第31話 さようならと突入
冬ざれの朝、海を一望できる丘は、しんとした空気で、波もほとんど音を立てていない。
「サキ、行ってくる」
春になると花が咲く丘に、私は小さな墓を建てた。千年という長い年月を生き続けられるのは、例外中の例外だけ。サキは人間だ。生きているという希望はない。
「私たちの息子は、元気に育っているよ。粗忽なところもあるが、頭の良い、素直な子だ。サキに似ている」
墓石に口づけをし、私は人目のつかない森に身を隠した。大柄な男と合流した後、二人で浜辺に向かい、繋がっている船に乗り込んだ。ロープが切られる瞬間、命もそこで尽きるような気がして、一瞬恐怖に似た色が顔を強ばらせる。死など恐怖ですらなかったのに、抱えるものが増えると、どうやら恐れを感じるらしい。
「どうした?」
「なんでもない」
怪訝な顔をするタイラーに頭を振り、濁った水面に視線を映した。魚が食べられなくなってしばらく経つ。野生動物も、野に咲く植物も、食べられないものが確実に増えていた。
「本当にいいのかよ、これで」
波の音にかき消されることはない。今日の海は穏やかだ。ちゃんと私の耳にも届く。
「私とて悩むことはある。凪を家に残すべきか、連れてくるべきか。ここ数百年で、一番の悩みの種だった。これが私の出した結論だ。失ったものを取り返し、必ず凪の元へ帰る」
「どうなっても知らねえぞ。じゃあな、お達者で」
あっさりとした別れだった。タイラーとはこれくらいがちょうど良い。
彼が手を離すと、船は波にさらわれていく。天候や波が穏やかな日でなければ船は出せず、重なる日は年に数回ほどだ。政府も感情的に動き回っていれば海を漂うこともできず、すべての条件を満たすときは、そう多くはない。
地平線に見える土地は薄っぺらく、痩せ細った枝に似た幹が虫に食われ、未来を照らすような蕾や葉はひとつもない。これが人間共が行った戦争の末路だ。サキの命を奪い、息子の未来を滅していく。
孤塔に降り立つと、船は森に隠した。念のため生き物たちが嫌う匂いを吹きつけた。
塔から差す灯光に触れないよう徐々に近づいていく。光跡は、ネズミ一匹すら逃さない。
「……は、…………」
裏口にある、古びた扉の窓枠には鉄格子が填められている。ぐっと力を入れて持ち上げると、一本が外れた。腕を伸ばし、内側から鍵をこじ開ける。見栄えばかり繕っていても、見えにくい箇所には弱点がある。
埃が舞い、私が踏んだ足跡以外は何も残されていない。ダクトの金具を取り払い、上によじ登った。
「分かるか?」
小粒で真っ黒な瞳は未来を見据えていると信じ、私の問いかけに首を傾げる。ハクが大切に飼っていた小鳥だ。おとなしく衣服の中でくるまれていてくれた。
ダクトの中で離すと、迷わずに奥へと進んでいく。私も這いずりながら後を追った。
何部屋か通った後、薬品の匂いが鼻をかすめる。毎日嗅いでいる匂いは、緊張と私の存在意義を高めてくれる。魚が水を必要とするように、私に薬は必要不可欠だ。
小鳥が足を休め、出入り口を探している。ダクトに耳をつけ、中の様子を確認した。
数人の話し声が聞こえる中、聞き覚えのある声がした。男性にしては高く、女性にしては低めの落ち着いた声だ。間違いない。彼女は生きていた。膝株から熱が生まれ、高揚感が増していく。
通り過ぎても小鳥はここだと小さく鳴き、動こうとしない。目印になってくれてちょうどいい。私はふたつ離れた部屋に移動すると、フィルターを外して、アルミ缶を床に落とした。
「ん?」
「どうした?」
「何か落ちてるぞ」
衝撃が加えられたアルミ缶は、隙間からネズミ色の煙が部屋中を包む。燃えさかる炎は出ずとも、充分な効果はあったようだ。人間たちは心臓に悪いだろう。
煙と共に悲鳴で部屋は満たされ、白衣を着る者たちは一斉に部屋を後にした。
小鳥は人間たちの絶叫をもろともせず、落ち着いてダクト内をつつき回っている。私に気づくと、近寄ってきた。
「下に行けそうか?」
またもや首を振るが、澄んだ目は私から離さない。指に乗る小鳥は人が通れないほど小さな穴に顔を入れ、いとも簡単に身体も通した。
訓練したかのように、小鳥はお目当ての者に一直線だった。
ハクは驚愕し、四方を見渡すと、白衣のポケットに小鳥を入れた。
「何の騒ぎだ?」
「分からん。お前はここにいろ」
ハクも含めて、三人。見えない手錠に繋がれた身体の小さな少女は、大柄な男性二人に言葉の壁を押しつけられ、身動きが取れないでいる。部屋に一人取り残されると、的外れな下や後ろを振り返っている。
私はフィルターを外し、手を伸ばした。
「随分驚いた顔をしている」
「………………どうして」
「こい」
