第7話 A-0707

 思っていたよりもきつく掴まれた二の腕は跡が残り、アルネスは意外と力が強いなどとぼんやりと思っていた。

 シャワー室のレバーを切り替え、ふと備え付けの鏡を見た。

「何、これ……」

 左腕の二の腕にくっきりと目立つ『A-0707』の文字。何度も擦ってみるが、文字はそのままに白い肌が炎症し出す。痛くてヒリヒリした。ペンで書かれたものではなく、どう見ても彫られた跡だ。

 早々に身体の汚れを落とした後、俺はバスローブを着て足早に出た。

「アルネス」

「早かったな」

 ソファーで雑誌を読んでいたアルネスは顔を上げた。

「なあなあ、これ何だかわかる?」

 左肩をむき出して、アルネスに見せた。

「……刺青だな」

「そうそう、擦っても取れないし」

「擦り過ぎた」

 不機嫌に呟くと、アルネスは戸棚から薬を持ってきてくれた。

 蓋を外し、人差し指で掬うと丁寧に塗り込んでいく。

「ありがとう。それで、この刺青なんだけど、彫った記憶もないんだよ。知らないか?」

「さあな」

「A-0707の意味も?」

 救急箱を閉める強い音は、これ以上聞くなと言われているようだった。だが諦めるわけにはいかない。自分の身体に起こる出来事は、知る権利がある。例え世話を焼かれている身分だろうとも。

 隣に座るのを待ち、もう一度繰り返した。

「一つ、言っておこう。私にその意味を聞くな。私は知らない」

「目合わせないでそれ言うのか?」

「……知らない」

「なんだよその子供みたいな言い方」

「凪」

 名前を呼ばれると、どうも怯んでしまう。弱みを握られたわけじゃないのに、今の言い方は成人男性の頭を撫で回したくなるような呼び方だ。ずっとずっと先を歩く年上の男性なのに。

 凪という呼び方に、どれだけレパートリーがあるのか試したくなる。少しだけ、わくわくした。

「気になるか?」

「そりゃあ気になるよ」

「包帯を巻いてやろう」

 『気になる』の種類は、ここでは二種類存在している。相違の解釈に、苦笑いを浮かべるしかない。

「そうじゃなくてさ」

「……何だ」

「これいつ付けられたんだと思う?」

「さあな」

「何の数字かな」

「………………」

 また黙りだ。少し、苛立ちが募っていく。子供が親に八つ当たりをするみたいに、凪は立ち上がった。

「…………いいや、寝る」

 対応は最悪だ。なぜこんなやり方でしか出来なかったのか、変なプライドが邪魔をしてソファーに座り直すこともできない。

 アルネスは何も言わない。止めもしない。ただ、包帯の巻き方も丁寧で、余計に自分が虚しくなった。

 この日の夜は、なかなか寝付けなかった。


 次の日、起床するとアルネスはもういなかった。朝食は食べた痕跡があり、それほど一緒に食事はしたくなかったのかと酷くがっかりする。昨日の焦燥感の代わりに空虚感が浸透し、目の奥が痛む。

 それでも皿には潰れた目玉焼きが乗っている。冷蔵庫には作り置きのマヨネーズがあり、量が少し減っていた。アルネスが使ってくれたのだと、空虚感は満足感に変わる。

 パサパサの平らパンに目玉焼きを挟み、シュガービーツとマヨネーズも入れた簡単なサンドウィッチを作った。シュガービーツは水分と甘みだけだがミネラルや食物繊維が豊富だという。パンはもさもさしているが、シュガービーツのおかげで口の中の水分は取られずに済んだ。

