド金貨しか見当たらない。致し方ないので十万金貨を金入れから出すと、彼は露骨に嫌な顔をする。お釣りを渡すのが厄介なようなのだ。確かに面倒臭いのはわかるがそこは客商売なんだからと思うが、彼の場合は違った。
「はあ? この店に来るときは銀貨もってくるのが普通だろ? (ま)ったっく、これだからお坊ちゃんは困るんだよな」と吐き捨てた。ええ? 普通、客の目の前でそれ言う? ちょっと怒りを通り越して呆れてしまう。
「すみません。この店に来るのは初めてでして、気が利きませんでした」なんで客の僕が謝らなければいけないんだろうか? 一発殴ってやりたかったが、気が弱い僕にはできない。しかも腕っ節は明らかあっちの方が上だ。見た目も粗暴な感じだし、何するかわからんタイプだ。結局、しぶしぶ金貨で受け取ってはくれたが、こんな店(というか彼だけかもしれないけど)は初めてだ。どうも有名店だからと、おまえ等にうまいラーメンを食わせてやってるんだ! ありがたく頂戴しろと! と勘違いしているのではないか? 店主や店長ならいざ知らず、たかが注文取りの癖に全く勘違い甚だしい。いくら店主の人柄が良くても弟子がこれだと思いやられる。一応、修行しているからには行く行くはのれん分けでお店を持つことを、目標にしているはずだ。それなのに、お客に対してこの態度は無いんじゃ無いか? ひょっとしたら、この注文取りのおっさんは、既に目標を諦めてしまったのか? まあ、お店を出すにはもう歳を取り過ぎだろう。出せたとしても、長くは持たないのは明らかで、初期投資が回収出来るか甚だ疑問だ。そもそも彼が数年後、ニコニコしながら美味いラーメンを作っているところが全く想像できない。ひょっとしたら、彼はのれん分けを許されないんじゃないか? 此処を巣立った弟子たちが、数年後は雨後の筍のごとく、のれん分け店が乱立させているのに、彼だけのれん分けを許されないから、こんなに投げやりな接客をしているのだ。なんて、そんなわけないか。だが、僕は相当怒ってたのだと思う。だからこんな長文になってしまうのだ。
さて、注文取りがオーダーを聞いてきたので、もうじき座れるとばかり思い込んでいたが、実際は未だ未だ炎天下に並び続けなければならなかった。と言うのも、実はオーダーの時点で行列は全体のまだ半分しか進んでなかったからだ。店の角に沿って並ぶルールのお陰で、行列がどの程度まで進んでいるのか判らなかった。角に近くにつれ、もうすぐだと思っていたのだが、其処に到達したら、さらにその先まで人が並んで(しかも十人以上!)いて、がっくりとしてしまい、期待もしぼんでしまった。これでは、まだまだありつけるまで、小一時間ほどかかりそうな雰囲気だった。こんな状態だったのなら注文取りなんてもっと後にして欲しかった。諦めて帰りたくても、金を払ったからには逃げられないではないか。客を逃がさない為なのかもしれないけれど、これだけの行列なんだから相当儲かっているはず。それなら客の一人や二人逃げたって、それほど影響は無いのだから、注文を取りに来るのは、着席してから、もしくは直前でも良いのでは無いだろうか?
