第四章 森の中のつけ麺屋

セルリア歴5332年蠍の月三

 アスパイア家との縁談も段取りが大分進み婚約の儀まで間近に迫っていた。

 ユリアはほとんど屋敷に居ることもなくなり、僕の仕事は開店休業状態だった。そのせいもあり僕はすっかり抜け殻のように何もかもする気力を失っていた。

 そんな僕を見かねてかある日執事のチョ・ハさんが僕の部屋を訪ねてきた。彼はいつものようにえんじ色の執事服にグレーの髪の毛をオールバックにまとめ、いつもどおりの落ち着いた雰囲気だった。ただ一つ違うことは右手に風呂敷のような包みを持っていることだった。

 彼はいつもの様に執事らしく落ち着いた中にも多少優しい雰囲気で僕に話しかけくる。

「だいぶ、気落ちしている様ですな。何があったのかは聞きますまい」

 チョ・ハさんも僕とユリアの関係に気づいていたようで気を遣って様子を見に来られた様だ。

「いえ、それほどでも。次の仕事を探さなければなと思っていたところです」僕は思わず嘘をついてしまった。

 ホントは仕事なんて気にしていなかった。たまにジラーを食べに行くくらいで給金にはほとんど手をつけておらず、しばらく遊んでいても暮らせる位は貯まっていたからだ。

「ほお、そうでしたか。生憎私はお仕事のご紹介は出来ませんが、手慰みにでもと良いおもちゃを持って参りました」

 彼は手持ちのつつみを僕の机の上に置くとそれを広げ始めた。

「私のお古でなんなのですがな、ユウキ様も興味を持たれるかと思いましてな」

 そこに置かれてたのは一揃いの年季の入った彫刻刀のセットと、ひとかたまりの木材だった。

「彫刻ですか? あいにく僕は生粋の学者肌でしてね、芸術の素養なんてないのですよ」

 それでも僕はいつの間にかチョ・ハさんの彫刻刀を手に取り、しげしげと興味深く見つめていた。

 彫刻か。たまには童心にかえって何か彫ってみるのも良いかもしれない。

 しかし僕はどうも美術とか音楽とか苦手だった。小学校の時の美術の成績なんて惨憺たる有様だった気がする。

 だがこれはあくまでも趣味とか気を紛らわす程度の物だ。気合い入れてやる必要は有るまい。なに、適当にやって飽きたら止めれば良い。所詮は気分転換だ。

 はじめは及び腰だったが、それほど気合いを入れるほどのことでも無いと考えたら、むげに断る事も無いと思った。

「チョ・ハさん、お気遣いありがとうございます。しかし良いのですか? 大切な彫刻刀を借りてしまったりして」

「ご遠慮するには及びませんぞ、ははは。そろそろ新しいのを新調したいころと思いましてな。実は女房に対する丁度良い口実考えてましてな。ユウキ様がもし受け取ってくだされば、女房にも『ユリア様家庭教師の先生が是非彫刻を始めたい』とのことで譲ってしまったと言えば渋々承諾するのではと算段した次第ですので、丁度一石二鳥なのですよ。ハハハ」

 チョ・ハさんはそうは言いつつも、長い間愛用していたのだろう、その彫刻刀を愛おしげに手に持ち枝の部分を優しくなでている。

「そうでしたか。それでは遠慮無く使わせて戴きます。僕も彫刻なんて多分小学生か中学生以来ですから、自信ありませんけど簡単な物から始めたいと思います」

 チョ・ハさんは持っていた彫刻刀を元の一式の中に戻し、風呂敷にくるむと僕の肩にぽんっと手を置き、

「ではよろしく頼みましたぞ。いつか自信作が出来たら私に見せてくだされ」といって空いた方の手で持っていた彫刻刀の包みを僕に渡した。

 

 チョ・ハさんが出て行ったあと僕は彫刻刀の入った包みを広げ、そのうちの一本を取り上げてしげしげと眺めた。

 よく見れば大分年期が入っている代物だ。刃の部分は何時も手入れ怠らなかったようで鋭く研いである。枝の部分は元々は白木だった様だが使い込んでまるでラッカーを塗ったようにこげ茶色にてらてらと光っていた。

 こんな大事な物、本当に貰って良かったのだろうか? 軽く受けてしまったが、あまり適当なことをすることが出来ないな。

 僕は少し後悔してしまった。せっかく貰ったのに三日坊主で終わってはチョ・ハさんはきっと悲しむだろう。

 貰った素材は小ぶりで銘木と言うほどでも無かったが黒光りをしていて、その辺で拾ってきた物ではなさそうだった。拾ったものだとしても大分吟味したに違いない。

 これもチョ・ハさんが非番の日に山を散策して手に入れた物だろう。大きさも大きめタンブラー程度しかないから、いきなりこれでチャレンジしても何度も削ってしまいきっと凄く小さくなっては大変だ。せっかくチョ・ハさんが持ってきてくれたものだ、粗末にするわけには行かない。最初は他の木切れを調達して、それでチャレンジしよう。


 僕は気を紛らわすついでに、最初の転移場所、つまりユリアと出会った森を散策していた。ひょっとしたら彫刻の練習に丁度良い木切れが見つかるかもしれない。

 日本で言えば季節は丁度晩秋のあたりか、昼間はともかく夕方くらいになると肌寒くなってくる季節だ。

 父の形見のブライトリングで時間をみると一五時くらいだ。夕方にはまだ時間があるが、日も傾いてきて、あと一時間もすればそろそろ暗くなる。

 寒くならないうちに帰らないと、風邪を引いてしまう。しかし、どうやら僕は道に迷ってしまったようだ。それにお腹も空いてきた。当たり前だ。朝食もろくに取らず、昼食だって取ってないのだから。

 何処かに飯屋は無いのだろうか? 有るわけが無い。此処は森の奥だ。日本だってこんな所に食事処なんて滅多に無い。観光地ならまだあり得るが、此処は観光地では無くただの森だ。人家だって無い。

