アレの眠る孤塔

不来方しい

第1話 出逢い

「はあっ、はあっ、はあっ」

 けたたましい音は、味方につけば頼もしいものはないが敵につくと厄介極まりない。腹を空かせた豹が獲物を襲うように、大荷物を抱えた男を追い詰めていく。

 そもそも、余計な荷物を背負ってしまったのがいけなかったのだ。無責任に背負った責任が恐怖という名の息切れを起こしている。恐怖とは、この世界で一番要らない感情である。

 廊下から声が聞こえた。咄嗟に身を隠し、影が出ないよう少し離れたところで待機する。

「見つけたか?」

「ない。サンプルが行方不明のままだ」

「おかしい。動いたのか?」

「なぜ部屋に監視役をつけなかったんだ!」

 身体が酸素を欲し、悲鳴を上げている。酸素を身体に運ぶ要は、必要以上に動き回り、頭が警鐘を鳴らしていた。

 男たちの張り上げた声が遠くなると、立ち上がった。

 暗記している監視カメラの位置を頭から引っこ抜き、男はレンズの向きを注意深く観察した。やがて人が一人通れるほどの窓を見つけ、反響する音に怯えも見せず、一気に廊下を抜け出した。窓から放り投げたはずの大荷物はびくともしない。厚みのある布地に包まれ、さらに重量のあるそれを背負い、事前に空けておいた穴の中へ逃げた。

「はあ、はあ、はあ………っ」

 操られたドラムのように鳴り止むことを忘れ、胸元に沈むそれは激しく音を鳴らしていく。

 小一時間ほどしたとき、警戒音も灯台の明かりも匙を投げてくれた。隠しておいた舟を抱え、水面に下ろす。余計な荷物も乗せ、ゆっくりと舟を漕いだ。

 普段の荒れた水面は眠っているかのようで、風もなく

波も立たない。遠くで魚が跳ね、眠気を誘う水音が鳴る。

 無事に渡りきったところで上空ではヘリコプターが飛び、厳戒態勢を知らせるアナウンスが響いた。間一髪だった。

 舟を隠し、朧げな月明かりと人工の光を避けるように、男は歩き続けた。




 目覚めたとき、回りは天井と壁に囲まれていた。重たい瞼は閉じ、二度寝どころか何度も深い眠りを繰り返した。

 ようやく眠りから覚めた頃、今在る自分の状況を理解しようと、目を凝らしてみる。天井でも壁でもなく、大人が一人入れるくらいの箱の中に入れられているのだと悟る。

 服は何も身につけていない。何かどろっとした液体に、顔が被らない程度に仰向けに横たわっている。微かに花のような良い香りがする。全裸なのに寒くもなく暑くもなく、居心地の良い素晴らしい環境だ。

 少し強めに天井を押すが、少しも動かない。軽く叩いても音は吸収される。諦めた右手を水の中に沈めた。

 はっきりと頭が覚める頃には、自分がいる状況を考えようと脳を回転させる。ここは何処なのか、何をしているのか、考えても判らない。ならば、自分は何なのか。

「………………?」

 途端に不安に襲われた。そう、自分は何者なのか──。

 記憶が、ない──。

 全身が熱くなりだし、叫びたい衝動に駆られたとき、急にそれは開いた。消火器のような煙と音を発し、急に高さのある天井が現れた。ゆっくりと起き上がると、液体は重力に逆らわず身体を伝い、大きな箱の中へ戻っていく。箱というより、カプセルだった。

 回りには人がいない。何かの機械が作動し、安易に触れるなとオーラを放っている。カプセルの下には塗れないよう敷物があり、ゆっくりと足を外に出した。立ち上がったせいで身体がふらつきカプセルに掴まった。

 テーブルの上にはバスタオルが置いてある。それとバスローブ。男は随分と手厚い誘拐犯だと思った。場所の記憶がないのだ。連れてきた人物は誘拐犯と消極的に考えてしまう。しかし、本来持つ前向きさと突っ走る性格のおかげか、ありがたくバスタオルを頂戴した。

