第2話 名前

 似たり寄ったりの生活が五日ほど続き、飽きがきてしまった。最初はトイレや風呂掃除を日課にし、金髪の男は部屋に入るたびに固まっていたが、少しずつ綺麗になっていく様子を見ると生きる糧となっている気がした。暇ならば本を読めと言われたが、小難しい本ばかりでいまいち集中力が続かない。

 元々、ひとりでいるより人といることが好きなのだ。金髪の男はあまり話すのが好まないらしく、それほど口数は多くなかった。

 六日目になると振り払ったはずの不安が襲ってきて、家族や友達がどうしているかなどたひたび思うようになった。

 何処にも行くなとは言われていない。なぜならこの部屋と廊下しか行き来できないようになっているからだ。カプセルのあった部屋も、今では赤いランプが付き、中に入れないようになっている。外へと通じる頑丈な扉はパスワードが必要で、適当にボタンを押したら「勝手に弄るな」と不機嫌全開でなぜかばれていたのだ。

「暇だ……」

 医学の本ばかりだ。それも高度すぎる。初対面であろう人間に、よくすすめられたなと夕食時に抗議しても、無視で終わってしまった。

 飽きや恐怖が襲ってきた原因は、窓がないのだ。外の風景も判らず、さらに時計もない。時間の経過は腹の空き具合で理解するようにした。人間は無ければ無いなりの生活ができると一つ証明された。

昼食後、廊下で物音がし、金髪の男が何かしているのかと扉を開けた。

「……なんだ?こいつ」

 金髪の男と、もう一人見慣れぬ人物がいた。タンクトップに浮き出た筋肉と、健康的な茶褐色の肌が目を引く。二メートル近くある巨体は迫力がある。

 相手も見慣れぬ男性を上から下まで見ては、やがて静かに怒りを発した。

「おい。なんで人間がいるんだ?」

 冷徹な視線は男を射抜いた。

「お前、なんで此処にいる?」

「え?」

「え、じゃねえよ。なんで人間様が此処にいるんだ?」

 同じ人間だろうという言葉を飲み込んだ。嫌みのこもった口調は冗談で言っているようにも見えず、一歩後ろへ下がる。

「答えろ」

「私が連れてきた」

「は?」

「答えた。私が連れてきた」

「なんだそりゃ?」

「ベッドはあちらに運んでくれ。お前も手伝え」

 言われるがままに従い、廊下に出ると大きなベッドを抱えた。運ぶのは隣の部屋だ。

 初めて入る部屋だった。本棚に机や椅子が置いてあるシンプルな部屋で、その他は何もない。きっと、金髪の男が娯楽のために使用している部屋だろう。

「助かる。恩に着る」

「おい、説明しろよ。なんで人間がいるんだよ」

「説明した。私が連れてきた」

 不毛な会話だ。金髪の男も答える気はない。

「まさか、このベッド……」

「今日からお前の部屋だ」

「え、うそ……」

「嫌なのか?」

 新品のベッドはまだ木の香りがし、しっかりとした作りだった。

「布団と毛布、枕は後で運ばれてくる」

「俺は……こんな奴が使うベッドを三日で仕上げろとか言われたのか……」

「六日もかかったじゃないか」

「うるせーよ!」

「ついでにトイレと風呂も作ってほしい」

「アホか!簡単にできるわけねーだろ!」

「いや、あの、ベッドまでありがとう。申し訳ないくらいだよ。あなたさえ良ければ、トイレと風呂は共同で使わせてもらえると助かる……んだけど……」

 段々と声が小さくなってしまった。

 筋肉質の男は睨み、いきなり胸倉を掴んだ。

「タイラー、止めろ」

 タイラーと呼ばれた男は、制止も聞かず、振り上げた手を力いっぱいに殴りつけた。

 護身術の動きが咄嗟に働いたが、機転を利かせ、あえて殴られた。ただし当たりどころが悪く、拳が首に当たり、本棚に吹っ飛ばされる。落ちてきた分厚い本に歓迎され、そのまま埋もれた。遠くで金髪の男の焦った声が聞こえる。