「まずいな。速く帰り道を見つけないと」ぼくはひとりごちた。

 未だ赤い巨大な太陽が照らし続けているがエネルギーは乏しいようで見た目より熱く感じられない。

 この太陽はもうじき死を迎えるのだろう。もっとも何億年も先の話だ。カロン/セルリアの住民たちには暫く関係無いだろう。それまでに播種船を建造して宇宙に脱出していれば良いのだが。

 いずれにしろ今の自分にはどうも出来ないし、関係も無い。それよりも速く家路につかなければ。

 太陽の位置から考えると、反対方向に移動しなければならないのは確実だ。ただ、道らしい道が見つからないのでどうしても遠回りせざる終えない。

 太陽の向きには道があるのでしばらくはそちらに行くしか無いだろう。

 取りあえず十分程度歩いてみよう。それでも見つからなかったら、何か別の方法を考えなくては。

 ユリアと出会ったときのように誰か居れば良いのだが。もしくは人家や木こり、狩人でもいい。


 暫く歩き続けた。時計を見るとすでに二十分強歩いていたことになっている。これ以上この道を歩くのは危険かもしれない。他に道らしい道は無いかと辺りを見まわす。

 するとなにか暖かい湿った空気に乗ってうっすらと鰹だしのような香りが鼻孔に入ってきた。

 民家があるのか? それとも誰かが魚でも焼いているのだろうか? 釣り人でもいるのだろうか? 

 しかし、この森の辺りに魚が居るような川や湖などは無いはずだ。でもこの鰹だしのような臭いは何処かで人が魚を調理している臭いだ。だれか人がいるに違いない。

 僕は一抹の望みをかけながら臭いのする方を辿っていった。

 だが、ものの数分も経たないうちにその臭いの元が判った。

 遠くの方に何か建造物がある。さほど大きくもない民家とおぼしき、こじんまりとした建物だ。

 さらに近づくと暖簾を思わせる白いぼろぼろの布きれが掲げられているの見えた。

 まだ数十メートル先なので判別できないが、店名と思わしき何かの文字が書いてあるように見えた。

「やった、店だ。何かの店にちがいない。助かった」僕は希望に打ち震えて、足を速めた。

 暫く歩き、ようやく字が判別出来るようになった。その暖簾とおぼしき、白いぼろぼろの布きれには、

「सरस्वतीベンティーナ」と書いてある。

 前半の部分は何語だろうか? 御墓のお塔婆で使用する梵字に似ている。そして横には漫画チックな女性の顔の絵が書き込まれている。

 ともかく、これは何かの店に間違いない。しかも店から漂う鰹だしの臭いからすると食事処の可能性が高い。

 助かった。腹ごしらえも出来る。もし食事処でなくとも麓までの道順くらいは教えてもらえそうだ。

 さらに近づくと、ざわざわとどこからともなく何かの音が聞こえてくる。

 川だ。川など無いと思っていたがちょっとした谷があり、小さな川が流れている。そして、その川沿いに人が数人並んでいることもわかった。ますます、此処は何かの店であるこが確信できる。

 僕は手っ取り早く行列の端に居る人に声をかけてみた。

「これは何の行列ですか?」

「ラーン店ですよ」

 僕より少し若いだろうか? 少年のような風貌の男性が不思議そうな顔でそう答えた。

「あ、そうなんですか? 助かった。丁度お腹が空いてて何でも良いから食べたいと思っていた所なんです」

 男性はますます不思議そうな顔で、

「この店の事、ご存じないのにわざわざここまで来たのですか?」と言った。

「いや、実は散策しているうちに道に迷ってしまって、偶然此処に来てしまったというわけです」と、僕は今までの経緯を説明した。

 彼は人の話を疑わないタイプの様で、僕の話に時たま質問することもあったが、基本的に静かにうなずきながら聞いていた。

 最後に彼は、「そういうことでしたか。なるほど。こんな山奥にあるこの店に偶然来るわけ無いですもんね」と静かに納得するだけで、疑いの兆しも無かった。

 おとなしそうだが、なかなか素直で感じの良い青年だ。

「お恥ずかしい。ところで此処はラーン店とおっしゃってましたが、どんなのがお勧めなんですか」話が弾みそうな雰囲気だったので、続けて尋ねてみた。

「そうですね。此処はラーンの他に、ツケというも有るのですけど、私は初めて来る人には何時もそのつツケをお勧めしてます。何しろ麺がとてもおいしい店ですからね。実際ラーンより、ツケを頼んでる人のほうが多いくらいですから」

 この青年は此処の常連らしく、饒舌に語り始めた。

「実は裏メニューで油メン、冷やし油メンと言うメニューもあります」

 裏メニューの冷やし油メン? それは興味深いな。

「ですが、これは初見の人には勧められません」

 初見には薦められない? マニア向けのメニューなのか?

「やはり、初めての人にはツケを頼んで欲しいですね。これでメンの旨さを堪能して欲しい。この旨さが判れば、もうこの店の虜ですよ」と彼は自慢げに言った。

「では、貴方も今日はツケなのですか? それとも冷やし油?」と、僕は尋ねた。

「いえ、私は今日は塩ラーンにするつもりです。というか殆どこれしか食べませんが」

 おい、人にはツケ勧めて自分は塩しか食べないんかよ?

