第七章 スワンレエクでラーメンの侍に会う

    セルリア歴5332年虎の月八


 翌日はセルリアでの日曜日にあたる安息日だったが。僕はけたたましいカラスの鳴き声で目を覚ました。

 ミイタにもノンマルトにもカラス(の様な鳥)はいたけど、それほどは多くなかった。

だが、ここガレス国はやたらめったらあちこちにいる。

「何だよ、クソうるさいカラスだな!」

 今日は二日酔いで頭が痛かった。実は昨日のラーメン屋の後に、東さんたちの行きつけの飲み屋に行ってお酒を飲みすぎてしまったらしい。其処のお酒がとても口当たりがよかったからだ。

 痛い頭を手でこすりつつ、僕は部屋の窓を開けた。うむ、今日はいい天気だ。それに日差しが暖かい。

「ふあああああぁぁぁぁっ!」

 ぼくが大きき口を開けてあくびをすると、後ろで女の子がくすっと笑う声がした。だれだ?

 後ろを振り向くとメイド服を着た小さな女の子が立っていた。

「なんだ、セシルか」

 その女の子はセシリアだった。

「その呼び方はなんか好きではありません!」

 セシリアと言うのは、なんか言い辛らかったので昨晩からセシルと呼ぶことにしたのだが、彼女は気に入らなかったようだ。

 僕は両手をすくめて微笑んだ。なんか妹ができたみたいだ。あいにく僕には年が離れた兄はいるけど姉妹はいないので新鮮な感じだ。

「ところでなにがおかしかったの?」

「だってその髪の毛!」

 起き抜けで変な寝癖でもついているんだろうか? 僕は鏡で改めて自分の姿を映しだしてみた。髪の毛は逆立ち、右サイドは脂でべっとり濡れてこめかみに張り付いている。まるで出来損ないのパンクロッカーだ。

「ぷははは」僕もおかしくてつい笑い出してしまう。

「でしょ?」セシリアも思い出したように笑いはじめた。

 酔ってて良く覚えてないのだが、昨晩はシャワーも浴びず、そのまま寝落ちしてしまい、ちゃんと髪を洗わなかったらしい。

「いや、確かにおかしいね、これは」

「こちらこそ、失礼しました。でもあまりにもすごい髪型なので、ひょっとしたら異国ではへんな髪型が流行っているのかしらって思ってたら、つい笑ってしまって」

「いや、いいんだよ。でも寝癖にしても随分と凄い事になっちゃったな」

 これではもう一度シャワーを浴びねばならないな。でも特に今日は何の約束もないから、ゆっくりシャワーを浴びてから朝食にするか。

「ところで、セシル、朝食の案内でも来たのかい?」

「残念ですが、違います。だってもう直ぐお昼の時刻なんですよ? 朝食の時間なんてとっくに終わってしまってます」

「ええ?」

 慌てて自分の時計を見てみたが嘘でも冗談でもなく、あと三十分程度でランチの時間になる。

「これでも何度も起こしに来たのですが、ずっと熟睡されてたので」

 ちょっと軽くショックをうけた。朝食は伯爵たちと一緒に取る筈だったのに、これでは心象を悪くしてしまうのではないだろうか。いくら昨晩、飲み過ぎたとは言え、とんだ失態だ。

「ご心配なく。お具合が優れないようですので、とお伝えしておきましたので」

「助かった。気を利かしてくれて、ありがとう」

助かった。彼女が気を利かせてくれたのか。

「それではセシルが来たのはランチの案内だったのかい?」

「いいえ。実はハギノ様にご面会を希望している方がございます」

 面会人? 誰だろうか? 伯爵は今日は国王との懇談で相手をしている暇は無いと、聞いている。

「お客様が中央の広間でお待ちしています。急いでお支度を」

 急げと言われれば仕方が無い。慌ててバスタオルと替えの下着とバスローブを取るとシャワーを浴びるためバスルームに入った。


「セシリア! 一体全体誰なんだい?」

 シャワールームで彼女に問いかけたが水音でかき消されて聞こえないのだろうか? 返事は特になかった。

 まあいい。どうせユリアだろう。でも、ちょっと待てよ。彼女なら自分名前を名乗るはずだし、セシリアもそう伝えてくれるだろう。 伯爵でもユリアでも無いとすると誰なんだろうか?

 また、東さんかもしれないな。昨晩のラーメン屋とパブでは詳しい話は聞けずじまいだったから。


 急いで支度し、広間まで行くと金髪のボブカットで控えめのフリルのシャツ、紺色のロングスカート、ベージュのカーディガンを羽織った十八、九とおぼしき美しい(おおきな碧眼が美しさに拍車をかけている)女性が待っていた。

 この女性は誰だろうか? 見覚えのある顔だがどこで会ったことがあるか思い出せない。

 どことなくユリアを思い起こさせる容貌だが、顔の作りはもっと穏やかだ。どことなく上品な雰囲気が漂う女性だ。きっと高貴な方に違いない。

「Mハギノ、初めまして。ハーマン様にお仕えするダレンと申します。殿下に王国内の案内をしてあげなさいと仰せ使って参りました」

 ただの召使いとは思えないくらいの高貴な雰囲気があるのだが自分の勘違いだろうか。

 僕は幾分、疑念もあったが、その時はあまり気にしてなかった。

「MSダレン、はじめまして。ユウキハギノです。お気遣いありがとうございます。今日は予定してた用事がキャンセルになって暇をもて余していたところで、どうしようかと思ってたところです。案内をして下さるのは助かります」

「そうだと思っておりましたわ。あ、いや皇太子がそうおっしゃってました」

 『殿下』も『様』をつけない? 召使いなのに彼とはフランクな関係なのか? ひょっとして愛人か何かだろうか? 僕は下世話な邪知をしてしまった自分を恥じた。彼女はそんな僕のゲスの勘ぐりに気が付いてしまっただろうか? 僕はなるべくそんなイヤラシい考えを悟られぬよう、なるべく平然と彼女に答えた。

「皇太子殿下には感謝いたします。ところで時間はいかほどで?」

「既にお乗り物の準備は出来ておりますわ。早速参りましょう」

 とりあえず、財布は持ってきて正解だったな。コートは持ってこなかったが案内と言っても寒くなる前には帰れるだろう。ダレンさんもシャツ一枚にカーディガンで厚着ではない。


 城を出て車寄せまで出て来たとき、僕はちょっとした衝撃をうけた。

 ホワイトのソリッドカラー、いやメタリックかパール塗装された、以前の世界、日本で見慣れた金属製の乗り物。そこには本物の『車』がまるでヨーロッパの古都でCM撮影でもしているかのように、当たり前のごとく停めてある。

 しかもそのたたずまいはブガッティやアルファロメオのクラッシックカーとは異なり、最新のポルシェやメルツェデス等のヨーロッパ車とも言って良いデザインだ。

「これは?」と、僕は思わず声を出してしまった。

「驚きましたか? まだ試作段階ですが、我が国の研究グループが開発した新しいクルウマー、自動車CARですわ。もっともハギノ様の国では別に珍しくも無いのでしょうけれど」

 カロンの文明レベルから全く想像出来ない技術レベルだ。此処が中世ヨーロッパと同等の文明レベルとすると、優に二〜三百年は進んでいるでは無いか? 

