第16話 芽生える想い

「おじゃましまーす」


 陽奈希ひなきは期待感をつのらせているのがよく分かる声でそう言いながら、分譲マンションの一角にある我が家へと足を踏み入れた。

 

「……ただいま」


 次いで俺もそう唱えるが、誰からの返事もなかった。

 そろそろ日が西に傾き始める時間だというのに、室内の照明は点いておらず薄暗い。

 こんな時に限って、両親も妹も外出中のようだ。

 ……やっぱり断っておくべきだったんじゃないか、これ。

 しかし今更嘆いても手遅れだ。

 もう、陽奈希を招き入れてしまったんだから。

 

「ふんふふーん~♪」


 鼻歌交じりに廊下を歩く陽奈希をちらりと見て、俺は思う。

 ……一体、どういうつもりなんだろうか。

 若い男女、しかも形式上は恋人同士がどちらかの部屋に上がり込んで二人きり……となれば、やることはだいたい相場が決まっているような気がするけど。

 いや、まさか。

 だってまだ付き合って一週間も経ってないし、今日が初デートだし。

 いくら最近大胆な言動が目立つ陽奈希だからって、そこまで思い切ったことは――


わたるー? どうしたの?」


 ……しない、よな?




 俺は一抹の不安を覚えつつも、望み通り陽奈希を自室に案内した。


「ここが渉の部屋……なんだ」


 感動した様子で部屋に入りながら、ごくりと息を呑む陽奈希。


「なんか大袈裟だな……」

「ええ、そんなことないよ? わたしからすれば、念願叶ったりって感じだし……」


 楽しげにしながら、陽奈希は部屋の奥まで踏み込むと。


「よっ……!」


 虚を突くような機敏さで、ベッドの下を覗き込んだ。


「ってあれ……? 何もない」

「何を期待したのか知らないけど……そんな埃っぽい場所に物を置いたりはしないぞ」


 拍子抜けしたような声を漏らす陽奈希に、俺は小さくため息をつく。

 一昔前なら、ベッドの下と言えばいかがわしい本を隠しておくのに定番の場所だったかもしれないけど、昨今はそういうのもデジタル化が進んでいるからな。

 そんな分かりやすい場所に、物的証拠を残しておく必要はないのだ。


「ふふふ……」

「どうしたんだ、急に笑いだして」

「改めて、この部屋で日頃渉が生活してるんだな……って実感したら、つい」

 