「塩? そういうのもあるんだ。じゃ、塩の方が良いかな?」

「いや塩は一通りメニューを制覇してからの方が良いですよ。私みたいにいきなり塩ラーン食べて、それ以外もう食べない、ってなったら勿体ない」

「そういう物かね?」そんなに美味い塩なら最初からそれにしたいよ。

 でも僕は律儀にもツケにしようと決めていた。なぜなら、此処に来てから、そういうつけ麺的な物はラーメン、日本そば含めて食べてないので、久しぶりに食べたくなったからだ。

 ちょっと僕は意地悪な質問をしてみた。

「ではそういう君は、やはり全メニューを制覇したんだ?」

「いや、残念ながら未だなんですよ」と、彼は悔しそうな顔をして言った。

「たまに限定でカニや海老などのラーンも出される事もあるんですが、滅多に出されること無くて、出たとしても朝一で並ばないと無理なのです」

 限定カニ? 限定海老? カニ出汁、海老だしなのか? それとも麺の上にどっかりと海老カニが載っているのか、謎だが限定と言う言葉が気になった。

「じゃ、気合い入れて朝一に行こうってなったことないのかい?」またしても意地悪な質問かもしれない。

先生・・軍団という超常連グループが先に着て食べ尽くしてしまうからです」と、彼は目に悔しさをにじませて答えた。

 戦士・・軍団となんとも強そうな恐ろしい名前だ。兵士の集団が斧でも振り回しながら全ての限定を食い荒らしてしまうのだろうか? なんとも恐ろしい響きだ。

「随分と物騒な連中みたいだね。そんな奴等を出し抜いて並ぶなんて危険だな。じゃ、限定品は運がよほど良くないと食べられないんだね」

「物騒? そんなに恐ろしい人達では無いですよ。むしろ紳士的な方達です。それに逆らうなんてとんでもない話ですよ」

 へえ、戦士なのに紳士的なのか。きっと同じ戦士でも大将とか上のクラス人達なのかもしれん。

「いろいろ教えて貰ってありがとうございます。僕はこの店は初めてなんで、お勧めのツケにしてみます」

「それが賢明です。ところでツケがどういう物かご存じですか?」

「ツケと言うくらいですから、スープと別盛りのメンがあって、そのメンをスープにつけて食べる料理ではないかと思いますが」

「その通りです、よくご存じですね。此処以外のラーン店にも行ったことあるのですか?」

「この国に来てからはジラーと言う店しか行ったことがありませんが、実は祖国にも似た料理が有りまして、そこで食べたことはあります。もちろんこんな行列が出来るようなお店ではありませんがね」

「なるほど、ところでジラーってどう思います? 私は少し苦手でして」

 ああ、判る。確かにあの味と量は人によっては受け付けないだろう。

「とにかく量が多すぎですね。適量なら美味しいのでしょうけど、なかなか少なめを頼める雰囲気ではなさそうですし」

「私はどうもあの盛り付けの汚さとワブのしつこい味が苦手です。一度物は試しとチャレンジしましたがダメでした。ところで祖国とおっしゃってましたが、やはりシイナから来られたのですか?」

「いいえ、違います。ご存じないかもしれませんがニッポンという国です」

「ニッポン? えっと、カロンがかつてそう呼ばれてたのはご存じですか?」

「初耳では有りませんが、知りませんでした」

「初耳では無いというと?」

「ミイタの市場にいた人がカロンがかつてニッポンと呼ばれてたという伝承があるみたいな事をいってたからです。でも他の人にはそんな話は聞いたこと無かったので」

「そうですか。でもそれは当然です。ニッポンと呼ばれてた説を知っている人は考古学者などごく一部くらいですから。

 それにしても不思議です。既知の国でニッポンという名前の国は聞いたことありませんね。私は大学で歴史と地理を専攻していますから大抵の国は聞いたことあるはずなのですが…」

 とても自分が異世界から来たなんて言えない。

「実はまだ此方の国とは国交を結んでないくらい遠い国なんですよ。まだシイナより先に行かれた方はこの国には居ないのでしょう?」

 この国は世界でかなりの力を持っているほうだが、依然全世界を探検し尽くしているわけでは無い。

 航海技術なんてまだ大航海時代以前の話だ。かつてのアメリカ大陸を知らずにインドと勘違いしていたように、未知の大陸から来たと言っても通用してしまうはずだ。

「まあ、そうですね。シイナより先はまだ未知の世界です。何しろシイナとも国交を結んだばかり。

 しかもシイナは強力な軍事力で、セルリアでも手を出しかねる相手ですからね。そんな相手の国を横断していくなんて無理があります。

 かといって東側は大洋があるため陸路での交流は不可能です。船乗りたちが新天地を求めて大洋を渡ろうとしましたが、小さな島があるくらいで、国と呼べるような代物はまだ見つかってませんからね。

 それより先はいつも嵐でとても進めるような場所ではありませんし」と青年は半分納得しつつも、やはりニッポンについて気になる様で、

「ではニッポンはシイナの先にあるのですか?」と僕に尋ねてきて。

「おそらく」としか言いようが無い。これ以上何か言ってもボロが出る。

「おそらく? というと?」

 ほうら、突っ込んできたぞ。なんとか誤魔化さなくては。

「実は此処に来たときの記憶はまるで無いのですよ。

 私も学生、正確に言えば大学院という課程なのですが、とある日に雷に打たれて意識を失っている間、何者かにこの国へ連れてこられたのです。

 その時の記憶は一切有りませんが。ここの国の皆さんも私もお互いの国のことを全く知らないということですから、恐らくシイナよりさらに奥にある国からなのでは無いでしょうか。そう例えれば辻褄は合います」ちょっと苦しい説明だな。納得するだろうか?

「しかし、シイナでさえ行くのには海路で何日もかかるのに、さらに遠い国なんて、途方も無く時間が掛かりますよ。とても気絶している間に移動できる距離ではありません」

 ああ、移動時間を考えてなかった。

「まるっきり不可能では無いですよ。かの国にはヘレスなる空を飛ぶ生き物が居て、シイナの端から端を数時間で移動出来ると聞きますし、テラの反対側に一瞬で移動できる魔法を使える者も居ると聞きます」そんな架空の生き物のおかげなんて、馬鹿げた話を信用してくれれば良いのだが。

「竜(と彼はヘレスの事を解釈したらしい)とか魔法なんて、現実的ではないでしょう」

 やはり、このはったりはちょっと無理が有るか。まあ、普通はそんなはったり効くわけ無いのは当然なのだが。

「まあそうなんですけど、実際に僕はニッポンと言う国の出身で、いつの間にかここカロンに連れ去られてきたというのは事実です。ヘレスや魔法の件は非現実的なお話かもしれませんが、自分でも説明はつかないのですよ」僕がそう説明すると、さすがに青年もそれ以上の質問は無駄だと悟った様で、黙ってしまった。