 何故ここまで技術レベルが進んでいるのか? 東さんが『理由があって集められた』と言っていたのはこの事だったのかもしれない。

 だが一方、彼は世界が変わるほどの大プロジェクトだとも言っていた。確かに十八世紀に二十一世紀の文明レベルまで引き上げるって事は大きなパラダイムシフトであるとは言えるが、彼の話はもっと大規模な意味で、世界を根底から覆すことだ感じた。

「そのご様子ですと、色々とお尋ねになりたい様ですわね。でも続きは車の中でゆっくりお話ししませんこと? 何しろ、半日で回りきれないくらい、お見せしたいところが沢山ありますのよ」

 彼女が、その車のドアのある一部分に触れた。本来はドアノブがある位置だが、実際には何も存在せず、つるんとしていているだけだ。

 ドアは一瞬の間を置き、まるで羽根の様に軽やかに上方にはね上がった。その姿はランボルギーニのスポーツカーを思わせるが、この車自体はスポーツカーと言うよりはSUVに近いエクステリアである。

 僕は目をまん丸に見開き、異世界で見る初めての、そして普段見ている日本車よりも先進的な異世界の車に驚いた。

「さ、乗ってくださいませ」

 彼女はそう言って、僕の所まで来ると腰に手を回して、車の助手席までエスコートしてくれた。

 助手席に座り、車の中を見回した。助手席の隣はもちろん運転席だ。いわゆるオートマチックかどうかまでは判別出来ないが、ハンドル、メータ、ブレーキ、アクセル、ギアレバーと言う一般的な構成で、僕らの世界の車と全く変わらない。むしろ、インテリアの造形はこちらのほうがモダンだ。

 内装は本革張りの高級な作りだが、この国の一般的な貴族が乗るクルウマー/コーチの様に中世基準の豪奢な作りでは無く、現代的なシックで品のある作りだ。

 これはセルリアの一般的な好みとかけ離れている。このデザインセンスは明らかに現代人の物だ。

 僕がキョロキョロと、中を見回しているとダレンさんが反対側から運転席に乗り込んできた。ロングスカートから覗かせるすらっとした脚が眩しい。

「いかがですこと? 大変興味を持って戴けたようですけれど」と、控えめだが自信満々な様子で僕に尋ねた。僕も、

「びっくりしました。正直言ってこれだけの物を作り上げるほど工業技術があるとは」と、この国の技術力に感嘆とした。

 僕が手放しで、この車の事を賞賛していると読み取ったダレンさんは、

「これも皆、ハギノ様の国よりお招きした、錬金術師の方々のおかげですわ。我が国の人間だけではここまで来るのにあと三百年は掛かったことでしょう。さ、ベルト締めて下さいませ。自動車の性能に未だ我が国の道路がついて行けておりませんから、揺れると思いますわ」というと、ハンドルを握り、前を向いた。

 彼女が車の始動ボタンをオンにすると、エンジンが始動し車がかすかに震える。いや、これはエンジンでは無い。エンジン音が全くしない。震えたと感じたのは、エンジンでは無く、空調のコンプレッサーのかすかな震えだ。

 彼女がギアをパーキングからドライブに移動させると、車は静かにするすると動き出した。城内の石畳からの振動はがゴツゴツと伝わるがそれほど不快では無い。

「さ、今日はお見せしたいところがたくさんありますわ。ちょっとスケジュールはタイトになりますがお付き合いしてくださいませ」

 第一、第二、第三と城門をくぐり抜ける。入城するときは、毎度毎度衛兵に止められ、チェックされたが、今回はすべてのゲートで衛兵は敬礼をするだけでノーチェックだ。どうも彼女は特別待遇らしい。


 しかし、何という乗り心地だろう。確かに石畳なので路面はゴツゴツとしていて乗り心地には決して良くない影響を与えるはずなのだが、上質なシートとサスペンションが優秀なのだろうか? 全くそれを感じさせない。

 恐らく試作車だろうが、相当お金をかけている物だ。これほどの上質な乗り心地は日本以前の世界では味わったことがない。

 もっとも僕が乗った最高級の車と言えば兄の旧型十年落ちBMW七シリーズくらいだ。

 キャデラックもベンツもレクサスも乗ったことは無いから、現代のどの車より優れているなんて言えないけれど。

 車は城がある丘を下り、ガレスの市街地を抜けて海岸線を通り、工業地帯に入っていく。来たときに見た工場とまた別の場所だ。

 此処は日本の京浜工業地帯と似たような雰囲気だが、比較的新しいのか、汚れは全く無く、白い工場の壁には水垢すら見え無い。

 煙突がニョキニョキと何本も立っているが、日本の工業地帯のシンボルの様に煙をもくもくと出している気配も無く、クリーンで公害とは無縁と思える。

 僕等が乗った車は、この工場群のうちのある一棟に向かって曲がっていった。

 ここは工場と言うよりは研究施設の雰囲気で、大きな空飛ぶ円盤みたいな形をしており側面は全面ガラス張りになっている。

 高さは五階くらいで、この手の施設としては決して低層とは言えないのだが、横幅が威容に大きいため相対的に其程高くは見えない。

 彼女は車をその建物の玄関部分と思われる所に停めた。

 何故玄関と思ったかというと其処に門の様なエントランスと雨に濡れずに降りられる様に大きな屋根が着いていたからだ。

 僕らが乗った車が止まったことを察知して、玄関の中から待ちかねていたように数人の男性と女性が出てきた。休日にも関わらず、僕らのために出社していたのだろうか?

 女性は顔立ちからセルリア人だと思われるが、男性はセルリア人と日本人(彼らはシイナ人とは明らかに異なる。彼らはスポーツ刈りか坊主頭しかしないからだ)だ。

 セルリア人はよく居るヨーロッパ系の体格が良い四十代男性だ。 

 日本人は二十代前半と思われる若い男性と中堅どころと思われる体格の良い男性、それとリーダーと思われる壮年の男性だ。奇しくも二人ともくせの強い縮れ毛と言うところだけが共通している。

 ダレンは手慣れた手つきで、車内のスイッチを操作し運転席、助手席の扉を開ける。

 すべて全自動で華麗に跳ね上がる扉は、まるで白鳥が羽を広げるかのようだ。

 そして椅子は降りやすいように自動で外向きに回転してくれる。

「さ、着きましたわ。御降りになってくださいませ」

 彼女はそう言うと、バッグを持って運転席をさっとこれまた華麗に降り、僕もそれに続いた。

 僕らが降りると、ドアは今度は逆に羽を閉じる白鳥のごとく、小さなモーター音とともに、ゆったりと閉まった。素晴らしい、いやむしろ美しい。

「これはこれはダレン様。お待ちしておりました。『ニコラ』の調子はどうですか?」

 縮れ毛の壮年の男性が彼女に尋ねると、彼女はは少しばつが悪そうに、

「ダレン『様』は止めて戴きませんこと? ダレンで結構ですわ」と答えた。そして、『ニコラ』に振り向き、続けざまに言った。

「『ニコラ』はすこぶる調子良いですわ。今のところ気になるところも有りませんし。ただ…」彼女は少し考え、直ぐに話を続けた。

「気のせいかもしれませんけれど、スイッチの反応が悪い気がいたしますわね。ドアを開けるとき一瞬もたつきますわ」

 初めて乗る僕は全く判らないが皇太子の運転手として何時も載っていて気が付くんだろうか、些細な事だと思うが、少し気になるようだった。

「かしこまりました、見学中の時間に少し見ておきましょう。シノツカ君、アキツ君と一緒にニコラプロジェクトのメンバー二〜三人を集め、車を実験室に運んでECUチェックにかけるように手配してくれたまえ」

 壮年の男性は縮れ毛の男性にそう耳打ちした。シノツカ、アキツ、やはり日本人だ。

 シノツカと呼ばれる男性は、無言で頷き、アキツと呼ばれる若い男性とそのまま奥の方に戻っていった。

ダレンは持っていた鍵を壮年の男性に渡すと、

「センター長、パーティー会場で既に面識あるかもしれないけど、紹介するわ。今度メンバーに加えて欲しいハギノ様ですわ。ハギノ様、此方は此処の自動車研究センター長のDタカナシ」

