第二章 再びラーメンジラーを食す
セルリア歴5332年獅子の月十五
翌日は午前中、ユリアに数学と科学の講義と僕の世界の話をした。どこの学生もそうだがやはり数学は退屈だ。彼女も数学は苦手なようでどうも話の半分にもついて行けないようである。
面積の求め方や九九(驚いたことにこの国には九九は存在しない)は日常生活にも役に立つが、素因数分解や微積分は学者やエンジニアでも無い限り役立つ機会は無いから、退屈でも仕方ない。
科学に関してはとても興味を持ってくれたようで、実験やアルカリ、酸の特性には凄く感心を持って取り組んでいた。
天文に関しては全く無頼漢である僕にとって苦手な教科だが、銀河の仕組みなどは説明した。この世界にも星座はあって、非常によく似た伝説もあった。ただ、星をみてどれがアルタイルでどれがベガなどという資料はもちろん無くて、ただ星をみて夏の大三角やオリオン座に似た星座を漠然と眺める事しかしなかった。後々星の知識がもう少しあれば役に立ったんだろうなと思うと悔しかった。
実はこの国にも学校はある。商人は商取引の為に経済学、経営学、貴族は政治や武道など、子女はもっぱら簡単な読み書きと計算、絵画や楽器などの芸術のみだ。
兵士、職人、農民は特に学校と呼べるものは無かった。もちろん兵士は戦うために訓練もするが、それはあくまでも白兵戦や兵器(といってもようやく大砲や銃器が出現したくらいで、ほとんど刀や槍、弓などだ)の使い方をトレーニングする。
職人は師匠か弟子への口伝のみだ。そしてどこの世界でも労働者のどん尻は農民である。彼らは今のところ教育の機会さえ与えられていない。
ユリアも当然学校に行っている。が前述の通り、学校で教えてもらうのは簡単な読み書き、計算や貴族の女性としてマナーや心得を学ぶのみだ。
教える科目も少ないから当然、週のうち(この世界では一週間は七日ではなく八日だ)たった四日だ。
しかも、丸一日授業があるという日は無い。昼前に出かけて、帰ってくるのは二時か三時。だからほとんど遊んでいるようなものだった。
そんな女子に対して、とりわけ貧弱なこの世界の教育制度について、不満を持つ貴族達も少なくない。
伯爵はとても先見のある方なのだが、そんな国の慣習には憂いを抱いており、たとえ女性でもこれからは教養を身につけるべきとの考えの方だ。
他の子女は絵画やピアノに似た楽器のステインやバイオリンにたバーガン、管楽器などの楽器演奏を習う(これも学校では教えてくれないので、画家や音楽家の先生に個人教示してもらう。この世界での芸術家は一部を除き本業では食べていけないので、貴族の子女の先生で食いつないでいる)事が多いが、伯爵は芸術より知識を優先する方だった。
そういうわけで僕はフランチェスコ伯爵から彼女の家庭教師を頼まれているのだった。
いつも講義の最後に僕は地球の話をする。いろいろな人種、国、世界、経済、乗り物や音楽などの文化、テレビやインターネットなどのメディア、文学や漫画などのサブカルチャーなどだ。
彼女は地球や日本の事にも人並みならぬ興味を抱き、僕の話を逐一感心を持って聞いていた。中でもアニメーションに強く感心を寄せていた。
凄く見てみたいと言っていたので、ノートの端にパラパラ漫画を書いて仕組みを教えたこともあった。まだカメラも存在しないのだから、映画やテレビなんて未知の世界だろう。スマートフォン、コンピュータが使えれば、まだ見せることが出来たのだが。
以前、たまたま持っていた青年向けコミック誌を見せてあげるととても喜んでくれた。
多少の日本語は理解できると言っても難しい漢字は読めないので、読んであげるのだが僕が赤面してしまうほど顔を近くに寄せてくるので、ドギマギしてしまう。僕は付き合ったことのある女子はまだ一人(アルバイトで勉強を教えていた麻遊未という女の子で、相手が高校生ということもあり、ストイックな関係だった)だけで、まだ女性にあまり慣れていないのに、それに加え控えめに見ても映画やテレビでしかお目にかかれないような金髪碧眼の美少女だ。心拍が高まらない方が嘘になる。