「とにかく私はこの風貌からお判りと思いますが、この国の出身ではありません。そして、此処に来た経緯は全く記憶に無いのです」

「そうですか。まあ納得しました。実は貴方は我々より、シイナ人と似ているので少し疑っておりました」と、青年は大きく息をついて言った。

「ただ、絵空事のような話ですが時間旅行者なのではなんて思いましてね。最近時間旅行者と自称する方がいるという噂が多いのですよ。未来からやってきたとかね」

 時間旅行、その発想はなかった。しかし、ここは過去とは思えない。文化等はなるほど過去のヨーロッパ圏に類似しているが、国名や歴史とは乖離している。我々が知らない別の歴史があればありえるが。

「時間旅行? それはあり得ないと思う」

 実は僕はタイムトラベルに関して否定的な立場だ。もちろん相対性理論により未来に行くことは可能であると証明されているが、逆に過去へ戻る事なんて不可能だとされているからだ。

 だいたい、此方は文化的には過去のヨーロッパと似てはいても、史実には無い全く別の世界だ。生態系も異なる。

「いやいや冗談ですよ。そんなのは子供向けのお話です。誰かが酒の席でほらでもの吹いたのでしょう」と、彼は苦笑いで答えた。

 さすがにドラゴン、魔法を非現実的と言った尻からタイムトラベラーの話を持ち出してきた自分のことを恥ずかしく思ったのだろう。

 彼はまだ苦笑いが残る顔で店の方に振りかえると、「そろそろ私たちの番みたいですよ」と言ってスタスタと店の前まで行き手招きをした。

 彼はずたぼろになった暖簾をめくり扉を開けると、一緒に入るよう僕の袖を引っ張った。

 店の中に入ると六十代とおぼしき男性と二十代前後の男性数人で切り盛りをしている。

「ここのメンマと肉はとても美味いから、一緒に注文した方がいいですよ」と彼は僕に耳打ちした。

 一瞬僕の脳裏に元の世界で先輩に騙された過去が一瞬頭をよぎった。まさか、彼が僕を騙すとは思えないから、以前のようなあり得ない量を注文する呪文では無いと思うが。

「注文は何しますか?」と、お弟子さんとおぼしき男性の一人が少年に声をかけた。

 お弟子さんは全員で三人で、比較的痩せてておとなしそうな理系っぽいタイプ、柔道か相撲でもやっているぽいガタイの良い男性、すこしぽっちゃり気味で眼鏡をかけたぼーっとした感じの男性。

 注文を聞いてきたのはそのうち柔道家の様な男性だ。雰囲気的には弟子の中でも古参でリーダクラスっぽい。他の二人はネギを切ったり、片付けを担当して居てメインの調理は任せられていないが、店主が忙しい時は代わりに麺茹でを見たりしている。

 少年は悩むことも無く、即答で「塩、メンマ、肉、あとビーリ」と答える。

 え? ビーリってなんだ? 

 僕はビーリがなんだか判らず気になった。名前からしてビールの事か?

「そちらの方、ご注文は?」とお弟子さんが僕に尋ねる。

「僕はチャーシューメンマつけ麺で」

「は?」と『柔道家』は困惑した表情をする。

 おっと日本に居るときのように普通に注文してしまった。

「いや、肉、メンマ、ツケで」と僕は少年に倣って注文した。ビーリはなんだか謎なので頼まない。また、あほみたいにトッピングされても困るからだ。

「ツケ一、塩一入りました!」と『柔道家』が大きな声で厨房にいる店主に注文を伝えると、店主も「あいよ!」と怒鳴り声で答える。

 店主はなかなか気難しい雰囲気だ。ただ客に対して態度が悪いわけでは無いが、なかなか機嫌を損ねるとめんどくさい雰囲気ではある。

 ラーメンが出来上がる迄、僕は少年からメニューに関して色々と話を聞いていると、ががらがらと戸口が開く音が聞こえてくる。新しい客が入店だ。

 その客は丁度前客が席を立ったので、入れ替わるように僕の隣に来た。

 顔を合わせたわけでも振り返ったわけでも無いが、ものすごい圧迫感を感じる。吐く息も聞こえてきそうな程、そばに居る気配を感じる。やがて否応なしに僕の視界を大きな物体占めてきた。そいつは見るまでも無く、かなりの巨漢だった。

 そして、開口一番に、

「ツケ、特盛りで、肉とメンマ、たまご、ねぎ」と太りすぎで声帯を押しつぶされたようなかすれ声で言う。

 一瞬店内がわさわさとざわついた。

「そんなもん食えるのか?」「かなりの量だぜ」「あの体格ならいけるんじゃね?」などの声が聞こえてくる。

 つけ麺特盛り? そんなに量が多いのだろうか?

 店主は、少し切れ気味になりながら、

「アンタ、初めて見るけどそんなに食えるの? 特盛りのどんぶり、これだよ?」と白い洗面器のようなどんぶりを持ち出して彼の目の前に突き出した。

 巨漢は一瞬考え込んだが、その後躊躇無く、

「大丈夫っす」とだけ答えた。

 特大のどんぶりを差し出して、大丈夫と言われたらさすがに店主も了承するしか無かったのだろう。渋々といった感じでどんぶりを調理台におくと、麺箱から大量の麺を取り出し、大鍋に放り込み始めた。

 あの大鍋の中に自分の分も入っているのだよな。あの巨漢のとばっちりで麺の量が減らされでもしたらかなわん。自分だってお腹がペコペコのハラスキーなのだ。

 だがこの懸念も直ぐ後に全くの杞憂だったと判る。

 店主は大釜で麺を茹でている間を見計らって、具のチャーシューを短冊切りにざっくざっくと切っていく。

皆肉入りを頼んでいたのだろうか? それほど広くないカウンターにはせいぜい十二人くらいしか座れないし、そのうちの半分くらいはすでにもう食べているから、いまの鍋の中にあるのは、せいぜい六人分。その六人分にしてはずいぶんな量のチャーシューを刻んでいる。

店主はチャーシューをひととおり刻み終わると、異なるチャーシューのブロックを奥からとりだして包丁で薄く切り始める。薄いと言っても普通のラーメン屋と比べたら結構な厚みだ。

