第三章 三度ラーメンジラーを食す

セルリア歴5332年蛇の月十


 あれから、僕とユリアは一層親密になっていた。ユリアは夜毎、僕の部屋を訪ねてきて幸せなひとときを過ごすようになっていた。

 結局、「ワブの書」は不気味な所為もあってあれからまだ一度も開かなかった。それに記憶にある限り、何事も本に書いてあることは起きていなかった。

 やはり場末の占い師のごとく、単にそれっぽいことを浮かび上がらせているだけかもしれない。 

 ま、それだけでもとても信じられないことなのだが、本当にこの世界には魔法というのも存在しているかもしれないと思い始めてきた。研究者の端くれでもある僕がそんな事を考えるとまるっきり馬鹿げている。


 【高度に発達した科学は、それを知らない者にとっては魔法に見える】


 SF作家アーサー・チャールズ・クラークの言葉を思いついた。

 自然界の動物のように思えるが高度なナノテクノロジーによるサイバネティック、ハイブリッド動物だったとしたら?

 一件中世風に見えるこの世界も元は現代を超える高度なテクノロジーで発展を遂げていて、何らかの災厄、例えば疫病、自然破壊、隕石などで一度滅び、再興中だとしたら? 考えられなくも無いと思った。

 一方、ユリアの従兄弟、ハーマン皇太子の婚約の儀が正式に決まり、残すところ一年あまりとなっていた。

 ガレス王国は西方にある人口二十万人の小国だ。日本でいえば地方都市程度の規模だが工業が盛んであり、輸入した鉄や、銅などを加工して、帝国内に供給している豊かな国だった。

 ユリアの叔母はここガレス王国の第一王妃として二十年前に嫁いでおり、ハーマン皇太子をはじめ五人の子宝に恵まれ幸せな日々を送っている。

 ハーマン皇太子は十九歳で今年二〇歳と聞いた。しかしここでの一年は四百日、一日は二十五時間だから大学院生の僕と同学年といえそうだ。

 ただし、こちらの人間の成長速度が日本人をはじめとする僕たちホモサピエンスと同じかどうかは判らない。

 皇太子妃になる方については特に情報も無い。ユリアも伯爵も特に教えてくれはくれないし、自分から興味本位で聞くと言うのも野暮な話だから特に尋ねることはしなかった。

 まだ一年以上も先であるにもかかわらず、婚約の儀の日程がきまると、伯爵家の周辺も慌ただしくなってきた。

 当日の打ち合わせや出席のための衣装あわせなどで度々伯爵夫人とユリアが家を離れることが多くなったのだ。短くても半日、長いときは泊まりで二日がかりの時もあった。ガレス王国自体が百キロ以上も離れているため、クルウマーでも半日以上の時間を要するからだ。

 彼女らが泊まりがけで出かけるときは、伯爵も平日は公務のため夜中まで戻ってこないため、屋敷は僕以外はメイドと執事だけになる。コックは伯爵家の人間が居ないときは非番だ。必然的そういう場合は使用人の食事は自分自身で用意しなければいけない。

 実はメイド、執事と僕はあまり交流はない。基本的に住む世界が違うということだと思う。僕はお嬢様おつきの教師、執事とメイドは使用人という立場なので仕方ないかもしれない。

 しかも僕はこの前まで他の世界にいた異世界人、外国人と同じだ。執事はある程度の学も素養もあるがメイドはそうではない。

 前の教師と違い年齢的には近い(彼女たちは一五歳から二十前後だ)が、近づきがたいと言うのもあるのだろう。そんなこともあり執事、メイドと食事を共にしたことがあまりなかったのだ。

 しかし、そんな僕らの微妙な人間関係では珍しく、三人いる執事の中で一番若手のセバスチャンが声をかけてきた。

「M・ユウキ、メンラージラーって好きですか?」

 僕は彼から意外な言葉を聞いて反射的にビクッと体が震えるくらいにびっくりした。

「あまりびっくりしないでくださいよ。普段あまり話せないですが前々からお話ししたいと思っていたのです。年齢的にも同じくらいですし」セバスチャンがそばかすの少し残る顔で屈託なくにこやかに言った。