「ハギノ様、初めまして。此処のセンター長を務めている、タカナシです」

 タカナシと呼ばれた男性は、さっと右手を出してきて僕に握手を求めてきた。

「初めまして。ハギノです」 

 僕は緊張で手が汗ばんでいたので一瞬躊躇してしまったが、それでもズボンの端で軽く汗を拭って、握手に応えた。

 彼の手は僕より大きかったが、意外にも柔らかかった。僕の父の手はゴツゴツいていたから、意外ではあったが、研究職の人間としては当たり前かもしれない。

「さ、ダレン様、ハギノ様立ち話も何です。此方にお部屋を用意してございます。いったん、其方へ参りましょう、残りのメンバーも紹介いたします」

 Dタカナシはセルリア人の若い女性に合図をして僕らを広い研究所のロビーにある、パーティションで区切ってあるだけの簡素な応接室に僕らを案内させた。

「ハギノ君、いや、いきなり君付けですまないね。でもね、同じ日本人としてやはり日本語で話したいじゃ無いか? だから今からは日本語で失礼するよ」

 気が付けばDタカナシはいつの間にか日本語で話していた。

「でも、日本語だとダレンさんにが不安に思うのでは?」

「なに、彼女は日本語ペラペラなんだよ。だからここではね、日本語で大丈夫」

 そういうことなら安心だ。日本語で話して何企んでいるんだろう思われても叶わない。

 だが、ダレンは何故日本語が理解できるんだろうか?

「日本から此方にはどうやって来たのですか?」

 答えは同じだろうが、僕はDタカナシに尋ねてみた。

「ははは、君と同じだよ。気が付いたらここにいた」と、彼は軽く受け流すように答えた。

 まあ、嘘では無いだろうが巧く誤魔化された気がする。もっともダレンがいては話したいことも話せないのかもしれないが。

 僕とダレンが着席するのを見計らい、Dタカナシが右手をすっとあげると部屋全体が暗くなった。

 何らかのセンサーか、もしくはモーションコントロールなのだろうか? 前世界でも、こんな仕組みがある研究施設はなかなか無いだろうに。

 白い壁はそれがそのままスクリーンになるように施されている様で、巧妙に隠されているプロジェクターからの光を映し出した。

 映し出されたのは研究施設紹介のムービーだった。

 まるで現代世界にいるように錯覚させられるが、此処は紛れもなく中世ヨーロッパと同等の文明しか持ち合わせてない異世界、いや東さんたちの言葉を信じれば中世まで文明が退行した地球。

 本来ならこのようなムービーもプロジェクターも三百年は先まで出現しないはずなのだ。

 そんな僕の疑心など意に介さないようにムービーはどんどん進んでいく。

 以前は何もない漁村だったガレスにこのような工業化を推し進めたのは他でもないガレス国王だが、その盟友であるフランチェスコ伯爵と共に異世界からヘッドハンティングした科学者、エンジニアの尽力で段々と発展してきた様子が映画のように展開される。

 この異世界からのヘッドハンティングは奇妙な切っ掛けで始まった。

 実は錬金術師レビアタンが先王の依頼で始めた、ホムンクルスの創造中に偶然、異世界人、すなわち現代地球人の召喚してしまったのだ。

 最初に彼が召喚したのはアメリカ合衆国の軍人であり、兵器デザイナーのトーマス・ハリソン中佐だった。

 彼は二千三十六年(この時点で既に未来の話では無いか?)に勃発した第二次日中紛争で沖縄本島において作戦実行中、突然ノンマルトの森に転移させられてしまった。

 レビアタンは既にホムンクルスを創造を開始してから、何年も経過していたが、一度も成功したためしは無く、その焦りのため、ハリソン中佐をうまく言いくるめ、ガレス王に自分が創造したホムンクルスとして謁見させた。

 王は大変喜んだが、レビアタンは続けて第二のホムンクルスを創造出来無かった。

 国王はレビアタンに疑心を抱くようになり、密偵を使い、ホムンクルスを調べたところ、それが偽物だと知り、結局の所、彼を罷免した。

 一方、地球からの転移者であるハリソン中佐は元々天文物理学を専攻していたこともあり、自分が転移されたのは、超新星爆発などの影響であると考えていた。

 そうして、くじら座ミラでの超新星爆発による強力なガンマ線と太陽フレアの異常発生が偶然重なることにより、『時の墓標』で発生している時空のゆがみが密接に関係していると突き止めた。

 この条件は蟹の月から蛇の月の十六時か十九時にかけてのみ発生可能な事が明らかになり、フランチェスコ伯爵の協力の元で異世界人を召喚を再現して証明した。

 国王とフランチェスコ伯爵は事の有用性を理解し、国益のため有能な異世界人を召喚するに至ったのだ。

 以降、ハリソン中佐の指揮の元、異世界からの優秀な人材を転移させ、ガレスの為に従事させることが行われる様になった。

 しかし、このことを面白く思わないレビアタンにハリソン中佐は暗殺されてしまい、犯人であるレビアタンも処刑されてしまったのだ。

 異世界人召喚はフランチェスコ伯爵が遺志を継いで、今も継続している。

 

 つまり僕等は、フランチェスコ伯爵により意図的に此処に召喚されていたということだ。だが一つ疑問が残る。なぜ、最初の転移者トーマス・ハリソン中佐以外は科学者、技術者ばかりだ。なぜ他の人間は召喚されないのだろうか? その点に関しては謎が深まるばかりだった。


 僕の疑問を無視してビデオはさらに続く。


 異世界人召喚を通じて、ガレス王国はオーバーテクノロジーである、我々のいた世界(彼等はこれをビレニアム世界と呼んでいた)の技術を次々に取り入れ、工業技術を発展させていく。

 そうして、帝国内外にこのテクノロジーをキーとした製品を売ることで、帝国とガレスの経済を発展させた。

 そうすることで、かつて、食料生産国のケイブボウルやサウザンリーフの後方を甘んじていたその地位は、ここ数年でその地位を逆転させるまでに至ったのだ。

 ガレスは戦略として、テクノロジー一気に変えることを避けた。

 さらに、王国以外の帝国範疇には王国内より世代遅れのテクノロジーしか提供せず、先端技術を提供することは拒んだ。

 先端技術を提供すれば必ず模倣されて、ガレス王国の経済システムに打撃を受けるからだ。

 常に提供する技術をガレスより時代遅れの物としておけば、彼等が模倣出来るころには、既にそれが時代遅れなものになっているから、経済、軍事的に脅かされることは無い。

 

 現在までのガレス王国の経済発展の歴史を紹介したビデオは此処で終わった。

 続いては、Dタカナシによる研究所の紹介だ。

 かいつまんでいうとこの研究所はガレス王直属で、大きく五つのセクションに分かれている。

 一つはDタカナシのチームが所属する移動機械、すなわち自動車や船舶、飛行機技術開発だ。他に、医療、民間部門、軍事部門、そして先端研究。

 このうち先端研究以外は名前で何をやっているかは想像出来るのだが、先端研究というのは何の先端なのか全く想像出来ない。

 東さんがどでかいことをやると言っていたので、そこがとても気になっていたのだが、この先端研究に関しては、機密事項の一辺倒でまったく教えてくれない。

 その後、研究所内をぐるっとまわっての案内はほぼ二時間程度だったのだが、主に『ニコラ』開発のセクションのみに終始し、他のセクションなどは案内すらなかった。

 まるで僕の配属先は此処しか無いのだとでもいわんばかりだ。


 研究所を出るとすでに、日が傾きかけていた。西側は山なので、もう暫くするとまだ夜には時間が早いのだが日は沈んでしまう。

「あと一時間もすれば日が陰ってしまうわ。急ぎませんと」とダレンは言って、車を走らせる。

 ガレスは小さな半島ほぼまるごとに位置しているのだが、半島の突端に行くにつれ、市街地から外れ、工業地帯、軍港、そして漁港、海岸と寂れていく。

 車は一時海岸線を離れ丘の上に登って行った。海岸線を見渡せる所に彼女は車を停めた。

「ハギノ様、ここからは眺めが良いですわ、外に出て見ませんこと?」

 彼女は僕に外に出るように促し、ニコラのドアを開けた。

 外に出ると日が陰り始めたせいもあり、少し肌寒かったが、逆に気持ちもすがすがしくなった。

「ハギノ様、此処がガレスの軍港ですわ」とダレンは正面を指さした。

 其処には黒鉄の軍艦が何隻も浮かんでいて、壮観な眺めだった。

 それら軍艦はテレビなどで見る自衛隊やアメリカ海軍の軍艦と見分けがつかなかった。

 どうみても中世の技術ではない。これも、ガレス王国に僕等の仲間がもたらしたものなのだろうか? 

