第3話 ハク
生き物と接する機会が増え、次第にストレスも緩和していった。やはり生物と接するのは気分転換にもなる。与えられた仕事をこなし、空き時間には本を読み、少しずつではあるが充実した日々を送っていた。
だが慣れない仕事をこなしていくと、問題点も出てくる。私生活に影響が出かねない、重要な案件だ。
「卵を産まない?」
「うん。勝手に食べてないぞ?」
「そんなことは思っていない。今日もなかったのか?」
「うん……」
相変わらずのパンとシュガービーツ、それにニラと人参のスープで、朝食も昼食もタンパク質が不足する食事だ。冷蔵庫にはおどろおどろしい魚が入っている。夕食の材料だろう。
「朝食の後、餌やりに行ったんだけど……一個もなかったんだ」
「そうか」
「今までこんなことあったか?」
「稀に。後で人を送る」
「誰?タイラー?」
「違う」
残りのスープを飲みきり、アルネスは口元を拭いた。きれいな食べ方だ。
「仲良くしてやってくれ」
仲良くしたいのは山々だが、タイラーの件がある。傷は治ったといえど、心に引っかかりができたのは事実だ。
「楽しみにしてる」
相手は誰か、聞いても誰かは答えてくれそうにない。凪は微笑み、パンをすべて嚥下した。
アルネスの部屋で本を読んでいると、ドアノッカーが数回叩かれた。アルネスの場合は叩かずに入ってくるため、アルネスではない。他の誰かだ。
「………………」
「ひっ……」
扉を開けた途端、いきなりの悲鳴に後退り。タイラーのように殴られたわけではなくても、別の場所に傷はつく。
「あ、あの……」
「ひいっ……!」
二度目の悲鳴だ。恐ろしい化け物がいるかのようで、凪は思わず背後を振り返る。当然、いるのは凪だけだ。
「あの……俺、凪っていうんだけど……」
「ハ、ハク……」
「ハク?よろしく」
手を差し出すと、ハクは小刻みに震える手を出した。身長の差もあってか子供に見える。大きなフードを被り、顔はほとんど見えず、足下まで布で覆われている。バスローブの凪とは正反対だ。
「あのさ……鶏のことで来てくれたんだよな?」
「はっはい……そうです……」
「こっち」
距離を取って凪の後ろをついてくるハクは、警戒心丸出しだ。アルネスほど懐かれてはいないが、鶏ですらこんなに距離を取らない。
動物部屋を開けると、鶏たちは一斉にこちらを見た。人見知りはしても、動物たちに対しては違うようで、ハクは怖がりもせずに近寄っていく。
フードの中から聴診器を取り出し、寄ってきた鶏に当てた。まるで動物版医師だ。対象者は違えど、真剣な眼差しはアルネスと変わらない。フードに隠れて目は見えないが。
凪は藁の中にある卵を見つけた。取ろうとして手が止まる。殻が半透明で、もはや殻と呼べるものではない。紙の方がまだ外からの圧力に強いのではないか。触ると生暖かいが、ふにゃふにゃだった。
「え?なに?」
ハクが小声で何か言っている。
「ストレス……です」
「ストレス?」
「はい……」
「お、俺のせいだよなあ……」
「余計に……触ったりとか……していますか……?」
「……ああ」
鮮明に記憶はある。アルネスが仕事で家を開けている間、話し相手がおらず心が冷え切ってしまい、つい何度もこの部屋に入っていた。そのたびに鶏に逃げられるのだが、凪は生き物のいる部屋で寂しさを紛らわせていた。
「この部屋は……入るのは一日一回……多くて二回まで……」
「多くて二回、な?判ったそうする。自分の気持ちばっかりで、こいつらの気持ちなんて考えてなかったよ。いきなり見知らぬ奴に世話を焼かれたら、そりゃあストレスになるよなあ」
「触りすぎ……だめ……」
「うん、ありがとう」
凪が笑うと、ハクはそっぽを向いた。
続けて山羊を診る。こちらはおとなしく検診され、横になるとお腹を自ら出した。マイペースだ。アルネスでも凪でも、餌をくれる人ならば誰でも良い生き物だった。
「こっちは……問題なし……糞の状態も、いい……」
「あんまりミルク出さないんだけど……」
「そういう生き物……」
「そうなんだ」
「栄養価……高い」
一度食卓に乗ったミルクは、ヤギから絞り出したものだという。アルネスは何も言わなかったが、やはり高級品だ。
「ミルクと卵は……薬にもなるから……」
「そうなの?」
「アーサーは……欲しがる」
アルネスにとって材料になる二つは、医師として絶対に必要なものだろう。
「この前飲んだけど、めちゃくちゃ美味かったんだよなあ」
「え?」
大きな目がフードから覗かせた。
「飲んだ?」
「食卓に上がったんだけど」
「アーサーは……普段飲まない……薬にする」
ハクはおかしいと呟き、首を傾げる。