 セバスチャンの具体的な年齢は聞いてなかったが、見た目、仕草的に同年代なのは間違いなかった。

 彼はブロンドの髪の毛を短く刈り込み頭頂を5センチくらい伸ばしている、いわゆるクルーカットに似た髪型で、というと、いわゆる軍人タイプを想像してしまうが、そういうステロタイプなマッチョ男では無い。

 かと言ってひょろっとした優男タイプや、オタクっぽいガリガリでもはなく、中肉体型で割と社交的な雰囲気がただよう青年だ。

 この国の人間として背が高い方では無かったがそれでも、身長は百七十八センチの僕より少し高かった。

「ごめん、急に話しかけられてびっくりしただけだよ。ところでなんでそんなこと聞くんだい?」

「一月くらい前に、非番でミイタに遊びに行ったんだけど、ユウキがジラーに入っていくのを見かけたのでね」

 しまった、見られてたのか。

「僕もあの店には何回か行っていて、その日も行きたかったのだけれどもね。行列をみて断念したんだ。ユウキはあそこの店には結構通っているのかい?」

「いや、そうでも無いよ。まだ二回目だ」

「そう? でも二回も行っているって事は結構お気に召したんだろ?」

「うーん、一度目は注文を間違えて凄く山盛りが出てきてしまって、正直味は何だか良く判らなかったんだよ。でも肉と麺はまあ美味しかったよ」

「へえ。二度目は?」

「ま、不味くは無いけど、その時も良く判らなかった。また行きたいかって聞かれるとどうだろ?」

「でも良く判らなくても、また食べたいと思っているんじゃ無いかな?」

 図星だった。そう、一日に一度無性に食べたくなるときがある。

「ハハ、やっぱりみんなそう思うんだね。僕の場合も同じだったよ。僕は生まれがもっと田舎のほうだからジラーってここに来て初めて知ったんだけどね。ところで、早速だけど、これからどうだい? 一緒にジラーに行かないか?」

「行っても良いけど、クルウマーなしで行くには遠すぎないか?」

「だいじょうぶだよ。行きの足は確実なあてがある。実はあと少ししたら出入りの業者が燃料を届けに来るはずだ。荷物をおろした後に彼に頼んで荷物室に乗せてもらえば良い。彼もミイタに有る店に戻るからね」

「帰りはどうする?」

「帰りは食材業者が毎日夕刻に此処にくるから、ミイタからまた乗せてもらえばいい。もし、だめだとしても、流しのホルセィをチャーターすればいいさ」

僕はセバスチャンの誘いを快く受けることにした。


 セバスチャンの言うとおり、燃料の配達業者がぎりぎり午前中といえる時間に到着し、燃料であるソリッドカーボン棒(いわば棒状にした高密度の石炭、木炭)を屋敷裏の貯蔵庫へ搬入している。

 積み卸しを完了する時を見計らって、セバスチャンが交渉をしに行った。彼は業者と顔なじみで以前から同じように、空荷の代わりに同乗させてもらっていたらしく、交渉は直ぐに成立した。

「行きの分は僕が払っといたから、帰りの分は頼むよ。十万ポスクレッドも払えば喜んで引き受けてくれるよ。空荷で帰っても給料以外の報酬は貰えないからね。彼らに取っちゃ小遣い稼ぎみたいなもんさ」セバスはそう言って、まるで昔からの友人のように僕の肩をぽんと叩いた。