さっき言ったとおりこの国にはテレビどころかカメラも存在しない。あっても文学や生で聴く音楽(もちろん電子楽器は無いから、あくまでもさっき話した生楽器のみ)しか無いので子女の娯楽は限られている。
しかも大規模な印刷設備は無く、印刷物はあっても金属活版によるごく少量の部数しか発行されないので、本もわりと高価であり、教養のある貴族や商人など限られた人のみしか手に入れることが出来なかった。
ただ日本でいう漫画のようなものはあるが、もっぱら性的欲求に訴えるような下世話なものばかりで、とてもおおっぴらに見るようなものではないし、使い捨てのため、紙質は酷いものだし印刷と言うより版画みたいものだった。ようするに江戸時代の春画の様なものだった。
当然、ユリアのような貴族の子女はそんなものを手に入れる機会なぞ無いわけだから、こんな漫画誌程度でも興味津々になるは判る。だが漫画誌に載っている話は大抵連載ものなので、1冊だけ読んでも全く話がわからないし、当然話も続く。だから読み終わったあとは当然続きが気になるわけで、彼女も当然僕にいろいろ質問してくる。
しかし、これまでは話せてもこれからは読んでもいないから判らない。推測で言っても満足はしてもらえず、彼女の日本への興味は募るばかりだったのだ。
「私、日本ってところに行ってみたいわ」ここ最近彼女は口癖のように言う。
しかし、この世界には日本という国は存在せず、元の世界に戻る以外方法は無いが、肝心のその方法が判らないので無理な話だ。 それに、昨晩は戻る方法を見つけたいと話したら、泣いていたくせに現金な者だ。
あったとしても馬車か船しか無いこの世界で、移動するのは
「あーあ、空飛ぶ絨毯でもあれば良いのに」僕は不意にそうつぶやいてしまった。全く無意識なうちに。彼女は空飛ぶ絨毯と言う言葉に興味をもったようで「それ、なあに?」と目を輝かせて聞いてきた。
「ああ、僕のいた世界での昔のおとぎ話でね。これみたいな敷物がふわりと浮かんで、その上に乗ってどこでも行けるんだよ」僕がそう言うと彼女は、
「なあんだ、ホウキンの様なものね?」と言った。そうか、こっちではホウキンって言うんだ、まるで魔女が乗る箒みたいだな。と僕は思った。
「へえ、どこでも似たような昔話はあるんだね」とつぶやくと彼女は「昔話なんかじゃ無いわ」と言った。昔話じゃ無ければ今のお話か? 僕は最初彼女の話が理解できなかった。
「西にあるガレス王国の叔母様の所にあるわよ」そりゃ絨毯くらい誰でも持ってるだろ。いや、待てよ此処にも絨毯は敷いてある。と言うことはこれとは別物か?
「へえ、そうなんだ。ユリアは持ってないのかい?」僕は念を入れる為に尋ねてみた。
「え? 持ってないわよ。私もお父さんも。だってあれは手に入れるのが大変なのよ」
ユリアの話ぶりから推測すると、ユリアも伯爵も所有していないし、入手するのは困難なようだ。
そんなに高いものなのだろうか? それとも希少価値があるものか? 二百万ポスクレッドもの大金をぽんと出せるような金持ちでも手を出せない代物なんだろうか?
「あれは、ガレス王国の錬金術師と魔法使いたちしか作れない貴重な物なの。普通の人間じゃとても手に入れられないわね。お金を一杯積んでも買えないわ。それに、普通の人間には手懐けるのが大変なの」 手懐ける? と言うことは、これは動物なのか?
「どうも、話が見えないのだけれど、それは動物か何かなのか?」僕が尋ねると彼女はきょとんとした顔した。
「え? ホウキンでしょ? 魔法で出来た布きれだよね? ユッキーの『ソラトブジュウタン』っていうのも同じだと思うけど?」と答えた。僕はきっとその時、ギャグ漫画のキャラクターみたいに目を見開いて驚愕の表情だったに違いない。
「いや、まったく同じだよ『空飛ぶ絨毯』はただの布きれだよ。カーペット、敷物、判るかな?」此処の世界ではなんて言うのだろう。
「ユッキーの言う『ソラトブジュウタン』はただの敷物なのね? ただの敷物が空飛べるの? 信じられないわ! ただの布きれがどういう仕組みで浮かぶのかしら?」彼女は目をぱちくりさせながら言った。
飛行機や気球の話をしたから僕の国は信じられないことが何でも出来る魔法のような国だと思ったのだろうか?