それとも、先に麺を茹でておくためか? だとしても、精々十数分前程度で問題無いはずだ。どうせ麺を茹でる時間なんて十分もかから無いのだから。
ちょっとイライラしている僕を見て、なにか言いたかったのだろうか? 前に並んでいる五十代くらいの男性が、
「若いぇの、ここの店は初めてみたいだな」と声をかけてきた。さっき僕が無職とかハゲとか心の中で貶していたおじさんだ。
「ええ、知り合いが美味しいって言うので来てみたんですけど、あまりに行列がすごいし、時間もかかるんで少し疲れてしまいました」
正直並んでいるのに疲れて答えたくも無かったのだが、気を遣ってくれたのに無下にする様なことはしたくないので、ありのままの理由を話した。そして、頭に浮かんだ素朴な疑問を何の吟味もせず彼に尋ねた。
「ところでここって結構評判みたいですけど、美味しいんですか?」
おじさんはこの店のファンなのだろう、
「それは愚問だな。美味しいからこんなに並んでるんだよ」と、さも当前のことだろう? と言わんばかりだ。そりゃそうだ。旨いから並ぶのだ。
「そうですね。愚問でしたね。でもどんな味なのか判らなくて…」僕は自分の稚拙な質問を恥じた。
「ま、そうだな。一言で言うと凄く美味い。何んて言うかなあ、一寸言葉で言い難いけどね、此処のを食ったら虜になるよ。俺なんて学生時代からだから、もう三十年以上も通っている。最近は油ギットリで量だけ多い店も流行っているがね。この店は年季が違うよ」と、おじさんは語った。額の汗が凄い。そしてその汗のせいか、ただでさえ薄い髪の毛が地肌に張り付き、ハゲが強調されてしまっている。僕はラーメンよりもおじさんの頭が気になっていたのだが、
「ああ、ミイタにあるジラーですね。あそこは僕も行きました」と話を合わせて言った。
おじさんは、ハシシを取り出して火を付けると、一服すぱーっと吸いながら、
「にいちゃんにはあぶらが多い方がうまいんだろ? でもな、三十すぎるとああいうのは体に合わなくなる。だがな、この店だって量は負けちゃいない。一度大盛り頼んでみるといいよ。ま、カズサンが断るだろうけどな。あ、カズサンはここの店主ね」と答えた。
「へえ、そうなんですか。でもますます興味湧きますね。今日食べたのが美味しければ、また来てみます。その時に大盛り頼んでみます」
「おいおい、やめとけ、大盛りはマジでハンパない量が来るぞ。フードファイターでもない限りやめておくことだ」
内心、大盛りなんて絶対に頼むわけが無いて確信しているけど、ハマってしまえば正直どうなるか判らないものだ。ひょっとしたら勢いで頼んでしまうこともあるかもしれない。実は以前にそういう経験はある。大学の寮の近くにあるケーキ屋さんが美味しすぎて、毎日通っていたのだ。その結果、みるみるぶくぶくと太ってしまい、1年で十キロも体重が増加してしまったのだ。あの時から現在の体重に戻すのはとても苦労した。
しかし、この御仁は相当な信者だな。一度食べたら虜になるって、いくら何でありえないだろ? まあいいさあと数十分もあれば食べられるんだから。それにしても建物も相当凄い(悪い意味で)と思うのだが、店内と店先も負けずに凄い。もちろん悪い意味で。軒先にはでかい寸胴が置いてあり、青いカゴがかぶせてある。何に使うのかと思ったら残飯を入れる所だ。食べ残しを客がセルフでここに投入する。そして、その横にはでかい樽。これは、使用済みどんぶりを入れておくらしい。あとで回収して洗うのだろうけど。店員が少ないから手間を省くためなのかと思っていたが、そんなことはない。なぜなら、厨房に四、五人、その他にさっきの注文とりと、それなりに従業員が多いのだ。効率化の為なんだろうけど、ちょっと飲食業としては疑問が残るシステムではないだろうか?