 陽奈希はくすりと笑って、また部屋の中を眺め回す。

 そう言われても、俺にはピンと来ない感覚だ。

 ……人の部屋をあまり、じろじろと見ないでほしいんだけど。




「やれやれ……」


 せいぜい六畳しかない空間で、妙に浮ついた雰囲気の陽奈希と一緒にいるとどうにも落ち着かなかったので、俺は飲み物を取ってくると理由をつけて一旦部屋を出た。

 キッチンに行って、冷蔵庫を漁る。

 麦茶とコーヒーとコーラとオレンジジュース。


「この中なら……陽奈希はオレンジジュースだな」


 学校でもよく飲んでるし。本人は子供っぽいと気にしてコーヒーや紅茶にも挑戦しているけど、成功した例がない。

 俺はまあ、コーラでいいか。

 後はお盆と、適当なスナック菓子を用意して……。

 準備を整えた後お盆を片手に、廊下を歩いて部屋に戻ると。


『すぅー、はぁー……』


 微かだが、扉の向こうから、息を吸い込むような音が聞こえてきた。

 ……何してるんだ、陽奈希のやつ。

 勢い押し入って暴く……のは少し怖い気がしたので、俺はわかりやすく音を立てながら、ゆっくりと扉を開けた。


「おーい、飲み物と菓子、取ってきたぞ」


 と言った自分の声でよく聞こえなかったけど、「バッ」っと何かから慌てて離れるような音がして。


「あ、お、おかえりっ!」


 部屋の中に入った時、陽奈希はベッドの上にちょこんと座っており、何故か俺の枕を抱えていた。

 服が全体的に少し乱れているのを見るに……直前まで、寝転んでいたんだろう。

 それと、鼻の頭が少し赤くなっているのは……どこかに押し付けていたからだろうか。

 じゃあどこに、と考えてすぐに目につくのはやはり枕で、なんのためにと考えたら、さっき聞こえてきた息を吸い込む音が思い返される。

 もしかして、ベッドに寝転びながら枕に顔を埋めてにおいを――


「あの、あんまりじっと見つめられると、恥ずかしい……かな」

「ああ……悪い」


 陽奈希は恥ずかしそうに目を逸らしながら、枕をぎゅっと抱き寄せた。

 ……いや。

 なんかかわいらしい感じに振る舞ってるけど、さっきまで割とぶっ飛んだことしてませんでしたかね。

 まあ、実際に見たわけじゃないんだけど。

 仮にもし、本当にしていたとして、それも俺が好きだからこその行動……なんだろうか。

 それにしたって、やり過ぎな感はある。

 ……あの姉にして、この妹ありってことか。


「とりあえず、こっちに来てジュースでも飲まないか」

「う、うん。そうだね、ありがとう」


 俺が飲み物と菓子を載せたお盆をローテーブルに置くと、陽奈希は枕を手放してベッドを降りた。

 テーブルを挟んで向かい合わせに座り、それぞれ飲み物に口をつける。


「それにしても渉の部屋って、本がいっぱいあるよね。流石は文芸部って感じ?」


 陽奈希は壁際に設置された合計六つの本棚を指して言う。

 並べてあるのは殆どが漫画と小説(純文学からライトノベルまで)で、後は多少の教科書やら参考書だ。

 

「まあ、いろりに付き合ってたら自然とな。今でこそすっかり生意気に育ったけど、昔はあいつ、病弱だったからさ。一緒にできる遊びをしていたら、俺もインドアな趣味になったってわけだ」


 そのためこの部屋には、本以外にもゲーム機や大量のソフト、パソコンなんかも置いてあり、なかなか手狭ではある。


「ふふっ。渉って、ホントに妹思いだよねー」

「昔はともかく、今はどうだろうな。最近あいつ、俺の部屋を書庫代わりにして自分の本まで俺の本棚に置いていったりするし、勝手に出入りするからけっこう迷惑してるんだよ」

「そんなこと言って、なんだかんだで渉はそれを許してるわけでしょ? 炉ちゃんが弥の部屋に出入りしてるのだって、懐いてる証拠だと思うし」


 陽奈希はスナック菓子をつまみながら、おかしそうに笑う。

 

「俺はそうは思わないけどな……かと言って、仲が悪いって程でもないけど」


 恋愛相談なんてものを、お互い持ちかけたりするくらいだし。


「えー? わたしからすれば、すごく仲が良いと思うよ? 炉ちゃんがちょっと羨ましいくらい」


 過大評価な気もするけど……クラスメイトの常陸ひたちなんかは自分も妹がいるけど、二年前から反抗期で話したことないとか言ってたし、俺たちみたいな兄妹の方が特殊なんだろうか。


「わたしも何か読んでみようかな……」


 炉に対抗心でも燃やしたのか、陽奈希は本棚に目を向けた。


「そう言えば陽奈希って、文芸部の割には本を読んでるの見たことないな」

「実はわたし、入部した動機が『友達に誘われたから』ってだけだし、友達が文芸部を選んだのも、楽だし気兼ねなく辞めれそうって理由だから……本に対してあまり興味がないんだよね」


 陽奈希はそう言って、苦笑いする。

 俺たちが通う高校には、一年生はいずれかの部活に所属しなければいけないという面倒な校則が存在する。

 それは裏を返せば二年生になったら部活を辞めてもいいという意味なので、陽奈希の友達は最初からそのつもりで、人が少なくてまともに活動もしていない文芸部を選んだんだろう。一年の4月に数回部室に顔を出しただけだったし、クラスも違ったからぶっちゃけ名前すらうろ覚えだし。

