第六章 ガレス王国のハウス系ラーメン
セルリア歴5332年虎の月八
我々がガレスに入国したのは、なんと午後も日が陰り始める頃だった。
ガレス王国は帝国内の他国と比べ、海に面してる部分が多く、山も海岸線近くまで迫っているおかげで平地の部分が少ない国だ。
だが浅瀬の海を埋め立て其処に工場を建て、山間部にある鉱山や他国から輸入した鉱石を運んで精錬している。
当初僕はこの世界はまだ産業革命も起きてない、中世のヨーロッパと同じ文明と思っていたのでこれは意外だった。
「どうだねユウキ。貴殿の世界と比べたら未だ未だだが、随分発展してるだろう?」
「はい、確かに。これだけの工場があるのでしたら、ずいぶん水準が高いかと思います」
「うむ。この規模の工場はあと十程ある。さらにこれより大きい工場も建設中だ。残念だが今は工場の中までは見せられないが、貴殿が私のオファーを受けてくれれば、すべて見放題だ。きっと驚くと思うよ。ふぁーっははは!」伯爵はまるで我が事のように自慢げに笑った。
工場地帯を背にクルゥマーは丘、いや山と言った方が良いかもしれない。そこをどんどん登って行くポルァたちも最後のラストスパートだという感じでガンガンと坂道を上っていた。
やがて丘の上に、まるでファンタジー映画にでも出てくるような、白亜の城が夕日に赤く染まり、輝く様に聳え立っているのが見えてきた。
「凄い城ですね」僕は驚愕した面持ちで言った。
「ああ、なにしろ鉱山と工場で生産する製品で潤っているからなぁ。わしみたいにリンゴを売って暮らしている者とは訳が違う」
自虐的な台詞にもかかわらず、まるで我が子を自慢するかのように思える台詞だった。
クルウマーが丘を登り切る頃、第一の城門が見えてきた。そしてお決まりの様に衛兵数人がそれを守っている。
不思議な事にその衛兵達はファンタジー映画の如何にも中世ヨーロッパ的な装いでは無く、歴史を感じさせるデザインではありながらも、昔見たアーリントン墓地の衛兵のような、どちらかというと現代的なモダンなものだった。
クルウマーが城門の前まで来ると、彼等のうちの一人が駆け寄ってきて、
「ご苦労だ。中を改めさせて貰う」と尊大な態度で手綱を握るニジンスキーさんに声をかけた。そしてコーチのドアを二、三度ノックして扉を開けるように言った。
伯爵は自らドアの小窓を開けて、
「私だ。フランチェスコだ」と一言、不機嫌そうに言う。
「これは伯爵様、失礼しました。非礼をお許しください。あくまでも儀礼的なものでして…」
車内にいる者が伯爵だと知ると、ガラッと態度が豹変し、いきなりへりくだった口調になる。
「ご苦労様です。ところでそちらの外国人は?」と兵士が僕の事を胡散臭そうに尋ねた。
伯爵は、僕のことを、
「うむ、こちらは今度此処で働くことになるかもしれぬ錬金術の先生だ。外国人であるからと不当な扱いはせぬように」と兵士に紹介した。錬金術師とはこれまた現実離れした者にされてしまった。それとも、此処では科学者の事をそう呼ぶのが当たり前なんだろうか?
「了解しました。他の者にも伝えておきます。ゲートを開けて差し上げろ!」と声をかけてきたリーダーらしき兵士が他の若い下っ端の一人に命令すると、すぐさま鋼鉄製と思われるゲートがゴリゴリ音を立てながら開いた。
よくドラマやアニメであるような大仰な操作も仕掛けも無かった。ただ、担当の兵士はレバーかスイッチを操作しただけで開いたのだ。
クルウマーがゲートを抜けると横開きのゲートはまたゴリゴリ音をたてて閉じた。ゲート裏側にも特に兵士が待機して、人力で閉めているわけでも無い。
その時はこの事に関して深く考えることも無かった。だが、後々考えるとこのガレスという国は他国と一線を画す何かを持っていることをこの時から示唆していたのだった。
城は警備が厚く何重にも門があり、門番がそのたびに伯爵と僕をチェックした。
伯爵は当然顔パスだなのが、僕のような東洋人はシイナ人と似ているためにチェックが厳しい。
今は国交もあるが、かつては敵対していたからチェックも厳重になるのだろう。
そして、不思議な事に警備は厳しくとも、僕の情報は既に伝わっているようで、チェックの際も何者であるかは、既に知れ渡っていた。
最後の門をくぐると、噴水のある広い庭はガス灯らしき照明で煌々と照らされており、その向こうに車寄せに数十人の侍者と近衛兵が待っていた。
車寄せの先には赤い絨毯が城の奥まで続いており近衛兵が銃剣を構えて両脇に並んでいて、さらにその先にはメイドと執事たちが待っている。
さすがに皇太子妃となる方の父君のお迎えは並の訪問者とは異なるのだろう。
今日のお供である執事のニジンスキーさんは、チョ・ハさんに次ぐ古参であり、ロシア系(もっともこの世界にロシアと言う国は存在していないのだが)を思わせる名前ではあるがれっきとしたセルリア人だ。
彼がコーチの扉を開けるとタラップが自動で降りる。このなめらかな動きは決して、機械式の単純な物では無い。本物の中世時代はこれほどの技術力はあったのだろうか? せいぜい機械式でぎこちない動きしか出来なかったのでは無いだろうか? だとすると、僕はこの時代を少し見くびっていた様だ。
ニジンスキーさんは僕に先に降りろと言う。
この世界での貴族の作法はよくわからない(もっとも貴族の作法なんて元々縁が無い)が、偉い人が先に降りるものだと思っていたが少し違うようだ。
でも、映画などで社長などの偉い人の場合、運転手が先に降りてドアを開けてあげて偉い人をエスコートするからそういうものなのかな? いずれにしろ平民の僕にはよくわからない。
僕がそんな疑問を持ちながらワゴンを出ると、ニジンスキーさんは両脇に並んで待てと言う。
なるほど、やはり此方のマナーでも階級が下の者がすたすたと先に歩いて行くのは御法度らしい。
もっとも僕だってそんなあほうでは無い。そのくらいの常識はわきまえているつもりだ。
待っていると誰かが城の奥からやってくる。近づくにつれ豪奢なドレスを着た妙齢の女性だと言うことに気がついた。
ニジンスキーさんが「伯爵様」と一声かけると伯爵は周りを伺いつつそろそろとタラップを降り正面に立った。
「待っていましたわ」とその女性は我々の近くまで来るとそう言った。
「陛下、いつもおうるわしゅうございます」
伯爵は跪くと女性の手を取って薬指の指輪にキスをした。
「冗談はよしてくださって!」
陛下と呼ばれた女性は顔を赤らめながら、手を振りほどきそう言った。
「ははは、エルリース、冗談では無いよ。相変わらず美しい」
エルリースと呼ばれた女性はまんざらでも無い笑みを浮かべながら、にこやかに伯爵に笑いかけた。そして、僕の方を一瞥すると、
「あら、そちらが例の殿方ですね」と、伯爵に問いかけた。
伯爵は僕の方をちらっと見ながら、
「おお、そうだ。紹介するのを忘れていたよ。こちらがいまユリアの家庭教師をしているMユウキだ。いやDユウキと言った方が良いかな」と、彼女に答えた。
Mは良く聞く。英語のミスターと同じだ。ただDは初めて聞いた。どういう意味だろうか?
「あらそう。これからお世話になるわ。Dユウキ」と彼女は僕の方を見据える。蒼く澄んだ瞳。ユリアや伯爵夫人と同じ瞳の色だ。
「初めまして。えっと?」
僕は慌てて返事を返そうと思ったが、名前が思い出せない。
「おお、紹介するのを忘れてたな。ガレス王国の皇后陛下。エルリース陛下だ」
ああ、そうか。さっき伯爵がそう呼んでいた。だけど、ちゃんと聞いていた訳でも なかったから、覚えるも何も無いのだ。
「これは失礼いたしました。陛下。僕はユウキ・ハギノです。生憎セルリア出身ではありませんがよろしくお願いいたします」
僕は緊張のあまりしどろもどろで答えた。きっと挙動不審な男と思われたに違いない。
恥ずかしさと、みっともなさで僕の顔は火照っている。顔もトマトの様に真っ赤になっているのだろう。
そういえば、ガレスの皇后陛下はユリアの叔母でも有るのか。なるほど、どこか彼女の面影がある。どちらかと言えば彼女の母親よりも叔母様のほうに似ているのではないかと思った。
その皇后陛下は、僕に対して気取るところも無く、
「いえいえ、此方こそ。あなたに来て戴いて大歓迎ですわ。これから我が国の発展に貢献してくださるんだから」と、気さくに答えてくれた。
だが貢献だなんて、まだこの間のオファーの件は承諾していない筈だ。
伯爵もその辺が気になったのか、
「おいおい、まだ決まってないぞ。彼はまだ私のオファーを保留中だ」と、まだ僕が承諾していないと訂正をした。
思った通り、やはりその件か。まだ受けるなんてつゆとも言って無いのに。
「あらそうなの? でもユリアも居るのよ? 此処で働いた方が良いんじゃ無くて?」と、陛下は臆面も無くおっしゃった。
「あ、いやその…」と、僕は返答に困って言葉に詰まった。
正直、皇后陛下がユリアの事を口にしたのは面食らった。ユリアと僕の関係を伯爵がばらしたのだろうか? いや、そんなはずは無い。
皇后陛下と言えばアスパイア皇太子の母君だ。まさかユリアと恋人同士だったなんて知るはずが無いじゃないか?