 こちらのチャーシューは、ある程度切り分けると今度は短冊切りはせず、そのまままな板上に放置。用途が異なるのか、次回の分なのかは今のところ不明。

 そして、今度はどんぶりを調理台に並べ、その中にスープを注ぎ込んでいく。どんぶりは白い大きなどんぶりと黒い一回り小さいものの二種。恐らく小さいのはつけ汁用だろう。

 スープが注ぎ終わると今度は具材の盛り付けだ。想定通り黒いどんぶりから先に具材を盛り付け始める。もし、ラーメン用だとすれば、白いどんぶりは麺盛り付け後に具材を置くのだろう。

 先ほど刻んでいた短冊入りのチャーシューはすべてこの黒どんぶりに盛り付けられた。一方、白どんぶりにはスープ以外何も入れておらず、薄切りのチャーシューはまな板の上のまんま。想定通り、短冊チャーシューはつけ麺用、薄切りのチャーシューはラーメン用なのだ。

 そして、驚いたことにつけ汁の椀にはチャーシューの横にさらに、これまたてんこ盛りにメンマがこれでもかと豪快に盛り付けられた。

 ジラーの野菜よりは控えめだが、ただのもやしとメンマでは訳が違う。これでも常識はずれの量だ。これで麺を大量に盛り付ければ、ラーンジラーに匹敵する。

 そうこうしているうちに麺が茹であがったようだ。先ずは、大量の麺が隣のシンクに置いてある大ざるに放り込まれていく。すでに体格の良い弟子がざるの前で待機しているからきっとつけ麺用の麺を水で締めるために違いない。

 次に既にスープを注ぎ込まれているラーメンのどんぶりに一人前ずつ盛り付けられていく。もりつけはジラーのようにおおざっぱではないようだ。だが、麺はジラーに匹敵するほど多い。

 どんぶりの麺が盛り付け終わると、さっき薄切りしていたチャーシューとメンマ、薬味類を盛り付けていく。

 となりでは先ほどの『柔道家』が蛇口から水をじゃかじゃかだして麺を締めている。

「はい、ラーン」

 店主はラーメンを注文した客から順に盛り付けられたどんぶりを置いていく。ジラーのようにトッピングや辛めなど味の好みはいちいち聞かないようだ。

 次に、店主はコンロ上の小鍋からレードルで何かを掬い、調理台にある提供待ちのラーメンに(正確に言えば盛り付けられた薬味の上に)そっとかけた。

「バリバリバリジュッ」どんぶりの上で何かが大きな音をたてた。かけた物質は油だ。香ばしい香りが漂ってくる。

「はい、塩ラーン」

「塩ラーンメンマ」

「塩肉メンマ」

「塩肉メンマ大盛り」

と次々にどんぶりをカウンターの上に置いていく。

 そして、「塩肉メンマね」と、隣席にいる少年(巨漢じゃない方)の目の前に大振りどんぶりを置く。

 香ばしいネギ油の香りが鼻孔を刺激する。とても美味そうだ。

「結構塩ラーメンは人気あるようですね」

 僕が彼にそう尋ねると、まるで自分が褒めあれたように彼ははにかみながら、

「そうでしょう! ここベンティーナの大傑作ですからね。一通りのメニュー試したら是非頼んでみてください。きっと感動しますよ」と嬉しそうに言った。

 そして彼はレンゲでスープを一口啜ると絵にも言われぬ表情で幸福そうな笑みを浮かべると、すぐさま勢いよく麺を啜りはじめ、まるで犬のようにがっついて食らい続けた。

 もう何があってもたとえ地震が起きても食べ終わらないかぎり動かないのでは無いかというくらいに食べることに集中している。知らない人が見たら少し引いてしまうだろう。かくいう僕も少し引いてしまったのだ。

「はい、つけメンマ肉」と僕のカウンターの目の前に少し黄色がかったつややかな麺が入った大きな白いどんぶりとチャーシューとメンマがたいそうな量入ったスープ用の黒どんぶりが置かれた。

 これはさっき盛り付けしていたものだ。

近くでみて改めて思ったが、ジラーほどでは無いが、やはり凄いボリュームだ。

 顔を近づけなくても判る程に濃厚な香りを漂わせるどんぶりに注がれたスープに僕はレンゲを沈め、その茶色に濁った液体を掬い、口元に近づけると、芳醇な香りが僕の鼻孔を悩ましいほど刺激し、口中に大量の唾液を分泌させた。

 ついにはその芳香からの誘惑に抗えなくなり、レンゲの中からあふれ出そうなその汁を啜る。思わず「うん、これだこれだ。美味い」と唸ってしまった。

 ジラーのような本能だけに訴えかける味と違い、理性で味わうような上品でそれでいてがっしりと掴んではなさない濃厚な味わいが僕を虜にした。

 続いて隣の青年が薦める麺を少しこのスープにつけて啜ってみる。

「おう、これは旨い!」

 なんという麺だ。ジラーのような常識破りの太さでは無いが、コレもまた適度な太麺で、それでいて全く異なるツルツルとした食感。

 ジラーのような低加水のぼそぼそした、食欲を直接刺激して味覚を強姦するような味では無く、小麦粉(かどうか判らないが、もうどうでも良い。小麦と言ってしまおう)とはこんなに美味い物なんだよと思わず納得してしまうような説得力のある麺だ。

 続けて肉を食らう。短冊切りにされたチャーシューはほどよく味付けされ、肉の旨みがにじみ出ている。この柔らかさはロース肉のようだ。これもワブの肉だろうか? 豚肉に似た味だ。だが、思いのほか量も多い。まさに、これでもかという位入っている。

 チャーシューは元々温めてあるわけでは無く現状でも少し脂肪が固まり、バターのようになっている。

 もりそばの様に冷たい麺をつゆにつけて食べるという料理なので、温かい汁も直に冷めてしまうのだが、そのことで脂肪が固まりやすくなり、チャーシューの食感に悪影響を与えかねないという懸念がある。以前大学の近くの食堂で冷やし中華を食べた際、チャーシューが冷えていて不味かった覚えがあるから、なんとなく想像出来る。


 少年はメンマと言ってはいたがは、別な物が出てくるのでは無いかと内心不安だったが、コレはどこからどう見てもメンマだった。

 一口食べてみる。まさに味、食感はメンマそのもの。しかしこの国に竹なんてあるのだろうか? 