「いや、空飛ぶ絨毯ってのは物語の中の道具で僕の国でも現実には無いよ」と僕が言うと彼女はなあんだと言って、少しがっかりした様で乗り出していた身をソファの背にドスンと戻した。
それよりも僕は現実に存在するホウキンに興味を持った。
「ところで、そのホウキンと言うのはどんな物なのかい?」僕は彼女に尋ねた。
「そうね、見た目はその敷物と同じよ。でも、それには魔法が掛かっていて、魔法道具を扱える人じゃ無いと空を飛ばすことなんて出来ないわ。飛ばせたとしても、コントロールが出来ないから、高いところまで上ったらもう最後、運が良くなければ落下して死ぬわ」彼女の淡々とした語り口のせいもあって、背筋に寒気を覚えた。
「でも魔法使いが何日もかけて儀式を行ってそれと契約できれば忠実な僕として従えてくれるわ。私のいとこもその儀式を行ったからホウキンを所有できているってわけ。そうそう、叔母の家にあると言ったけど所有者は従兄弟のハーマンよ。彼がガレス王国の錬金術師から譲り受けたの。近々彼の婚約の儀がガレス王国であるからそのときに紹介するわ。興味があるなら見せてもらえば良いわ」
婚約の儀なんかに僕が付いていって良いのだろうか? 僕は少し疑問に思ったが、このことよりもホウキンと言う物に興味を引かれていた。
僕は昨日の話に出てきたホウキンに興味を持ち、中央広場にある図書館へ向かった。
今日はこの前ユリアと来た時と同じようにマーケットの開催される日であった。明日は年に一度の祭りが開催されるとあって、あちこちが飾り付けられている。気の早い観光客が何人も来ているようで聞きなれない言葉も耳についた。
僕はあの骨董屋がまた来ていないかと思い、マーケットの店を何軒も覗いてみたが、彼の店はどこにも見当たらなかった。
おかげで一時間近くも歩き回るはめになり、ヘトヘトに疲れた僕は広場の端っこで這々の体で座り込んでいた。
僕はぼうっと道行く人々を眺めていると、観光客と思わしき人の大きな声が耳に入った。「ここは早く引き上げてラーンジラーにいぐべえよ! おら、あそこに行くのずっと楽しみにしてだんだがらよう、やっとこさきたんだから気がはやって仕方ねえがな」
「そんなこと言って、あんたぁ、またラーン食いに行くんかい? もう毎日毎日ラーンラーンって体に悪いがね!」見たところ五十から六十くらいの老人夫婦だ。田舎から出てきたようで洗練されているとは言い難い風態なのが何故か懐かしさと親しみを感じる。
こんな田舎のおじさんにまでジラーラーメンが浸透しているなんて驚いた。
地球ではネットの情報で田舎どころか全世界に有名店が知られているが、せいぜい金属活版印刷が発明されたばかりのこの世界で田舎のおじさんまでが情報を得ているなんて、よほど知名度があるのだろう。
そういえば僕もお腹が空いている。そういえばどころの話じゃない、さっきからお腹がペコペコだ。疲れ切っていたので食欲どころではなかったが、どうやら疲れが癒えてきたらしい、その代わりに耐え難い空腹を感じていることに気が付く。
そうだ何処かで空腹を満たさなければ。しかし、ぱっと見回したかぎりマーケット内ではめぼしいものがみあたらない。ンガウというとげだらけの果物みたいな何かや真っ黒い肉を薄茶色の生地で包んだブリトーか何かに似た物など。
一度、別のマーケットで大きい丸いパンに白い魚肉をすりつぶしたものを発酵させたパテを塗りつけ青緑の葉っぱを挟んだものを買って食べたことがあったがキツい臭いと独特な味に辟易して、こういう所ではユリアの意見なしでは購入しないようにしていた。
「お、そろそろジラーが開店する時間じゃね?」やはり観光客らしい若者二人組がそう会話しているのを小耳にした。
ジラーか、この間は量が多すぎてとても味わうなんてレベルじゃ無かったが、ちゃんと適切な量を頼めばイケるかもしれない。
人間なんて空腹であるということで冷静な判断が出来なくなるものだ。自分のしたいことに対してネガティブな要素があろうとも、すべて都合が良いように無視、解釈してしまう。僕の口の中は既にジラーを食べるために味蕾細胞が再構成されていた。
二週間ぶりに来るジラーは当たり前だが以前と全く変わっておらずそこにあった。
ただ行列は前より大分長い。やはり祭りの影響があるようだ。
「ひーひひひ」相変わらず店からは店主の野卑な笑いが聞こえてくる。
ここではプジョーと呼ばれる鳩にしか見えない生き物が店内まで入り込み客がこぼした麺や肉の切れ端をつついている。普通の食い物屋なら考えられない光景だ。この国の衛生観念はどうなっているのだろうか? それとも此処だけが特別なのかもしれない。