 さすがに軍港はトップシークレットに近い扱いのようで、遠くから眺めるしかないが、王国の軍事力を垣間見るような気がした。

「私はここから見る眺めがとても好きですの」彼女は美しい金色の髪の毛をなびかせながら、そう言った。

 彼女の横顔は整っていてとても美しく、時には中性的な雰囲気を醸し出していた。

 僕はこの雰囲気に見覚えがあるような気がしてならなかったが、その時は今ひとつ思い出せなかった。

「あそこを見て」とダレンは右手の岬突端を指さした。そこには軍艦ではない大小の船がたくさんあった。

「あれはこの国一番の漁港ですわ。この大洋の遠くまで魚をとりに行きますの。あそこまでいって見ませんこと?」

 ダレンはそう言ってさっと実を翻し、ニコラに乗り込んだ。


 そのまま海岸線に降りずに岬の突端まで進んでいくと其処には大きな漁港があって、さらに小さな島が見えてきた。

 すでに遠洋漁業の技術まで確立していて、釣った魚を冷凍する設備まで整っている。

 まるで異世界ではない現世界の漁港を見ているのと錯覚する。

「ずいぶんと立派な漁港ですね」僕は思わず言葉をこぼした。

「此処で取れた魚は王国内だけでなくカロンまで供給されますわ」

「ここからクルゥマァで運ぶのですか?」

「いいえ、クルゥマァではものすごく時間が掛かりますから、船でカロンの港まで直接運びますの」

 そうか、現世界なら当然トラックで運ぶだろうが、この世界なら海路の方が速いし、積載量も桁違いだ。

「ちょっと、来て下さる?」

 ダレンは僕を手招きする。僕は彼女の後をついていくとこじんまりとした吊り橋が架かっていた。島まで通じているようだ。

 彼女はその橋の中腹まで行き、僕を手招きした。

「ごらんになって下さいます?」と彼女が指さす方に巨大な橋が架かっていた。未だ建設中だ。

「あの橋が完成すると向かいの島までホルセィやクルゥマァ、そして自動車で渡ることができますわ。そうしたら未だ手つかずの島にも漁港を建設して、今までの設備を倍にいたしますの。そうすると漁獲高も倍以上にする事が可能になりますわ」と、希望満ちたまなざしで島を見つめる。

「こうしたことが可能になったのはハギノ様のお国の方のおかげですわ。私たちが願うのはこの国の民の幸せですの。ほんの十数年前までは漁民たちの生活は苦しかったのですが、今では大きな家も建ち、子供たちも高等教育を受けさせられまでになりましたわ。ですが、まだ民の全員が恩恵を受けているわけではございませんの。ハギノ様には是非ご協力戴き、なるべく多くの民に幸せを分け与えられるようにしたいのですわ」

「なるほど。僕などに手伝えることがあるのなら喜んで手伝いましょう」

「お目にかけたい物がありますわ。こちらに来て下さいませ」

 ダレンは僕の手を握りひっぱって行く。彼女の華奢な手が僕の手を握りしめる。ユリア以外の女性に握りしめられるなんて、滅多にないので僕の心臓はドキドキと高鳴る。

 橋を渡り島に着いても彼女は手を離さず、僕を引っ張っていく。島はちょっとした公園になっていたが、僕等以外の人はおらず、何故か野良猫が一杯いる。

「猫がたくさん居ますでしょ? なぜか飼えなくなった猫を捨てていく人がいっぱいいますの」

 僕は以前に行った事がある三浦半島の城ヶ島を思い出した。あそこも猫が多かった記憶がある。やはり同じような理由で猫島になってしまったのだ。

 彼女は公園のはしに行くとそこからの大洋を指さす。

「良い眺めでしょう? 此処も私のお気に入りなの」

 其処にはどこまでも続く蒼い海が広がっていた。直ぐ下は断崖絶壁だが整備され欄干があるので、足を滑らすことはない。

「嫌なこと、つらいことがあるときは此処に良く来るの。心が洗われてすがすがしい気分になれますのよ」

 彼女はそういうと目を閉じ僕を見上げて唇を突き出した。

「いけません」

 僕は誘惑に駆られそうになりながらも、断った。

「大丈夫ですわ。キスなんてこの国では挨拶とおなじですわ」とダレンは言うが、やはり僕には未だその勇気は持ち合わせていなかった。

 僕は彼女を軽く抱きしめ、肩を離した。

「決して君が嫌いな訳ではないよ。でも僕には好きな人が居るし、初めて出会った女性とキスできるほどの勇気を持っていないんだ」

「私の方こそ謝りますわ。実は貴方を試しましたの。きっと此処でキスをしてきたら貴方のことが嫌いになって居たかもしれませんわ。でも良かったですわ。貴方は誘惑に負けない立派な精神力をお持ちだと言うことを確信できましたわ」

 本当に僕を試すつもりだったんだろうか? 僕が彼女に質問をしようとすると、彼女は僕の口を遮り、

「お腹も空いてきたし、そろそろ行きませんこと? 実は是非行ってみたいお店が近くにありますのよ」とダレンは言うと未だ僕の手を握って、ニコラが停めてある橋の向こう側へ引っ張っていった。


 彼女が行きたかったという店はラーメン店で海沿いの街道沿いにあるちっぽけな店だった。だが、そんなところには不釣り合いな豪奢なクーペ(もちろん車では無い)が何台も停めてある。上流階級が集うラーメン店なのだろうか?

 店に入ると、ジラーやヨシムラケのような豚骨特有の酸っぱい臭いとニンニクの臭いは全く無く、上品な良い香りがする。

 店内はなんとカウンターのみなのだが、想像通り上品な男女で賑わっている。当たり前だが汗臭い肉体労働者はいない。

 店主と若い奥様が二人で切り盛りしている小さな店なのだが、その店主はおっかなそうな顔した中年男性。髪の毛はオールバックにしていてまるでヤンキーのようだ。

 風貌が悪いくらいならまだ良いが、僕らが入店してもニコリとも笑わず、いらっしゃいませとも言わない。

 気がついていない訳ではなく、一度ちらりとこちらを睨みつけているから、ちゃんと認識はしている。いわゆる頑固おやじと言うか、偏屈おやじだ。

 本当ならこんな店すぐにでもバイバイしたいくらいだけど、ダレンのお薦めだと言うのだから仕方がない。

 そんな偏屈オヤジが経営する店だから、客なんて変わり者くらいしか来ない閑古鳥が泣いているような店かと思われるだろうが、さにあらず、店外待ちができるほど繁盛していた。

 しかも、ほぼ上流階級の女性ばかり。女の人というのは、美味しい店をよく知っているから、ここも意外に当たりなのかもしれない。

 だが、少し気になるところもある。これだけの貴族の女性がいる割には店内はスープと小麦の匂いしかしない。普通なら少し気持ち悪くなるくらいの香水の匂いがしてもよかろうと思うのだが。

 それに加えて店の中は妙に静かだ。ほとんど誰もしゃべっていない。黙々と店主が麺上げする音とズルズルとすする音のみ。

 ひたすらラーメンをすすって、食べおえてもサンクスと言うだけで帰ってしまう。どこの国でも女性はおしゃべりな生き物なのに、まるで葬式のように静かなのはかなり不自然に思えた。

 だが、その理由は直ぐにわかった。僕等と僅差で先に入店していたカップルが、その場では浮きまくるほどおしゃべりを始めた。

 待ち客も多かったし、きっと飽きてしまったんだろう。ここまでは普通にある光景だ。しかし話がエスカレートしてきたのか、先ほどまで割と静かにして喋っていたのに、声がだんだん大きくなってきた。

 店主が調理しているところをぼんやりと眺めると僕は、彼の顔が徐々に険しくなってきていることに気がついた。あれはかなりイライラしているな。

「な、ダレン…」と言いかけたところで彼女は唇に手を当てて喋るなと合図をしてきた。どういうことだ?