絶対に有り得ないだろうという想像が頭をよぎり、凪は無言になった。きっとアルネスも、飲みたい気分のときもあるのだろう。同じものばかり食べていると誰にだって飽きはくる。けれどシュガービーツはほぼ毎日食卓に並ぶ。
ハクは羽の状態や餌の食いつき、糞の良し悪しについても細かく説明した。凪はメモを取り、ペンを走らせていく。
「ハクってさ、獣医なの?」
「……鳥屋」
「へえ!売ってるのか?」
「……売ってる。配達とかも……してる」
「配達?鳥を使って?」
「……うん」
「ハクってすげえんだなあ!尊敬するよ」
「………………」
「けどこの辺って郵便局を利用しないのか?」
「………………」
ハクはフードを深く被り、それっきり質問には答えなくなってしまった。
「……帰る」
「おう!ありがとな!そうだ、あいつの作ったパンが残ってるんだけど、食べていかないか?」
深く被り直したはずのフードから鼻が覗いた。
「……食べてるの?」
「そりゃあ貴重な栄養源だし。たまに堅かったりするけど。どうだ?」
「……いらない、絶対」
『いらない』だけで良かったはずだ。『絶対』という言葉に確固たる意思を感じられた。
ハクは振り返りもせず、動物部屋から出ていってしまった。
ハクからビタミン剤やカルシウム剤をもらい、餌に混ぜて与えていたら、不思議なことにすぐに卵を産み始めた。殻も堅く、しっかりとしている。
卵をカゴに入れてテーブルに乗せていたら、表情はさほど変わらないが、アルネスは満足そうに頷いた。
「結局俺の触りすぎが原因だったよ。一日に一回しか入らないようになったら、すぐに産んだし」
「そうか」
「タイラーとハクは元気にしてるか?」
「している」
「また会いたいなあ」
「殴られて、また会いたいのか?」
怪訝そうにアルネスは言う。
「何か原因があったんだろ?もう気にしてないよ。ベッド作ってくれたし、感謝してる」
スープの中に、卵と白い何かの野菜が入っている。触感は蓮根に似ていた。
「質問があるんだけど……」
「何だ?」
「なんで、俺って
聞きそびれていた話だ。唐突に呼ばれた名に返事をし、そのままになっていたが、そもそもなぜ凪なのか。
「お前の国では、名前に漢字を使うのだろう?」
「まあ、平仮名の人もいるけど大抵漢字かな?わざわざ調べてくれたのか?」
都合が悪くなると返事はしない。肯定と受け取る。
「凪とは、波が穏やかという意味だ。お前を拾ったとき、穏やかだった」
「俺って本当に拾われてたんだ……」
「冗談を言うように見えるか?」
「いやいや……別に言ってもいいと思うぞ。ってことは、この辺に海があるのか」
この質問に対しても沈黙だ。シュガービーツの咀嚼音が心地良い。
「魚が採れるくらいだから、あるとは思ってたけど。けどこの辺って変わった魚が多いんだな。深海魚みたいなのがたまに冷蔵庫に入ってるから驚くよ」
この前は目玉の飛び出た魚がお出迎えしてくれたのだ。ハクのように悲鳴を上げてしまった。
「魚屋さんってあったりする?」
「一応、ある」
「買ったりすんの?」
「患者からもらう」
「人望が厚いんだなあ」
「お前は……、」
アルネスは大きく息を吐いた。
「人を褒めないと気が済まないのか」
「そういうわけじゃないけど。すごいからすごいって言ってるだけだよ。アルネスって髪の毛きれいだよな」
「……食事は終了」
「おう、片付けておくよ」
どんな患者が来るのか、タイラーやハクとはいつからの付き合いなのか、聞きたいことはいろいろあった。
本人を目の前にすると、聞きそびれてしまうのだ。常に遠くを見ていて、何かから逃れるような苛立ちのこもった目は、凪を前にするとひた隠しにしてしまう。凪も気づかないふりをする。まだそのときではない気がしている。
彼は、まずは生きることを覚えろと言った。ならばそうするだけだ。誘拐ではなく、拾われた身として、今できることを精一杯するだけだ。親はなぜ自分を捨てたのか。どこで何をしていたのか。アルネスは嘘を言っているようには見えない。肝心なことを隠しているだけで。
明日はちゃんと卵を産んでくれるかどうか、それを気にしていればいい。それと快晴を願っても、外の気候はわからないのだった。
「ひっ……!」
彼に悲鳴を上げられるのは何度目だろうか。同時に、凪も驚いたせいで息を止めた。
自室から本でも取ってこようかと扉を開けたときだ。目の前にハクがいたのだ。
「びっくりした……いらっしゃい」
「………………」
「アルネスに用だったか?」
「……アルネスって呼んでるの?」
「何か問題あったか?」
「………………」
この辺の人は都合が悪くなると口を閉ざすのか、ハクも同じだった。
