第8話 想い人
「いらっしゃい、ハク」
「こ、こんにちは……」
相変わらず挙動不審だが、それでも出会った頃のように悲鳴を上げられることはなくなった。大きな進歩だ。
ハクがやってくると聞いたのは朝食のとき。いきなりで準備をしていないと言えば、何の準備だとアルネスは訝しんだ。
こういうときに必要になってくるのがお茶なのだ。代替え品もない今は、透き通った冷たい水を置くしかない。
「ヒヨコ……どう?」
「育ってるよ。あいつさ、鶏小屋にいないで山羊小屋にいるんだよ」
「元気なら……いい」
「段々ヒヨコじゃなくなってきてるけどな」
ハクは棚に置かれた馴染みのない物を見て、首を傾げる。
「これ……」
「ちょっと前にアルネスが持ってきてくれたんだ。腹の空き具合でしか時間の経過が分からなかったし、此処は窓もないから」
「なかなか手に入らない……」
「そうなの?」
鳥を形どった人形が水面を啄み、水を飲む仕草をしている。水入れには上から順に数字が書かれていて、飲んでいくと水が減り、水量が減れば水嵩が次の数字に移る。零時には飲んだ水をすべて吐き出すのだ。横にはカレンダーがあり、これもアルネスが持ってきてくれたものだ。
一度どうしても吐き出す瞬間が見たくて、眠い目を擦りながら待っていた。こう、リアル過ぎて見なければ良かったと自重した。アルネスの言う通りだった。鳥の目が怖い。真顔で水を吐き、鳥の腹から得体の知れない空気音が鳴る。
「みんなの家にはないものなのか」
「外の放送があるから」
「放送?」
「時間になると、お知らせしてくれる」
「へえ」
「アルネスは……放送が嫌いって言ってた……」
「なら水時計があって良かったかも。夕食は俺が作るけどいい?」
ハクは勢いよく頷いた。フードが揺れ、白い肌が一瞬見える。
「フード取らないの?」
「え?うん……」
「無理に取れとは言わないけどさ」
「……アーサーが、極力取るなって……」
深い事情があるらしく、それなら無理はするなと伝える。
アルネスと普段呼んでいるが、アルネスアーサーが本名なのだ。今のところ、アルネスと呼ぶのは俺だけだ。
「ハクは嫌いな食べ物ある?」
「ない……鳥も……食べる」
「あ、食べるのか。可哀想で食べられないとか言われたらどうしようって思ってた」
「肉……貴重」
冷凍していた鶏肉と野菜を細かくして煮込めば出来上がる。味付けは塩や胡椒、ハーブを用いる。お手軽だが、気温の下がる秋では作りやすい料理だ。アルネスが「温かい」と漏らしてからは、俺の定番料理になった。
「パンは……」
「アルネスが作ってくれるよ。俺パンの作り方分かんないし」
「……僕、作る」
「じゃあさ、教えてくれよ」
小麦粉と水、少量の油を混ぜ、粘着が出たらフライパンで焼く。お手軽だ。味見をすると、焼きたてもあってか小麦粉の甘い味が広がる。
焼き上がりに、ちょうどアルネスが帰ってきた。ハクを見ても驚きはなく、白衣を脱ぎソファーに掛ける。脱いだ瞬間、薬品の匂いがし、アルネスが帰ってきたんだと実感した。
「フードくらい取ったらどうだ」
「ええ……でも、前に取るなって……」
「凪の前なら問題ない」
挙動不審に頭を降るが、やがて観念したハクはフードを取った。
「………………」
「……前髪切ってやろうか?」
「………………」
「可愛いんだな」
ぽすん、という音は服に触れただけで、俺は簡単に避けた。瞬発力は、日頃から筋トレを欠かさない効果だと思いたい。努力が実るのは嬉しい。
「いきなり殴る?どうしたんだよ」
「それ……こっちの台詞……」
「目を見られたくないのか?」
「ち、違う……」
「ご飯の前に切ったら?無理にとは言わないけど」
「ちがう……」
俺はハクが言いたくなるまで待った。
ハクのようなタイプの人は、感情を表に出すのが苦手なだけでしっかりとした意思を持っている。投げやりにせず、放り出さず、ちゃんと口にするまで待つのが一番だ。
「か、可愛いとか、言うから……」
「褒められるのは嫌なのか?」