 だが、その直後店内に怒声が響いた。

「お客さん! 他の客に迷惑だ! 今すぐ私語をやめるか出て行くかどっちかにしてくれ!」

 あまりにも凄みがある怒り方だったので、言われた方のカップルは、ビビって呆然としている。

 もちろん、他のお客も箸を止めて心配そうに彼らの様子を見守っている。

「ケイちゃん、帰ろうよ!」怒られたカップルの女性が怖くなってしまったようで、彼氏を不安げに見つめていう。

「そ、そ、そうだね。帰ろっか、タエちゃん」

 彼氏も同じくすっかり怖じ気づいてしまったみたいだ。そそくさと帰る仕度を始める。

 元々は大きな声で喋っている彼らにも反省すべき点は有ったと思うが、やはり少し喋ったくらいで怒る人も、問題あるのでは無いだろうか?

 どうもこの店主はアウトロー的な雰囲気があるがひょっとして格好いいと思っているんだろうか? 

 だがそれよりもこんな雰囲気で食べるラーメンって、いやラーメンに限らず、どんな食べ物でも絶対美味しく感じるわけ無いよ。

 ダレンはこんな店だって知っていたのだろうか? 知ってて来たなら、きっとかなりの変態的性癖の持ち主に違いない。

 僕の不安げな表情で何かを悟ったのか彼女は、僕の手を両手で握って、まるで安心して! とでも言うように僕の目を見つめた。その顔はまるで母親か姉だと錯覚してしまう。

 結局彼らは何も頼めないうちに退散するしか無かった。せっかくのデートが台無しだろう。かわいそうに、

 店の客は彼らに同情する様子を見せた者もいたが、大半の人間は、うるさいハエがいなくなった程度の反応でしかなかった。むしろ、嘲っているのでは無いかとも思える。

 店に入るまで饒舌だった彼女が急に静かになったのはそういう理由だったんだなと今更ながら悟る。

 そうして待合から、ようやくカウンターに着席できたのは一時間も過ぎてから。

 さあ、此処は何が美味しいんだろうか? 

 目前に貼り付けられた、メニュー表をみると醤油、塩が基本で、それぞれチャーシューをプラスした計四種類、実質は二種類のみ。いたってシンプルだ。

 店主は無愛想な強面、メニューはシンプル。これで肝心のラーメンが美味くなかったら、なんでこんなに行列が出来ているか理解できない。

「ハギノ様、何を注文する御決まりですこと?」

 彼女がささやく様な声で言う。店主はギロリと睨むが、この程度のコミュニケーションも許されないのだろうか? 

 僕は彼に睨まれるのが嫌なのでそっとメニューを指さす。

 彼女はそれだけで注文を理解すると、店主に「ソヤ(塩)チャシューラーン二つ」とだけ伝える。あえて余計なことは言わなかった。

 店主はまたもやギロリと睨みつけるが、静かな声で「あいよ」とだけ応えるとまたラーメン作りに没頭しはじめた。

 取りあえず先ほどのカップルのような退店を促されることは避けたい。本当にここの店は緊張する。

 しかし、おしゃべりもできないとすると、ラーメンが出てくるまで暇をもてあます。ダレンを伺うと彼女も暇を持て余しているのか、僕の方を見ていたが、おしゃべりはできないと既に承知しているようで、黙っている。

 お客の入りは絶えず、こうしてカウンターに座ってからも何人も入ってくるのだが、今度来たお客は他の人と少し違っていた。

 中年と二十代の男女一組だが、男性は成金っぽい風体で、女性はまるでキャバクラかなにかの水商売系の雰囲気だ。

 当然ながら香水の匂いも周りのお客と違って強烈だ。それに加え、男性はいきなりポケットからハシシを取り出して、火をつけてくゆらせはじめた。

「お客さん! うちの店初めてかい!」

 店主がいきなり怒鳴った。言われたカップルは自分たちの事と理解してないのか、ガン無視だ。

「うちは、禁煙だ! それと香水つけた女もお断りだ! 出てけ!」

 ようやく自分たちが言われたと気がついたらしく、その男がギロっと店主にガンを飛ばして、

「なんだこのやろ! おれに文句あんのか?」と凄むが、迫力なら店主の方が一枚も二枚も上手だった。

「何度も言わせんな! ハシシなんか吸うんじゃねえ!」と包丁を片手に怒鳴る。

 男は僕らの頭越しに店主ににじり寄った。

「ああ? こっちは客だぞ! お客様は神様じゃねえんか? あ?」

 驚いた。こんな所で『お客様は神様』なんて言葉聞くとは。

「うるせえ! こっちは一瞬一瞬が真剣勝負なんだ! それを邪魔する、お前みたいな奴は客じゃねえ! とっとと失せやがれ!」

 店主はチャーシューを切っていた包丁をカウンターに突き刺した。

「ちっ! 二度と来るかよこんな店!」

 男は店の扉を大きな音が出るくらいに激しく蹴飛ばして去って行った。あまりにも乱暴に蹴ったせいで、ガラスにひびが入った。

「お客様。お騒がせしました」と、店主は一礼し、先ほどの無愛想な態度からは想像出来ないほど丁寧に皆に謝った。

 そして、鍋の中でゆでていた麺、どんぶりに入れていたスープを全て廃棄して、また一からラーメンを作り始めた。

 少し茹ですぎたのかもしれないけど、なにも捨てなくても良いのにと思ったが、其処にこの店主のこだわりを感じた。

 想像するにベストな状態のラーメンを提供したかったんだと思う。だから少しでも茹ですぎた麺は躊躇無く捨てたのだ。そしてスープもまた、麺を茹で直している間に冷めてしまうから捨てたのだ。

 しかし、その分お客を待たせることになってしまうが、そちらよりも不味いラーメンを提供することが許せなかったんだろう。そして材料も無駄になるがそんな事は彼にとって二の次だったに違いない。

 この気迫、これはまさにラーメンの侍だ。ラーメンの為なら客すらも追い返す。気に入らないスープやのびた麵は平気で捨てる。へたをすると腹でも切るのでは無いかと言うくらいに真剣なのだ。そんな人が作るラーメンはきっと凄く美味いに違いない。

 さっきのごたごたのおかげで、倍近くの時間を待たされてしまったが、ようやくありつける時になった。

「ソラ・チャシューメン」

 店主は先ほどの怒鳴り声とは打って変わって静かな声で言って、カウンターの上にラーメンのどんぶりを置いた。

 淡い黄金色に輝くスープの中に細麺が泳ぐように盛り付けられている。そして大ぶりのチャーシューが二枚と穂先メンマ(のようなもの)、海苔(此方も海苔のようなもの)、細ネギ(同上)。

 ダレンと無言で顔を見合わせ、カウンターにどんぶりを下ろして先ずは臭いを嗅いでみる。驚いたことにジラーやヨシムラケとまったく異なり、獣臭さが皆無で上品な匂いがする。かといってワンチェンローのアカシヤメンとも全くちがう。

 まずはレンゲでスープをひと掬いして飲んでみる。うん、これは美味しい。端麗だがけっして味が弱い感じはしない。これは材料は相当良い物を使っているに違いない。まったくいやみな感じが無いのだ。

