第9話 同類
カレンダーは次のページに捲り、一から三十までの数字が現れた。変わったカレンダーだ。西暦と月が書いていない。上にはボールペンでふたつの数字が書いてある。『十一月』と、アルネスが書き足したものだ。
用意された密閉瓶と、冷蔵庫に入りきらないほどの食材。赤と白の茸が煌びやかなアイドルのように視線を惹きつけていて、そっと視線を逸らした。見ているだけで寿命が縮む。
気合いを入れるために何度か屈伸をしていると、昼食を食べ終えたアルネスが仕事に向かおうとし、目が合った。
「………………」
「そんな目で見るなよ。美味しい保存食作るからな!いってらっしゃい」
なぜか憐れみの目を向けたアルネスは無視をしてさっさと出ていってしまった。
保存食は、主に三種類に分けた。乾燥、酢漬け、塩漬けだ。乾燥は干し肉を作っていてもう食べられる。酢漬けや塩漬けは、過去に見た料理本を思い出し、作るしかない。
ザワークラウトは塩漬けの中でもかなり有名だ。千切りにしたキャベツと人参と塩を入れ、唐辛子も入れておく。唐辛子はよく知る唐辛子だ。赤くて辛くて細長い。決して水色や紫色ではない。これで一つ完成した。塩漬けは酢を入れなくても、酸味が出る。発酵食品として生まれ変わる。
茸はよく茹で、塩と唐辛子も入れて密閉する。野菜はそれぞれ酢漬けにし、残ったのは林檎である。
水時計を見ると、夕食の時間にはまだ早い。おやつだと言い聞かせ、林檎を摘まみ食いした。
「うわ、酸っぱい……」
酸味が強く、甘みがほとんど感じられない。生で食べられないとなると、一万年以上前から作られていたとされる保存食の出番だ。
具体的な作り方は判らないので、なんとなくの知識で林檎をざく切りにして、砂糖と共に煮詰めていく。粘着性のある液体はほのかに林檎の香りがし、火を止めた。殺菌した瓶に詰めればジャムの完成だ。
ほぼ丸一日キッチンに立っていたせいか、肩や腰がすこぶる痛い。久しぶりに格技の型を基本からしていると、帰宅したアルネスとまたしても目が合う。今朝の出来事がフラッシュバックした。
「………………」
「なんか言えよ。寂しいだろ」
「それはなんだ」
「体術の型だよ。昔、やってたっぽくて、覚えてるんだよな」
「そうか」
「記憶より、身体が覚えてるって感じ」
「……風呂に入ってくる」
キッチンを横切る途中、テーブルの上の山のように積まれた密閉瓶を見て、息を漏らした。
「すごいだろ?キッチンにほぼ一日立ってたんだ」
「……これは?」
「林檎のジャム。酸っぱくてそのまま食べられなかったからジャムにしてみた」
「ジャム……」
壊れたロボットのように、何度も独り言を連呼した。
「これは、甘いんだな?」
「甘いよ。パンにつけて食べるんだけど、食べたことない?」
「ある。久々なだけだ」
「ジャムは冷凍すれば長期保存できるから」
今度こそ、アルネスはシャワールームへ向かう。少し、歩くスピードが速かった。
風呂上がりのアルネスはテーブルにあるジャムを手に取り、じっと眺めている。その様子を俺も眺める。
「気づいた?断りを入れようと思ったんだけど、酵母を作ってみたんだ」
「……なんだそれは」
「パンに入れるとふかふかになるやつ。硬いパンの方が好きだったか?アルネスが作るパンって硬めだから、勝手に作っちゃ悪いとは思ったけど」
「………………」
今のだんまりはどっちなのか。都合の悪いことに無言になったのか、何か問題があったからなのか。今回はアルネスの言葉を待ってみることにした。
「私の、」
「うん」
「作るものは……不満か?」
腕を組み、不機嫌を装うとする姿。これは。
下手につついてしまえばどうすることも出来なくなる。待ちの姿勢になるのは、次の一言がおそらく神が発する声よりも重い言葉となるだろう。にやけそうになる口を、筋肉をこれでもかというほど使い、押さえた。
俺は深呼吸をした。深く吸い、吐き、神以上の存在となるべく。
「……美味いに決まってるだろ。不満なんかないよ」
最高潮の笑顔で答えた。例え黒こげのパンを出されようとも、生煮えのスープを出されようとも、懸命にキッチンに立つ姿でお腹が満たされるのだ。
付き合いが浅く、アルネスについては九割以上判らないことだらけなのだが、一生懸命で真面目なのは伝わってくる。そして、人想い。記憶を失い何処かにいた自分を拾ってくれた人。