 日本の場合は中国台湾からの輸入がほとんどだけど、この国でもシイナからでも輸入しているのだろうか?

 いずれにしろ興味深い。セルリアと日本、異なる世界で異なる食文化。しかしラーメンだけは似ている。他の文化はどちらかというとヨーロッパ的なのに此処だけ同じなんて不思議な話だ。

 しかし、これも異常に量が多い。美味いけど、これだけでお腹がいっぱいになってしまう。

 だが量は別としてチャーシューもメンマも実に美味い。これは少年が言っていた通り、やはり絶対に頼むべき代物だ。

 暫く食べ続けていて僕はあることに気が付いた。このスープ、メンマ、チャーシュー、これらが三位一体となって麺のうまさを引き立てる。まさに完璧なラーメン(つけ麺)ではないか? これらのどれか一つがかけてもこの味は再現しないだろう。

 僕はむさぼるように、ひたすら麺をスープに漬け、チャーシュー、メンマと一緒に豪快に大口をあげて喰らい続けた。至福のひとときだ。しかし、この幸せも長くは続かない。もっと食べたいと思った頃には麺はあと一摘まみ程度しか残ってなかった。

「お、初めてにしてはよく完食出来ましたね」隣の少年がそう言って僕に話しかける。

 恍惚としていたがその言葉で現実に引き戻された。麺の入った白いどんぶりは既に空。スープの入った黒いどんぶりはかすのような肉片と数本のメンマ、薬味がちらばっているだけだ。スープの上には固まった脂肪がゴミのように浮いている。

 つらいときは時間の経過は長く感じるのに比べ、幸せな気分はあっという間に過ぎてしまう。

 僕が虚無感を感じているような表情をしていたのだろう、少年は僕に、

「この残りスープに暖かいスープを足して貰ってみてください、『スープ下さい』と言うだけで大丈夫ですよ」とそっとささやき教えてくれた。

 なるほどスープ割りか、その発想はなかった。

「スープ戴けますか?」

「はいよ、どんぶりカウンターに乗せて」

 店主が笑顔で答えた。意外に偏屈な人ではなさそうだ。雰囲気にすっかり騙されていたようだ。

 カウンターにどんぶりを置くとひしゃくで熱々のスープたっぷり冷えたスープに足してくれた。

 僕は味噌汁を飲むようにどんぶりに口を近づけ啜ってみる。

「お、美味しい! それに暖まる」小声ではあるが僕は思わず口ずさんだ。

 まるで、上品なお吸い物プラス力強い出汁が感じられる。磯ですする荒汁のようなしみじみと美味しい味だ。つけ麺で少し冷えたからだが凄く暖まる。

 それにしても、もうおなか一杯だ。自分には少し量が多すぎるのではないかと思った。

 でもあの麺はあの少年がいうまでもなく絶品だと思う。つるつるしていてすごくおいしい麺だ。ジラーの麺みたいに小麦の固まりのような食感とは対局にある。

 此処だけの話、あの麺だけでも此処は良いくらいだと思える。だがチャーシューとメンマもこれまたうまい。

 チャーシューはともかくメンマも自家製だろうか? こんなところにメンマを作っている場所なんて何処にも無さそうだが、まさか材料から手作りと言うこともあるまい。どこからか材料は仕入れているに違いないが、勿論自家製だろう。

 また此処に来てみたいが、また来れるのだろうか?

「ところでどちらから来られたのですか? ミイタですか?」と、例の少年が聞いてくる。

「いやいやそんな都会じゃないよ。ミイタからはクルウマーで三十分くらいのところかな」

 僕はあえてフランチェスコ伯爵の名前は出さなかった。

「それまたずいぶん田舎なのですね」と彼は少し笑いながら言った。

 田舎だろうか? 確かにノンマルトの森の端にあり、周りには伯爵がオーナーのリンゴ農園に囲まれている。

「とある方に厄介になってて、ご子息の家庭教師してるんだ。もっとも、あと半年程経てば、お役ごめんだけどね。ところでさっきも話したけど実は道に迷ってて、ミイタでもタマティでもよいので帰り道を教えて欲しいのだけど…」と、僕は道に迷っている事実が少々恥ずかしかったせいもあり恐る恐る尋ねた。

「なんだそんなことでしたか。行き方はさほど難しくありません。歩くならこの川沿いを歩けばいいんです。でも結構(距離が)ありますよ」

 そうか、フランチェスコ家の屋敷があるノンマルトの森からミイタまでも歩くには結構かかかるしな。ましてや森の中、山道ほどでもないが道は平坦でもない。ノンマルトの森までの道はわかるだろうか?

「ノンマルトですか?」

 僕がノンマルトの森への道順を尋ねると彼は首を傾げた。この辺で有名なフランチェスコ伯爵の領地だが、知らないのだろうかと思っていたが、その心配は稀有に終わった。

「ちょっと方向が違いますね。ノンマルトの森はあちらの方ですから」と、彼は川を背にしてベンティーナの向こう側を指した。

 なんだ、歩いてきた方角じゃ無いか。やはり僕はまるっきり反対方向に進んでいたのだ。

 普通はノンマルトの森に用事ある人なんてそうは居ないから、彼も詳しくは無いだろうとたかをくくっていたが、意外にも知っていたみたいだ。助かった。

「だけどちょっと行き方が厄介ですよ。一本道ではなく、かなり曲がりくねってますし、目印のようなものもありませんから。それにノンマルトの森には恐ろしい噂もあります」

 恐ろしい噂? そんな話は聞いたことも無い。事実、僕は其の森が領地で屋敷もその端にあるフランチェスコ家にやっかいになってるわけだし。

「噂というと?」僕は自分も知らない事を疑問に思い、どんな噂か尋ねてみた。

「入っていった人が戻ってこなかったり、恐ろしい病気で死んだりすると言う噂です。それに蛮族が侵入してくると言う話もあります」

 ちょっと、待て?