「違う……二度目……」
「一度目は?」
「アーサー……」
ハクは遠慮がちに俺を見て、俺は無遠慮にアルネスを見た。お医者様は目を逸らした。
「……なんだ、その目は」
「いや、別に?」
「言え」
「アルネスも可愛いとか言うんだなあって」
「………………」
「そんな顔するなよ」
「私は平常通りだ」
半オクターブほど下がった声色で言われても、説得力が微塵もない。
微妙な空気のまま始まった夕食会は、ハクのおかげでいつもの雰囲気はすぐに取り戻した。話しているのはほとんど俺で、何か言うたびに二人は頷いたり、意見をくれる。一人じゃないって暖かい。
「ハクと作ったんだけどどう?」
「……よく煮えている」
「パンはハクが作ったんだ。パンの作り方も覚えたし、これからは俺も作れるから」
「あの、凪……」
過去に名前を呼ばれた経験はあっただろうか。覚えていてくれた嬉しさで、パンを切る手がよく動く。
「前髪なんだけど……切ってもらってもいい?」
「もちろん。けどいいのか?切りたくないんじゃ」
「そういうわけじゃなかったんだけど……あんまり、顔見られたくなくて……でっでも……目に入るから……」
「目に入ると良くないよな」
「アーサーは……どう、思う?」
人生の岐路は、アルネスの手に委ねられた。
いつもの独特の間を置き、口を開く。
「好きにすればいい」
しれっとした答えだった。
「そういう言い方はないだろ?」
「……お前は時々、話の逸脱を物ともせず、どうでもいいことに至極力を入れる」
「なんかよく分かんないけど、ありがとな!」
「話し合うべきは髪を切るかどうかだろう。眼球を傷つけ、視力の低下に繋がる恐れがある。せめて睫毛にはかからないくらいがいい」
「医者視点は貴重な意見。眉毛と目の間くらいに切る?」
「う、うん……」
「よし、決まり」
まだ焼きたてで温かさが残るパンを飲み込み、残りのスープも口に入れた。肉を入れると出汁がしっかりと取れる。
片付けはアルネスに任せて、ハクを椅子に座らせた。緊張しているのか肩が上がっている。
落ち着けと両肩に手を置いても、さらに肩が石になってしまった。
「女の子の肩って小さいんだなあ」
「…………え?」
「え?」
アルネスの食器を扱う手も止まり、水の流れる音だけが響く。
「あの……、僕、男だけど……」
「あ、そうなの?ごめん」
「ううん……別に……」
普通、性別を間違えられたら怒ったりするものだが、ハクは緊張を解いて耳を赤く染めた。嬉しいのか恥ずかしいのか、真後ろからだと赤い耳しか見えなかった。
もう一度謝ろうかと思ったが、ハクは怒ってもいないし悲しんでいる様子もない。これ以上つつかない方がいいと判断した。
鋏を縦に入れ、少しずつ手に取った髪に刃を入れていく。柔らかで寝癖のついた髪は手櫛を抜け、細かな毛先が床に落ちていった。
「横も切っていい?」
「耳が……出ないくらいがいい……」
「オッケー」
耳たぶの位置を確認すると、また肩が上がる。くすぐったいらしく、小刻みに震え出した。
「どう?」
「うん……いい」
優しい目だ。鳥を愛する人間に相応しく、純粋で真の強さが備わった目だった。
「あの、ありがとう……」
「どういたしまして。どう思う?」
最後の質問はアルネスに向けてだ。ソファーに座ったまま眺めていたアルネスは、肘掛けに腕をついた姿勢で上から下までハクを見る。
ハクは小さく唸り、視線を忙しなく動かした。
「……フードは被っておけ」
アルネスは立ち上がると、短くなったハクの髪の毛に触れた。
「……シャワーを浴びてくる。それまで此処にいるように」
似合わないとは言わなかった。アルネスは、わざわざ言わない。それだけだ。
「そんな顔するなって。似合うって思ってるよ」
「そうかな……髪切って……怒ってないかな……」
「なんでアルネスが怒るんだ?ハクの髪だろ?」
「顔を隠せって言ってくれたの……アーサーだから」
「そこ滑るから気をつけて」