 それに揚げネギが非常に良い香りを出している。おそらく端麗なスープこの揚げネギが補ってしっかり食べ応えのあるスープにしているのだろう。これが入ってなければ僕の好みから言えば、かなり物足りないものになっていたかもしれない。

 お次は麺。今まで食べてきたラーメン店での太麺とはちがい、此方はかなり細麺だ。箸でたぐると絹の様にしなやかで弾力性がある。

 一口啜ってみると、まるでそうめんの様にするすると喉ごしが良い。だが噛むと中華麺らしくコシがある。細麺だからスープとの絡みも良い。端麗系のスープはこのくらい細麺で無いとスープが絡まず、美味しくないのだ。

 ここでも揚げネギが良いアクセントになっている。麵、スープと揚げネギが三位一体となって、快楽中枢を刺激してくる。

 だがさすがに麵だけは飽きるし、具材の方も味わってみよう。先ずはメンマ。この穂先メンマは他では見ない食材だ。ベンティーナ以来だろうか? 箸でつまみ一口囓ってみる。うん、これは美味い。良いメンマを使っているに違いない。それにこの柔らかさ。普通メンマなんて歯ごたえを楽しむ物だと思っていたから意表を突かれた。こんな異国でメンマ味わえること自体が奇跡なのに、しかもこの店もベンティーナもレベルが高い美味いメンマだ。

 しかも味だけで言ったらベンティーナより此処のメンマに軍配が上がるだろう。ベンティーナのメンマは悪いわけでは無いが良くも悪くも自身のメンマ観の範疇内だが、此処のは想像を遙かに超えている。

 これはラーメン店のメンマというより高級料亭の筍煮に近いと思う。そんな高級料亭のタケノコをラーメンに入れちまうなんて、なんかもったいないような、嬉しいような感じだ。でも美味いからこれは正解だ。

 僕はこのメンマが気に入ってしまったが、生憎入っているのはたったの一切れ。どうせメンマが好きなのだから、メンマ増しにしておけば良かったと後悔。

 だが、まだラーメン具材の王様と言えるチャーシュー(なんと大ぶりのものが二枚も入っている)があるのだ。真打ちは最後に出るもの。そう、ラーメンの勝負が未だこれからなのだ。では挑ませて貰おうか! ラーメンの侍が真剣勝負で出す自信作を! 

 僕は大きな口でチャーシューをひとかぶり。うん、美味しい。口の中でほろほろ溶ける感じだ。そして材料がそもそも良いのか、丁寧に作られているのか、野卑た感じもせず、素直にとても美味いと言い切れる。

 お口の中にチャーシューの美味しい余韻が残っている間に麵を戴こう。チャーシューと麵ははセットで食べなければ意味が無いからな。

「ずるずるずるっ」僕は間髪入れず、麵を啜る。少し啜り音が大きいか? かまうもんか! ラーメンはずるずる食べるのが正統。お上品に食べてたら不味くなるって。

「ズルズルズルー」隣からも大きな啜り音が聞こえる。誰かと思ったらダレンだ。

 僕が見ている事に気づいて彼女は頬を赤らめ、恥ずかしそうな表情だ。何か言いたいのだろうが、此処は我慢しないとラーメンの侍に怒られるから、お互い目配せだけで今回は凌ぐ。

 意外にもラーメンの侍はずるずる食べるのは許容するらしい。やはり「ずるずる」食べる方が礼儀だと考えているんだろうか?

 そんなことも考えながらも、僕は残りの麵とチャーシューと格闘する。といってもジラーみたいに、度を超した量があるわけでは無い。ガツガツ食ってたら、あっと言う間に食べ終わってしまうから、普段より麵とスープを味わいながら食べる。

 チャーシューは結構大ぶりなのが二枚もあったから、最後の方は意外と持て余すんじゃ無いかと思ったけど、本当に良い肉なんだろう、まったく飽きること無く美味しく食べることが出来た。

 しかし、最初から想定はしていたけど、少し物足りない気がする。取りあえず、スープまで完食してしまったから、お腹は膨れているけど、暫くしたらお腹空くだろうな。

 それと、本当に美味しいんだけど、インパクトはジラーやベンティーナのようなボディーブローを受けたような衝撃はあまり感じ無かった。普通に美味いけど。自分にはまだまだ味がこの味が判らないんだろうか?

 ダレンは女性なだけあって、スープ完飲とまでは行かないが、それでも完食は出来たようだ。

「ごちそうさま」

 僕は控えめに店主に礼を言った。

 店主は例によってギロリと睨み付け、口を開いた。

 気を散らされて怒るのかと思い、一瞬身構えるが口から出てきた言葉は意外な言葉だった。

「良い食いっぷりだったぜ。また来てくれよな」と静かに言った。

 あの強面からこんな言葉が出てくるとは意外だった。それに『良い食いっぷり』って。ズルズル食べてたのが良かったのだろうか? 

 真意は判らなかったが、いつかまた来てみたいと思った。


「私も初めてだったのですけれど、美味しかったですわね」と、店を出るなりダレンが言った。

「え? あの店行くのは初めてだったのかい? それにしては随分慣れていたみたいだけど? 特に店のルールがあんなに厳しいってところとかも知ってたみたいだし」

「あれは軍隊にいた頃仲間が教えてくれたのですわ。普段はなかなかラーンなんて食べる機会が少なくて」と照れながら言った。

「まあ、そうだよね。ユリアお嬢様も僕がミイタでラーン食べたら酷く怒って…」と僕が答えると、

「あらそうですの? 美味しいのに」と意外そうな顔で言った。

「まあ、さっきのみたいに上品な味とは言えないからね。ミイタのは」僕は、あの下品な味と盛りは此処とは対局だなと感じた。

「あら、そうなのですわね。それにミイタにラーンなんて初めて聞きましたわ」と彼女は感心するように言った。まるで急に興味を引いたかの様だった。

「まあ、東さんたちも知らなかったみたいだから、それほど名が知れてないのでしょうけど」とは言ったものの、あれほど目立った行列があるのに知らないと言うのは余ほど接点が無いとしか思えなかった。

 彼等はミイタに行ったことは無いのだろうか。

「そうかも知れませんわね。実は私はそれほど彼処のことは知らなくて。ユリア…、お嬢様からくらいしか、あそこの話を聞くこともありませんし…」と、彼女はいぶかしげに言う。

「へえ、そうなのかい? 意外だね。もっといろんな所に行っていると思っていたのに」

「ふふふ、私なんで籠の鳥ですもの、外に行けるなんて滅多にございませんわ」などと、思わせぶりな事を言う。まるで僕の知らない、いや知ってはならない重要な秘密を持っているかのようだった。

「籠の鳥? でもこうして今外に出てる訳ですから? そんなにお父様は厳しいのですか?」僕はその違和感を思わず口に出して尋ねてしまったが、彼女の返答は無かった。

「さ、これからどこへ行きませんこと? 私、実は未だ行きたいところがあるのですの」と、彼女はまるで話をそらすかのように、『ニコラ』に触れてドアを開けた。


「はい! エール二つね!」体格の良い女主人が太い腕で持った大きなジョッキをテーブルにドシッと置いた。

 この国では未だ珍しいグラス製のジョッキだ。そこからシュワっと白い泡があふれでている。

「さ、ハギノ様、お疲れ様ですわ。さ、飲んで下さいませ」と、ダレンは言うと僕にもジョッキを持つように目配せした。

 本当に今日は長い一日だった。ガレスの研究所に港まで。そして侍の様な頑固親父がいるラーメン屋。

 まるで日本に居るかのような錯覚を起こした。新しいものと古いものが共存する街。

「では、ハギノ様が此処を気に入って下いますように! えっと、貴方の国ではこういうとき何というのですの? 酒宴での開始の言葉ですわ」と、ダレンは喉まで出かかっているのに中々思い出せない様で、僕に教えるように目で訴えかけてくる。