「蛮族だって?」と思わず声を上げてしまう。

「うわさなので真相はわかりませんが、とにかく身なりが我々と異なり、言葉も通じないる輩が徘徊しているとのことです。

 中には見たことも無い武器を携えてそれで村人から金品を脅し取ったり、酷いのになると虐殺されたりすることもあると聞いてます。でも死んだ方がマシかもしれません。

 やつらは、若い娘を強姦することも有ります。そしてやつらの子供を孕まされます。生まれてきた赤ん坊は、蛮族そっくりで、針の様な細い目をしていて、頬骨が大きく張り出し、耳元まで裂けた口のとても醜い容姿だそうで、大抵の女性はショックを受けて、その後不幸な決断をせざる負えなくなる様です」

「つまり?」僕は思わずゴクリとつばを飲んだ。なんとなく言わなくても判るような気がする。

「自身で赤子と自分の命を絶つと言うことです」と彼は悲しい目で言った。

「それは酷い話ですね。でもなんで施政者は兵士を置いて守らせないのですか?」

 いくらなんでもそんな話は信じられない。なぜなら、そんな事件があるなら、耳にも入るし、伯爵もそれなりに警備するだろう。それに僕が最初に転移して、ユリアと出会った場所だ。

「ノンマルトの森を管理しているのは貴族のフランチェスコ伯爵ですが、あのお方はそういう噂を一切否定していて、兵を置こう等としないからです。兵を置くにも費用がかかりますからね」と、彼は大真面目に言う。

 あまりにも真剣な顔だから、あながち嘘とか冗談とか悪意を持って言っている様には思えなかったが、そんな話は初めて聞いた。伯爵もユリアもそういう話はおくびにも出さない。

「ただ蛮族はともかく凶暴な動物も生息している事は確かです。特に夕刻以降は安全なところではありませんよ」

 あの森にそんな凶暴な動物が居るのだろうか? 熊とかイノシシの類いさえ聞いたこと無いのだが。

「僕は遭遇したことはありませんが」

「運が良いだけですよ。ノンマルトの森だけの話ではありませんが…。とにかく、夕刻以降に森の中を移動するのはあまり良い手段とはいえません。

 実はこの川には定期的に連絡船があって、それに乗れば取りあえずはミイタまで行けます。下りですからあっという間に着きますよ。少しお高いですけど、歩いてミイタまで行くことを考えたら、むしろ安いくらいですよ」彼は懐からさっと懐中時計を取り出し、「ちょうど良かった。あと少しで船が着きますよ。急ぎましょう」と言った。

 此処ではまだ腕時計は発明されておらず、まだ懐中時計が主流だ。だがその懐中時計も高価な物なので、持っていると言うだけでかなり裕福な階級出身と思われる。

 彼は僕に付いてこいと言うように目配せすると、急ぎ足で川の下流方面を目指して、進んでいった。

 船着き場のある岸までは直ぐたどり着いたが、生憎、そこから船着き場までのアクセスはそれほど楽では無かった。なぜなら、其処までの経路は足場の悪い谷の崖を降りていかなければならなかったからだ。

 それでも此処を行かざるを負えないので、手のひらをすりむき、膝を泥だらけにしながら四苦八苦をしてようやく降りると、既に船着き場には連絡船が到着していた。

 船は屋根付きの小舟で長い櫂を持った船頭が一人居るだけだった。下りはそのまま川の流れで降りていくのだろうが、上るときはどうやった来たのだろうか? とくにモーターなどの動力源は無い。

 そういえば水運の盛んだった江戸時代もモーターなんて無い。あの時代はどうやって川を上ったのだろうか? 今考えると不思議だ。きっと小中学校で習ったのかもしれないが、全く記憶に無い。

 今までそんなことを気にすることなんて無かったし、気になったらウェッブで調べれば簡単だったが、この時代はそのような事を調べるのも一苦労なのだと実感した。

「船頭さん、二人お願いします。私はカムデンまで、こちらの方はシバールまでで」

 シバールはミイタにある港の名前だ。

「おう、じゃカムデンの兄ちゃんは7万ポスクレッド、シバールの兄ちゃんは10万ポスクレッドな」

 10万ポスクレッドは少し高いなと、思ったがこの場はおとなしく払うことにした。なにしろ、変にへそを曲げられても困るからだ。それに歩いていくよりは十万ポスクレッドを払うほうが遙かにましだから。

 僕は少年に十万ポスクレッド分の銀貨を預け、一緒に船頭に支払ってもらった。

 川の流れはこんな山の中にもかかわらず、意外とゆっくりだった。にもかかわらず船は結構な勢いで飛ばしていく。

 動力源もなしでこんなにもスピードを出せる物なのかと思ったが、水中をよくよく見て、疑問が解決した。

 エイのような生き物が数匹で船を引っ張っているのだ。どうやらこの船の動力源はこいつらだったらしい。どうせまた魔法とやらの力なのかもしれぬ。

「えっと、名前をまだ聞いてなかったね。僕はユウキだ。君は?」と、船着き場から離れ、船が巡航速度になり安定してきたのを見計らってから、その少年に尋ねた。

「お名前ありがとうございます。僕はトシと言います」と少年ははにかんでいった。なぜか弟の様な感じだ。

「ありがとう。トシ。ところでさっきの話で気になったのだけど、ノンマルトの森に立ち入った者が行方不明になったり、原因不明の病気になるって話だけど、珍しくない話なのかい?」僕はさっきのノンマルトの森の話が気になって仕方無かった。

「ええ、その話は結構有名ですし、知り合いの知人にも実際に被害に遭った方が居るそうなんです。まあ、『知り合いの知人』なんて、どこまで本当か判りませんがね。ただ、行方不明と言うのは実際に噂レベルだけの話では無いようで、帝国からの布告でも出るくらいですから、かなりの信憑性はあります」