 確かにホルセィをチャーターしたら二十万ポスクレッドでも足りないから、得と言えば得なのかもしれない。

 僕らはクルウマーの荷台に乗り込む(燃料運搬用なので乗用部分が二人分しか無い!)とソリッドカーボンのせいで真っ黒な荷台にカバーを敷いて堅い荷台に腰を下ろした。

 荷室内はソリッドカーボンの工業的なインクのような臭いで充満しており、じっとしてても気持ち悪くなる。

 さらに追い打ちをかけるような酷い乗り心地だ。乗用のクルウマーでないため乗り心地には期待していなかったが、さすがこれほどとは思わなかった。

 乗り物酔いはしないたちだったが、さすがにソリッドカーボンの臭いとこの乗り心地で僕の気分は最悪だった。

 さらに、この荷物用クルウマーのスピードは乗用の半分ほどが限界のようで、騒々しく酷いきしみ音にもかかわらず、非常にのろかった。

 本来なら、もうとっくに付いていても良いはずなのに、未だ道程の半ばくらいだ。だが、この酷い乗り心地が、これ以上速くなったらと思うと、少しぞっとする。だからこの程度のスピードで充分なのだ。

 それでも、何の変哲も無い田舎道から、一時間ほどでようやくミイタ市街地に入った。

 市街地に入ると石畳で舗装されているため多少は乗り心地がマシになるが、それでも石畳でゴツゴツとした酷い乗り心地だ。

 僕はこの酷い乗り心地のせいでかなり気分が悪くなってしまい、降りる頃には顔面が蒼白で今にもぶっ倒れそうになっていた。

「ユウキ、大丈夫かい?」セバスチャンは僕を心配して水を持ってきて飲ませてくれた。

 彼は普段から結構乗り慣れているらしく全く平気な様子だ。

「ああ、ゴメン。少し酔ってしまったようだ。すまない」僕はやっとの思いで声をしぼり出すと、セバスにもらった水を飲んでため息をついた。

「ユウキ、すまない。無理をさせてしまって。暫く此処で休むかい?」セバスチャンは冷たい井戸水でぬらして固く絞ったハンカチで僕の額を拭いながら言った。

「いや、大丈夫さ。並んでいるうちにマシになるよ。さ、もう行こう、店が閉まってしまう」

 僕がふらふらと立ち上がると、店の方に歩こうとしたがどうも差がおぼつかない。

 心配に思ったのかセバスチャンは僕に肩を貸して、支えてくれながら目的地に向かった。


 幸いなことに其処からは、それほど時間もかからず目的に着いた。

 僕はジラーの店前のプラタナスの木陰に座らせてもらい、セバスチャンが代わりに並んでくれた。

 生憎今日の行列はいつにも増して多かった。なにか特別な日というわけでもあるまいに。

 天頂に有った太陽もいつの間にか傾き、プラタナスの木陰も移動して行列の方に影が伸びている。必然的に僕が座っている場所も木陰からずれて日が差し込むようになっていた。

 幸いにもその頃には体調も幾分元に戻り、僕も行列に並べるようになった。行列もその頃には一段落付いた様で大分短くなっていた。

 僕はプラタナスの並木から立ち上がると、「セバスチャン、すまない。大分良くなったよ。後は僕が並ぶから君はすこし休んでてくれよ」と言い、彼の後ろに着いた。

 だが、その直後ちょっとした事件が起きた。

「ちょっと兄ちゃん待ちいや!」後ろにいた四十代とおぼしき白髪交じりの短髪、小太りで眼鏡をかけたオタク然とした中年が、血走った眼で僕らを睨み付けながら怒鳴ってきた。

 最初は何の事か理解出来なかったのだが、どうやら僕らに話しているらしい。

「…」僕は唖然として、何ですか? と返事をしようと口を開こうとしたが、そうする前に男は声を荒げ、

「みんなくそ真面目に並んでるのに、なんやお前! 割り込みおって!」と凄い剣幕でまくし立ててきたのだ。

 まずい、面倒臭いおっさんに因縁をつけられてしまったみたいだ。

 僕はこういう御仁が苦手だ。正論を言ってもまるで耳を傾けず神様だと言わんばかりに自分が絶対正しいという主張をごり押ししてくるに決まっているからだ。

 良くコンビニで店員に土下座させたとか言うニュースに出てくる様な、如何にもって感じのドキュンだ。

「あ、いや割り込んだわけではなくて、気分が悪くて休んでたんですよ…」と言い終わらないうちにまたもや、

「そんなの言い訳になるかい! みんな気分悪くとも暑いところ我慢して並んでるんや! お前さんだけ特別扱いなんて許されるかい! 後ろに並べや!」とまくし立ててきた。あまりにも凄い形相なのでちょっと怖くなってくる。