もし、そうだとするとガレス史上で最大級のスキャンダルに発展するだろう。ユリアの縁談が破談になるどころか、誰かがこの責任を取って、死を持って償わなければならない様な、恐ろしいことが起こる。そして先ず、僕が不問になることはあり得ない。処刑されてしまうのは確実だ。
「おいおい、あまり彼を困らせるな。彼はとても真面目な青年なんだ。下世話な冗談は止めたまえ!」伯爵も困惑した表情だった。
しかし彼女は、そんなことお構いなしに、
「あらそうでしたか? 冗談なんかじゃ無くてよ。まあいいわ。今日は歓迎パーティーもあるから、お話はその時に」とずけずけと話した。
皇后陛下はどこまで知っているのだろうか? なるべく彼女との関係を悟らせるようなことはしたく無い。ひょとしたら、さっきの台詞も僕から彼女との関係をあぶり出すためのブラフ《はったり》だったかも知れない。どんな台詞を吐かれようとも、へまを置かさないようにする必要がある。
陛下は先ほどまでのあっけらかんと冗談を話すような口調から一転、ファーストレディらしい、きりりとした口調で、
「ああ、そうだわ。アレハンドロ、レオンがお話をしたいって。ビジネスの話よ」と、伯爵に言った。
「うむ判った。三十ミーン後に行こう。彼の書斎で良いか?」と伯爵も例の派手な装飾がほどこされた懐中時計を取り出して時間を確認すると、先ほど迄の少し砕けた口調から打って変わって厳しい口調で答えた。
皇后陛下が、
「いいえ、シーリスの間。実はあなたに合わせたい人が居るそうよ」と、伯爵の話を訂正すると、伯爵はふんっと鼻を鳴らし、不機嫌そうな表情で、
「そうか。なんとなくそんな予感がしておった」と言いい放った。あまり歓迎できない話なのかもしれない。
伯爵は僕の方に振り向き「ユウキ、私は国王と謁見してくる。君には悪いが、今は相手ができん。ニジンスキーと暫く待っててくれ」と、言い、僕に右手を一度振って、そのまま皇后陛下とともに広間を横切って城の奥へ去って行った。
さて、僕はどうすれば良いのだろう。初めて来たところに親しい知り合いが一人も居ないというアウェー感で心細くなる。
「お客様。お二方には既にお部屋を用意してございます。メイドに案内させますのでしばしお待ちを」この城の執事と思われる初老の男性が言った。
僕は少し心細くなり、
「ところで伯爵の会談は長くなるのでしょうか?」と、彼に尋ねた。だが、ある程度予想したものの素っ気なく、
「特に伺っておりません。ですが、歓迎パーティーもございますので、それまでには終了するのでは無いでしょうか?」と言われるのみであった。ニジンスキーさんや、セバスと異なり彼は素っ気ない雰囲気の人だ。ここで初めて会ったこともあり、人となりもよく知らないので、若干苦手意識を覚えた。
そもそも歓迎パーティー自体は何時始まるのだろうか? 十九時か、遅くとも二十時くらいだろうか。
今の時間は十七時過ぎだ。後二時間か三時間。待つには決して短いとはいえない時間だ。
肝心の時刻を確認しようにも、僕がぼやぼやしている間にその執事は何処かに消えてしまった。
「ユウキ様。荷物は私がお預かりしましょう」ニジンスキーさんだった。
そういえば彼もいるのだ。ひとりぼっちで心細いきもちは幾分和らいだ。
彼はそんな僕の気分を察していたのか、
「こちらのメイドさんが来たら荷物はユウキ様のお部屋に運ぶように言っておきますので、しばらくお庭でも散策でもされたらいかがですか? ここの中にはたいそう立派な庭園がございます。ほら、あそこの扉の向こうをくぐれば直ぐ見えますよ」と言い、ニジンスキーさんは城の奥の方を指さし、僕の荷物を引き寄せた。
「気を遣って下さって、ありがとうございます。それでは少し庭の方へ散歩に行って参ります」と僕は彼の好意に甘えることにした。
庭園は城の中庭にありガラス張りのミニ温室まで備えてある。
庭園はイギリス風から日本風、中国風まである。もちろん、日本や中国なんて国は此処には存在しないので日本風、中華風なんてどこにも書いてない。あくまでも自分で感じたままの感想である。
最初に尋ねたところはいわゆるイギリス風の庭園だ。
実は僕はこういう庭園を歩くのは割と嫌いでは無い。なんか言葉で表しにくいところもあるが何故かとても癒やされるのだ。
やはり人という者はなぜか自然に癒やされる。だれでも大なり小なり共通する感覚だとおもう。
天気が良く春のうららかな陽気ならなおさらなのだが、生憎晩秋の夕暮れ時。
だが、先日のノンマルトの森、ハイリスフィルドの森の散策と異なりお城の中庭なのだから遭難や野獣、山賊の襲撃などの不安は無い。安心して散策できるし、手入れされた庭で見知らぬ植物をみて楽しむのも嬉しい。
庭を歩き始めて二十分くらい過ぎた所だろうか? ちょうどイギリス風、日本風を見て中華風庭園にさしかかったときだ、一人の美しい少年に出会った。
歳の頃は十六〜七、いや見方によっては十四、五にも見える。目鼻立ちの整った美しい顔だ。見ようによっては少女の様にも見える。
ただ、女性で無いことはその群青色の軍服と、短く切りそろえた髪の毛で区別できた。逆に言えば軍服をドレスに、髪をボブかロングにすれば女性と区別は付かなかっただろう。
僕は直感でこの男性がハーマン皇太子ではないかと悟った。憎きユリアの婚約者などという嫉妬心はまるで感じず、ああ、ユリアにふさわしい美しい人だと思った。
「こんにちは」
その少年は、僕に気が付き挨拶をしてくれた。まだ声変わりもしていない高い声。
「こんにちは。はじめまして」
僕も反射的に返事を返した。
本来なら皇太子閣下という尊い立場の御方に返すには不適切な返事かと思ったが、そんな作法などこの平民の僕には判るはずも無く、かといって、しどろもどろにやたらへりくだって、返事をするのもどうか思うから、これで良かったのだと思う。
「あなたですね。ユリアの家庭教師をされていると言う方は?」と少年はまだ声変わりもしていない様な中世的声で僕に尋ねる。
すでに僕のことなど筒抜けなのだな。
「ええ、そうです。ユリア様の家庭教師をさせて戴いております。閣下」
勝手な邪知で「閣下」と呼んでしまったが間違いだろうか?
「まだ、名乗っても居ないのに良く私が皇太子と判りましたね」と少年は優しい声で答えた。
「いやなんとなくそうではないかと思ってましたので、思わず閣下と呼んでしまっただけです」
「皇太子とは他人の、一軍人だとしたら?」
「たとえそうでも閣下と呼んで気分を悪くする方は居ないと思います」
彼は近くで見るとそれほど身長が高い方でも無かった。
ブーツで少し身長がかさ増しされているようだがそれでも僕より低い。一七〇センチもないのでは無いか?
しかし、男性としてはまだ成長途中の様だが、十代半ばにしては落ち着きすぎている。ハーマン皇太子は確かセルリア年で二十歳、僕と大して変わらないはずだ。弟君なのか? 弟君だとしたら十代半ばで既に軍人とは恐れ入る。しかも記章の星の数から言って恐らく士官。少なくとも少尉だ。
いくら王子とは言え齢十五歳で少尉と言うのは考えにくい。少尉ではなく士官学校生というなら未だ理解は出来るが、通常ではあり得ない。
それに、さっき確かに「皇太子」と自分で言っていた! やはり齢二十歳の青年なのだ。なんという美しい青年だろうか。男の僕でもはっとしてしまう、美しさだ。
「お名前をまだ伺っていませんでしたね」
僕は失礼を承知で彼に尋ねた。
「そうですね。聞かなくとも承知かと思いますがね。でも、名前の紹介は未だにしましょう。色々と面倒ですから。ただ貴方が考えている人間と同一人物ですよ。もっとも想像通りだったかと言えば、あまりにもイメージからかけ離れていて面食らっているかとは思いますが」
やはり、この人はハーマンだ。名前を明かさないって事は、何か都合の悪いことでもあるのだろうか?
「おーい!」
遠くから女性の声がする。あの声はたとえ遠くからでも間違えるはずは無い。僕の愛しい人!
「ユッキー、来てたのね!」
白いドレスを着た、美しく愛しい女性が僕の所に駆け寄ってくる。
「お父様が、今日連れてくるって言ってたから」
白い妖精、あるいはエルフの様な美しい女性は、僕の気持ちもそっちのけで無邪気に言うと、婚約者の目の前だというのにまるで子供のように抱きつきてきた。
「おいおい、婚約者の前でなんてことを」
僕はハーマン皇太子の前でいちゃいちゃと体を絡めてくるユリアから体を離した。
「彼ならとっくに居ないわよ」
僕は振り返って先ほどまで皇太子が立っていた楡の木の前を見たが、既に彼の姿は跡形も無かった。
「さっきまで居たのに」
ものの一分も経ってないはずだ。
「知らないわ! でも珍しいわね。あの格好で外に出ることは滅多に無いのに」
「外に出ることが無いって、彼は軍人だろ?」
「ううん。一応形式だけね。アスパイア家はしきたりで男の子は軍に入隊するしきたりになっているのよ。でも彼は
「何が
「そのうち判るわよ。もっともユッキーがこっちで私と住んでくれたらの話だけど」と、彼女は甘く囁くように言って、僕の肩に手を回して、口づけをねだる様にいたずらな瞳を閉じた。
「ユリア、君まで何を言ってるんだい。君にはハーマン皇太子殿下が居るじゃ無いか!」
僕は結婚間近の女性にあるまじき彼女の言動に呆れた。
「彼女はそんなことで怒りはしないわよ」
彼女? 誰のことだ? 王妃のことだろうか?
僕は彼女から体を離して、
「王妃のことじゃないよ! 皇太子のことだよ。勘違いしてないか」と窘めた。
一瞬、彼女の顔が険しくなったが、空々しいほどの笑顔に戻った。
彼女の表情が一瞬怪訝に変わった理由は後々に明らかになるのだが、この時はそんなことは直ぐ忘れて、気にもとめなかった。
愛しいユリアと出会えたのも、つかの間だけだった。
なぜなら、日が暮れ、お互いスーツとドレスだけでは寒くて仕方無くなるほど、冷え込んできたからだ。しかもそれに加え、パーティータイムも近づいてきた。
僕らいったんここで別れを告げ、
しかし、ユリアはなにをバカなことをいうのだろう。伯爵にしても王妃にしてもハーマン皇太子のことをないがしろにしすぎではないか?
それにあんなに礼儀正しく美少年。非の打ち所がない好青年だ。惜しむらくは少年と見まがうほどの容姿と体格だ。たしかにこれから王になる者ととしては、まだ貫禄不足のところがあるが。
しかしここが現代日本なら間違いなく女性にキャーキャー言われる存在に違いない。まるで第一級のアイドルの様なのだ。だから、あんな美少年を蔑ろにするなんて、男の僕でももったいないと思う。
だが、この国は日本と文化が違うのかもしれず、逆にああいうナヨナヨした男は嫌われるのだろうか? そんなことを考えながら城に戻ると小柄なメイドさんが早速挨拶に来た。これから直ぐに部屋に案内しますと言うのだ。
彼女はこれまで見てきたこの国のメイドの平均年齢からすると、かなり若い雰囲気だ。
伯爵家より、総じて若い子のメイドの割合が高いこの城中でも最年少なのではないか? まだ小学生か中学生くらいだ。顔が幼いし手足もガリガリで腰や胸も小さく、大人になりかけてもいない。
決して栄養状態が悪いわけではないことが髪の毛の艶や肌をみればなんとなくわかる。ほっぺたも少女のようにふっくらしているし、そんな虐げられているわけではなかろう。
「お客様?」
僕が余りにもじーっと見ていたので少し気になったのだろう、少女、いやメイドは怪訝な顔で僕の様子をうかがっている。
「いや、申し訳ない。ずいぶん若いなと思ってみてたのさ。いくつなんだい?」
お客の世話をする度に聞かれるのだろうか、少しうんざりしたような表情で彼女は答えた。
「十一歳、春に十二歳になります」
思ったより若いな。春に十二歳ではまだ小学五年生くらいではないか? 今の日本ではこんな子供を働かせたら当然犯罪だが、此処では当たり前なんだろうか? そういえば中世ヨーロッパの場合ではどうだったんだろうか?