僕は今度こそ失敗しないように、注意深く店内を観察し自分にとって何が適切な注文の仕方かを考えていた。
長い行列からようやく解放され、カウンターの端っこに座った。
相変わらず汚い店内だ。常連さん同士の会話から察するにそれでも此処に店を構えてまだ四〜五年しか経ってないらしい。なんでも以前はここから少し離れた所にあったが、区画整理で立ち退きになりここに移転してきたらしい。それでもこの汚さなんだから、以前は相当だったはずだ。
「はい、お次の方、ニンニン入れますか?」助手の甲高い声が店内に響き渡る。
僕は一言「入れないでください」と伝え、出来上がりを待った。余計なことをいわなければ何も増えることは無い。僕が行列中に得た答えはこれだけだった。
店主はどんぶりを片手でつかみ(当然指入りだ)僕の目前にドンと置いた。いきおいで中のスープが飛び散って隣の客のシャツにしぶきが飛ぶ。
相変わらずスープはなみなみと注がれていたため、こぼさないようにゆっくりとカウンターから下ろす。
どんぶり中身に目を移すと注文を間違えているんじゃないかと疑った。なぜならこの前と全く同じ量に見えたからだ。肉はさすがに少なくなっていたが、野菜、脂、麺どれ一つとっても減っているようには思えない。
僕は注文を間違えているんじゃ無いかと、店主と助手を伺ったが、二人とも次の人の分を盛り付け、配膳のため忙しそうに動き回っている。
まあ、仕方ないか間違っていても、そっちの問題だから、食べきれなくて残してもかまわないだろう。僕は諦めて目の前のラーメンと格闘を始めた。
まずは一口スープを飲む。あいかわらずしょっぱいが濃い豚骨スープのような、それでいて自然な甘みもあり、香ばしく強い旨みを感じる複雑な味だ。
つぎに大ぶりに切ったワブ肉を箸でつまむとまるごとかぶりつく。前回と異なり、とろとろに煮込まれて口中でとろける食感で、荒々しさはそのなりを潜め、逆に芳醇な旨みが顔をだし、甘みさえ感じる上質な脂肪がバランス良く一体となっていた。これだけでもメニュー化できる程美味い。
そして、次に麺を啜る、というよりむしろ頬張るといったほうが正しいだろう。小麦(?)の香りをびんびんに感じる極太の麺。食べ応えがあって実に旨い。
麺を二〜三度啜ったのちにトッピングされた野菜を頬張る。濃厚な脂にべっとりと覆われた口中に爽やかな風味のしゃっきり野菜、とても良い口直しになる。このラーメンにはやはり野菜が無いとダメだ。
そしてまた肉を頬張る。うまい。タレが充分にしみていてそれでいてしょっぱすぎるわけでも無く、あっというまに一切れ食べてしまう。しかしチャーシューはこれが最後の一枚だった。先日の反省もあり、今日は基本のメニューにしてしまったが、こんなにうまいのならもう三切れくらい肉を追加してもらえば良かったと後悔した。しかしまだ麺は残っているし野菜もある。
僕はありったけの麺を箸で掴みあり得ないほど口を大きく広げ頬張った。太くすいとんのような麺を頬張りもぐもぐとかみしめる。至福。すごく幸せな気分だ。他のことは一切考えられない、ただひたすら咀嚼し脳内麻薬が与える多幸感に酔いしれた。しかし、この麺はうまい。こんな麺は日本でお目にかかったことが無い。
ここで目の前の調味料加えてみた。前回はお腹が満腹になりすぎて調味料での味変はよくわからなかったと言うのが正直な感想だったのだ。
先ずは一振りして麺を啜ってみる。胡椒のような香ばしい香りとピリッとした香り、そして山椒のような適度な舌の痺れ。うん、悪くない。
さらにもう二ふりして麺を啜る。なるほど意外にこの調味料は合う。僕はラーメン店であまり胡椒を使ったことがないのでよくわからなかったが、実はとてもマッチする物だと感心した。そして前回のような強烈な満腹感も感じること無く余裕で完食完飲してしまった。さすがに完飲までするとおなかがいっぱいになってしまうから止めておいたのが正解だった様で、前のような後悔は感じず、むしろ達成感のような満足感を得ることが出来た。
「親父さん! ごちそうさま!」僕はどんぶりをカウンターにあげると、十万ポスクレッド銀貨一枚をカウンター上の籠に放り込んだ。料金はたしか七万ポスクレッドのはずだったが、億劫だったので釣り銭は取らなかった。
「ひーひひひひ、すげえうまかったわ。今度は肉マシだな」店を出ると僕は思わずつぶやいていた。あれ? 僕ってこんな笑い方だっけ? ちょっとスープが塩っぱめだったから、喉にきたのかな?