 僕は自分たちの正当性を訴えようと「いや、本当に気分が悪かったんです、並んでいたら本当に倒れてしまってましたよ!」と言いかけたところで、セバスチャンが僕の袖を引っ張り首を横に振り僕と彼の間に割り込んだ。

 そして、男に向かって「申し訳ありません。私たち、こういう所は不慣れでして、ルールを理解してませんでした。マナー違反をして申し訳ございません」と一言断り、お辞儀をして列の最後尾に僕を引っ張って行き、そこに並び直した。

 男は横柄な態度でぷいっと前方に向きを変え、「ま、判れば良いんや。今度から気いつけた方がええからな」とブツブツ言いながら前を向いてまた本を読み始めた。

「ユウキ、行列に途中で割り込むのは良くない。たとえどんな理由があってもだ」セバスチャンは顔を顰めて言った。

「すまない。そういうルールがあるなんて知らなかった」

「いや、知らなくても仕方ないさ。このルールを知っている人はそんなに多くない。ましてやユウキは元々は異国から来た人だ。知らなくて当然だよ。ただ、前に並ばれた人のことを考えると、良しとしてはいけないんだ。君はもし何時間も並んでいるのに、横からひょいっと『僕らは君の前に並んでいる赤毛の少年の友達なんだ、だから君の前に入るよ!』とか言われて何十人も入られたらどう思う? せっかく並んでたのに、また待つのかよ!って思うだろ? それと同じさ。だって彼らが大勢で最初から並んでいたら、今日は止めようとか思っていたかもしれないしね。だから割り込みはどんな理由があってもしてはいけない」

 セバスチャンはそう言った後「少し説教くさくてゴメン。僕もきみがの体調が戻るまで並ぶべきでは無かったね。ジラーが食べたくて少し気がはやっていたのかもしれない」と申し訳なさそうな顔で前を向いた。

 やがて行列も先に進みようやく僕たちも着席することが出来た。店の親父さんは相変わらず、絶妙なトークを続けている。

「フジの奴今朝ひさしぶりに来てよ、土産だつうんで貰って開けてみたら、生たまごでよ、これどうすんだって聞いたら、常連にあげてくださいだってよ、ひひひ。そんで、奴は、じゃ先ず常連の俺に一つ下さいだとさ。なんだよ自分が食いたいだけかよって。そりゃ生たまご一パックで一万ポスクレッドだからたいした値段じゃねえよ、自分が食いたいから一万で買ったけど、おれんちが昔メニューに入れていたときと同じ値段だもん、たいしていたくもねえよな、ひーひひひひひ」