顔を隠さなければならない理由があるのか。顔に傷があるわけでもないのに。
「なあ、ハクって……危ない!」
床にはハクの髪が散らばったままだ。小柄な身体は足を滑らせ、折れた鉛筆のように身体が曲がる。ハクはやってくる衝撃に目を強く瞑った。
間一髪、俺は腕を引き胸元に引き寄せた。バランスの崩れた身体は尻餅をつき、切ったばかりの髪の毛が蝶のように宙を舞う。頭を上げたおかげか、後頭部に痛みはやってこない。代わりに臀部にじんわりと痛覚が広がっていく。
「いっ……!」
「ご、ごめ……」
「大丈夫だよ。ハクが無事で良かった……え」
男性のわりに細い肩だとは思っていた。普段はローブに覆われた腰の細さ。筋肉らしい筋肉もない。
胸元に感じる淡い膨らみは、俺やアルネスにはないもので。意識してしまえば熱くなり、熱が伝わらないよう慌てて引き離した。
「……何をしている?」
不機嫌を全力で振りまきながら、アルネスは壁に寄りかかり腕を組んでいた。戻ったのなら一言言ってくれればいいのに。
「あの、ハクが滑って転んでさ、危なかったよ」
「………………」
「髪の毛掃除しなくちゃな!」
立ち上がると、衣服に細かな髪がついている。
「ハク、家に送っていく」
「うん……」
「またな!」
手を振ると、ハクはフードから顔を覗かせた。目に意識が宿っておらず、諦めや脅えが見え隠れし、上げた手を下ろした。
ついでにリビング中をこれでもかというほど掃除し、アルネスと入れ違いにシャワールームに入る。敢えて冷たい水で頭から被ると、熱くなったものが急激に冷えていくのを感じる。膨らんだ風船が萎み、冷静に物事を考えることができた。
ふたつの膨らみは間違いなく女性にしかないものだ。ローブの中には鳥用の餌や薬などが出てきたが、そんな堅さとは違う。
冷え切った身体にお湯をかけ、念入りに身体を洗った。強めにタオルで擦ると、柔らかな感触が消えてくれそうで、少しほっとしたような気持ちになる。
シャワールームから出ると、アルネスは帰宅して本を読んでいた。
「早かったな」
「送っただけだ」
機嫌の悪さは続いていた。
俺は隣に座り、タオルで頭を拭いた。水滴が宙を舞い、アルネスの肌に触れる。
「……冷たい」
「悪い」
「なぜドライヤーを使わない」
「使っても上手くまとまらないんだって」
アルネスは俺の髪に触れてくる。まだしっとりとしている髪を手櫛で何度か梳いた後、タオルを頭に被せ、マッサージするように擦った。
「うわ……気持ちいい……」
「……似ているな」
「え、なに?」
顔を上げると、普段のアルネスに戻っている。さっきの不機嫌オーラ全開のアルネスは何だったんだ。
「……ハクのことだが」
頭を拭く手が止まる。
「自ら、説明したいそうだ」
説明に関する話は何を指しているのかは、ひとつしか浮かばない。
「仕事が空いた日にもう一度だけ来たいと言った。だから私は、いつでも来いと伝えた」
「もう一度だけって……何度も来てほしいのに」
「お前ならそういう言うと思い、話した。お前が会いたがっている、と」
本当は、そうじゃないと伝えたかった。ハクが会いに来るのは、自分ではない目的があるからで、いくら鈍い俺だって分かる。多分。
大きく膨らんだ気持ちは、愛慕なのか家族愛なのか友愛なのかいろいろあるけれど、どれだってアルネスを大事に想う心に変わりない。
「あのさ……アルネスとハクって、いつからの付き合いなの?」
「……気になるのか?」
「えと……うん」
「二年ほど前だ。お前が会った中で、一番付き合いが浅い」
「一番長いのは?」
「タイラーか、シルヴィエ。どちらだったか」
「タイラーたちは元気にしてる?」
「ああ。会いたいか?」
「会いたいよ」
「会ったとき、話しておく」
頭は鳥の巣のようになっていたが、しっかり乾いている。毎回こうして拭いてもらえるなら、ドライヤーを使わなくてもいいと思った。
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