そういえば喉がものすごく渇く。何か飲みたい。あたりを見回しても特に自動販売機などは無い。当たり前だ此処は異世界だ。日本みたいにあちこちに自動販売機やコンビニで冷たい飲み物が買えるわけではないのだ。
どこか屋台かレストランにでも行かなければ。しかし生憎、まわりに手頃な店は見当たらない。あっても何の店か判別も付かない怪しい物ばかりだ。
「ああ、食った食ったぁ。やっぱり本場のジラーはうんめえな!」声の方を振り向くとさっき市場で見かけた中年の夫婦が店から出てきたようだった。どうも自分の後ろあたりに並んでたらしい。食べるのに夢中でまったく気が付かなかった。
「それにしても喉渇くんな! フミ! なんか飲むもん持ってきてねえんかい?」中年のおじさんは奥さんとおぼしき小柄な女性に話しかけた。
「なに? はぁ飲んじゃったがね。あんたはさっき買ったクロウロンティ飲んじゃったん?」奥方とおぼしき女性は少し呆れたように答えた。
「なあに、あんなちっとんべぇジラーで飲んじまったにきまってんべえがな。ねえならしょうがねえんべから、また買ってくるしかねえべな。あそこまで歩くのはちとやっけえだけど」とおじさんは面倒くさそうな表情をすると踵をかえして市場のある広場までスタスタと歩いて行く。
「あんたぁ! そんなに急がなくてもよかんべ!」奥方も彼の後ろをちょこちょこと付いていく。
ああそうか、あのおじさんの後に付いていけばクロウロンティという飲み物をゲットできるのか。クロウロンティがなんだか判らないが恐らくラーメンを食べながら飲むには最適なものに違いない。語感から黒烏龍茶みたいなものだろうか?
考えている余裕も無い。とにかくついて行ってみよう。ぼくは蟻ほど大きさに見えるほど先に進んでいった行った老夫婦の後を付いていった。
老夫婦の行き先はそれほど遠くも無かった。其処の店は掘っ立て小屋のようなスタンド形式の店でいわゆる露店のようなお店だった。店の前に椅子が置いてあるが基本は此処で買って余所にて飲む形態だ。
老夫婦は革のような素材で出来た手持ちの容器を店の人に渡した。どうやら其処に飲料を詰めてもらうしくみの様だ。
しまった、僕は飲料のボトルを持ってきていない。此処の世界では紙カップやペットボトルの様な物は無い。陶器かガラスで出来たボトルは見たことあるが。店にマグカップのような物があれば良いのだけれど、と僕は老夫婦が立ち去った後の店の前で悩んだ。
「おい、兄ちゃん。見かけない顔だな。何にするかい?」
僕は突然店員に話しかけられたせいでギクッとしてしまった。
「おい、聞こえるのか? 言葉通じてるか?」
中東系っぽい顔立ちで腕毛ぼうぼうの巨漢の店員は僕のことをよそ者と思ったらしく、でかい声でお前だ、其処のお前に言ってるんだという調子でこっちを見る、と言うより睨み付けて言ってきた。
「ああ、ごめんなさい。此処の店、初めてなので何頼んで良いか判らなくて」
「なんだ、外国人かと思ったよ。ちゃんとヤパン語しゃべれるじゃねえか。俺の言葉がわからねえんかと思ったよ。メヌーならそこに書いてあるだろ? 一番のお勧めはヴィンだ。黒グーから作った黒ヴィンと白グーから作った白ヴィン、両方ともある。ヴィンは判るよな?」店主が問いかける。
ヴィンは伯爵家でいつも飲んでいてワインの事だと知っているから、僕はもちろんという身振りで頷く。