果たして、こんな凄まじい雰囲気のラーメン店だがお味はどうなんだろうか? 逆説的によく言われる、『ラーメン店は汚いほど旨い』は本当なのか興味が湧くところでもある。その理論で言えば、ここに比べたらジラーでさえ小綺麗に見えてしまうくらい汚い此処は確実にジラーよりは美味しくなくてはいけないはずだ。恐らく、異世界一旨いに違いないはず。
たった今だが、列の前にいたおじさんが店内に入っていく。僕の番も、もうすぐだ。店に入る前に店内の様子を観察してみると、狭い厨房中は店主とおぼしきお爺さんがせわしなく動いている。弟子とおぼしき店員はいろいろ指示されて手伝っているが、お爺さんと比べると動きが鈍い、というか手慣れてないだけかもしれないが。お爺さん店主はかなり高齢らしく、しかも太っているせいか、よろよろとやっと動いている感じだったが、そこはラーンの神様と言われるだけあった、無駄な動きは一切無い。
「親父さん、元気?」
常連と思われる白髪の老人(それでも店主よりはずっと若い)が横から話しかけてくる。
「いやあ、あんまり元気じゃねえんだよ。ちょっと前に胆石で入院しちゃって」と、お爺ちゃん店主が気さくに答える。この受け答えだけでも、この店主は人柄が良いと感じる。おかげで少し僕の緊張がほぐれた。僕はラーメンの侍みたいに頑固そうな人は苦手なのだ。
「あんま無理しちゃだめだよ~。お弟子さんもいっぱいいるんだからさ」とさっきの常連が言う。
「いや、そうだけどさ、こいつらもみんな休め休め言ってくれるんだけど、なかなかね。それにたまにきてくれるお客さんがさ、残念がるからね、休めないんだよ。申し訳なくてね」おやじさんは、そう言いながらも具材のチャーシューを切っていく。
「まあ、そりゃ判るけどさ、足があまり良くないんだから、大事にしないと」
「はっは、あんがとよ。ところでいつもので良いんかい?」
「おお、そだね。きょうは四人前で頼むわ。これからゲンチャンたちとポンジャラすっからよ、食いながらやるんだい」
「おお、良いね。俺もやりてええな」
「良かったら、店閉めたら来なよ」
「何言ってんだよ、夜になっちまうで」
「でーじょうぶだよ、おれら徹ポンするんだから」
「何だよ、昼のうちからおっぱじめて、あした朝までやる気かい?」
「ははは」
きっと近所のおなじみさんなんだろう。店主のお爺ちゃんはとても嬉しそうに朗らかおしゃべりをしている。だが、良く良く考えると、この人はもともと並んでいた人ではない。後ろのことはあまり気にしてない僕だが、この人は後ろにいた気配はなかったし、行列の中にも居なかった。食いながら麻雀をするってことは、お持ち帰りか? お馴染みだからそれも有りなのかもしれないが、だからといって、並んでる人を差し置いて割り込まれるのは釈然としない。たとえそれが持ち帰り用であってもだ。古い店だから常連さんとの繋がりを大切にして、こういうルールなのかもしれないけど、文句を言う人も居ない。周りのお客は抗議どころか怪訝な顔をするものもさえいない。きっと、この風景がごく当たり前の世界なんだろう。新参者ものにあれこれ口を挟む資格はないのかもしれない。
「大将! うまかったよ!」
「おお、ありがとな。今日はこれから仕事かい?」
「これからお客のとこに営業行くんさ! 久しぶりこっち来れたから、大将のことが懐かしくてさ、つい来ちまったわい。でも年だな、昔は大盛りなんてサラッと行けたのに、今日は普通盛りでも腹パンパンだわ!」
「そっか、遠いところご苦労さん。今はどこにいるんだい?」
「いや、もう8年くらいキオト(カロンから西へ五百キロ程の場所にある国。セルリア帝国の支配下にある)! あっちはうまいラーンあんまりないんだよ。ヤズとメンコばっかで」
「なんだよ結構美味そうなの食ってるじゃんか?」
「いやいや、うまいけどさ、飽きるよ。また、来月こっちくるから、店開けといてね」