 じゃあ、本に興味がない上、クラス委員長などの仕事で忙しい陽奈希が辞めなかったのはなんでかと言えば……あるいは俺がいたからなのかもしれないけど、そこには触れないでおこう。

 

「……部室に来ても炉と駄弁るかゲームするかの二択だったのは、そういうことか」

「あはは……でもせっかくだしこの機会に……あ、この本とか」


 陽奈希が恐らくは直感的に選んだのは、ラブコメ系のライトノベルだった。

 アニメ化までされた人気作品で、俺も何度か読んだことがあるけど、のめり込んでいるのはどちらかと言えば炉の方だ。 


「ライトノベル……ってやつだよね。わたしでも読めそう?」

「まあ、本格的な文学作品よりはとっつきやすいかもな」

「じゃあさっそく……」


 陽奈希は適当なページを開くと、ぱらぱらと流し読みし始めた。

 コーラを飲みつつ、俺がその様子を何気なく眺めていると。

 ページをめくる陽奈希の手がピタリと止まった。


 ……そう言えば、あの巻って。

 主人公とヒロインが結ばれて、キスとかその先も……みたいなシーンがあったような。


「ねえ、これ……」


 案の定、陽奈希が見せてきたのは、そのキスシーン(挿絵つき)だった。

 陽奈希は本で表情を隠すようにしながらも、ちらちらとこちらに目配せしてきて。


「渉もわたしと、こういうことしたいって思う……?」


 どこか期待が込められたような声で、陽奈希は問いかけてきた。


「は……!? それ、は……」


 なんだこの甘い雰囲気みたいなものは……!

 誰も邪魔が入らない空間で、二人きり。

 やっぱりそういうつもりで来たのか、陽奈希は……!?

 というか、渉って。

 まるで自分はしたいみたいな言い方じゃ……いや待て考えすぎるな俺。

 どうせ言葉の綾とかだ、相手が校内でもツートップの美少女双子姉妹の片割れだからって、雰囲気に流されるな。

 第一、俺は陽奈希と正式に付き合っているわけじゃないんだから、キスとかその先も……なんて、許される立場ではない。


「まあ……焦る必要はないだろ」


 俺はとりあえず、先延ばしにする形でこの場を凌ぐことにした。


「そう……だよね……」


 陽奈希は同調するようなことを言うが、あからさまにしゅんとした様子を見せる。

 ……申し訳ない気もするけど、二つ返事で了承したりする方が余程マズいんだから仕方ない。

 

「というか、よく考えたらその本は途中の巻だし、読むにしても1巻からだよな」

「確かに、君の言うとおりかも……」


 俺はひとまず、元凶である本を預かりつつ、本棚に戻すという大義名分を得て陽奈希の正面から逃れた。

 ……こうでもしないと、動揺しているのがバレる。

 しかし、本を薦めるにしても、もう少し当たり障りのないヤツを選ぶべきだった。

 1巻からとか言ってしまったけど、今からでも別の作品を紹介した方が――


「ねえ、渉」


 背を向けたまま悩んでいると、後ろから陽奈希に肩を叩かれた。


「……? どうし――!?」


 俺が何気なく振り返ると……目の前に、陽奈希の顔があって。

 お互いの唇と唇が、触れ合っていた。

 たっぷり数秒、柔らかくてとろけるような感触が、伝わり続けてきて。

 

「ふふ……やっぱり我慢できなかったから、不意打ちしちゃった」 


 ようやく唇を離した陽奈希は、羞恥を露わにしながらも、清々しい表情をしていた。


「お、おい……!」


 俺、今陽奈希とキス……した、のか……?