 そんな声も出せるんだなと、冷静に意識を手放した。


 意識を無くすのは何度目だろうか。ゆっくりと目を開けると、薄暗い明かりに天井が見える。

「起きたか?」

 寝起きのせいで視界にもやがかかっていた。声の主は金髪の男ではない。黒い短髪の持ち主は、不機嫌そうに眉間に皺が寄っている。タイラーと呼ばれていた男だ。

「腹減ってねえか?」

「喉渇いた……」

「水持ってくる」

 殴ったときとは対照的な態度で、タイラーは立ち上がった。首には包帯が巻かれ、薬の匂いがする。

「ほらよ」

「ありがとう」

 冷たい水が喉を潤し、心配そうに見つめてくる男にもう一度お礼を言い、グラスを渡した。

「悪かったな、殴っちまって。頭に血が上ったんだ」

 それは原因は他にあって、頭に血が上る何かを体験したということだ。少なくとも原因は、初対面の人間にはないはずだ。

「いや、生きてるし大丈夫」

「骨には異常ないってよ。後でアーサーが診察するって……その、悪かった。こっぴどく怒られた」

「アーサー?」

 男の目がひくりと動いた。

 謝られたことより、初めて聞いた名前に血の流れが早くなった。

「まさか名前知らねえとかいうオチか?」

「自己紹介してないんだ」

「お前、名前は?俺はタイラーだ。呼び捨てでいい」

「俺は……」

 六日もかけて、自分に問いてきたことだ。答えは出せなかった。

「ごめん。俺、名前覚えてないんだ」

「記憶喪失か?」

「うーん……どうだろ?家族や友人の記憶もない。多分、いたとは思うけど。起きたらカプセルの中にいて、バスローブが用意されていて……」

「今まで此処で何してた?」

「本読んだり、掃除したり」

「ああ、あのキッチンはやっぱりお前が掃除したのか。掃除屋だったのかもな」

 タイラーは妙に納得した顔で頷いた。

「アーサーって?」

「あの白衣の男だよ。自己紹介できないなら、せめて仮の名前くらい付けとけ。アーサー呼んでくる」

 タイラーが出ていった後、辺りを見回した。新しくベッドが運ばれた部屋ではなく、今まで過ごした部屋だ。片付けたはずのテーブルは食べかすが散らばり、カップや皿が置いてある。タイラーが何か食事をしたのかもしれない。

 しばらくすると、白衣姿で登場した男とタイラーが部屋に入ってきた。タイラーは軋む椅子にどっかりと腰を下ろし、水分の抜けたパンを口にした。眉間に皺が寄る。

「お前……よくこんなもの……」

「ついでだ。椅子を直してから帰ってくれ」

「はあ?」

「食事代」

何か言いたそうにしていたがタイラーは堪え、腰のウエストポーチから釘やら何かの液体などを取り出し、椅子の前に座った。ひくつくこめかみを押さえ、器用にパンを嚥下した。