「おおっ! しばらく店は閉めないから安心しな! じゃ、気をつけて帰れよ!」
わざわざ遠くからご苦労様だね。商人風のおじさんは早足で店から離れていく。きっとこれからお客さんの所なんだろうけど、遅刻しないのだろうか? ずいぶんと余裕なのだなと感じた。
さて、ようやく僕のターンだ。この店は店員の指示がないと入っちゃダメなところだろうか。しばらく店の前で中の様子を伺ったが、席が空いているような様子は無い。でもさっき一人出て行ったんだから、確実に空いているはずなのだが。僕が悩んでいて、ぼさっとしてたせいか、お弟子さんの一人から、
「おう! にいちゃん席空いてるぞ!」と呼ばれた。僕はおじさんが指差す方を目指し、狭い店内にすし詰め状態のおじさんたちを掻き分けて、やれやれといった感じで進んだ。気をきかせて椅子を引く者、まったく気がつかないのか単に面倒臭いだけなのか、全く微動だにせず、でかい背中を丸めて、ずるずるくちゃくちゃと音を立てて下品にラーンを食らう豚。そんなラーン修羅場とも餌場ともいうような空間を押し進んで行き、ようやくたどり着いた席に着座した。いつもの様に辺りを見回して店の中を観察する。僕の座った席はガラスに仕切られた厨房の真ん前で、調理の様子が丸見えの特等席。店主はさっきの御馴染みさんとの会話でも言っていたが、相当足が悪いみたいだ。狭い厨房の中をとある時はテーブル、とある時は何かを掴みながらよろよろと動いている。端で見ているとなんか危なっかしくてとても見てられない。だって厨房の中は煮え滾る鍋や寸胴が何個もあるから、そこに手でも触れたら大火傷の大惨事になってしまう。でも長年ここでラーンを作っているのだから、そんなヘマをするほど耄碌はしていないんだろうけど。
そんな調理風景を眺めるのも楽しいが、着座してから十分も経つと、さすがにそれだけでは少し飽きてきた。僕より先に入ったおじさんのラーンはまだ出来ていないようで、彼も手持ち無沙汰の様だった。この調子だと、自分のが出来上がるまで未だ未だかかりそうだなと思った。外観からも想像はある程度ついてたけど、それ以上に店の中はかなり古い。壁の漆喰も剥がれて泥壁が見えている。ネズミとか出そうだな。そんなぼろっちい店の奥の方を見ると、崩れかけた壁の向こうにも別の部屋のがあって、そこに小麦粉の袋が何個も積んである。きっとあそこで製麺するんだろうな。しかしネズミにやられないんだろうか?
実は小さいころ、埼玉…、というよりほとんど群馬なんだけど、そこに父方の祖父の家に盆暮れは良く遊びに行っていたのだ。そこは関東平野の真ん中だから、大きな山や小川はないんだけど、周りは畑や田んぼばかりの田舎。おじいちゃんちは古い農家だったんだけど、もう此処とタメをはるくらいオンボロな家だった。おじいちゃんは優しくて大好きだったんだけど、そこに泊まると天井裏でネズミがガサゴソと派手な音で暴れるので、ほんとは怖かった。おじいちゃんは良く、「なあに、ネズミが運動会でもしてんだんべ」と言ってなだめてくれたけど、嘘つけって思ってた。まだ僕が小学校低学年くらいまでは信じてたけどね。中学生の頃、冬休みを利用しておじいちゃんちに泊まっていた時、罠から逃げかかったネズミを見つけて、逃げないように追い込もうとしたら、窮鼠猫をも噛むって良く言ったんもんで、手首を噛まれてしまったことがある。幸いにも町内の病院の先生がじいちゃんの知り合いですぐ見てくれたから事なきを得たけど、そうでなかったら大変なことになってたかもしれない。
話はだいぶそれたけど、このラーン店はそんなネズミどもが巣食っている気配がひしひしと感じる。まあラーンの味には影響ないけどね。これだけ客がいるのに改装すらしないなんて、ケチなのか、儲け度外視なのか、それとも実はギャンブルや女につぎ込んでいるかは不明。
などと、いろいろ妄想しているうちに僕の分が出来たようだ。
「はいあつもりね。熱いから気をつけてね」