日本でも江戸時代に子供が遊郭に売られたなんて話を聞くこともあるから、文化レベルから考えて、それほどレアな話ではないのかもしれないが、年端も行かない子供にこんな仕事をやらせるなんて少し抵抗がある。
「紹介遅れました。セシリアと言います。ガレス城にいる間は私がお世話させていただきます。なんなりとお申し付けください。そちらにある通話器をお使いくださればすぐにでも参ります。使い方はご存じですか?」
驚いた、ホテルとかにある内線電話機じゃないか。ボタンやダイヤルはついてなさそうだが、どうみても電話機にしか見えない。
「あの受話器を持ち上げれば君に繋がるのかい?」
「ハイ、そうでございます。使い方をご存じのようですので、あえて私はお教え必要がありませんね。それではこれからのご予定を。まずあと一エイチ後にハギノ様を歓迎するレセプションが始まります」
は? 主賓は僕なのかい? これは寝耳に水だ。僕なんてただの伯爵のカバン持ちにすぎないのに、そんな歓迎されるような人物ではない。
ひょっとしたらこの子は僕をからかっているのか。だとしてもここで怒る必要もあるまい。きっと子供らしいたわいも無い、いたずらか冗談に違いない。ここは彼女の冗談にのっかってやろう。
「へえそうなのかい? こんな得体も知れない異国人を歓迎してくれるなんて光栄だね。それで時間がきたら何処に行けばいいのかい?」
皮肉を言ったので少しむっとされるかと思ったが、意外にも彼女は少しはにかみ、
「時間がきましたら、お迎えに参ります」
彼女はそれだけ言うと、部屋を出ていった。
夜会か、うーむ、困った。とりあえず正装はする服は持ってきたが夜会に着ていくには地味すぎる。
きっとみんな華やかな格好をしてくるに違いないのに。しかしいずれにせよ、僕は大した服なんて持ってない。
そもそもこの世界には、ほんとに着の身着のままで来たようなものだから。
取りあえず、僕は自前の物とは別に伯爵から貰ったお古をスーツケースから出して羽織ってみた。
少し緑がかった生地で豪奢な金色の刺繍が施してある。うーむ、やはり少しサイズが大きめだ。中学の新入生かっつうの。
それとこの派手な色と金ぴかの刺繍。夜会に行くとはいえ、ちょっと現代人のセンスから言うと派手すぎる。
しかもボトムは半ズボンに白タイツとブーツ。ちょっとこれは何かの罰ゲームなんじゃ無いかとと思える。それに姿見で写してみたがどうも似合わない。
しかたないので、以前仕立てて貰った自前の黒のスーツを着た。まるで葬式みたいだな。
これでネクタイが黒なら完璧に葬式だ。だがさっきのぶかぶか衣装よりマシだろう。そうだ。これにこのフリルが付いたシャツでどうだろうか? 少しコレジャナイ感はあるがまだマシだろう。
黒スーツに襟と胸元辺りに嫌みなくらい豪奢なフリルが付いた白いシャツ。見慣れるとそれほど悪くも無い。
どうせ何着ても似合わないんだからこれでいいや。あとはドレスコードに合うかどうかだが。
そうだニジンスキーさんに見て貰おう。きっと的確にアドバイスしてくれるに違いない。
だがよく考えたら、僕は彼の部屋が判らない。隣の部屋かもと一瞬考えたが、彼は使用人と言う立場だ。
僕はメインの賓客では無いと思うが、客には違いない。この部屋の調度品をみてもただの使用人向けの部屋というよりは賓客向けだろう。
だから、彼が控えている所はこのフロアとは別なのだろうなということは容易に想像出来た。
うーむ、何とかしてコンタクトをとりたい。そうでないと、この格好がドレスコードにかかるかどうかアドバイスしてくれる人が居ない。
そうだ先ほどの少女メイド、セシリア電話してニジンスキーさんを呼んで貰おう。なんなら部屋の場所さえ判れば僕から出向いてもよい。
僕はおそるおそる受話器を上げてみた。プルプルとよびだしの音が鳴る。昔の映画とかでよく聞く黒電話の音だ。
「はい。メイドのセシリアです。いかがいたしましたか? ハギノ様」
彼女はワンコール終わらないうちに応答してくれた。
「ああ、フランチェスコ伯爵家の執事と話がしたいのだが。彼の部屋まで案内お願いできないかな?」
「少しお待ち願いますか? ただいま確認して参ります」
暫くして彼女からの返答があった。
「ただいま手が離せないそうです。パーティーの後なら時間が空くそうですが」
それでは間に合わない。ニジンスキーさんに頼めないとなると困る。ほんの一瞬で大丈夫なんだけど。でもきっと伯爵のお手伝いをしているんだろう。そもそも僕の執事では無いんだから、無理に頼めない。
「何か、困り毎でも?」
僕の声から何か察してくれたんだろうか? セシリアが心配そうに話しかけてきた。この際セシリアでも良いか? メイドだからドレスコードくらい判るだろう。
「えっと、実は夜会に何を着ていくか迷っているんだ。伯爵様から借りた服だとちょっと大きすぎてね。でも自前の服は黒色でいまいち地味なんだ。今晩の夜会のドレスコードって聞けないかな?」
彼女は少し考え込んだが、直ぐ僕に答えてくれた。
「そんなことでしたか。お安いご用ですよ。結論から申しますと、黒色で充分問題ありません。ただ、どんな服かは見てみないと…」
助かった。彼女に早速見て貰おう。でも小学生にこんなこと判断できるのか?
「そうか。ではちょっと見てもらえないかな?」
「はい。ハギノ様が問題なければ…」
僕の彼女は少しためらったようだが、僕のお願いを聞いてくれた。僕も多少不安であったが、選択肢も他に無い。彼女も自信があるから、応えてくれたんだから大丈夫だろう。
それから十分後、コツコツとドアをノックする音が聞こえた。恐らくセシリアだろう。予め、服を着ておいてくれと言われていたが、まだボトムとシャツしか着ていなかった。
「はい、どうぞ。鍵はかけてませんから」
と応えるとそーっとドアが開き彼女が恐る恐る入ってきた。
僕は黒の上着を羽織り、彼女に見せるため正面を向いた。
「どうかな? おかしくないかい?」
僕は斜めを向いたり、横を向いたり、くるっと周りながら、彼女に言った。
「そうですね。過去のパーティーの時の殿方のお姿は何回か拝見してますが、ちょっと今までに同じものは見たこと無いかもしれません」彼女は少し考え込みそう言い、
「でも、悪くないと思います。えっと、あくまでも私がそう感じただけですけれど」と付け加えた。
「そう? でもパーティーに着ていっても大丈夫かな?」
「あ、いや、変とか言う意味では無くて、全然大丈夫かと思います! むしろ他のおじさまと比べてかっこいいのでは無いでしょうか?」
彼女は慌てて訂正したが、それは傷つけまいとしていると言うより、むしろ肯定的な意味合いで言っているように感じた。
「ああ、ありがとう。助かったよ。ところで少し早いけど、もう行こうかと思うんだけど案内してくれるかい?」
僕は上着を羽織りボタンを閉めながら言った。
「かしこまりました。ただその前に…」
彼女は僕の真正面まで近づき僕の服に手をかけた。
「この服は前ボタンを外した方がいいですよ」
さっき僕が閉めたボタンをその小さな華奢な手ですべて外した。
「皆様、夜会の時はこのようにスーツのボタンを外しております」
彼女は手を前に組んで満足そうに言った。
「それでは参りましょう。ご案内します」
彼女は軽く会釈をしてドアを開け僕に廊下に出るように促した。
「私の案内は此処までとなります。ご用がございましたらお呼びください。何時でも参ります」
セシリアは軽く会釈して、元来た道をしずしずと去っていった。
かわいい子だ。僕はこういうけなげな子に弱い。自分には妹なぞいないから一層そう思う。
夜会会場は一階にある城の中で一番大きなホールだ。すでに何人か集まっている様だったが、伯爵を始め顔見知りはまだいなかった。もっとも顔見知りと言っても伯爵家と王妃、皇太子しかいないが。
パーティーは典型的な立食パーティーでホールの中央は大きなテーブルに様々なごちそうが並べられ、周囲には四、五人が寄り添えるテーブルが十数脚、一角はダンスが行えるように空けられている。
一方には簡素な椅子が何脚か並べられている。配置具合から言って恐らくパーティーを盛り上げるBGMとして楽団が座るものだろう。大きなハープと鍵盤楽器が並んでいる。
鍵盤楽器といってもピアノのような大きなものでは無く意外とコンパクトなものだ。恐らくチェンバロのようなものかもしれない。
僕は部屋の隅っこでアウェー感を感じながら、コック、ウェイター、ウェイトレス以外誰も居ない会場で、一人ぽつんと夜会が始まるのを待つ。
やがて、気の早い客人がぽつぽつと入ってきて、知人、友人なのだろうか、グループを作りながらおしゃべりをはじめだした。
開始時刻の十分前ともなると、続々と人が増えてくる。
豪奢なドレスを着たご婦人。派手な刺繍が入った服を着た貴族然とした人。将軍か提督だろうか? 軍人らしい詰め襟にいくつもの勲章をつけた年配の男性。この場に似つかわしくない程若い男性と女性。そして、意外にも東洋人の風貌をしたわりと現代的な装いの若年から壮年の男性が数人。
やがて彼らのうちの一人が僕に気が付いて、同じ東洋人グループの者とひそひそ話をしながら僕のほうを伺っているのに気が付いた。
やがて、意を決したかのようにそのうちの最年少らしき人物が僕に近づいてくる。
同郷の人物だと思って話しかけようとしてるのだろうか? 生憎僕はこの世界では天涯孤独の日本人だ。中国語でも韓国語ですら判らないのにシイナ語で話しかけられても答えられないよ!