「よし、じゃこれは飲むと酔っ払っちまう事は知っているよな? もし酔いたくなかった、こっちの白グー果汁か黒グー果汁だ。ヴィンより甘ったるいから子供にはこっち勧めるが大人は好き好きあるからな。甘くないのを飲みたいときは、ロウロンティだ。かすかな甘みがあるが基本は少し渋くてさっぱりとした飲み心地だ。仕事中やホセ乗りにはこれを勧めている」と、店主は立て看板の絵を指し示して言った。グーはブドウのことだ。ブドウジュースのことだろう。要するに発酵させてないのがグー果汁で発酵させたのがヴィンだ。
店主はもう一つの看板を指し示しすと、
「そして、今日最も売れているのがクロウロンティだ。脂っこい物を食べた後、これを飲むとすっきりする。結構コクもあるから食後で無くても好んで飲む人が最近は多いよ。どうだい、気に入りそうなのはあるかい?」といった。
どうやらお勧め商品らしい。なるほどさっきの老夫婦がクロウロンティを買っていた訳がわかった。
「それではクロウロンティを下さい」店主はあいよと返事をすると右手を出してくる。
代金を払うため、僕が金袋を出すと、
「いや、金じゃなくて先に容器だよ」店主は少しいらついたように言った。
僕はさっきの老夫婦が水筒を渡して飲み物を入れて貰っていることをすっかり忘れていた。
「あいにく、ボトルは忘れてきてしまいました。コップとかは貸して戴けるのでしょうか?」
と、僕は頼んだが彼は困った顔で、
「いや、うちは容器の貸し出しはして無いんだよね。前はやってたけどそのまま持って行って返さない輩が多いからね」と、店主は毛むくじゃらな腕を組み、あごひげの先をなでながら言った。
「でもたまにあんたのような客もいるからね。売り物になるが携帯用容器もおいてあるよ。生憎最後の一個になっちまったが…」彼は店の奥をごそごそとさぐって手のひらより一回りほど大きな革製の入れ物を出してきた。
「こいつはセラン革製だから少し値が張るが…、セランて言うのは知っているかい?」
僕はかぶりをふった。
「ま、知らなくても無理は無いな。こいつは、この国にはいない。こいつは東方の国シイナにしか生息してない生き物だからな。こいつの革は不思議で中に入れた物の温度を一定に保ってくれる。もともとそういう魔法を持っている生き物なんだ」
出た、また魔法だ。
「シイナって国は夏はクソ暑く、冬はクソ寒い。そういう国なんだ。だからセランみたいな魔法を持った動物が生まれる。うちじゃそいつの革で作ったこの容器はその魔法の力で熱い湯や冷たいヴィンを保温してくれるんだ。なにしろヴィンや果汁もこのセランの革を貼った樽で保存している。こうでもしなきゃこの暑さで腐っちまうからな」
うさんくさい。何が魔法だ。そんな魔法で何でもかんでも出来れば苦労はしない。断熱性の高い物質で覆われていれば可能だろう。しかしこの容器を買わなければ飲みたいものも飲めない。
「わかりました。その容器も下さい。おいくらになりますか?」僕は金袋を開き銀貨を二枚とりだした。店主は、
「そうさね、容器買ってくれる人には一杯サービスしてるんだ。容器代の四十万ポスクレッドでいいよ」店主はぞんざいな態度で言った。
四十万ポスクレッド? ジラーですら一杯七万ポスクレッドだぞ。たかが容器なのに少し高すぎるだろ?