 そして常連と思わしきその話し相手の客に「おまえもたまごいる? こんなの明日まで取っておけねえからよ」と言い置くからパックを持ってきて開いて見せた。

 たまごはまだ半分ほど残っていた。少なくとも4人はたまごを貰って行ったようだ。

「じゃ遠慮無く」ちょっと体格の良い四,五十代の男性がたまごをパックから一つ持っていった。

 あのたまご、どうやって使うのだろうか? 僕は興味深く見ていると彼はそれをどんぶりの中に割り入れた。

 なるほど立ち食いの月見そばみたいなもんか。

 彼はそれをすき焼きのように麺に絡めて食べる。

 なるほど、ああいいう食べ方もあるのか、凄くおいしそうだ。

 僕が興味深そうに常連の食べるのを見ているのに気が付いたセバスチャンが「ユウキ、あの食べ方美味しそうだろ? 俺たちも生たまご貰うか?」と囁いた。

「でも、僕らは常連じゃないし貰えないんじゃ無いのか?」

「大丈夫さ」と彼は言うと、「おやじさん、僕等にも生たまごくれる? 僕だけじゃ無くこっちの彼にもお願い!」とオヤジさんに頼んだ。

「あいよ! おう、セバスか! 今日は友達いっしょか?」と親父さんは威勢良く返事をして生たまごのパックを彼と僕に差し向けた。

 どうやら彼もかなりの常連みたいだ。しかも名前まで把握されている。ぼくは恐る恐るたまごを貰う。

 親父さんは助手や常連とくだらない会話を続けながら、次々にラーメンを作っていく。

 よく見るとその洗練された手際はまるで芸術のようで、例えるなら一種のダンスのような軽やかさだった。

 麺を鍋に入れてゆでる、どんぶりを用意する、タレや謎の調味料を入れる。スープを注ぐ、ゆであがった麺を入れる、野菜とワブ肉をチョモランマの様に盛り付ける。

 そして僕の隣の客の前に親父さんの指が豪快に入ったどんぶりを、それこそ「おれがどんぶりだ!」と主張するかのように、ドンッ!っと置く。

 あふれ出た汁はカウンターの傾きを認識させるかのように右から左、奥から手前へとつつつーと流れ落ちていく。

 鮮やかな手さばきとクラシック音楽のワルツかバレエ組曲のような優雅なリズムで次々とラーメンが作られ、腹を空かした豚どもの目の前に置かれていく。

 もしBGMを選ぶとすれば「ヨハンシュトラウスの美しく青きドナウ」が良い。

 昔見た映画でスペースシャトルが宇宙ステーションにドッキングする映像が思い浮かぶ。

 既にセバスチャンの分は出来上がり、カウンターの台から下に下ろすところだった。

 あまりにもスープがなみなみと注がれていたため、汁がこぼれ落ちそうだったが、信じられないことに彼はどんぶりをカウンター台に置いたまま縁に口をつけてずるずると汁を啜った。

 麺類をずるずる啜る日本でも褒められたことはいえない、いやむしろお行儀が悪いと言った方が良いだろう。

 むかしのドラマかアニメで建設作業員のおっさんが日本酒をコップになみなみとついで、それを端からずるずるーっと啜るシーンを見たことがあるが、まともな躾をされた人なら必ず顔を顰める光景だったろう。

 もっともそのシーンはその人が、育ちが悪い下品な人間だと言うことを強調する為に加えられたシーンなのだろうが。

 一度幼少の頃、真似をしてなみなみとジュース注がれたコップに顔を近づけてずるずると啜ったら、母親からこっぴどく叱られた。あの頃の母の顔は決して忘れない。それきり、そういう真似をすることは無かった。

 僕が唖然とした表情で、彼を見ていると視線を感じたのか振り向いてにやりとばつが悪そうな感じで笑うと、

「ははは、少し下品だったかな? でもね此処ではこれが普通なんだ。ユウキもわかると思うけど、こうしないとカウンターに溢れてしまうからね。他の人にかかってしまったら大変だし、自分の服も汚れる。合理的な作法なんだよ」

 嘘つけ! 罰が悪そうな顔をしてたじゃ無いか! しかし、今後の良好な人間関係の為を考えて、あえて言わないことにした。

 彼のラーメンは僕が初回に頼んだメニューと同じようだ。野菜が富士山のように山盛りになっており、分厚いワブ肉が5〜6枚も載っている。そして白い粒状の刻み香味野菜(もうニンニクで良いような気がする。味もそっくりだし)どさっと、まるでお灸の様にどかっと載せられている。そして背脂とおぼしき白いぬらぬらとした物体がたっぷりとかかっていた。

 これをこぼさないで食べるのは高度なテクニックが要るだろう。

 そして、たまごはどうするんだろうかと思っていると、何もしない。どうやら先に野菜だけ食べてしまう作戦らしい。

 もっともこの状態でたまごをかけるなんて、悲惨な結果が待ち受けていることが目に見えているから、どんな猛者でも試みるなんて事は無かろう。

 僕の方は初回の反省から少なめにして貰っているので、どんぶりにたまごを入れるスペースは充分にあるはず。

「はい、お次! ニンニンしますか?」例の甲高い声の助手が大きな声で言う。

 しかし、相変わらず特徴のある声だ。思わず口調をまねてしまいたくなる。親父さんは麺、野菜、肉と手際よく盛り付け、いつものように片手でどんぶりを掴むと僕の前にドンッ! と勢いよく置いた。