緊張していたのか固く噤んでいた口は緩み、歯並びの良い白い歯が見えた。
「アルネスって歯もきれいだな」
「さっさと風呂に入ってこい。夕食は私が作る」
密閉瓶を片付けようとし、アルネスは手を滑らせた。咄嗟に凪は下から支え、落下を防ぐ。
「セーフ!」
「………………」
「良かったな!ジャム落とさなくて。これはすぐ食べられるから、明日以降に開けよう」
「さっさと行け」
軽く背中を押され、俺は何度も頷きながら風呂場へ向かう。
瓶を落とそうとするなんてきっと仕事で疲れていたんだと結論付けた。
ハクが家にやってきたのは、数日後だった。初めに大きな足音が聞こえ、ソファーで本を読んでいた俺は顔を上げる。アルネスはまだ仕事中のはずだ。あまり足音を立てないアルネスにしては珍しい。俺の心臓は、危険を知らせる鐘が鳴る。
「ソファー空けてくれ」
「え? え」
床に落ちてしまった本を広い、置きっぱなしの医療の本も掴むと慌てて本棚に戻す。
ソファーにはハクが横たわった。数日前とは違う姿。引き裂かれたローブ、血痕の付いた腕、特にローブ下の服の乱れが凄まじい。
雪崩が起こったように次々といろんな感情に心が左右される。狼狽が激怒に変わり、悲しみも何をしていいのか分からない感情も、うろうろするしか出来ない自分にも、苛立ちが沸き起こる。良いことなんてない。冷静でいられなくなると、何も出来ないのだ。したくても、何をしていいのか分からない。その横で、アルネスだけが冷静沈着ですべきことをてきぱきと成している。医者という心構えだけでは、注解出来ない。
「なんだよ……これ」
やっと出た言葉がそれだ。酷くがっかりする。
「暴漢に襲われた」
いつもと声色は変わらない。側にいる俺だけが知っている。声はいつも通りであっても、怒りに満ちた目をしていた。
「大量のタオルを持ってきてくれ」
「分かった」
洗ったばかりの綺麗なタオルを選ぶ。焦りからソファーや棚に足をぶつけた衝撃で、皿の一枚が床に散らばってしまった。
「皿は後で掃除」
「ご、ごめん……」
何も出来ないどころか、仕事を増やしてしまった。欠けた皿や破片を拾うが、人差し指を切ってしまう。指紋の間に血が広がり、指紋の間にじわじわと滲んでいく。
「木箱にテープが入っている。止血」
「ごめん……ほんとに」
こんなときに情けや優しさなどかけられたくない。アルネスの持つ優しさは、ときに残酷でどん底へ叩き落とす。
アルネスは鋏でハクの服を切っていく。上半身には、残忍極まりない跡が数多く残っている。腕を強く押さえつけられた跡、腹部を殴られた跡、胸元の歯形。
血が滲む箇所には止血剤を塗り、テープで止め、包帯を巻いていく。
「ひどい……」
「こんなものではない。目を逸らすなよ」
一寸の迷いもなく、アルネスは下半身の衣服に鋏を入れた。
「え……」
下腹部の血痕が何より酷かった。おびただしいほどの滴る血痕はソファーに敷いたタオルに広がっていく。
凪は呆然とその様子を見た。驚いたのは血量だけではない。淡い毛の隙間から見える男性器と、上半身にあるふたつの女性である証。
「これがハクがお前に話したかった真実だ」
「な、なんで……?」
「そういう生き物だからだ、としか言えない」
思考が置いてけぼりを食らい、宙をさまよう手はハクの頭を撫でようにも触れてはいけないと、黄色い規制線が貼られていく。友人であるのにもかかわらず、ばかげた思考だ。
「両足を上げてくれ」
両頬を一発、それぞれ叩いた。アルネスはばかな俺を一瞥しただけで、すぐに視線を下げる。俺は迷いなど捨て、言われた通りに胸につくほど膝を上げた。照らされたライトの先は、赤黒い肉が血により残酷に照り返している。
「膣も酷いが、肛門の損傷が一番酷い」
一度退出したアルネスは、箱を抱えてテーブルに置いた。中身を見て、俺は酷く狼狽する。
「え、ちょっと待て。ここで手術するのかよ」
「時間との勝負だからな」
細い注射針を箇所に刺すと、ハクは小さく唸り顔をしかめた。
「ハク、大丈夫だからな」
声を掛けると、何度か大きく息を吐く。
「手術の本は読んだか?」
「読んだけど……見るのはさすがに初めてだよ」
「倒れないだけ上出来だ」
この状況でアルネスは笑い、少しだけ重苦しい雰囲気が緩和した。