だが、払えないほどの値段でも無い。僕は諦めて銀貨四枚をだすと差し出されたグローブのように大きい店主の手のひらに置いた。 店主はにやりとすると銀貨をしまい、さっきの容器にクロウロンティを注ぎ始めた。そして注ぎ終えると満面の笑みでクロウロンティで満たされた容器を僕に手渡してくれた。彼にとっては僕は良いカモだったのかもしれない。
公園の端に座って僕はクロウロンティを飲み始める。なるほど、容器の中のクロウロンティはよく冷えている。それは黒烏龍茶と言うよりもコーヒーっぽかった。ただ、コーヒーよりも胃に刺激は少なく飲みやすかった。たとえるならコーヒー風味のお茶のような感じだ。もしくは薄いコーヒー。ただコクが無いわけでも無くわりと飲み応えはあった。ジラーのせいで喉がカラカラだった僕はあっというまにすべて飲み干してしまった。
喉が渇いたときに飲めるようにと、再度容器にクロウロンティを淹れてらうと僕は本来の目的地である図書館に向かった。
はじめて来るミイタ図書館の大きさに僕は圧倒された。建物はこの辺りに多いロココ調建築とは異なり、バロック様式の一段と格式の高い物と見受けられた。図書館は中央公園の一角にあり、館前は庭園になっており大きな噴水を中心に様々な花を中心にした植物が植えられている。人々は熱い日差しを避けて木陰でくつろいでいた。
図書館内に入るとそこは三階まである大きな吹き抜けのエントランスだった。外の暑さにもかかわらず中はひんやりとしている。エアコンなど無いはずだが、夏服では寒いくらいだった。
僕は司書に目当ての生物のジャンルがあるフロア入り口まで案内してもった。彼女に丁重にお礼を言い、入り口の大きいマホガニー製(マホガニーと言う木が此処に存在すればの話だが)とおぼしき扉を開けた。
一歩踏み入いる目の前に天井まである巨大な書棚がいくつもあることに圧倒された。魔法学に興味を持つ者が少ないのか、そもそも既に人が出払った後なのか判らないが、僕以外の人間は誰も居なかった。
検索システムなどないので、これだけの大きな書庫で目当ての物を探すのに難儀をしたが、ある一角で「世界魔法百科事典」とでも訳すのだろうか? 僕は十分冊ほどに分かれている分厚い百科事典を見つけた。魔法の分類ごとに分かれているようだったが、件のホウキンについて探すのは容易ではなかった。なぜならホウキンがどんな魔法ジャンルに分類されているかわからなかったし、魔法の分類自体が不明で、全く皆目つかない法則で分類されていた。
僕はとりあえずランダムに本を引っ張り出して探してみたが、結局見つかったのは十冊目の後半部分を開いていたときだった。
それはイラスト付きで紹介されていて、なるほど見た目は絨毯と変わりない。ただ、ユリアの話から想像した物とは大分違っていて、本当に普通の変哲も無い絨毯だった。魔法の力(?)によって長時間飛行することも出来ると記されている。なるほどこいつを手に入れれば、この大陸内ならどこでも易々と行けるだろう。
しかし、よく考えてみれば手に入れるのは難しい様だし、載るためには魔法も会得しなければならない。となればそんな苦労をするよりも何か他の長距離移動手段を探したほうがまだ早いような気がする。
手っ取り早くいまの技術で実現できそうなのは、熱気球の類いだ。但し、推進する装置を考えないと風まかせで移動せざる終えない。
そういえばあの骨董屋、今頃はハイリィスフィルドバァバで優雅な時を過ごしているのだろうか? あの骨董屋にはいろいろ聞きたいことがある。直ぐにで、もとっつかまえてやりたいのだが、既にハイリィスフィルドから発ってるっている可能性が高い。
そんな時にホウキンを使えれば移動時間を気にする必要も無く便利だと思うが、さすがに現実的でも無い。
以前、骨董屋の事を宿屋の主人に確認したところ、どうも、この国だけで無く隣国や海の向こうの国まで行商をしていて、だいたい半年周期でここに来ているらしい。
そしてそれらの国で珍しいもの(大抵はその国ではガラクタやおもちゃのような安価なものらしい)を買い付けてはよその国で高価な値段で売りつけているのだ。例えばガラスの製造技術がない国に廃棄物同然のガラス片とかだ。
どうせ半年もすればまた戻ってくる、そのときに絶対彼奴にクレームをつけてやる。願わくば、ぼったくられた金が何割かでも戻ってくれば嬉しいのだが。
僕は書庫に本を戻した時にちらっと時計に目を通した。もう夕刻になろうとしていた。僕は誰もいない図書館の扉をそっと閉じた。何かが奥でごとっと音を立てが僕は気にしなかった。
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