「今日は、ワガママ聞いてくれるんでしょ?」


 呆然とする俺に、小首を傾げて微笑みかけてくる。

 憚ることなく好意をぶつけてくる、優しげな眼差し。

 

 そんな陽奈希の好意に対して嬉しさを感じるだけでなく、俺は。

 応えたい、と思った。

 けどそれは、責任を取るとか罪悪感とか……後ろ向きな感情から来ているものではなくて。

 もっと別の、前向きな想いが芽生え始めていた。

 

 だから俺はこの時、天宮あまみや陽奈希と付き合い続けることを決めた。



◇◇◇



「はぁ……」


 私……天宮あまみや沙空乃さくのは、テニス部の練習試合を終えて帰宅し、自室のベッドで寝転んでいました。

 今日の試合は勝ちはしたものの、心が乱れて内容が良くなかったので、気持ちを落ち着かせようと、ベッドの下に隠してある秘蔵の陽奈希写真集を眺めていたのですが……。


「……やはり、駄目です」


 アルバムに飾られた写真の多くに、心の乱れの元凶……陽奈希といつも一緒にいた、彼が写り込んでいるのですから。


 昨日本人から知らされた話ですが、彼……伊賀崎いがさき渉と私が初めて会ったのは、八年も前のこと。

 当時は彼の名前も知らず、女の子同然の服装のせいで性別すら誤解していました。

 仲の良い友達のつもりではいましたし、思い出の中の特別な存在でもありましたが……時が経つにつれて、少しずつ当時の記憶も薄れていたのも、また事実でした。


 けど、昨日そんな相手と再会していたのだと、本人から知らされて。

 しかも、女の子だと思っていたのに、実は男子高校生になっていて。

 ……不思議な感覚でした。

 それまで『妹の彼氏』として敵視していた男が、途端に親しみ深い存在に見えてきたのです。

 一緒に狭い遊具の中で雨宿りをして、無防備な姿を晒して。

 昔の真似事をしようと、よりにもよって私は……彼にキスをしようとしました。


 ……振り返ってみれば、昔は昔で何故そんなことをしようと思ったのか分かりません。女の子だと、思っていた相手に対して。

 きっと寂しかったのはあるんでしょうけど……それ以外には、子供心の興味本位みたいな意味しかなかったと思います。


 けど、昨日再び同じことをしようとして。

 を込めようとしていることに気づいて。

 その後、逃げるように立ち去る間際にも、醜態を晒して。

 今でも頭に、耳に、こびりついています。

 彼が呼んだ、私の名前。

 ただ一言。それでいて、優しい声で。

 ――沙空乃。


「っ~~~~~~!!」


 だ、駄目です。思い出したらまた、変な気持ちに……!


 ……今頃二人は何しているんでしょうか。

 デート中のはずですけど。

 今日はテニスの試合があった後、その足で帰ってきたので追跡できていませんし、動揺のあまり陽奈希の服に盗聴器を仕込むのを忘れてしまいました。

 ……そこで不意に、昨日自分がしようとしていたことが、また頭をよぎります。


「うぅ……」


 ……やっぱり、キスとかしたんでしょうか。

 陽奈希にとっては、間違いなくファーストキスになるでしょう。

 でも、彼にとっては……?

 ……いやいや、私のはノーカンです。

 子供の頃のことで変な意味はないですし、そもそも女の子だと思っていましたし、彼自身は覚えてないですし……って。


 気持ちを抑えきれなくなるから、距離を置くつもりだったのに。

 そうしたらそうしたで、彼のことばかり考えてしまいます。

 ……自分の本心に嘘をついてまで、「あなたを振る」なんて宣言したのに。

 また会いたいとか、明日は学校があるからそのチャンスもありそうだとか、そんなことばかり頭に浮かんできて。

 陽奈希と彼がどうしているか考えると……なんだか胸が切なくなってきます。

 ……こんな気持ちになったのは、初めてです。

 もしかして、これがそうなんでしょうか。


「もう……限界です……」 


 ……これ以上、私は自分を騙せません。

 私は、どうしようもなく、あの男……伊賀崎渉のことが、好きです。


 よりにもよって私は……『妹の彼氏』に、恋をしてしまいました。

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