「アーサーに……用は、ない」
「……もしかして、俺?」
フードを口元まで覆い、小さく首を縦に振る。
「……ありがとうっ!」
「ぎゃあっ!」
あまりの嬉しさに肩を掴むと、新しい悲鳴を上げられてしまった。普段の可愛い声からは想像もできないような濁った声だ。冷蔵庫の中の深海魚もどきを見た凪のようだった。
友達が訪ねてきて嬉しいなどとこっぱずかしくて言えないが、その分部屋にあるもので心を満たして帰そうと密かに誓う。
「良ければ動物見てく?今日は餌と掃除で一回くらいしか入ってないから二度目になるんだけど」
「じゃあ、診る」
足下まで覆われたフードの中から聴診器を取り出した。
中に入ると数匹の鶏が近寄ってくる。最初はすべて逃げていたので、だいぶ心の距離が近づいたと言える。小屋の中にいたヤギは外に出て、人工ライトの下で腹を出して寝ていた。
「寝ながら糞してる……器用というかなんというか」
「いい子だね。この子は特に問題ないよ」
腹を出していたため、診察は楽だ。問題は逃げ惑う鶏たちだ。気にせず水を飲んでいる鶏は簡単に捕まえられても、性格の違いからか端に逃げてばかりの数匹が大変だ。
「それなに?」
「鳥のおやつ……」
取り出した瞬間、鶏たちは一斉にハクの元へ集まってきた。
「さすが鳥屋だなあ」
「………………」
食べている間に羽の乱れや嘴の色などを確認し、全員問題ないとお墨付きだ。
「アルネスも問題ないって言ってたけど、一匹だけ卵を産むのが二日に一回くらいのがいるんだよ」
「歳を取ればそうなる……気にしなくていい」
「そっか」
二人は部屋に戻ると、凪は冷蔵庫の中を開けた。野菜が数種類と卵、乾燥した魚だ。
「うーん……お茶請けもないんだよなあ」
「おちゃうけ……?」
「お菓子とか」
「……おかし?」
「アルネスってお茶も飲まないのかな?……ん?」
振り返ると、ハクは首を傾げている。
「お菓子って知らない?」
「………………」
今度は凪が押し黙る番だ。もしかしなくとも、今の現状を知る重大なヒントがあるのではないか。
「あのさ、ハクの家もこういうのある?」
凪はキッチン横の浄水機を差した。緑のランプが付き、稼動している。
「ない家はないよ……他人の家に、入らないけど」
「そうなの?」
「外の水は飲めないし……あっ」
フードが揺れ、小さな唇が見えた。
「他人の家に入らなくても、キッチンの状態は判るんだ?」
「えっと……えと……ごめん……聞かなかったことにして……」
「なんで?」
「アーサーに……怒られるから……」
段々と小声になり、泣き出しそうに潤んでいる。顔が見えていなくても、歪んだ顔に違いない。
「わかった。今話したことは、アルネスに言わないよ」
「ほんとに……?」
「怒られるってことは、アルネスと何か秘密を共有してるんだろ?それを他人に漏らすとハクは怒られる。そんなの可哀想じゃんか。だから水の件は言わない」
「あ……ありがとう……」
顔がはっきりと判らない原因はフードだけではなく、前髪も目にかかるほど長い。
ハクは、顔を見せられないような出来事があって、話し方も自信のなさに繋がっているのかもしれない。
大人になってからの性格は、幼少期に受けた言葉や痛みが影響を及ぼす。沼に足を踏み入れているような人は、底抜けに明るい人の気持ちは判らないし、却って底なし沼へ落ちていく。抜け出せはしない。
ハクが帰っていく。最後に「またな」と声を掛けると、立ち止まって手を振った。会うのは二度目でも、糸一本分くらいは心が通じ合えたと思いたい。
ハクの情報をまとめると、ハクはお茶請けとお菓子を知らなくて、外の水は飲めない。
「汚染されてるのか……?」
窓がないため、なんとなく地下ではないかと思い込んでいた。キッチンだけではなく、飲み水として使用しないはずのトイレや風呂場にもろ過機が置いてあるのだ。
泥水を汲み上げて、それを普段の生活に使っているとも考えられる。水の話はいくらでも思いつくが、問題は彼がお菓子を知らなかったことだ。
生物に詳しく、博識である彼が何処にでもありそうなものを知らないとは考えられない。それどころか知らない事実を誤魔化そうとした節があった。
線引きが難しい話だが、水の話はせずに菓子類について同居人に聞いてみるのもいいかもしれない。
ハクが来る話はアルネスから聞いていない。食事もせずに帰っていき、また会う約束をした。少なくとも、凪は約束を交わしたと判断している。
こちらは単純に「楽しかったからいいか」で結論付けた。
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