カウンターの上にどんと置かれた丼。ここはなんでもセルフサービスだ。自分で下ろさなくてはいけない。熱いというからスープが熱いのかと思ったらさにあらず。実はスープも麺も熱かったのだ。ちょっと想像していなかったのでかなりびっくりだった。そう、僕はあつ盛りの『あつ』を『厚』と勝手に思って『厚く切ったチャーシュー』を盛り付けた物かと勘違いしてたのだが、実は熱い盛り。すなわち麺が熱かったわけだ。この世界でのつけ麺はベンティーナで経験してたから、麺は水でしめてキリッと冷えたものと思ってたのでこれは想定外だった。は? そんなのあたりめえだろ! などと言うなかれ。僕はラーメンマニアでは無いからそんなの知らなかったのだ。また、運が悪いことにその日は季節外れの猛暑。日本であれば今日はそうめんか冷やし中華を食いたくなるような陽気だ。それをアホなことに、熱盛りを頼んでしまった愚かさを笑ってくれ。
というわけで、僕はクソ暑い中、クソ熱い熱盛りを食らうわけだが、一口目からすでにめげていた。もちろん『熱い』からなんだろうけどそれだけでは無い。普通、水でしめた麺はグルテンが縮んでコシが強くなるようなるものだが、熱盛りってモノは一旦水でしめた麺をまた湯にくぐらすもんだから、でんぷんがベータ化してふやける。だから、熱盛りの麺はふにゃふにゃになってしまう。生憎ここの麺もその例外ではなく、麺はふにゃふにゃ。麺は固めが好きなのにこれでは食えたもんじゃ無い。
でもせっかく何時間も並んだし、食べなければ損だなと納得させて、仕方なく汗をかきながらふにゃ麺を食う羽目になる。でもまだスープが美味ければ、なんとか食えた物だったんだろうが、此処をリスペクトしているベンティーナの原型的なものを期待してた僕が間抜けだった。たまたまの失敗作だったのだろうか、スープ薄々で、出汁感も不足して、パンチがまったく無いのだ。しかも過剰に多い砂糖や調味料がそれを誤魔化しているのか、不自然な感じだった。まるで自分がカブトムシかクワガタで甘い汁が大好きというのであれば、確かにうまい! って思うのかもしれないけど。
つけ汁は薄茶色。少し透けて見えるくらいなのでそれほど乳化などしてない。そこに半分に切ったゆでたまご(味玉では無い)、のり、シナチク、おおぶりのチャシューが一枚。薬味にネギ少々。チャーシューはもも肉のようで、良く言えば歯ごたえがあるとも言えるが、固すぎて僕の好みでは無い。もっと柔らかくすることは出来ないのだろうか? デフォルトでゆで玉子半分入っているのはかなり嬉しい。普通は半分でも入っているところはなかなか無いのに。でもここの店って味玉は用意してないんだろうか? 注文取りのジジイがクソすぎなおかげでメニューもちゃんと見せてくれないから、そもそも味玉ってメニューにあるかどうかも判らんかった。鼻毛ジジィシネ。あと、のりとシナチクはまあ普通。特に特筆すべきような物でも無い。まあ不味くも無いし、元々シナチクは好きなので入ってただけでもラッキーなのかな。
結局暑い中で熱い熱盛りは苦行でしかなく。おかげで今のところ、この店の評価は芳しく無いものになってしまった。次来るときはメニューは確認しておかなければなあ。ごちそうさまをすると、店主はありがとお! と一見の僕なんかにも律儀に返事をしてくれた。弟子はクソ(注文取りの鼻毛ジジィ限定かもしれんが)だったが、店主のおじいちゃんはこの店の歴史を半世紀も背負ってきて、良い人柄が顔に出ているとおもった。まあ、自分勝手な思い込みだけどね。
店を出ると既に太陽は西に傾き始めて大地を赤く染めている。もっとも赤色巨星化しているので当たり前っていえば当たり前なんだろうけど。そういえばラゲートには何しに来たのだっけ? そんな事はもうどうでも良くなっていた。
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