彼は身長は百七十五くらいだろうか、僕よりは低いが、東洋人としたら大きい方かもしれない。
そして僕の目の前に立つって何かぶつぶつと言い始めた。
最初は周囲の雑音にかき消されてなんと言っているか理解でき無かったが、よくよく聞いてみると、それは英語でもセルリア語でもシイナ語でもない、全く純粋な日本語だった。
「こんばんは。初めまして。僕の言うことが判りますか?」
「ええ」
久しぶりに聞く日本語は最初、全く異国の言葉に聞こえ、何を言っているか理解が出来なかった。おかげで、しばらく返事をするのをためらってしまった。
「よかった。私は東真一と言います。今日の主賓の萩野さんですね?」
彼の日本語は純粋とはいっても標準語ではなく、少し北関東訛りがあったが、それでも外国人のしゃべる日本語とはあきらかに異なるネイティブな日本語だ。むしろ標準語ではなく北関東訛りがあるから余計そう思ったのかもしれない。
「はい、そうですが、何故私の名前を? それに私の国の言葉でしかもお名前も国の人間を思わせる…」
「当たり前です。私はあなたと同じ日本人ですよ」
「…」
言葉が出なかった。同じ日本人がこの世界に居たとは。
「私だけではありません。あそこに居るグループ全員が日本人ですよ」
「ど、どいうことです?」
「詳しいことは此処では言えませんが、同じ目的で集められた仲間と言うことです」
「どうやって?」
「それも此処では言えません。それと日本人だけではありません。まだ、この会場には来てませんがアメリカ、ヨーロッパ、アジア、ロシアなどあらゆる国の人間がいます」
「そもそも、目的ってなんなのです?」
「それも勘弁してください。そのうち判りますとだけ言っておきましょう」
「えっと…」
「さすがに、これ以上は此処に留まれません。パーティーが終わった後、ここに来て下さい。またお話ししましょう」と彼は僕に紙片を渡し、離れていった。
僕は同胞の人間と会えたことでうれしさと衝撃と不安でしばらくの間その場に立ち尽くしていた。
十九時も既に半分も過ぎて夜会もすでに始まっているのだが、ユリアたちは未だ会場に現れて無かった。
「皆様」
司会はガレス王国大臣であるシャカール氏だ。インド人ぽい名前に加えて浅黒いコーカソイドのようなインド人ぽい風貌。
「此処でこのパーティーのホストであらせまする、ガレス王国国王、並びに王妃の入場でございます」
シャカール氏がそう言って演壇のほうを指すと奥の控え室らしき所から国王と王妃が連れ立って現れた。
国王は意外と年配の人物で、四十代後半のフランチェスコ伯爵に比べると一回り以上年上に見えた。六十代くらいだろうか?
黒い軍服に黄金色のサッシュ、いくつもの勲章、この時代にしては珍しい、近代の国王の装いだ。
見た目は王らしく恰幅も有り、威厳がある感じで、気難しそうな印象を受ける。
「本日は皆、忙しいところ、余が主催する夜会に集まって貰って誠に感謝する」
国王らしい威厳のある挨拶だ。
「皆存じておろうがこの夜会、其処におわすMハギノの歓迎するものである。彼は異界から招きし錬金術師。お若いが大変聡明であると、我が友アレハンドロより聞いておる」
国王の目線が僕に移動すると皆が僕の方を注目してくる。
「Mハギノ、今宵はささやかではあるが、最上級カウ肉はもちろん、ガレスの漁港から直送した新鮮な海の幸をふんだんに使った料理、酒も豊富に取りそろえておる。ごゆるりと心ゆくまで楽しんでいって欲しい。そして是非我が国を気に入って貰いたい」と僕に向け挨拶をすると、続けざまに、
「そして、今宵この場を借りて重大な発表をさせて貰う」と声高々にいい放った。
会場がどよめき立つのも意に介さず、王は、続ける。
「既に皆の者も存じておろうが、かねてより婚約をしておった、我が息子ハーマンと盟友アレハンドロ・フランチェスコのご令嬢、ユリア・フォン・フランチェスコ嬢、来春の吉日に婚礼の義を執り行うことを正式に発表する」
ガヤガヤとどよめく賓客たち。そして改めて呆然とする、僕。
国王が大臣に目配せすると、大臣は入り口のホストに目配せをして、ドアを開けさせた。と同時に会場隅にいる管弦楽団が荘厳な調べを奏で始める。
やがて開け放たれた扉の向こう側から美しい紫色のドレスを身にまとったユリアと礼装用軍服をまとったハーマン皇太子がフランチェスコ夫妻にエスコートされ入場してくる。
ユリアの紫色のドレスと盛られた金色の髪はとてもマッチしてまるで女神のようだ。
だが、同時に皇太子との結婚という受け入れがたい事実が、また一歩現実に近づいたことが否応なしにぼくに突きつけられていると言うことになる。
そんな僕の思いを知ってか知らずか彼女は僕に満面の笑みで見つめてくる。
止めてくれ! 見ないでくれ! 君の笑顔が僕には辛すぎる。
そして、同時に皇太子は僕に心なしか冷ややかな視線を送ってくる。
既に、僕と彼女の関係に気づいているのだろうか? だが、さっき庭園で話した際にはそんな事はおくびに見せなかったのに、たった一時間かそこらで豹変してしまったのだろうか?
だが、あのあとにユリアがつい口を滑らせたのだとしたら、あり得なくもない。
しかし着付けするのだって相応の時間がかかるのに、そんなことを話す暇なんて有るのだろうか?
ただ、とにかく彼が険しい表情で僕を見つめていることに変わりなかったが、嫉妬にも燃え狂っている目には見えなかった。ただ冷ややかに見つめているだけだ。
僕は彼の視線に耐え切れなくなり、なるべく見えないように、目を反らしたが、それでもその刺さるような視線を痛いほど感じる。
僕は気づかぬうちに、彼から相当な怒りを買う様なことをしでかしてしまったのかもしれない。
僕が外国人で、こんな場違いなところにいるからだろうか? だが、外国人ならさっきの東さんたちも同じだ。
しかしなぜにあんなに大勢の日本人がここに居るのだろうか? 彼らも転移してきたということだろうか?
そんなところで頭がもやもやしていて僕は周りの状況に全く注意を向けてなかった様だ。
後ろにウェイターがいることにも気がつかず、彼の持っているヴィン《ワイン》グラスが乗ったトレーを不意に身体を反らした際にぶつけて、落としてしまったのだ。
がしゃーんと派手な音がして周りのお客たちが何事だという雰囲気で一斉に此方を振り向いた。
が、単にウェイターがグラスを落としただけだと知ると直ぐに身体を元に戻して、無関心になる。
「失礼しました。直ぐに片付けますから」
悪いのは僕なのにと思いながらも、自分のスーツが汚れていないか確認しようとすると、
「お客様、そのままで」と、メイドの一人がささっとよってきて、僕の腰の辺りをナプキンか何かの布きれでっさと叩くように拭いてくれた。
どうやらワインかなにかの酒が服に少しかかってしまったようだ。
幸いにもビロード生地のように水をはじきやすい素材で出来ていたため、それほど汚れることは無かったようだが、かかったのが赤ワインのだったため、金色の刺繍は赤く染まってしまった。
「大変失礼しました。お召し物をお着替えいたしましょう」
ウェイターが申し訳なさそうに僕に言う。
「あ、いや、着替えは持ってきてないのですよ。普段着はあるのですが」と僕は彼の手を抑えて言った。だが、彼は、
「ご心配には及びません。こんなことも多々ありますので、予備にお貸しするお召し物は揃っております。ささ、此方へ」と、僕を会場の外へと行くように促す。
僕は、致し方なくウェイターさんに従ってホールから外に出た。すると其処には既にセシリアが待機していた。
「セシリア、お客様を着替え室にご案内して!」とウェイターはそう彼女に伝えると一礼をしてホールに戻っていった。
「ハギノ様、此方へ」
彼女はそう言って僕を来た方向と反対側へ連れていく。
着替え室は屋敷右手奥の方にあったが、わりとホールからは離れた場所にあるようで、暫く歩かされた。
たかが着替え室に行くには、あまりにも時間がかかるので、どこに連れて行かれるのか少し不安になる。
赤い絨毯が敷かれた廊下の角をまがり、普段招待客はあまり来ないだろうと思われる、地味で質素なエリアに入ると、セシリアは歩みを止めた。
「此方になります」と特にプレートも無く、何も書いていない白いドアを開けた。
彼女がスイッチらしき物を押すと暗かった部屋はまばゆい光で明るくなった。
気が付かなかったがこの明かりはガス灯ではない。なにか電気的なものだ。こんな所に電気があるなんて!
すると、あの内線電話も電気的な仕掛けなのかと納得がいった。だとすると照明くらいは不思議では無いかもしれない。
実は、この国に限って、ずいぶん文明が進んでいるのではないか? すばらしい。僕はこれだけでも此処が気に入ってしまいそうだ。
正直、今なら伯爵のオファーを快く受けるだろう。
しかし、気分が舞い上がっていて、気が付かなかったが、明るく照らされたその部屋をあらためて見回してみると、着替え室と言う割に鏡すらなく殺風景な部屋だった。
「セルリア、どこに召し物があるんだい?」と僕が言い切らないうちに彼女は、
「ただいまお持ちしますので、暫くお待ちを」と言ってそそくさと出て行ってしまった。
なにもそんなに慌てなくても良いのに。
僕は、元恋人が新しく旦那になる男と一緒居るところを目に入れたくない、と思っていたから、暫く、いや会が終わるまで、ここでセシリアとお話ししていたかった。その方がよほど気が休まるとと思っていたからだ。
だが、意外にも思いがけず、直ぐに扉をコツコツと叩く音が聞こえた。
さっき出て行ったばかりなのにもう戻ってきたのか。意外に早かったな。ひょっとして、服は案外隣の部屋とか近場に置いてあったのだろうか?
「セシリア、早かったね…」と言いかけて、様子がおかしい事に気が付いた。
ドアを開けて入ってきたのはメイドや執事とは明らかに違う者だった。
白人、インド人、アフリカ系、東洋系、そしてアズマさんたち日本人。さらにエルフの様に耳が尖った人。宇宙人なのか? エルフなのか? それとも別の人種?
その中から白人が一人と東さんが僕の所に近づいてくる。
「さっきの約束通り、君の質問に答えに来た」
東さんがにこやかに、でも何かに警戒しつつ、僕に近づき手を差し出した。
僕はつい何の警戒心も無く、彼が差し出した手をにぎって握手をした。その手はしばらく寒空に放置されていた様に冷くて乾いていた。
「一体これはどういう訳なんです?」
僕は久しぶりに見る日本人、地球人を見て、いても立ってもいられない気分で彼に尋ねた。
だが事を急ぐ僕に落ち着かせる様に彼が言った。
「質問に答える前に一言断って起きたいことが有る。今、俺たちは会場を内緒で抜け出してきた。だから此処に居られるのは数分の間だ。それ以上居ると感づかれてしまう」
一体誰に感づかれるのだろうか? そんな僕の疑問もよそにアズマさんは話を続けた。
「こちら、僕たちのリーダー、ハンスさん」
体格に良い人だ。ハンスと言うからにはドイツ系だろうか?