 当然の様に親指がなみなみとつがれたスープしっかりと入っている。

 案の定、野菜、麺の盛り付けは少ない。僕はラーメンを受け取るすぐさま、たまごを肉、野菜が乱雑に盛られた中に割り入れた。そしてさっきの常連さんをまねて、すき焼きのように麺と絡めて食べてみた。

 なるほど少し塩っぱめなタレとあいまって本当のすき焼きのようにまろやかになってうまい。これは新しい食べ方だ。

 出来ればたまごはお椀か何かにいれてくれれば、ほんとうにすき焼きの様に食べられるのに。

 しかしラーメンの量に対して生たまご一つはあまりにも少ない。すき焼き風にして食べられるのはほんの二〜三つまみでその後は生たまご成分はスープの中に散らばってしまい、単にスープを少々まろやかにするだけに留まってしまった。

「ハハ、ユウキたまご先に入れてしまったのかい?」僕のどんぶりを眺めセバスチャンは言った。

「ユウキ、たまごは最後の締めにとっておいた方が良かったのに」

 彼のどんぶりを見ると驚いたことに野菜、麺とも僕より残り少なくなっていた。

 だが、まだたまごは使っていなかったようで、今まさに割り入れようと手に取っているところだった。

 なるほど、味に飽きてきたあたりで味変アイテムとして使うのか。

 僕は油のしつこさで少し飽き始めていた所だったので、初っぱな早々に生たまごをつかってしまったことを後悔した。

 こんなことなら最初に教えてくれれば良かったのに。セバスチャンの後出しジャンケンを少し恨んだ。

 セバスチャンが生たまごでツルツルとおいしそうにラーメンを堪能しているところを横目で、僕は胡椒(みたいな何か)をふりかけて、味に変化をつけなんとか完食した。さすがに汁までは無理だったが。

 どうも今日は前回より少し脂が多かったようだ。全体的に量は少ないはずなのだが、お腹が苦しいし、胸焼けもする。


「ところで、ユリア様の婚約の儀もあと一ヶ月だね」とセバスチャンがつぶやいた。

 僕はとっさのことでその言葉の意味がよくつかめなかった。

「ま、今すぐ居なくなる訳では無いと思うが、御成婚なされたら伯爵家からガレス王国の屋敷に移られるのは確実だから、それまでには君も転職先を考えた方が良いかもしれないね」

 寝耳に水だった。そんな話はユリアからも伯爵からも聞いてない。

「あれ、その顔は全く初耳といった感じだけど、伯爵様から聞いていないのか?」

 図星を突かれ僕は動揺した。

「僕は何も聞いてないよ…」

 そんな…、彼女から離れてしまうことになるなんて信じられない。いままで彼女を愛する気持ちは漠然としていたが、彼の話を聞いて確信した。僕は彼女を愛している。


 僕は屋敷に戻るとワブの書をめくり、セバスチャンの言ったことが正しいかどうか確認してみた。

 この本の事を信じている訳では無かったが、今は不安で真実を知るために何かせずには居られなかったのだ。

 僕はバラバラと本をめくり該当する部分を探した。

 かなり分厚い本なのでピンポイントで婚約に書かれた所を検索する事は難儀だった。だが、それでもそれらしきことが記述してある部分を見つけるのに大して時間はかからなかった。


