第5話

その、彼の目の前に平伏する若者。

 幼名を牛若丸という。今、この国で最も栄えていると言える平家一門と敵対する関係にある源氏。その、血を引くものである。

 彼の父、源義朝は、先の平治の乱にて清盛と敵対し、破れた。彼の母常盤御前は、その時三名の子供を抱えていた。六波羅に出頭し、清盛に命乞いをすると、清盛は彼女の美しさにほだされてそれを承諾したという。

 今、彼の目の前にいるのは、その時、乳飲み子であった末子の牛若丸。長じて、通り名を九郎、諱を義経と言う。

 奥州で力をつけている秀衡は、清盛にとっては邪魔な存在になりかねない。自分より力を持つ者が出て来ることは避けたいはずだ。そこで、平家と敵対する源氏の子供を秀衡が懐に入れることは、清盛の目には果たしてどう映るのか。秀衡は思案していた。秀衡とて、無用な争いは避けたい。

 秀衡はじっと、九郎を見つめた。そこに緊張が無かったわけでは無い。不安が無かったわけでは無い。それでも、しっかりと自分の足で立ち、歩こうとする若者の姿があった。そして、彼の気配は未だ何にも染まらず、不安定に揺れていた。

 血統こそ、武士のもの、源氏のものではあるが、未だその色には染まっていない。周りが彼をどう見ようとも、彼はまだ何ものでも無いのだ。

「九郎殿。遠路はるばるご苦労であった。面をあげられよ」

沈黙の後、秀衡の深い声音が響いた。

 九郎がゆっくりと面を上げる。その場にいた者がその所作に、そして、面の美しさに驚きを隠せなかった。息を呑む者、顔を隠す者。そして、近くの者とひそひそ話す者。

(息子がこれでは母親もさぞかし美しかろう。かの清盛公も、これでは願いを聞き入れずにはいられまい)

秀衡もまた、その外見にはそう思った。平家一門以外には恐れられているであろう清盛が、常盤午前の顔を見た時の様子が容易に想像できるようであった。その場にいた誰もが、同じ思いであるようだった。

 そして、恐らくは彼の持つ血筋に不安を持っている者があることも同じであろうと思った。

(麗しき源氏の若者。それがこの奥州にもたらすものは、さて……)

秀衡は顎を撫で、思いを巡らせた。そして、小さく息を吐く。

 目の前の若者は、その様子をじっと見ている。己の進退が、ここにかかっていることを理解しているのだろう。その目にはやはり緊張の色が濃く出ていた。

 それに気づいてか、そう、悟られたことを感じてか、九郎は一度目を閉じ、そして、再びゆっくりと開いた。最初は伏し目がちに、そして、静かに秀衡を見る。そこには既に緊張の色は無く、ただ、静かに己の運命を見据えるような色があった。

 その決意の色彩に、秀衡は小さく感嘆の息を漏らした。

(……あの御方にも、託宣を仰がねばならぬな)

秀衡は、不安と同時に何とも言えない心震えるような感覚が、体の底から湧き上がってくるのを感じた。


それは、何かが始まるという、合図。

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