 朝食後は動物たちの世話だ。ヒヨコは相変わらず山羊と一緒にいて、背中に乗って動き回っている。山羊は振り払おうともせずに、したいようにさせていた。

 充分な餌をやり、掃除を終えると通路に出る。緑色に光る部屋は合計三つだ。自室と、キッチンなどがある部屋、そして動物部屋。

 昨夜、アルネスが座っていたソファーに腰を下ろした。居たはずの名残はない。

 寂しさを紛らわせるためにも本棚から適当な本を手に取るが、集中できずにほとんど読めない。

 俺はそのままソファーでうたた寝をしてしまった。


 焦げ臭いにおいが鼻を刺激し、俺は目を覚ました。身体には毛布が掛けられている。優しさの固まりのような男の仕業だ。

「……アルネス?」

 キッチンにいるアルネスは振り返り、持っていた皿をテーブルに並べた。

「食事は出来そうか?」

「……うん?」

「夕食の時間だ」

「……え?夕食? 待って、お昼じゃないの?」

「……疲労が溜まっていたのだろう」

「えー」

「今日は新しい食材を買ってきた」

 食卓に並んだのは炒め物だ。青々としたキャベツと、一口サイズの人参。一際目立つのが、大ぶりで白くて丸い海の幸。じわりと口の中が水分で満たされていく。

「帆立だ……!」

「……やはり、これも好きだったか」

「好きだよ、めちゃくちゃ! 三つも入ってる」

 アルネスも嬉しそうに、フォークを手に取る。焦げ臭いのは帆立の炒め物ではなく、カゴに入ったパンだ。

 テーブルを賑わせているのは料理の他にもある。気づくな、という方が無理だ。

 グラスには、数輪の花が挿してある。

「どうしたんだ?これ」

「花だ」

「花……お、おう。綺麗だな……」

 色とりどりの花とまではいかないが、此処に幽閉されてから見る、初めての生花だった。

「何かの生物の目に見えるんだけど……」

 重なる花弁には目に似た模様があり、図鑑で見た大きな蛾の羽を思い出した。他の生き物に食べられないようにするために生まれた生き物は、数多く存在する。

「ナンバンギセルという植物だ。何度も子孫を残し、今の形態となった」

「ナンバンギセル……聞いたことないな」

「元々は他の植物に寄生し、栄養を吸い取り枯らしてしまう植物だった。今は雌しべから香りを出し、つられてやってくる虫を捕まえて食べる植物に変化した」

「道端で摘んできたのか?」

「……道端にはほとんど花はない。あっても簡単には持ってこられない」

「じゃあなんで?」

「………………」

 アルネスはフォークとナイフを置き、目線を揺るがす。

「……街で購入した」

「え?わざわざ?食べられないんだろ?」

「………………」

「……今はそれしか手に入らない」

 アルネスが不機嫌を露わにするたび、俺の機嫌は最高潮に膨らんでいく。つまり、昨夜から引きずっていたのは俺だけではなかったのだ。

 わだかまりを抱えたまま不満を口に出せずにいた頃、優秀な医師は街までわざわざ花を買い、テーブルに飾り、夕食の準備をしていたのだ。蒸気が出そうなほど顔が熱くなり、手を揉んだりとわけの判らない行動を繰り返した。そうしないと立ってうろうろしてしまいそうで。

「いやあ、本当にありがとう!」

「………………」

「すげえ嬉しい。この辺ってこういう花が主流なんだな」

「……森だとまだ咲いている。今の季節では期待できないが」

「へえ! ぜひ見てみたいよ」

「お前の言う、タンポポだが」

 前にタンポポの話をしたことは、すっかり忘れていた。

「昔、見たことがある。最近はない」

「ってことは……」

「絶滅の可能性」

「ワンチャン日本かなあとは思ってたけど、やっぱり違うんだな。日本なら絶滅するってほぼ有り得ないし」

 なんせ春になると何処にでも咲く花だ。

「日本の記憶はあるのか?」

「思い出せないって大雑把に話したけど、学生だった頃の記憶は……」

 顎に手を置き、ふと考える。

「そういえば……俺、引っ越ししたっけ?何処かに……」

 何度思い出そうとしても駄目だった。それ以上は踏み込んではいけないと言われているように、記憶の扉は開きはしない。料理に鼻が刺激されて意識が錯乱しているせいもある。今は目の前の食事に集中すべきだ。