        ●●●


 裕樹は彼女の頬を伝う涙を拭うと、何も言わずに抱きしめた。彼女もそれに答えるよう裕樹の背中に手を回した。

 十分以上経ったころだろうか、お互い抱擁を解き互いを無言で見つめ合った。

 裕樹は何か言おうとしたが言葉が出なかった。この場にふさわしい適切な言葉が見つからなかった。

 だが、それでも何とか勇気を振り絞って彼女に話した。

「ユリア、僕は君のことが好きだ。初めて会ったときから君に惹かれていた。それにこんな見知らぬ異国の人間にとても優しくしてくれた。毎日のように君と結ばれる事を夢見てたよ。でも、心の隅には人種、境遇の違いが受け入れてもらえるか不安だった。だから明確な返事をすることが出来なかったんだ」彼は精一杯、自分の思いが伝わるように言葉を選んで言った。

「ユッキー、私全て知っていたわ。でもこういう結果になるって判ってたの。だって彼との婚儀はずっと前、そう子供の頃から決まってた事ですもの。せめて私が此処の娘でなかったら、まだ良かったのにと思うこともあったわ。でも私はフランチェスコ家の一人娘、この家系を絶やすわけには行かないの」

「私も一時はあなたと日本に行きたいと考えてたし、身分をすててでも貴方に付いていこうとしてたけど、やはりフランチェスコ家の娘として責任を果たさなければいけないと自覚したの」

「ユッキー、私も貴方のことが好き。大好き。でも好きだけじゃ結婚は出来ないって、判ってきたの。ふふふ、おかしいわね。ちょっと前まではただの子供だったのに」ユリアは目を潤ませて、裕樹に言った。


     ・・・・・・・・・・

    

 僕はショックでこれ以上先を読みすすめる事が出来なかった。

 そりゃ、身分が違うのだから僕なんて彼女と釣り合うわけが無い。それでも淡い期待は無くは無かった。だがこうも早く別れの日が来るなんて思ってもみなかった。

 僕が机の前で呆然としていると、誰かがドアをコンコンと叩く。

 どうぞと言う間もなく扉が開きほっそりとした金髪碧眼の少女が立っていた。

「ユッキー、ゴメンね」

 どうやらセバスチャンが彼女に口づてをした様だ。

「何時言うか迷ってたんだけど、セバスが話してしまったみたいね」意外と彼女は冷静だった。

 しかし、その冷静さが却って僕に怒りをこみ上げさせた。しかし僕は怒りを押し殺し、できる限り平静を装い、彼女に言った。

「どうして、もっと早く言ってくれなかったんだい?」僕の心には何故なんだという思いが支配していた。

「私はハーマンの許嫁なの。ずっと前から、私が生まれる前から両家の約束だったのよ」

 唖然とした。それでは僕等は彼女に許嫁がいるのに男女の仲になったのか?

「ゴメンね。もっと早く伝えるべきだったのかもしれないけど、私もつらかったの」

「もっと速く、僕が君を好きになる前に言って欲しかった。そうすればこんなつらい思いをしなくて良かったのに」

「私だってつらいのよ。貴方は私の希望の星だったのよ。本当はハーマンと結婚なんてしたくない。貴方との仲をお父様に認めてもらえれば彼と結婚することにならなかった」彼女は泣きじゃくりながら言った。

「でも、家の為なの。私はここの一人娘よ。私が王族と結婚しなければフランチェスコ家は絶えてしまうのよ。私が貴族以外の人間と結婚したら、貴族籍から離脱して平民になってしまうわ。そうしたらフランチェスコ家はお父様の代で終わり。そしたらお父様やお母様、それに亡くなった兄、弟たち、三百年も続いたフランチェスコ代々のご先祖様に申し訳ないの」

「ああ、判るよ。ぼくも最初から判ってたんだ。きみとなんて釣り合いっこないって」

僕は皮肉を込めて彼女に言った。なんて嫌な奴なんだ? 僕は。

「ユッキー、勘違いしないで! 本当は貴方のことを愛しているの。出会ったときからずっと! だから貴方に初めてを捧げたのはよ。貴族の娘のきまぐれなお遊びじゃないわ」

 そんなこと言うなよ! 諦めきれなくなるじゃないか! いっそのことホントは大嫌いだった。とか言ってくれた方がマシなのに! だが僕はもういい大人だ。彼女の幸せを考えたら、この方が良いに決まっている。僕は物わかりの良い紳士を装った。