「しかし、ノンマルトの森はフランチェスコ伯爵の領地なのに、関係ない輩が何故そんなに立ち入ったりするのかい? 猟師というなら判るけど」

「ええ、実はノンマルトの森にはお宝が隠されていると言う話で、例えば魔法道具とか、見たこともない宝飾品などが手に入るなんていう噂です。一時は…と言っても、私が生まれる前の話らしいですが、かなりの数の冒険者や盗賊などがノンマルトの森を目指したと言う話です。もっとも実際に戦利品を手に入れられた者はめったに居ないという話ですが」

「なるほど、不思議な話だね」

 確かにそんなお宝があるのであれば、山師などに取ってはどんなリスクを犯してでも行く価値はあるかもしれない。

「でも領主のフランチェスコ伯爵はそんなことを黙って見ている訳はないと思うよ」

「もちろんです。当然ながら一度は立ち入り禁止のお触れも出たようです。そのときは一時は少なくなりましたが、直ぐにもとどおりに冒険者たちがお宝を求めて戻ってきました。しかし先ほどの行方不明や病気の件もあり、また実際にお宝自体の成果も無いことが判って、魅力が無くなっていった様ですね。たぶん蛮族の噂も影響したのでしょう」とトシは言うと一旦川の水面が沈み掛かった赤い太陽の光を反射している眺め、

「それにこれも噂なのですがね、異世界、違う時代に通じる道があるらしいのです」と話した。

 なんですと? 僕はにわかに興味を持った。ひょっとすると元の世界に戻る道なんじゃ無いか?

「その異世界への道はどこに?」

「僕が知るわけ無いじゃ無いですか! ははははは」少年、いやトシはそう言って高笑いした。

 もっともだ。彼は又聞きの噂話をしているに過ぎないのだ。尾ひれも相当付いているだろう。

 僕は元に戻る期待も相まって焦ってしまった。

「おーう! あんちゃんもうすぐカムデンだで!」

 気が付くと川岸はいつの間にやら谷を抜けて平地になっていた。此処は既に市街区域だ。周りに高い建物がたくさんある。

「僕はここカムデンで降ります。よかったらまた会いましょう。もちろんベンティーナで」

 船が船着き場に着くと彼はひょいっと桟橋に飛び移り、僕に手を振って別れを告げた。


 そこからシバールまではさらに倍の時間を要した。カムデンより下流は川の流れも緩慢になり、動力のエイも疲労で力が落ちるのだろう。

 それに、二人で話しているときは話に夢中で時の流れも速く感じる物だが、一人でいると時間が経つのが長く感じるから、体感の時間経過はもっと長く感じる。

 だが、終点のシバールからはスムーズに事が運んだ。

 船着き場には流しのホルセイとクルゥマァが既に客の為に待っていて、わざわざミイタ市街地まで行く必要も無かった。

 僕は時間も考え、少々値が張るがホルセイをチャーターして(なんとクルウマーの倍以上はかかる)、そこからノンマルトの森にある伯爵家まで走ってもらったから、直ぐに屋敷にはたどり着けた。

 既に周りは暗くなっている。よくよく聞くとエイの船は暗くなったら運行が出来ないと言うことだったので、ちょうど良かった。

 これで歩いて帰ったら、本当にいつ帰れたか判ったもんじゃ無い。

 屋敷に着くとすでに伯爵、夫人、ユリアは帰宅していて、すでに居間でくつろいでいた。

「ユーキ、どうした? 居なかったから心配したぞ」

「ご迷惑をおかけしました。実は森の中を散策しているうちに道に迷いまして」

「なんだそうか、森の中をこんな遅くまで危ないぞ。なにしろ、あそこは夜にはオオカミやら大山猫がうろつくからな。でもこんなに遅くなるとは何処まで行ってしまったんだ?」

「迷ってしまって、具体的にどの辺りだったのか、良くは判らないのですが、ノンマルトの森の向こう側まで行ってしまったみたいです。川の手前まででしょうか。恐らくハイリスフィルドの端だと思います」と僕が話した途端、伯爵の態度が少し変化した。気のせいかもしれないと思えるほど微妙なものだが、彼の口ひげの端が少しだけピンと動き、ほんの少し眉をひそめた。

「それはずいぶんと奥の方だな。本当に何も無かったのか?」と、伯爵は平静を装って僕に尋ねたが、どうも何か含みを持っている。

「ええ、大丈夫でした。運良く、人家があって其処に人も居たので、話をして通船があることも教えてもらったので、その船でシバールまで辿りつけました。その先はホルセイに直ぐ乗れたので、特に苦労もなく帰れました」

「そうか、それなら良かった。我が領地ながらノンマルトの森はいろいろ危険だからな。なるべく夜は近づかぬ方が良い」伯爵は少しほっとした表情で語ったが、何か隠している気配がした。

「なんで森なんかに行ったの?」とユリアが不思議そうに尋ねてきた。

 君を忘れたいために決まっているじゃ無いか! と言いたかったが、

「彫刻に向いている木が無いか探していたのです」と答えた。

「彫刻? そん趣味ユッキーに有ったけ?」

 なんでそんなに食いつくのさ! 

「いや、チョ・ハさんが余っている彫刻刀があるから始めてみないかって勧められたのさ」その彫刻をしようなんて考えたのは君を忘れるためじゃないか!

「ふーん。なんか思うことでもあって始めたのかと思ったわ」と彼女はつまらなそうな顔で言った。

 なんだよ、それ。確かにそうだけどさ。何か自分の為に始めたとか言って欲しかったのか?

「ユリア、もうよさないか。ユウキが困っているぞ」

「ごめんなさい。パパ、ユッキー」と、少しふくれっ面で言う。

 ユリアは僕をからかって嫉妬を紛らわすためって認めさせたかったんだろうか? 

 たしかに図星なのだがそれを認めるのはしゃくに障る。

「ところでユウキ、少し話がある。この後私の書斎に来てくれないか?」

 なんか嫌な予感がする。今後の身の振りについてなんか言われるのだろうか? 不安で心臓の鼓動が早くなっているのが判った。

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