「乾杯ですよ、乾杯」と僕は言った。

「ああ、そうそう乾杯ですわね。乾杯。日本国の民は乾杯と言うのは父に聞きましたわ」彼女は急に思い出したかの様に言った。

 父? ダレンの父上も日本国の事を知っているのだろうか? 我が此処に集められていることはかなりの機密事項かと思ったが、彼女の父君も要職に就いているのだろうか? うーむよくわからん。

 彼女は今日知り合ったばかりだ。身内の話なぞ出ることは無かったが、これから親睦を深めればそういう話にもなるのかもしれない。

 まあ、見たところ良いところの子女なのは確かだから、父君が要職に就いていても不思議は無い。

「それではハギノ様。日本式に乾杯と行きませんこと? 今日、新たな友と巡り会えて、余は嬉しく思う! 乾杯!」と、いかにもな尊大な台詞で言った。王様とか偉い人が言いそうな、ずいぶん大仰な挨拶だ。

「これは皇太子様の真似ですわ」とダレンは照れながら言った。

 なるほど、でもなんか、うら若き女性が言うにはなんか不釣り合い過ぎて却って滑稽に思えて、僕は思わず、クスッと笑ってしまう。

 彼女もニコニコしながらエールに口をつけて、ごくごくと飲み干した。

 僕はというと、すごく喉が渇いていたので彼女と同様に一気に飲み干した。

 うん、あらためてこれはビールだな。しかも、昨日のむさいおっさんたちに囲まれてるのと違い、美しい女性と飲むお酒は格別だ。

「美味しいですね!」と僕が言うと彼女はとても嬉しそうに、

「でしょう? 私はこれをハギノ様に飲んで欲しくて頼んだんですわ」と応えた。

 彼女はほら見なさいとドヤ顔で自慢げに言った。そして、鼻の下にうっすらビールの泡で髭を作って笑いながら続けた。

「そういえば、我が国について気に入ってくださいましたかしら?」

「はい、良い国ですね。工業国だと思ってましたが、意外に自然もいっぱい合って海も綺麗ですし。教育もしっかりしてる様で、もし結婚して此処に永住したとしても生活には苦労しなくて良さそうだと思いました」

 僕は差し障りないことをいったつもりだったが、彼女の表情に一瞬陰りを感じた。

「ハギノ様はご結婚なんて考えているんですの?」

 彼女は興味津々という感じで身を乗り出して尋ねてきた。襟の隙間から豊かな胸が見える。僕の顔は火照り始めている。

「いえいえ、とんでもない。相手がいませんよ。今は好きな人もおりませんし」

「またまたあ! 知ってますわよ。ユリアお嬢様といい仲だって」

 彼女はキャッキャッと言いながら、ぼくをからかうように突っ込んでくる。僕の顔が真っ赤に火照っているのが判る。

「そ、そんなことありませんよ! 何ですか! その噂は!」

 彼女はニヤニヤしながら僕の反応を楽しんでいる! 全く困った人だ! そんなの肯定できるわけが無い。冗談でも言えない。

 しかし彼女はどこまでそのことを知っているのだろうか? 

 王妃や皇太子が知っているには判る。しかし、ただのお付きの人、いわゆる執事とか秘書レベルの人がそんなプライベートまで何故知っているのだろうか?

「まあ、冗談はさておいて、この国では男性も女性も複数の伴侶を持つことが出来ますわ。もちろん性的なパートナーと言うことも大事ですが、多くは仲の良い友人と変わりませんわ。もっとも経済的な繋がりのみって方もいらっしゃいますが…」

 彼女が続きを言おうとしたところで、野太い声が会話を妨げた。

「はい! グロのオカマ焼き、シェフのタマタマ焼き、ボブソンズの羽根ウィングね」

 さっきの女主人が腕いっぱいに抱えた料理の皿を、僕らの目の前にドドンッ次々と置いていく。

 意外にも美味しそうな料理を見ると、さっきラーメンを食べたばかりな癖に、お腹が空いてくる。

 だが、此処の料理は日本の物と比べ、想定を越えた量で、一つの皿で三〜四人前くらいはある。

 それでもジラーやベンティーナに比べると、常識の範囲内ではあるが、つい一時間前にラーメンを食べたばかりの僕等で片付けられる量とは思えなかった。 

 ダレンも僕もエールの最初の一杯はあっという間に飲みきってしまったので、飲み物を追加注文した。

 ダレンは白ヴィン、僕はまたエールにした。僕はヴィンはあまり好きでは無いのだ。

 グロのおオカマ焼き、シェフのタマタマ焼き。名前だけ聞くとなんともおぞましいものを想像してしまうが、要するにマグロのカマ焼きとオムレツだ。異世界の言葉はなんとも空耳で溢れている。

 そしてボブソンズの羽根ウィング。牛科の動物に羽根? と思ったが鳥肉の手羽元を素揚げしたものに辛いソースがまぶしてある。ボブソンズはどこに行ったのだろうか? それともボブソンズさんが作った鳥料理なのかもしれない。

 そういえば似た料理を都内のおっぱいが大きい娘のウェイトレスがいっぱいいるお店で食べた記憶があるがどんな名前か忘れてしまった。

 何故そんなの知っているかって? ゼミの飲み会で連れて行かれたのだ! 断じて僕がエッチい性格で、そういういかがわしい店に行ったわけでは無い。

 ちなみに其処のお店の名誉のために断っておくが、決していかがわしい性的サービスの店では無く、ウェイトレスがかわいいだけの健全なレストランだ。

 ところで、このバッファ…、ボブソンズの羽根ウィングは日本人の大好きな唐揚げに味が似ている上、其処に絶妙な甘辛ソースがまぶしてあり、とても美味。

 グロのオカマやタマタマ焼き、つまりマグロカマ焼きやオムレツは日本の居酒屋なら割とどこにでもあるメニューだが、ボブソンズの羽根ウィングは僕好みの味だし、余所ではなかなか見かけ無い事もあり、他のメニューに目もくれずこればっかり食べてた。

 ダレンもボブソンズの羽根ウィングを摘まむこともあったが、どちらかと言うとグロのオカマを中心につまんでいた。

 彼女は、飲むお酒をエール、ヴィンときて、三杯目はなんと米から作った『シェイク』というこの辺りの地酒に変えた。

 これも僕等日本人研究者の先人が広めたのだろうか? 日本酒の濁り酒のような酒だ。SHAKEってサケって読めなくもないし何らかの繋がりを感じる。

 しかし、ダレンの飲みっぷりは凄い。三杯近く飲んだくせに全く顔色は変わらず、しかも酔っているとは思えないくらい冷静。

 楽しいひとときは時間の経過が速く感じる。あっという間に日付が変わりそうな時刻になってしまった。

「ああ、美味しかったですわ! 凄く満足!」

 彼女は飲みっぷりは桁はずれだった。エール、ヴィン、シェイク等々。こんなに飲んでこの痩せて華奢なボディに影響はないのだろうか? 太ったダレンなど想像出来ないし、見たくも無い。それに肝臓にも良くない。

 それにしても彼女は何歳くらいだろうか? 見た感じは自分より年下に見えるが、凄く落ち着いているし、しっかりしている。同年代女性にあり得がちな浮ついたところが全くない。だから、僕は彼女のことを徐々に自分の姉のように思えてきた。

「ごちそうさま。僕もお腹いっぱいだ。でも美味しかったよ」

「あら、このくらいでお腹がいっぱいになるなんてハギノ様は意外に小食なのですわね!」

 彼女はまた、からかう様に僕に言った。

「いや、こっちの方がびっくりさ、そんな華奢な体なのに、凄くたくさん飲むんだもの! 何時もあんなに飲んだり食べたりしてるのかい? よく太ったりしないもんだね」

「私、こう見えても結構鍛えてますのよ。ほら、見てみて!」

 彼女は白いブラウスの袖ボタンを外し、二の腕を露わにすると、腕を曲げて力こぶを作って見せた。

 たしかにはったりでは無く、かなり鍛えていると窺える程の筋肉が付いている。

「筋肉凄いじゃ無いか! どんな鍛え方をしてるんだい?」

「そうね、うふふ。さっきも少し話けど、私、軍隊にいましたのよ」

 軍隊って…。ビリーズブートキャンプか?