「Oh! ナイストウミートユー。ミスターハギノ。ハンスミッターデス!」
僕の両手をにぎりガンガン手をふる。
「私はあまり日本語が得意ではないのでね。エクプレインはシンイチに任せるよ」
結構、流暢なんだが。
「では、俺から説明しよう。あまり時間はないから、手短に話す」
アズマさんは訥々と話し始めた。
まず、僕が異世界と思っていた、此処は実は異世界ではなく地球だと言うこと。
ただし平行世界か異なる時空なのかはアズマさんたちの間ではまだはっきりと結論が出てない。
また、中世の世界ではあるが過去の世界、少なくとも我々の世界の過去という考えは、国の名前や文化からごく初期の段階で排除されているようだ。
今のところ、彼等の間では超未来の地球という説が有力だった。理由は太陽が赤色巨星化しているということだ。最もそれはまだ初期の段階で、天候に大きな悪影響が出てはいないが、小さな変動は出ていると思われている。
そして、何故これほどまでの地球人、いや二十一世紀人がこの世界に転移して来たのかは、もちろん明らかではない。だが、意図的に転移させられたと考えざるを得ない節がある。何故かと言うと、皆何らかの技術者や研究者など特殊な技能をもった人間だからだ。
彼らは表向きには新しいテクノロジーの研究開発を目的にガレス王国に集められたとされているが、実際にはもっと大きな企みがあると考えられている。
恐らくそれは来たるべき帝国とシイナとの覇権をかけた戦争に備えた、兵器開発などだ。つまりガレスは大量破壊兵器を生産して、帝国に売りつける死の商人になろうとしている。そして、そのテクノロジーによりこのガレス王国を富ませるつもりなのだ。
その影に僕も知っているある人物が黒幕と噂されているのだが、まだ確証は無く僕にはまだ明らかにしてくれない。
だがその人物が深く関係しているのは明らかで、この世界に転移してきた際に、ほぼすべて何らかの形でその人物が関わっていた。
ある者はその人物の知人にかくまわれた後に此処の仕事を紹介されたり、直接世話になった者も居る。
そして皆に共通しているのは、それぞれの研究者たちはほとんど誰もが現地の女性、しかもかなりの美人をあてがわれており、既にほとんど者が婚約または結婚をしていた。
もちろん性的対象が同性である人もいるので、全員が女性と婚姻、婚約している訳では無いが(そういう者には同性の現地恋人がなぜか居る)。そんな事で、二十一世紀から連れてこられた人たちの多くは現状に満足はしていた。
だが、やはり故郷は恋しくなるものだ。本当は帰りたいと思う者も少なく無いのだが、愛する妻子、恋人のため、ここに骨を埋めようと考えるものがほとんどだった。
まるで出て行かせまいとする足かせのようだが、拘禁でも軟禁でも無く破格の待遇で雇われており、異世界だからという縛りはあるが別に外出も旅行も可能だから、自由は保証されている。
だから、無理して二十一世紀に戻ろうなんて考える人間は殆どいない。しかしそれでも帰りたいと願う者は皆無では無かった。
彼らは密かに過去に戻る可能性を探っていたのだ。来ることが出来たなら帰ることだって可能なはずだ。彼らはそう思っていた。
「そろそろ会場に戻らなければね」東さんが言って立ち上がロウとしながら、
「そうだ、君、『ワブの書』は持っているかい?」と思い出したように僕に尋ねた。
「『ワブの書』って、あの毛皮の表紙のへんてこりんな本ですか? ええ、持ってますけど、ただ、伯爵家の僕の部屋に置きっぱなしで」
彼の口から想像だにしなかったワブの書という言葉が出てきたので、一瞬面食らった。すると彼は、
「結構。引越の時には絶対持ってくるように。此処ではワブの書は買えないからね」と、真剣な顔で言った。
「まだ此処に就職するなんて決めてません。それに何故ワブの書を持ってこなきゃ行けないんです?」
あの本が何かの役に立つって事か? とても考えられない。
東さんは僕の疑問に回答すること無く、
「その話はまた後で。さ、君も着替えて直ぐ戻るんだ。そろそろ自己紹介の時間だよ」と言った。
「何故判るんです?」
「僕たちも自分の歓迎パーティーが有ったからね。さ、先に行くよ。本当はみんな紹介したかったけど、時間切れだ」
東さん達は手を振りながらぞろぞろと部屋を出て行った。しんがりの東さんは扉を閉める前に一言、
「就職の件だけど、きっと君は承諾することになるよ」とだけ付け加えた。
着替え終わって、時計を見る。まだ会場を離れて三十分ほどしか経ってない。東さんと結構長時間話したと感じていたが、意外にそれほどでも無かったみたいだ。
会場に戻るとちょうどユリアと皇太子が列席者の挨拶を受けていた。
「今晩は美しい姫君にお会い出来て光栄でございます」
どこぞの貴族が定番の挨拶をして傅き、ユリアの手の指輪にキスをしている。およそ三十分、ずっと立ちっぱなしで疲れたようで、ドレスの中で見えないにも関わらず、外からでも身体の微妙な揺れのお陰で、足がもぞもぞさせている様子がなんとなく判った。
そんな苦行も間もなく終わり彼女もほっと一息ついて演壇の椅子に皇太子とともに着席すると、場の進行を務めるシャカール大臣が、
「ハーマン皇太子殿下、並びにユリア様、長らくの御立席ご苦労様です。それでは次に本日のもう一人の主賓、ハギノ様をご紹介します。ハギノ様は一年前にノンマルトの森より、お越しくださいました。まだ帝国臣民になられてから日が浅いですが、そろそろ慣れてきたことと思います。いかがですか」と、僕にふってきた。
いきなり話を振られてびっくりしてきょとんとしている僕を、執事の一人がさあさあと演壇に連れて行く。
僕はなにを喋って良いか良く判らなかったが、とりあえず何か言わねばと口を開いた。
「えっと、本日はこんなすてきなパーティーにお招きいただきありがとうございます」
ありきたりな挨拶だがこんなもんだろう。変に気が利いたことを言うよりマシだ。
ユリアがうれしそうな顔で拍手すると周りもつられてか拍手が響く。
「そうですね。一年間ユリア様の家庭教師を務めさせて貰いましたが、正直判らないことだらけで、逆にいろいろ教えて貰った方でした。特に文化が私の国と全く違うので面食らうこともありましたが、いろいろ彼女には助けて貰えました」と、此処までは良かった。
「しかしこうしてハーマン皇太子殿下とご結婚なさると言うことで、めったにお会いすることも無くなると思いますが…」と言いかけた、そのとき演壇の横で、椅子がズリっと動く音がした。そしてその直後、
「もう! 逢えないなんて言わないでよ!」
と聞き慣れた女性の甲高い悲鳴とも取れる声が響いた。
其処ではユリアが席を立って真っ赤な顔をして怒りながら泣いていた。
「ユリア!」
ハーマン皇太子が立ち上がって、彼女に落ち着くようにとなだめかけた。
だが、彼女はまるでまとわりつくハエでも追い払うかのように、彼の腕を振りほどくと、僕の方に近寄り、頬に平手打ちをした。そして、もう一度僕をキッとにらみつけると足早に会場を出て行ってしまった。
会場の全員は何が起こっているかを理解出来ず、皆唖然としていた。
「ああ、えっと」とシャカール大臣はどうして良いかわから無くなり、長く伸びた筆の様な眉毛を八の字にして、いかにも困った表情で、その場を取り繕うと、オロオロするばかりだった。
一方、僕は自分の失言を恥じた。精一杯気を遣って言ったと思ったことが、逆効果になってしまったのだが、そんなこと誰が事前に判る物だろうか?
場はしらけかけていたが、皆致し方ないといった雰囲気でその場はパーティーを楽しんでいた。
ただ、王家の人々と伯爵夫妻はばつが悪かったらしく、笑顔も浮かべず歓談もせず、ただワインの飲み干すだけだった。
そんなこともありパーティーは予定時間をだいぶ早めてお開きとなった。
「伯爵はお怒りだったろうか?」と、僕は着替え室で執事のニジンスキーさんに尋ねた。
「まだ、直接話してはおりませんが、お怒りの対象はユウキ様ではございません」と、僕に気を遣っているのか、怒りの原因は僕には無いことを臭わせるように言った。
僕には怒ってない? というとユリアには怒っているのだろうか?
「はい、ユリア様には大変お怒りのようで、お部屋からお説教をされるお声がいたしました。私もさすがにあの場に足を踏み入れることは無理でしたので、お声を聞いたのみなのですが」
やはり矛先はユリアに向かってしまったか。
「ユリアには悪い事してしまった」
僕がユリアの気持ちに答えず、無粋なことをしてしまったからだ。
「いいえ、ユウキ様は悪くはございませんよ。ただ、ユリア様は少しエキセントリックな部分もございますが、ユウキ様のことを好いておりましたので、一緒にここで暮らせることをお楽しみでいたこともあり。どうにも我慢出来なかったんでしょう」
「そう言ってくれると助かります。このままお嬢様とわだかまりを残したまま別れるのはつらいので…」と言い掛けたところで、彼の態度がまるで穏やかの春の陽気から、まるでにわか雨の雷雨の様にがらり豹変し、厳しい表情で僕を叱りつけた。
「ハギノ様、一言申し上げてよろしいですか? 先ほどから聞いていればユリア様とお別れをする前提の話のみ。これではユリア様が可哀想ではありませんか?」
固まって動けない僕をしりめに彼は話を続けた。
「あれほど貴方のことを好いていらっしゃるのに、そこまで頑なに御否定なされるのは、理不尽でしょう。伯爵様やガレス王も認めてらっしゃるのですよ? あなたの国では女性が結婚できるのは男性ひとりのみと決まっているのでしょうが、ここではそんな法律はございません。なるほどあなたの倫理的に第二夫というのは無理というのであれば、正式な夫でなくとも、相談役でもただのお友達でも良いではないですか?」
たしかにここでは文化が日本と異なる。ただ前の世界でも第二夫人は聞いたことあるが第二夫なんて聞いたこと無い。そもそも一夫多妻制だって、権力がある人限定の話だ。
だが、ただの友達であるなら、これからも
シャワーを浴びたかったので着替え室から自分の部屋にもどり、夜会服を脱ぐと袖からひらひらと白い紙片が舞い落ちた。
何だろうと思い僕はその紙片を拾いあげた。何か書いてあるぞ。
「夜会終了後、我等待機、於城外第一城門。我親愛成同士」
ふむふむ、漢字ばかりだがこれは日本語だぞ。わざとわかりにくく書いているのだろうか?