泣くまいとする彼女の顔は、あまり得意ではない。当然、悲しみの泣き顔もだ。
「ぼ、僕…………」
「後で聞こう。こい。チャンスは今だけだ」
もう一度、手を伸ばす。ハクより先にポケットに潜んでいた小鳥が飛び立ち、ダクトの中に入ってくる。つられるがままに指先まで伸ばしたので、私は丸ごと包んだ。私より、小鳥の存在が大きかった。
引っ張り上げたハクを抱きとめ、早急にフィルターをはめた。安息の地をよくぞもたらしてくれた、と小鳥は小さく鳴き、再びハクのポケットの中に入る。やはり、私ではご不満のようだ。
「ついてこい」
ハクがいなくなったとすぐに気づかれるだろう。感動の再会より、まずは避難が最優先だ。
「すぐに報告をしろ」
「どこから煙が……?」
「缶の中らしいぞ。誰がやったんだ、まったく」
話し声が聞こえては止まり、何度も繰り返す後に人気のない、静まった部屋にやってきた。物置として使用され、湿気や黴の臭いが充満している。先に降り、ハクに手を貸した。
「ここ……大丈夫なの?」
「人が入った形跡がない。今は使われていないのだろう」
「凪は……?」
「…………私の家だ。少し休もう」
物陰に隠れるように腰を下ろす。ハクも隣に座った。小鳥は顔を出し、ハクの指にまとわりついている。
「他の鳥たちは元気にしている。何も心配はいらない」
「…………そっか」
「なぜ、そんな顔をする」
「……………………」
「私に会いたくなかったか?」
「……そういうこと、言うようになったんだね」
少々、面を食らってしまった。
「今、みんなのいるところはどんな感じ?」
「……それは、お前が望む答えを伝えるべきか? 真実を伝えるべきか?」
「真実……かな」
「お前の製作した薬が出回り、三区に蔓延している。シェリフも動いているが……どうだろうな」
「シェリフでも、使っている人はいる。解決は難しい」
続けてハクは何か言うとするが、口を閉じる。私は辛抱強く待った。
「…………僕……あの……、本当は、」
「ハク、お前が真実を口にしても、私はお前を見捨てないし、側にいると誓おう。だから、すべてを話してくれ」
廊下が騒がしくなった。先にハクをダクトに入れ、続けて私も入る。
「続きは後だ」
「心臓……取り戻すの?」
「ああ、私の心臓はたくさんのサンプルたちと共に地下に保管されているはずだ」
「ないよ。心臓」
「どういうことだ?」
「アーサーの心臓は……地下にない。塔の上にある。特別なものだって……仲間が言ってた」
「仲間、か」
しばしの間、無言の中、ダクトを這った。何度か後ろを振り向くが、ハクは大丈夫だという顔をしているため、なるべく離れないように膝株を動かした。疲れの色が見えている。ダクト内だというのに、外にいるより空気が綺麗とは、おかしな話だ。ここの空気は毒素が一切ない。
ひんやりとした空気が袖の隙間に入り込んでくる。いきなり空気が変わった。物置部屋と同じく、黴の臭いが広がっている。
「降りよう」
「どこ?」
「裏の非常階段だ。ここは防犯カメラがない」
地に足が着くと、いやに音が響く。裏口の鍵を開け、これで逃げ道は確保できた。私は使うことはない、最後のルート。扉を開けると、雲のない日差しが降り注ぐ。
「森に船を隠している」
「アーサー……?」
「天候や波の高さが一致する日はそうそうない」
「僕も行くよ」
「来てどうする。道案内は必要ない。塔の設計図は私の頭に入っている……何の真似だ」
わずか一瞬の隙であったが、ハクの方が早かった。
隠し持った拳銃のマズルは私の背中につけられ、トリガーに指がかかっている。
「気づいているんでしょ? 僕が……政府の仲間だって」
「先ほど、言っていたな」
「僕は一度、政府を裏切った。生物の進化に異常を起こす薬の製作をしていて、頑なに拒否をしたらアンドロイドとして作り替えられてしまった。そしてあの島に捨てられた」
「凪を麻酔銃で撃ったあとは?」
「彼を部屋に運び、外で待ちかまえていた政府に捕まった」
「凪のことは話していないのだな」
「……気まぐれだよ、そんなの。話したところで、僕の処遇は変わらないから」
「今作っていたのは、さしずめアンドロイドに何かしら変化を促す薬ということか」
「そうだよ。三区にいるアンドロイドなら、実験にちょうといいからね」
なぜそんなに声が震え、押しつける拳銃の先が揺れ動くのか。本音ではないと、本人が一番分かっているだろう。彼女の思考は理解し難いものがあるが、私はそれに従おう。
扉を閉め、彼女の望むままに、私は先の見えない階段を上り始めた。
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