「判っているよ。僕だっていい大人だ。そんなことぐらい理解できる」

 だが理解が出来るが感情はなんともならなかった。いままで愛し合っていた二人が家督のためだといって諦められるわけがない。

 僕は泣きじゃくる彼女の肩をそっと抱いた。そして彼女は僕に甘えるように身体中から力を抜いて僕に体重を預けてきた。彼女が抱いて欲しいときにいつもやるサインだ。

「良いのかい?」僕は婚約者がいるの良いのか?というつもりで聞いた。

 彼女はそれを理解しているのかどうか判らなかったかもしれないが「いいわよ」と一言つぶやき、僕にキスを求めるように唇を突き出した。

 僕はもう理性を抑えることが出来なかった。彼女の唇に吸い付き熱いキスを交わした。

 彼女は全体重を僕に預けてきて、いきおいで僕のベッドに二人とも倒れ込んだ。

 本当はこんなことをしてはいけないと理性では判っているはずだった。しかし、僕は彼女を愛おしく思う気持ちがこれまでに無く高まり、彼女の唇から口を離さなかった。

 ユリアも同じ気持ちのなのだろうお互いに激しく舌を絡ませ続けた。そして彼女はキスを続けながら僕のシャツを脱がせて唇を胸に這わせてくる。

 ぼくも負けじと彼女の胸をまさぐった。部屋着に近い彼女の服はいとも簡単にはだけ柔らかい胸が露わになる。彼女から香る香水の臭いとは別になにか柔らかい香りが僕の鼻孔をくすぐる。

 彼女の舌は僕の胸、腹をつたい微妙な部分に近づく。ついに彼女はぼくのズボンを剥ぎとり僕の大事な部分を弄び始める。

 石のようになった僕の大事な部分はお腹にぴったりと張り付き容易には曲がらない。

「ふふふ、もうこんなに元気になっちゃて! 悪い子ちゃん!」彼女はいたずらっぽく微笑む。そしてひとしきり僕の大事な物をまるでアイスクリームを食べるように愛撫し始める。

 僕は彼女の愛撫に絶えきれなくなって、果ててしまいそうになるが、彼女はそれを察して、愛撫を止めてさっと脱ぎ、下半身まで覆っていた、上着をたくし上げると既に下着は無く、そのまま僕の上にまたがった。

 彼女はまるで母親のように僕を優しく包み込む。僕は胎児になったかのように彼女の中に包み込まれ、彼女の中にいる幸せを感じた。

 しかし悲しいことにこれももう二度と感じることが出来ないのだ。そう思うと僕はとても悲しいはずなのだが、不思議なことに彼女の中に居る多幸感のほうがまさっているようで全く悲しさを感じなかった。


 彼女との愛のひとときが終わり、ひとときの幸せも潰えた。彼女はそそくさと服を着て、まだ裸の僕をきつく抱きしめると、「しっかりしなさい! これからはまた教師と生徒に戻るのよ」と一言いうと、足早に部屋を出て行く。

 結婚前の貴族の娘が得体もしれない男と逢い引きを重ねてたとあったら、姦淫罪にでもなりかねないから、慎重になるのも判るが、何か寂しかった。結局この程度のあつかいなのかと。

 僕はまだ彼女の残り香が付いたシーツをたぐりよせそっと臭いを嗅いでみる。思わず涙があふれた。

 だめだ、こんなんじゃ。しっかりしろ僕!と、僕は自分に言い聞かせると、しゃきっとするように無理にでも勢いをつけてたちあがった。

 そして服を身につけ、窓の方に行き、外の様子をうかがう。

 いつの間にか日は暮れていて、乾いていた路面に大きな水たまりがいくつも出来ている。

 いつのまにか降っていた雨であたりち一面がずぶ濡れだった。

 僕は傘も差さずバルコニーにでると、遠雷を聞きながら髪の毛や体が濡れるのも気にせずずっと佇んでいた。

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