そうだ、僕は東さんとの約束をしていた事を思い出した。あの《・・》一件で僕はこのことが頭の中からすっぽり抜け落ちていたのだ。
本来なら夜会終了は十時、だが早めに切り上がったので終わったのは九時少し前。時計をみると着替えなどで優に一時間くらい過ぎて、既に十時を回っている。
やばい、第三城門まで歩くと数十分はかかるぞ! 東さんたちを待たせてしまう。
ばれないようにわざと漢字ばかりで書いているって事は、日本人以外に知られたくは無いって事だ。
僕は夜気に当てられないよう、コートを手に取って部屋を出た。
入城する時と比べ、外に出るのは意外と簡単だった。
若干懸念はあったが、幸いにも衛兵の交代時間で手薄になっていたせいで、らくらくと第三城門までたどりつけた。
第三城門までくると衛兵の質も下がり、見張りも下っ端一人のみ任せて、残りはカードゲームに興じているようなていたらくで、それほど厳しくない。僕はそんな彼等を横目で隙を見ながら、城門の外にでて、指定された場所で待った。
晩秋の夜は思ったよりも冷え込む。コートを持ってきて本当に良かった。それにしても遅い。既に三十分ほど待っている。何か不手際でもあったのだろうか?
などと考えているとき門から少し離れた森の中で何かが光った。最初は目の錯覚か猫などの夜行性動物の目が光っただけかと思った。しかし二度目はもっと明るく、明らかに合図していると思わしき、動きであった。
これはきっと東さんたちに違いない。僕は急ぎ足でライトを目指して進んだ。
近よるにつれライトは森の中ではなく、森の向こう側で光っているという事に気がついた。峠道のヘアピンカーブの向こう側にいるみたいだ。
道なりに暫く下るが意外と距離があるので思ったより時間がかかる。路面の石畳が少し湿っている。小雨でも降ったのだろうか? そこから暫く歩き、光を発している所にようやく到達すると、其処に止まっているのは大きめコーチだった。牽いているは馬に似た動物ホルセイ。
「や、待たせたね」東さんがコーチの陰から出てきて言った。声はどことなく疲れた様子。
「どうやら、待たせてしまったようだね。こいつを手配するのに手間取ってね」とコーチをぽんと叩く。
「ところでどこへ行くつもりなんですか?」
「おっと質問は後にしてくれ。ささ、これにまずは乗ってくれ」
東さんは扉を開け僕を招き入れると、続いてそこに乗り込んだ。中には東さんのほかに、四人くらい乗っていた。暗がりで良く判らないが、ハンスさんは居ないようで、体格から推察すればすべて日本人。
「すべてお話ししてくれるとのことでしたが、この中で?」
「ま、それほど慌てることはないよ。ところでおなかが空いてないかい?」
そう言えば、腹が空いた。パーティーではあの騒ぎで大した物を食べてないから当然かもしれない。
「そっか。そうだと思ったよ。実は我々もお腹がぺこぺこなんだ。それでね俺らの行きつけのお店に連れて行ってあげようかなと思ってね」
「どんなお店なんです?」
「ま、着いてからのお楽しみだよ。俺らは其処にしょっちゅう行ってるんだけどね。他の仲間はもう
東さんはクックックと笑いながら言った。
どんな店に連れて行ってくれるんだろうか? 彼らのおすすめなら間違いない。だって同じ日本人だもの。ぼくは期待に胸を高鳴らせていた。
「ヨシムライエ?」僕は看板を見て、思わずつぶやいた。英語でもなんでも無く漢字で、そう書いてあるように見えた。
其処は、大きな街道沿いにあり、真夜中にもかかわらず、ガレスで生産された製品をセルリア帝国内の各地に運送するクルウマーが何台も止まっている。
「ここって、何屋さんなんですか?」と一応聞いたが、なんとなく店の雰囲気で判る。どう見たってラーメン屋。
「なんだか判るかい? ま、萩野君が考えている通りさ。なんとこの異世界でラーメンが食えるんだぜ」と、東さんはどや顔で言い放った。
いや、既に僕はジラー、ベンティーナとこの世界に転移してから合計五回くらいは食べてるんですけど! と、言いたかったがせっかくコーチをチャーターしてまで連れてきてくれたのに、それも無粋だなと考えて、黙っていた。
のれんをくぐると、豚骨特有の酸っぱい臭いとニンニクの臭いが充満する。それに加え、肉体労働者特有の汗の臭いで少し気持ち悪くなる。ここのメインの顧客はクルウマー乗りで、店内は必然的にむさい男ばかり。
店内はジラーやベンティーナに比べると格段に広く、席数はおそらく倍、いや三倍はある。店主は壮年の男性で短髪にねじりはちまきとTシャツ。弟子は店の広さと比例して多く、おそらく十人くらいだろうか? 店内で忙しく動き回っている。
其処を例の店主がひっきりなしに檄を飛ばしている。
「だいたい、お前は暗いんだよ! いいか、ラーン屋は俺みたいに馬鹿になんなきゃいけねーからな!」
貶しているんだか褒めているんだかよくわからない。
そんな場所とは不釣り合いな僕ら日本人の理系集団はどうも異質な存在で、じろじろとセルリア人ドライバーたちに見られている。
店主と思わしき壮年の男性は、シイナ人の様な風貌だが日本人では無かった。言葉のイントネーションが日本人とは違う。かと言ってセルリアやシイナ人ともイントネーションがすこし異なる。ガレス、カロンとは異なる地方の人間なのだろうか?
僕らは総勢六人と、この手の店にくるには割と大勢の方だから、なかなか空席が出なかったが、それでも十五分と思ったより、待つことも無かった。ようやくテーブル席に着席できた。
さあ、此処は何が美味しいんだろうか? 目前の壁に貼り付けられた、メニュー表をみると基本はラーメンで、それにチャーシュー、海苔、ほうれん草? を組み合わせるスタイルの様だ。
味噌は有るが塩など他の味のバリエーションは無く、ライスはあるが、餃子のようなサイドメニューは無い。
ただし、味の濃さ、脂の量、麺の堅さなどは好みを言えば対応してくれると書いてある。
「萩野君、何を頼むか決まったか?」
彼らは既に注文を決めていたのか、メニュー表などには一目もふらず、席につくなり、僕に尋ねてきた。
だが、そんなことをを言われても僕は何を頼んで良いかも判らない。差し障りなく標準のメニューで良いと言った。
「ま、最初はそんなもんだな。あと細かい好みはあるかい? 此処はスープの濃さや脂の量、麺の固さも調整できるんだぜ。どうする?」
と、いわれてもこの店に初めて来るからよくわからない。
「全て普通で良いですよ」
「OK。みんないつもんだよな?」
僕と東さんを除く四人のうち三人が頷くが、残り一人は違ったようだ。
「お、おれは今日はチャーシュー増しは止めて大盛りにす、するよ。好みはいつも通りで」と、ぽっちゃり体型、天然パーマ、眼鏡の男性が言った。
「なんだ、手塚ここ来たらいつもチャーシューと海苔は確実付けてんだろ? どうしたんだよ? 体調でも悪いのか?」と、東さんが心配そうに、いや半分は茶化した感じで言った。
たしかにいつも大食いの人がたまに小食だと何かの病気になったのでは無いかと疑われてしまうかもしれない。
しかし、場合によっては病気よりも深刻かもしれないことが理由と明らかになった。
「い、いやちょっと、この前麻雀で負けちゃってさ、金無えんだわ。シンシアたんにも出て行かれるし。ハッハハ…」と最後に気の抜けた笑い。
「そっかあ、シンシアもついに愛想尽かされたか…」
眼鏡で七三分けの細い男(理系によくいる神経質なガリ勉タイプ)がつぶやく。
「う、うっせー余計なお世話だよ! そ、それに愛想尽かされた訳じゃ無いよ! 向こうのお母さんが、ぐ、具合わるいから!」
関係ない僕が聞いても嘘っぽい。
「まあ、まあ、個人の家庭の事情は詮索せんとも」と、もう一人のわりとふつうっぽい雰囲気の人が言った。
だが、仲裁してる割には、にやけて明らかに手塚さんの事を言うことを信じない様子。
「じゃ、萩野君がラーメン普通。濃さとかも全部普通。佐々木はチャーシュー海苔、ほうれん草増しの大盛りで、濃いめ、麵カタ、脂多め。小岩は海苔増しでライス大で麵カタ、あと全部普通」
ライス? ラーメンにライス?
「安藤が味噌中盛りでライス」
また、ライス?
「で、手塚が、チャーシューは無しで大盛りな」
「ちょ、まてよチャーシュー無しは嫌だよ、普通に付いているやつまでは抜かないでくれ。あと、お、俺もライスはいつもどおり大盛りで」
またライス? しかも大盛り? ラーメンも大盛りで?
「ああ、判った、判った。デフォで着いているチャーシューはいるのね。他に誰も注文変わらないよな?」
「萩野君はライス付けないの?」
安藤と呼ばれている、目が細い中背でがっちり体格の人が言った。腰まであるロン毛を後ろで束ねてオールバックしているという、ユニークな髪型で、覚えやすい特徴の人だ。
「いや、僕はちょっと…」
だって、ラーメンとライスって組み合わせがでたらめすぎる。そんな炭水化物コンボは嫌だよ。
中にはこういうのを好む人は居ることはいるけど、あんまり感心させられるような嗜好とは言えない。
僕はやんわりと断ろうとしたが、
「萩野君、騙されたと思って頼みなよ。ここのラーメンには凄くライスが合うんだぜ。それに、これは俺のおごりだから、遠慮するなって」と、しつこい宗教勧誘か! ってくらいに勧めてくる。そして僕も気が弱いから断り切れず渋々承諾してしまった。
だがラーメンの麺でライスを食べると思うから、おかしいのであって、麺だけだと足りないから、ライスでおかわりをすると考え直して、チャーシューやメンマ、味玉などの具材をおかずに白飯を食べるのは、別におかしくないのだ。
スープだって中華スープの様なもんだ(この予想は後々打ち砕かれることになるが)。ラーメンとご飯は別の食べ物で、ライスは替え玉だと思えばいいのだ。
僕は無理矢理にも程があるが、自分の中でこじつけた。
だが、僕はまだ少し後悔しているようで、東さんが店員にオーダーしている最中も心の中で、やっぱりライスは余計だったろうか? と悩んでいた。
注文し終わったが、僕らの分が出来上がるまでは、まだまだ時間がかかりそうだった。
周りのお客さんを見る限り、僕達よりも大分前に入店した人にすら、まだ配膳されていないからだ。
だが別に店員さんが、ちんたら仕事をしているわけでは無い。
例えば、仕込み担当と思われる、お弟子さんは、一抱えもある、大きな袋を寸胴の上から逆さまにして、中に詰まってた骨(何の骨なんだろうか? やはりワブなのだろうか?)をがらがらと流し入れている。
そして、足下にはまだ数袋の骨がおいてあり、これら全てを寸胴に入れて炊くようだ。
寸胴も相当大きいが、骨の量も膨大で、全て投入したら、寸胴からあふれてしまうほどだ。
他にも麺ゆで係、盛りつけ係、配膳や仕込みを専門にやっており、それぞれの役割を各々責任持って仕事をしている。
皆が役割を分担してラーメンをつくっているのだ。まるでこれは工場だ。工業国ガレスらしいラーメン店ではないか。
「おい!てめえは何ボサってしているんだ!」
突然、大きな怒鳴り声が店内に響き、僕を含めて数人が驚いてそちらを振り向いた。
お弟子さんの一人が何かへまをしたのだろうか、例の店主が少年とも思える若い男性を叱責している。若者は店主に必死に謝っている。どうやら麺が入っている箱をひっくり返してしまったようだ。
だが、そんなことはまるで無かったように、別のベテランと思える店員の一人が、
「へい! エール六つお持ちしました!」と僕らの目の前に大きなジョッキを六つドドドンッと置いた。
白い瀬戸物のジョッキからはシュワシュワと白い泡があふれそうになっている。どうやらこれはビールの様なものらしい。
「さ、萩野君、僕らガレスの日本人コミュニティにようこそ。そして、今まで、たった一人で頑張って来て、ご苦労様! 乾杯!」
皆、ジョッキを高くあおり、ごくごくと飲んだ。
うん、これはビールだ。しかも飲み口がとても良い。まったりとコクがあるのに飲み干した後は爽快。少し甘みもあるけど、ホップのような軽い苦みとフルーテイな香り。
名前は違うけど久しぶりに飲むビールは、すごく喉が渇いていたせいか、とても美味しかった。
「これ、とても美味しいですね! まさか、ビールがこの国にもあるなんて知らなかった」と僕は目からうろこが落ちるような気分で言った。
「ははは、びっくりしたかい?」
確かにビールなんて此処に来るまで見かけたことが無かった。
「でも、今日の夜会ではビールなんて出ませんでしたね」
僕は夜会にはビールに似た飲み物は一切無かったと思い出して言うと、彼は、
「貴族の間ではビール、此処ではエールって言っているんだけど、異教徒の飲み物だって言って嫌われてるんだってよ」と答えた。
そして、鼻の下にうっすらビールの泡で髭を作って笑いながら続けた。
「なにしろ、このエールはそもそも俺たちが作って広めたんだから」と東さんはにやりと何か含めた感じでつぶやいた。
「え? どういうことです?」と、びっくりして僕は彼に尋ねた。
「ま、俺たちって、いうと語弊があるな。実際はおれらが始めたわけではないけどな。実は俺らよりも前から此処に日本人やらドイツ人、アメリカ人が転移してきててさ、彼らがビールの製法を教えて広まったって訳。そもそも数十年くらいの話だけど」
数十年? そんな以前から日本人技術者が此処に転移してたのか?