 金髪の男はベッドに腰掛けると、大きめのバスローブをはだけさせ、聴診器を当てた。

「お医者さんだったんだな。医学の本だらけだし、白衣着てたからじゃないかとは思ってたけど。手当してくれてありがとう」

「心音が聞こえない」

「………………」

 胸元をかすめ、あまりの冷たさに小さな声が出た。場所を変え何度か当てられ、いつの間にか息を止めていたらしく、聴診器が離れたところで大きく息を吐いた。

「少し早いが、問題ない。首を診る」

 首も数日で治ると言われ、見たこともない薬を塗られ、包帯を巻かれた。

 ちょうど椅子も直ったところだ。タイラーのような大柄な男が座っても、壊れそうな軋みはほぼ聞こえなくなった。

「タイラーはもしかして大工さん?」

「そうだ。良い腕だろう?」

「うん、すごい」

 褒めると奇妙な顔をした。

「夕食は食べていくか?」

「いらねーよ。それよりこいつに事情説明しろよ」

「順番というものがある」

「お前の名前すら知らねえって言うじゃねえか。自分の名前も覚えていないみたいだしよ。六日も何やってたんだ」

 金髪の男を見ると目が合った。下瞼に長い睫毛の影ができ、柔らかそうな髪がふわりと舞う。

「じゃあな」

 タイラーを見送り、扉がしまったところでもう一度、男を見る。

 男は雑に結ばれた髪を解くと、長い髪が広がった。髪に対してこだわりが無さそうだが、光に当たるとやけに輝く。

「質問に答える」

「えーと……けっこうあるんだけど」

「答えられないものは答えない」

 しれっと言う当たり、答える気はあるのかないのか。

「アーサーさん、治療ありがとう」

「……名前を聞いたのか」

「タイラーが言ってたから」

「アルネスアーサー」

「アルネスアーサー……長い名前だなあ」

「好きに呼べ」

「じゃあ……アルネスさんで」

 たった六日だが判ったこともある。この男は驚くと固まるのだ。それか目を大きく開く。都合が悪くなると黙りを決め込む。今のは少し驚いて、構わないという顔だ。

「アルネス先生の方がいい?」

「……アルネスでいい」

「そう?じゃあ、アルネス」

 心なしか、頬が緩んだ気がした。

「俺って何者か知ってたりする?」

「……詳しくは知らない」

「ですよねー。じゃあさ、俺が此処に来た経緯は?」

「……拾った」

「え?」

「ということにしておいてくれ」

「それって話せないってことか?」

「信じてほしいことがある。危害を加えるつもりはない。かと言って、お前を元の場所に帰すつもりもない」

「……やっぱり誘拐?」

「ではない。野垂れ死にそうなところを拾った。なぜ笑う?」

「いや、アルネスの名前知れたし、こんなに長いこと会話したの初めてだと思ったら嬉しくて」

「質問終了」

「待てって!」

 立ち上がるアルネスの白衣の裾を掴んだ。

「お願いがあるんだけど……」

「なんだ?」

「俺さ、名前まで忘れて困ってるんだよ。あだ名でもいいからつけてほしくて……ダメ?」

「ポチ」

「うわあ……適当すぎ……」

「考えておくよ。夕食にする。できるまで横になれ」

 立ったまま、アルネスはしばらく動かない。

 ふと、白衣の裾を掴んだままでいたことに気づいた。離すと、アルネスはベッドから離れていった。

 振り解こうとはしなかった。


 首の調子は三日ほどで跡も無くなり、魔法の薬とアルネスのおかげだと褒め称えたら、彼はまたしても無言なってしまった。

 出会ってから一週間ほど過ぎたが、アルネスは少しずつ話すようになった。都合が悪くなると口を閉ざすのは相変わらずだが、話し相手がいるのはいかに心を豊かにしてくれるか有り難みを感じた。

「働かざる者、食うべからず、だと思うんだよ」

「お前は何を言っているんだ」

 今日の朝食はシュガービーツ、卵と何かの木の実の炒め物、初めてテーブルに並んだ牛乳だ。それと歪な形のパン。牛の乳かも怪しいが飲みやすく、さっぱりしていても舌にミルクの味が残る。

「俺に仕事ないか?タイラーもアルネスも仕事しててさ、やることと言えば掃除洗濯、読書、トレーニングくらいだろ?」

「そういえば、お前は何か武術の心得があるのか?」

「なんで?」

「胸倉を掴まれたとき、タイラーの腕をおかしな方向に曲げようとしていただろう?わざと殴られたようだが」

「うーん……体術を、やってた気がする。記憶が曖昧だなあ」

「……そうか」

「で、仕事ない?」

 アルネスは目を伏せ、考え込んだ。

「あると言えば、ある」

「マジで?」

「動物は好きか?」

「好きだけど……」

 失われた記憶の中で、犬と戯れ経験があったことを思い出した。緑あふれる下生えが広がり、大きな犬と駆け回っている。

「確か……犬と一緒にいた経験が……どうだったかな」

「無理に思い出そうとするな。生物が好きならば、仕事を任せたい」

 アルネスは最後のシュガービーツを咀嚼した。

 アルネスの後をついていくと、奥にある赤いランプのついた部屋だった。この部屋にはまだ入ったことがない。小さくAと書かれたシールが貼られている。

「此処の部屋のロックを解除する。これからは、好きに出入りできる」

「やった!」

 パスワードを入力すると、鉄筋鉄骨の扉は開いた。

 記憶を失う前に嗅いだ経験のある臭いだ。臭覚を刺激し、アルネスの後に続くとすぐにそれは目の前に現れた。

「なに……これ……」

「生き物だ」

 見た目は鶏だ。ある一部を除けばどう見ても鶏だった。

「……なんで目が三つもあるの?」

「卵が美味い」

「ちょっと待て……もしかして、いつもスープや炒め物にしていた卵って……」

「こいつらから収穫したものだ」

 合わせて七羽ほどいる鶏らしき生き物は、ほとんど鳴かずに餌入れをつついている。何も入ってはおらず、アルネスを見ては催促するように足の回りに集まり出した。水飲み場には、さらさらとした透明な水が流れているが、キッチンにあるようなろ過機がついている。

 鶏冠が後ろに後退して、真ん中にある小さな目が左右に動いていた。

「温和な性格で、貴重な動物だ。もう一頭いる」

 しっかりした造りの小屋がある。大方、タイラーが造ったものだろう。

 小屋の中には山羊がいる。多分、山羊なのだ。知っている動物の中で山羊が一番近い。背中には翼のような羽が生えていて、人の気配に起きた生き物は大きな目をぎょろつかせた。特に吠えるでもなく、背中の羽を動かした。

「山羊って背中に羽が生えんの?」

「………………」

「え、無視?」

「仕事の内容を説明する。毎朝一回の餌やり。卵は朝に産む。こいつのミルクはまちまちだ。それと、糞の回収、羽根の回収もだ。大変だが、羽根の種類も分けてほしい」

「羽根の回収?」

「羽根は羽根で使い道がある。ノミがついているから、除去の仕方は後で教える」

「了解!うす、久々の仕事だ!」

「慣れたら別の仕事も任せたい」

「オッケー!やるやる!俺さ、アルネスの世話になりっぱなしだったから何かしたくて仕方なかったんだ。身体は鈍るし仕事を与えてもらった方が全然いいよ。タダ飯食いって申し訳ないし」

「……お前は、本当に」

 アルネスは嘆息を吐く。呆れているわけではない。ほんの少しだけ、口角が上がった。

「頼んだよ、なぎ

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