溢れる汗が頬を伝い、俺はアルネスの額を拭いてやる。大きな嘆息は安堵であり、アルネスは無言のままシャワールームへ行く。顔を洗う音がした。
麻酔のおかげか、ハクは来たときと比べて穏やかな寝息を立てている。フードの被らないハクの顔は、少年というより少女だった。
「お前も顔を洗ってこい」
「アルネス……」
「酷い顔だな」
「元からこんな顔だよ」
「造形を話しているのではない。顔色だ」
「……そうする」
血だらけのタオルは山盛りで、ハクの状況とアルネスの過酷な仕事を突きつけられた。戻ってくると平然としていても、今回のように逸らしたくなる現実と何度も直面したはずだ。
冷たい水が心地良く、何度も洗っていると、麻酔をしたときのように肌の感覚が薄れてくる。顔を手で押さえると、内側の熱が徐々に頬を暖め、手にも熱を与えてくる。生きて、血が通っているからこそ、熱が生まれる。
「お前がいて助かった」
「いきなりそれ?怒るとか、なんかあるだろ。はっきり否定された方が、……ごめん。八つ当たりだ」
「……そうだな」
手術後とは思えないほど、アルネスは穏やかだ。
「『昨日の自分に誇れるのなら、それでいい』」
台本をそのまま読んだかのような棒読みで述べた。
「今の言葉を聞いたことがあるか?」
「いや……記憶にないけど。偉人の言葉?」
「ある意味、偉人かもな。私が救われた言葉だ」
ハクは寝息を立て、小さなくしゃみをした。十一月に全裸は辛い。一度部屋に戻り、自分のベッドから使い古しの毛布を持ってきた。もう一枚毛布を追加し、首元まで覆う。
「ハクの代わりに説明するが、彼女は両性の身体を持つ」
「そういう生き物って言ってたけど、この辺に多いのか?」
「私の知る限りでは一人」
ハクだけということだ。
「ハクはそういう風に生まれるよう作られた。人体実験は失敗に終わり、捨てられた」
「ちょっと待て……ついていけない単語が出過ぎなんだけど」
「膣もあれば子宮もある。だが子供は宿らない。卵子が作られないんだ」
「人体実験に関してなんだけど……」
そこまで言いかけ、凪は止まる。
散々動かしてきた手のひらを握ったり開いたり繰り返し、これが普通なんだと実感できた。手があり足があり、けれどそれを普通と思うこと自体が普通でないと考える者もいる。もしかしたら、この手も埋め込まれたのではないのか。記憶がないのも、人体実験を施された後だからではないのか。
「何を考えている」
「いや……俺ってさ……」
「お前は人間だ。人体実験もされていない」
「何で分かるんだ?」
「お前を拾ったとき、身体は調べ尽くした。……なぜ赤くなる」
「いやいや、恥ずかしくて」
照れ隠しに頬をくるくると擦る。
「他に質問は?」
「人体実験だけど、本当に酷いよ。この辺でよく行われてるのか?」
酷いという感想は述べても、それが一般的に行われていることなら、俺の感覚がおかしいだけだ。
「この辺は安全だ」
「けど……」
顔に付着した血は誰のものなのか。こびり付いた血はとっくに乾いている。後で顔を拭いてあげよう。
「外って暴漢が多いのか?」
「ここらは少ない。下は多い」
「下?」
「………………」
「無言なのは、墓穴を掘ったと取るぞ」
顔がため息をついている。アルネスは眉間を何度か揉み解した。
「今の顔はそこまで言うつもりはなかった、か?」
「……荒れている地域がある。此処は平和なものだ。多分、あちらからやったきた輩と踏んでいる」
「犯人は……」
「まだ調査中だ。シェリフが調べている。ハクも意識を取り戻したら、取り調べを受ける」
「警備の人間がいるのか」
「……言っておくが、私とは仲が悪い」
「なんで?」
「……此処に来ることはないが、連中とは友人になろうとは思うな」
アルネスはハクの頭に手を置き、何度も撫でる。
仲の悪い理由を語ろうとはしない。アルネスは外の世界を何度も目で見て感じ、絶望も希望も味わってきている。時々見せる何かを憐れむような目は、この先を見据えた絶望と、微かに宿る希望の色と考えている。
「考えられる犯人は、下の人間か、もしくは……」
消え入りそうな声に続きはなく、アルネスは腕を組んだまま目を瞑った。
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