「ま、そいつらもただの親切なお人好しだから製法を教えたって訳じゃ無い。自分たちが飲みたいから作らせたって。がははは」
酒が回って東さんは最初の礼儀正しい青年とは打って変わって豪快な人柄になっていた。
「ま、彼らがいたから俺たちもこうして美味いビールを飲めるわけだけどね。だけどさ、気が付いた? このビール少し冷えすぎじゃね?」
そういえば冷蔵庫も無いこの世界にしては冷えすぎだ。例の魔法道具ではここまで冷やせるか? せいぜい小さなアイスクリームを作るのがやっとみたいな話だと思うが。
「そういえば、よく冷えてますね。例の魔法動物か魔法道具でもつかっているんですか?」と、僕が言うと五人が五人とも膝を叩いて大笑いした。
「ま、魔法、魔法って、…」
東さんは笑いすぎて息ができなくなり、最後まで言い切る前に言葉が出なくなった。
他のメンバーも同様、「腹痛え」「殺す気か!」「マジこいつ笑いのセンスありすぎ!」などと一斉に僕のことを笑った。
僕は正直凄く気分が悪くなり、思わず怒鳴った。
「そんな言い方ないじゃ無いですか! ここの人たちはマジで魔法って言ってますよ!」
僕がマジでキレ始めていることに気が付いて彼らは、さすがに小馬鹿にしすぎたかと思ったようで、すぐさま笑うのを止めた。
「いや、悪い悪い。魔法ってマジ信じているのかと思ってつい笑ってしまった。ゴメン。君は一年もこっちで一人でいたんだもんな。信じ切ってしまってもしかたない」
「いや、僕もにわかには信じていなかったですよ。彼らが魔法魔法言ってたんで合わせてただけです。きっと科学的には説明できる根拠はあるとは思ってましたが。ただ、真剣に考察しようなんても思って無かったですけど」
「いや、それなら良いんだけどさ、純粋な少年のような顔してたから、マジ信じてるんかと思ってさ。はは。なあみんな」と東さんが鼻を真っ赤にして笑う。酒のせいか大笑いしたせいか判らない。多分両方だと思うが。
「いや、俺はこいつは比喩で言ってんだろうなと思ってたさ」「いや、おれもそうだと思って、笑いのセンスあるって言ったんだけど」と、佐々木さん、安藤さんが続けざまに言った。
「なんだよ、おまえら裏切るんか?」と東さんは少しむっとしながら言う。
彼は自分だけ僕がマジで言ってたと思い込んでたらしい。このひと天然かよ。
「まあ、いいや。ある意味この国の奴等が魔法って思い込んでも不思議じゃ無い。なにしろ俺たちの文明は三百年は進んでいるからな。原始人に拳銃をみせるようなもんだべ」と酔いが回ったせいか北関東訛り全開で言った。
「で、着替え部屋での話ですが」僕はパーティー合間での思わせぶりな話を思い出した。重要なことを教えてくれると。
だが、彼はヘラヘラしながら、
「ま、その話はそのうちな」と言うだけで何時までも本題には触れようとしない。
どうも思わせぶりな話だけされて、はぐらかされている気がする。
「いや、詳しい話をするために呼び出したんじゃ無いですか?」と僕は少し苛立って彼に尋ねた。
だが、彼は、
「いやいや、単にラーメン食わせてやりたかっただけさ」と、また適当にはぐらかす。
なんだ、結局お預けか。
僕の苛立った雰囲気を読み取ったのか、彼は少ししらふに戻ったかのように、
「ま、でもなんだ。こんな話はおいそれとするもんじゃ無い。それに、…」と、言いかけたが、続きを言おうとしたところで、野太い声が会話を妨げた。
「へい! ラーン、脂、タレ、麺全部普通と大盛りチャシュー、ノリ、レン草、脂多め、タレ濃いめ、麵カタ」
ベテランと思える店員の一人が僕らの目の前にラーメンどんぶりをドドンッと置く。
そうだった、僕等はラーメンを食べに来てたのだ。話に夢中で一瞬忘れていた。
「こっちのお客さんは大盛り、麵カタ、ライス大盛り。でこっちのお客さんは普通盛り、海苔、麵カタ、ライス大ね」
続いて手塚さんと小岩さんの分。小岩さんだけに味も濃いわ《・・・》って訳では無かった。
そして安藤さんと東さん。
「こっちのお客さんは味噌中盛り、全部普通でライス、でこっちのお客さんはチャーシュー大盛り、キャベッ、レン草、玉子で麵カタ、濃いめ、脂多めね」
「お、東、フルコースじゃん」と佐々木さんが茶化す。
「今日はちょっと臨時収入が有ったからね」
と東さんは少しご機嫌。
配膳されたラーメンはジラーやベンティーナに比べると、量的には常識の範囲内だし、見た目は奇をてらったところも無かったが、極太の麺と茶色くどろっと濁ったスープに其の表面を覆う大量の液体脂の層で覆われているところが、いままで僕が見たラーメンとは異なる。
そして臭いも強烈で個性的な店主とイメージが一致する。
そこに大ぶりのチャーシュー二枚、海苔、ほうれん草。
メンマや煮玉子などは無い。オプションなのだろうか?
好きな具材なので注文しておけば良かったと後悔。
量に関してだけは普通サイズだ。これならライスを付けても食べきれるだろう。
だが、この脂の量。表面の五ミリくらいは脂の層だ。胸焼けしないだろうか?
「な、びっくりしたろ? ラーメンなんて食うの久しぶりだろ?」と東さんはどや顔で言ってくる。
別にラーメンなんて、カロンで何度も食べてるから珍しくも無い。もっともあれはラーメンなのかうどんなのかはたまた全く別な麺料理か判らないが。
僕がぼさっとしているから、東さんは僕が遠慮していると思ったらしい。
「まあ、いいから遠慮せずに食え」と、割り箸を差し出す。
僕は箸を受け取ると、僕はあらためて自分の目の前に置かれた、キツい豚骨臭を放っている物体に向き合った。
ジラーやベンティーナ程では無いがそこそこ大ぶりどんぶりに盛られた、それは今まで見たことあるラーメンと似ているようで、全く異なるものだ。茶色く濁り表面は厚い脂の層で覆われている。
麺はジラーよりも若干細いか? でもベンティーナよりは確実に太い。色はどちらかというとベンティーナにちかいだろうか? ジラーのように灰色にざらついた感じとは見た目が異なる。
具材の構成は一般的なラーメンと同じくチャーシュー、海苔、ほうれん草(のような何か)。
惜しむらくは煮卵、なると、メンマが無い事だ。「なると」なんてそもそも有っても無くてもどうでも良いけど、メンマと煮卵は好きだから、外したくは無かった。
そもそも、煮卵はオプション扱いだから頼まなかった自分が悪いかもしれないが、メンマに関してはオプションもなにも無い。
少しがっかりしたが、まあ良い。次回来る機会があれば頼めば良いさ。そもそもここのラーメンが僕のお口に合うかどうかも謎だ。
ジラーは量的にきつかったし、ベンティーナは少し山奥過ぎる。だが、味に関してはどちらもピカイチだった。また食べに行きたいという欲求がある。此処はどうなんだろうか?
まあ良い。はまるか、はまらないかこの一杯にかかっている。気に入らなければ二度と来ないだろうし、気に入ったらまた来ればいい。
そもそも、ガレスに来るのはこれが最後と言うことも無くは無いが、僕の気持ちはほぼ固まっている。
ユリアの事は関係なく、この国の研究所にお世話になるつもりだ。ユリアの居ないカロンで腐っているより、此処で最新設備で研究した方が良い。いつかは日本に帰れるかもしれないと言う期待もある。
さて、御託はもういいや。どこから攻めようか? 初めて食べるときは先ずスープからだな。死んだじいちゃんもそう言ってた。なんて真っ赤な嘘なわけだが。
レンゲをカウンター上から一つ拝借して、スープをすくって一口飲む。
「あ、美味しいじゃないか?」
僕は、思わずつぶやいた。味はかなり濃く少ししょっぱいけど、豚骨の出汁が凄く濃くてパンチのある味だ。この破壊力はどこから来るのだろう。この大量の脂が貢献しているにちがいない。
「よしよしまずは合格だな」と僕は心のなかでつぶやいた。
スープの次は麺だ。同じ極太でもジラーに比べると白くてつるつるしている。
さっきも言ったようにジラーの麺は灰色のような黄色のような見た目も食感もざらっとした感じだった。
それにジラーの様に大量の野菜で覆われているわけでもないので、麺を食べるのはそれほど苦でもない。
まずは箸でわしっと、ひと掴みする。少し多かったろうか? 適当に箸を突っ込んだから思いの外大量に掴んでしまった。
まあいいさ、このくらい一口で行けるさ。僕は口を大きく開けて大量の麺を掴んだ箸を口に突っ込んだ。
おお、なんという事だ! さっきはしょっぱくて濃いなんて思っていたがが、この麺とスープ凄くマッチしているでは無いか? この、つるつるもちもちの麺はまるでこのスープの為にあつらえたと言っても過言で無いくらい合っている。
もう一度スープだけレンゲで掬ってみるとやはり少し塩辛い。また、麺を箸で一掴みして口に放り込む。ウマァ!