「まあいいや。そのうち思い出すだろ」

「お前のそういう前向きさは、嫌いではない」

「そう? 俺もアルネス好きだよ。帆立美味いし、花は見れたし」

「物で釣られるタイプか」

「だって嫌いな相手にプレゼントなんかするか? 少なからず好意があるから差し入れしたりするもんだろ?」

「……帆立はいらないと見た」

「待って待って! 食うから!」

 塩味の利いた帆立は他の野菜の甘さも引き立て、とても美味しい。

「……雑草は無理だが、他の植物ならまた買ってやる」

 アルネスの小声に部屋中を歩き回りたいほど照れが溢れたが、食べることに集中し収めることができた。小声には小声で返事をした。


 アルネスはテーブルに包帯を置き、隣に座るよう促した。

「左肩を見せてくれ」

 鏡に映っても、できる限り見ないように心掛けていた。

「あんまり見せたくないんだけど……」

「なぜ?」

「………………」

 仕方なしに、バスローブから肩を出す。アルネスが息を呑むが、知らん顔で口を結んだ。

「……なんだこれは」

 刺青に被さるように、引っ掻いた跡。擦り傷の他に内出血を起こし、痣が出来ていた。

 アルネスは一度部屋から出ていった後、戻ってきたときには手に小瓶を持っていた。

「何それ」

「調合したばかりの薬だ」

 緑色の液体が入っていて、薬とは思いたくない液体だ。

 アルネスはそれを綿に垂らし、傷となる箇所に押し付けた。

「いっ……」

「染みるぞ」

「遅いってば」

 垂れてくる液を綿で拭い、漏らさないよう傷口に塗っていく。優しくはないのに、優しい手つき。痛いのに優しい。わけのわからない感情を起こす男だ。

「……怒られるかと思った」

「怒ってほしいのか?」

「アルネスなら、怒ってもきれいだろうなあ。いてっ」

「傷は、時間が掛かってもいずれ治る。治らないのは心に負った傷だ。一生背負うことになる」

「精神科のお医者さんみたい」

「黙って聞け。苛立ちを傷にするな。癖になり、また必ず繰り返してしまう。傷を見て、気持ち良いと感じてしまうんだ」

「……俺、危なかったかも。頭がすっきりしたんだよ」

 何度も何度もかきむしった。右の指に付着した血痕や傷口を見るたびに自分は自分でいられた気がして、瘡蓋ができるとまた同じ行動を繰り返した。

「加害者と被害者の痛みを今のお前は両方背負っている。ストレス解消法なら、他に考えよう」

「……うん」

 ぎゅっと押し込めていたものはは頬を伝い、首筋を流れていく。押入れに物を詰め込んでも、いずれ襖が破壊され、止めることなんて出来やしない。

 音もなく自然と流れた涙に自分自身が驚き、その感情も涙となって落ちた。

「辛い思いをさせていたな」

「なんで、そうやって……俺を泣かすんだよ……」

 頭に触れた手は冷たく、手の冷たい人は心が暖かいなんていう俗信を思い出していた。科学的根拠はあるのか聞きたかったが、言ってしまうと撫でる手が止まってしまう気がした。

「A-0707という刺青がなぜあるのか、その質問には答えられない。なぜかというと、お前を此処から解放出来ない理由にも繋がっているからだ」

「刺青の意味もか……?」

「……昨日も話したが、詳しい意味については、私は判らない。だが予測は出来る。予測の内容は、話せない」

「そっか……」

「朗報はある。この前の血液検査の結果だが、感染症などの病気にはかかっていない」

「それは安心したよ」

 刺青が彫られていて、悲しくて泣いたわけでもない。

──他に考えよう。

 他人事とは思わず、同じ立場に立ってくれたのが嬉しかった。ちょっとした優しさで小突かれて涙を流すなんて、それだけ心が崖から落とされそうなほどギリギリの状態だった。テーブルに飾られた花を見て和もうと思ったが、ギョロ目がこちらを見ていて涙が引っ込んだ。さすが、アルネスが見立てただけはある。

「今一番したいことは?」

「急に聞かれてもなあ……友達に会いたいかな」

「友達?」

 アルネスは怪訝に声を潜めた。

「ハクたち」

「そういえば、ハクは家畜の様子が気になっていたな」

「たまに連れてきてよ」

「わかった。他には?」

「カレンダーとか、時計が欲しい」

「お前の知っている時計は恐らくない。代わりとなるものを用意する」

「ありがとう」 

 理由を聞いても黙るだけだろう。ならば、素直にお礼を述べるのが一番いい。

「こちらから、頼み事がある」

「お、珍しい。なに?」

 涙の止まった俺は、嬉々として顔を傾げた。

「お前は干し肉を作っていたな」

「まだ食べられないけどね」

「ああいう日持ちをするようなものを、作ってもらいたい」

「いいけど……なんで?」

「もうすぐ冬になる」

「やっぱり今は秋かあ。美味くできるかわかんないけど、やってみる。密閉出来る瓶ってある?」

「食材も瓶も用意しよう」

 きっとまたグロテスクなキノコがやってくる。

 薬で染みた腕に強めに包帯を巻き付け、アルネスは木箱を片付け始めた。

「前から思ってたけど、アルネスって優しいんだな」

「………………」

 しまったはずの木箱は取っ手を持った途端、中身がばら撒かれた。鍵を掛けていなかったせいで床に散らばり、残った包帯がレッドカーペットのように絨毯となる。お互い無言のままで、もう一度薬箱を片付けた。




 後から気づいたことだが、本棚に今までなかった植物学の本が追加されていた。

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