「ま、そのお話はまた今度ね。もうそろそろ帰りませんこと? お父…、皇太子様も心配しているだろうし」とまどろんだ瞳で僕を見つめてくる。

「そ、そうですね。ぼくも心配してくれる人は…、ま、いないか」僕は彼女に見つめられ少し、いやかなりドキッとしながらそう答えた。

「そんな事は無いですわ。ユリアお嬢様と言う方がおられませんこと?」と彼女は小悪魔的な挑発する様なまなざしで僕に尋ねた。

「彼女は皇太子殿下のモノだよ。僕には関係ない」僕はまだまだ彼女の事を引きずってはいたが、彼女には悟られたくなかったし、自分の想いも払拭したい一心でそう言った。

「あら、冷たいんですわね」と彼女は言い放ち、四杯目のウィスキーに似た琥珀色の酒を煽った。

「そんなことはないさ。僕だって辛いんですよ。彼女の事は忘れて、新しい恋をしなくちゃ」と、熱くなった僕は彼女の言葉を否定したいが為に強い口調で言ってしまった。

 それを聞いた彼女はフフーンとため息をつきながら、

「真面目なんですわね」とグラスのウィスキーが氷から溶けた水と混ざるようにグラスをくるくると回した。

「真面目かな? でも科学者なんてみな同じだよ。くそ真面目な奴ばかりさ」僕は残った酒を飲み干してグラスをテーブルに置いた。

「ええ、判りますわ。だって研究所の皆さんもみんなつまらないほど真面目ですわ」と、彼女が急に酔いから覚めた様に言って、席を立つと、「さ、もう帰りましょう」と僕に促した。

 店を出て、停めてある車の側まで行くと彼女は急にしなだれかかってきた。

「大丈夫ですか?」と僕は彼女の肩を持って支えた。

「ええ。でも私少し飲み過ぎてしまったようですわ」と彼女は眠そうに言った。

 さすがにあの量は少しなんてもんじゃ無い。酔っ払ってしまうのは判るが帰りの運転はどうするんだろうか? まさか既に自動運転まで実装済みなのか? 

 彼女はふらふらとよろけ、倒れ込みそうに車にもたれかかった。

「だ、大丈夫?」

 僕はとっさに彼女を支えようと身体に手を回した。

 筋肉質にも思えた、その体はその《・・》部分に限って言えば、女性らしく意外に柔らかかった。

「ええ。でも意外にお優しいのですのね」と、彼女は憂いに満ちた目で僕に言った。

「そんな事はありませんよ。当たり前のことをしたまでです」自分で言うのも何なのだが、凄く恥ずかしい台詞だ。全く自分らしくない。

「でもこんな所をユリアお嬢様に見られたら、嫉妬されますわよ」とは言いつつも、彼女は僕を誘惑しているように見えた。

「よしてください」と恥ずかしくなり、そう言ってしまったが、実際彼女は皇太子殿下のモノだ。嫉妬なんてされる訳ないのだ。

 そして僕は恥ずかしさで、また頬が熱くなるのを感じた。だが、いつもなら寒いと思うこの季節の夜気に当てられ心地いいくらいだった。

 ふと、彼女は目を閉じ、僕を見上げるように唇を突き出してきた。僕も反射的に彼女を抱き寄せ、口づけをしてしまった。いつもならこんなことはあり得ないのだが、酒のせいだろうか、いつもよりも大胆に、そして後のことをあまり考えずに彼女を抱きしめた。

 車にもたれかかった彼女が何かごそごそと手を動かすと突然、ドアが開いた。僕らは抱き合ったまま、そのまま転がり込むように後部座席に倒れ込んだ。

 倒れ込んだ時、ちょうど彼女が上に重なった状態になり、しばらく二人は見つめ合う。この目、この顔確かに誰かに似ている。ユリアではない。誰だろうか? 夢で会った人なのだろうか?

「君は一体誰なんだい?」と思わずつぶやいた。

 誰も彼も皇太子の付き人であるダレンに決まっている。でも、僕は思いがけず、思ったことを言ってしまった。

「君は僕の知っている人にどことなく似ている。ひょっとして…」

 だが彼女は動じることもせず、かといって怒ったり、笑ったりすることも無く、言いかけた僕の口を塞いでしまうかのように激しい口づけをしてきた。僕も彼女にこたえるかのように唇で応酬をした。

 車の座席はいつの間にかフルフラットになっている、そして窓ガラスはいつの間にか、スモークが自動で張られて、外から見ることができない。

 すでに閉ざされて誰にも邪魔されない空間になっていることを良いことに僕らは場所もはばからず、愛の行為にふけり始めた。

 

 コンコンコン、とドアをノックする音で目が覚めた。少し頭が痛い。

「ユウキ、早く起きて」と女性の声がする。声の調子から言ってユリアでは無い。誰だろうか。僕は寝ぼけ眼で声がする方を伺う。

 其処には薄手の毛布一枚でかろうじて体を隠している女性がいた。とても美しい、ローブをまとったヴィーナスのようだ。体はとても華奢に見えるが腕には僕なんかよりも筋肉が付いている。

 僕達のいる部屋は凄く狭くて、まるでカプセルホテルの中のようだ。そしてとても寒い。

「王室親衛隊のものです! 皇太子殿下! 開けて下さい!」

 皇太子? そこで僕はようやく彼女の事を思い出した。そうだ、皇太子秘書のダレンだ。しかし何だってこんな所に裸でいるんだろう? 僕は昨晩からの記憶を辿っていった。そうだ、僕と彼女はバーに行って、結構な量のアルコール飲んだのだ。だがそれ以降のことを覚えていない。

 よくよく見ると僕も素っ裸だ。パンツやシャツは足下のベッドの隙間、いや此処はベッドじゃ無い、車の中だ。フラットにしたシートに寝ていて、下着はシートの隙間に押し込まれている。

 状況から察するにダレンとと車の中で一晩過ごしたに違いない。しかも、ただ一晩という訳では無い。ペニスの先はしっとりして、お世辞にも良い匂いとは言えない芳香を放っている。

 だんだん頭が明瞭になるにつれ、昨晩の秘め事を思い出した。どうも酔った勢いで彼女と寝てしまったらしい。

 よく考えたら迂闊だった。直接関係ないとは言えこれが皇太子の耳に入ったら大変なことだ。そしてユリアも確実に嫉妬するだろう。そうなった彼女はどんな反応を起こすか判らない。

 せめてダレンがこのことを他言しないことを祈るのみ。常識的に考えれば、こんなことを他人にぺらぺらと漏らすとも思えないから、それほど心配することは無いはずなのだが、嫌な感じがする。

「皇太子殿下。早く開けて下さい」

 外の親衛隊だかなにかは相変わらず五月蠅くせっついてくる。

「ちょっと待ってなさい!」

 ダレンは普段にもまして毅然と言った。この声なんとなく聞き覚えがある。

「ユウキ。早く服を着なさい」とダレンはブラを付け、ブラウスを羽織りながら言った。

 金色の髪の毛はまだボサボサだが、いつの間にか男性の様な短髪だった。足元にはボブカットのウィッグが無造作に置かれている。

 ようやく思い出したよ。なんで気がつかなかったのだろう? 僕は自分の迂闊さを悔やんだ。

 見覚えがあると思うはずだ。彼女、いや彼は、あの時庭園で会ったアスパイア皇太子殿下その人だったのだ。

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