さっき、スープの為にあつらえた麺と言ったが、それは逆だ。この麺の為にこの濃いスープなのだ。このもちもち麺は太いし縮れていないから、スープの絡みが弱くなってしまう。だからこの濃い味なんだと、僕は悟った。
そういえばジラーも、ベンティーナも同じだ。太い麺だとスープの絡みが悪くなり必然的にスープを濃くせざるを得ないのだ。
僕が一人納得していると、東さんが話しかけてきた。
「萩野君、このスープにこうやって、この海苔を浸して、ご飯に載せて食べてみな」
彼はラーメンの海苔を言った通りにスープに浸しご飯に載せてパクッと口に入れた。
「美味ぇ!」
彼はうまさにむせび泣いている。
僕も真似をしてスープに浸した海苔をご飯に巻いて口に入れてみる。
マジか? これだけでも立派なおかずになるでは無いか? しょっぱいスープと海苔が白飯に凄く合う!
「うん! 美味い、美味い!」
僕が目をまん丸にして夢中で、ご飯を頬張る姿を見て、彼はどや顔になる。
「な、美味いやろ?」
と、東さんは茨城訛りの関西弁でドヤ顔! 何故に関西弁?
しかしこの件は認めざるを得ない。完璧に僕の負けだ。ラーメンにこんなにライスが合うとは思わなかった。
僕は脱帽したよ! 潔く負けを認めよう。
「このラーメン、めっちゃライスに合いますね!」と僕は感激して言った。
「だろ? ここのラーメンは麺だけ食ったら損や! ライスも一緒に食わなあかん!」
また関西弁だが、あえて突っ込まない。
「な、萩野君、周りを見てみい!」
まわりのドライバーたちはみなラーメンの大きなどんぶりだけでなく、ライスをつけて、美味しそうに食べている。
「このお店はこの客層に合わせて、このラーメンを作ったといっても過言じゃ無い。みな汗をかきながら仕事する人ばかりだから、塩気がすぐ足りなくなるんや。だからこういうしょっぱいのが大好きやねん。しかも体力を使う仕事やろ? だから麺ばかりでなく腹持ちするライスも必須なんねん」
いや、だからなんで関西弁? アンタ茨城県の人でしょ? というつっこみはさておき、なるほど、ライスが付くのは美味しいだけで無く腹持ちを良くする為なのか。
そういえば麺だけだと直ぐ消化されて夕方にならないうちにお腹が減ってしまうけど、ライスも食べれば夕ご飯まで腹持ちする。
「ほら、ぼけっとしてないで、はよ食えや! 箸が止まってるよ! 麺がのびちゃうやないか!」
東さんはまた関西弁で僕をしかる! しかしこの関西弁は僕が「アンタ茨城県民やろ! いい加減にしなはれ!」と突っ込まれるのを待っているんだろうか? しかし此処でそれをやると負けた気がするので、絶対にやらない! 絶対ニダ!
僕はあえて関西弁の件は触れず夢中でずるずると麺を啜った。
都合の良いことに少しスープが冷めて、ぬるくなり却って食べやすくなった。僕は結構猫舌な方なのだ。
おっと、忘れてた。まだチャーシューを食べていなかったでは無いか!
僕はこう見えてもチャーシューが好きなのだ。学生には毎回チャーシューを入れてラーメンを食らうほど経済的に余裕は無かったから、何時も大盛りにはするけどチャーシューを頼む事なんてめったに無かったけど。
さてここのチャーシューは美味しいだろうか? ジラーとベンティーナのチャーシューは口に入れた瞬間、うまさがほとばしったが。
あらためてラーメンの上に乗っているチャーシューを見ると、なんとこの店のは脂身が全くない。
一口ぱくっとかぶりつくとスモーキーな香りとがっつりとした歯ごたえ。ロースでもバラ肉とも違う。これはもも肉だろうか? しかもいままでのチャーシューと異なる食感。不味くはないけどそれほど美味しくもない。チャーシューは柔らかいのが好きなのに、これは全く自分の好みではないぞ!
そうだ、ライスのおかずだと考えれば良いのだ。これチャーシューでは無く、生姜焼きかポークソテー。
だったらおかずらしくライスに乗せて食べたればいいのだ!
チャーシューをスープに浸しライスにくるりと巻いて頬張る。
あ、結構いけるぞ!
さっきまでそれほどでもなかったスモーキーなチャーシューだったけど、おかずにすると印象ががらりと変わった。
美味い、美味い! ラーメンだとちょっと嫌みな感じだった燻した香りもおかずになると、個性的で美味しい。
みんなの言ったとおりにして良かった。このスープはしょっぱいうえに脂も多いから、浸した海苔やチャーシューをご飯に載せてたべるととても美味しいのだ!
僕は残りのチャーシューと海苔もライスに乗せて食らった。
うめえ! しょっぱいスープをライスのプレーンな味が中和して良い箸休めになる。
ちょうどジラーの野菜がそうであるように、ここではライスが箸休め代わりにもなるのだな。
恐らく、これを麺だけで食べたら半分も食べないうちに胸やけで飽きてしまうだろう。
「ご、ご、ごちそうさま。きょ、今日も美味しかったです」
最初に食べ終わったのは、予想通りと言うかデブの手塚さんだ。
彼は食べるのが並外れて速かった。大盛りプラスライスという、常識を越えた量を僕が食べ終わる前にスープまで完飲してしまったのだ。
僕はと言うとチャーシュー&海苔でごはんに乗せて食べることに夢中になり、麺を食べるがおろそかになってしまった様で、まだまだ麵が三分の一くらい残っている。
残った麺はすでに柔々の不味不味だろうと思っていたが、意外にもそれほどでもなく、却って自分好みくらいのもちもちの食感になっていた。
ライスも少し残っていたが生憎チャーシューも海苔もほうれん草も無い。しかたないので、柔々の麺をのせて食べてみた。
お、これはこれで美味い。でもやはりなんか麺でライスは合わないな。
やはり、麺は麺、ライスはライスで食べる方が良い。
都合が良いことに、ライスにはラーメンの汁がたっぷりしみこんでいて、べつにおかずが無くとも自然に美味しく食べられるようなっていた。汁ご飯もなかなかいけるなと思った矢先なのだが、生憎ご飯はこれで終わり。また次回のお楽しみにしよう。
そして、最後のやわやわ麺を食す。量にして二口程度で食べられる量であった為、あっという間に完食。柔い麺もこの程度の量なら全く苦にならないが、半分以上がこの柔麺だったら、おそらく印象も変わったろう。
僕はコップの水を一息でごくごくと飲み干すとどんぶりをカウンターの上に置き、「ごちそうさまでした」と、僕は笑みを押し殺しながら、カウンターに丼を戻した。
美味しいものを食べさせて貰ってありがとうございます。という気持ちでいっぱいだ。
ラーメンは久し振りというわけでも無かったが、大満足だった。しょっぱめのスープともちもちの麵それと、ライス。素晴らしいハーモニー。
此処はジラーとは違って、判りやすい美味しさだと思った。
スモークしたチャーシューはそれなりに手も込んでいて、ジラーみたいなただ煮込んだ豚、いやワブとは違う。
なにより、ジラーの様にこれから闘いを始めるような緊張感が不要。変な常連もいない。
そもそもジラーは実は味自体は大して美味しくもないんじゃないか? と、ジラーを食べている時でさえ、思うときがある。量と脂が暴力的で麵の主張が強いから、美味しく感じるだけなんじゃ無いか?
時々、あのラーメンを食べている最中に『あまり美味しくないなあ、これ』という考えが頭の中によぎる時がある。そして、多すぎる量のせいか、まるで苦行を強いられているような、強迫観念に心を支配されてしまい、無理矢理美味しい物を食べているんだと思い込まされている気分になるのだ。
だが、ここのラーメンはそんな事とは無縁。確かに品が良いとは言えないけど、苦行を強いられているような感覚はまるで無い。
店の親父は少し怖そうだけど、弟子には厳しいが客にまで厳しい訳では無い。
「ああ、お腹いっぱいです。でも美味しかったですよ。今度また連れてきて欲しいです」と、僕は東さんに感謝を込めて言った。
そういえば少し食い過ぎたようだ。お腹がパンパンになっている。さすがにスープまでは完飲は無理だったが、ライス、麺と苦も無く完食出来た。
「な、な、なんだ、お、萩野君は、い、意外に小食なんだな! ふ、普通盛りでお腹がいい、いっぱいになるなんて」と、手塚さんがでかいお腹をさすりながら言うと、佐々木さんが、
「おめえと一緒にしちゃ失礼だろうが! こんなにスリムなんだから!」と、彼をからかう。
どうも、手塚さんはこの中ではいじられ体質のようだ。体型からくるんだろうか? それに顔もくまのプーさんのように愛嬌もある。
東さんも酒が入って上機嫌で、
「な、気に入ったろ? まさかこんな所でラーメン食えるなんて思えないよなあ? おれらの仲間に成れば毎日でも連れてきてやるぜ! がハハ」ともう酒乱と言っても良い位に、でかい態度で言い放つ。
「おいおい、萩野君がびびってんじゃんよ! いい加減にしてやれ。ははは」
「でもさ、まだ同じチームになれるか判らんよな?」
「まあな、俺たちのグループ他と違って先端を行っているからな」
「どんな研究をしてるんですか?」
「それは此処では言えないな。かなりの極秘プロジェクトなんでな。ま、一つ言えることは、今の日本…、いや俺らが元いた世界って話だけど、其処ですら実現出来なかった世界をひっくり返すようなプロジェクトだってこと」
「ヒントだけでも下さいよ」
「そうだな。俺らはNOAHと呼んでいる。何の略語だかは教えられないがな。君がプロジェクトに合流できれば判るさ。ま、そのときまで楽しみに取っておくことさ」
他のみんなも目配せをしながら笑っていた。だが、これはあくまでもカムフラージュの為のポーズだって事は後から実感した。
それほど、彼らのプロジェクトは宇宙をも巻き込む大それた計画だったからだ。
そして、これの黒幕である人物はまさにこれに運命をかけていたのだ。
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