 バスローブを着込み、動き続ける機械を眺めていた。入っていたカプセルは出たと同時に閉じこもり、何の反応も示さない。鉄筋鉄骨でできた部屋には頑丈な扉があり、試しにボタンを押すと簡単に開いた。鍵は掛かっていない。通ると、センサーで勝手に閉じる仕組みだ。

「さむ……」

 廊下はひんやりとしていて、長い通路が続いている。電球が窓のない廊下を照らし、足下は見えるが薄暗い。同じようなドアがいくつかあり、部屋は何か所かあるが入ってもいいのかわからない。目の前のボタンを押すが何の反応もない。

 少し進んでいくと、丸い形の巨大な扉と対面した。扉は四つに分かれていて、それぞれ斜めに開く仕組みのようだ。明らかに開きそうになく、数字が並べられている。パスワードが必要だ。

 右の扉には緑色のランプがついている。試しにボタンを押すと、こちらは簡単に開いた。

 生活感溢れる部屋だ。ベッドにテーブルとソファー、キッチンもある。奥にはシャワールームとトイレもある。ベッドは誰かが使った形跡が残り、キッチンにはまだ汚れた食器がある。

 テーブルには、食べろと言わんばかりに食事があった。干からびた魚とゆで卵。それと平らなパン。男は椅子に腰掛けると、壊れそうな音がし、反射的に少し腰を宙に浮かせた。

 水分が抜け切った魚は塩味が利いていて、ゆで卵も塩で味付け。パンは焦げた臭いがする。何か飲み物が飲みたくなり、冷蔵庫を開けると野菜や魚が乱雑に入れられていた。飲み物はない。

 水道水を求め棚からグラスを取り出したとき、いきなり扉が開いた。

「………………」

 金髪を雑に後ろで結び、白衣を着た若い男。片目が髪で隠されているが、整った顔に水を飲むことも忘れ、惚けてしまった。

「水を飲むならあれ」

「え?」

「そちらではない。あれだ」

 金髪の男が指を差す方向を目で追うと、そちらは蛇口、あれはキッチンの隣にあるろ過機だ。綺麗な水を飲めと、金髪の男は言っている。

「あ、ああ、うん。ありがとう」

「全部食べろ。栄養が足りていない。血糖値が下がりすぎだ」

 心配しているようだが、何せ命令口調なもので、頭が困惑する。食べろというからには誘拐犯ではなさそうだが、目の前の気怠そうに腕を組む男を知らないのだ。

「あの、」

「ビタミンもミネラルも不足している。夕食は野菜中心にする」

「う、うん」

 初対面の男に栄養学で説教されても、いまいち頭に入ってこない。

「えーと……バスローブとタオル、ありがとう」

 金髪の男は眉を上げ、目を伏せた。この男が用意してくれたものらしく、否定はしない。

「ご飯もありがとう。その、腹減ってて」

「……それは良かった」

「水はこれでいいんだよな?」

「ボタンを押せば出る。離せば止まる。それ以外を飲まないように」

 男はテーブルの上にあるカゴに入ったパンを一枚取ると、口に加えた。

「夕食までこの部屋で過ごせ」

「あなたは?」

「仕事だ」

 白衣を翻し男は部屋から出ていってしまった。後ろ髪は肩よりも長く、明かりに照らされ艶やかに煌々としていた。

 扉が閉まると、空虚感が襲ってくる。先ほどまで独りだったのに、人間というのは身勝手で感情に揺さぶられる生き物だ。

 残りの魚を口に入れるが、堅くて飲み込むことができない。グラスに水を注ぎ、嚥下した。水分を持っていかれるパンも水と一緒に食べ終えた。ゆで卵が味覚を刺激し、ほとんどないはずの糖分を補っている気さえする。

 さっきの男が何者なのか判らない。だが、食事やバスローブの用意など、悪い人ではなさそうだ。

 使い終えた皿は、せめてもの恩返しで起きっぱなしになっているカップや皿ごと洗おうと立ち上がるが、衝撃で椅子が大きく軋む。かなり年季の入ったもので、所々傷みが激しい。

 レバー式の水栓に手をかけようとして止まる。壁に備え付けられているキッチンだが、水道管全体も異様な機具が取り付けられている。管はろ過機と繋がっていて、蛇口から出る水もろ過されているのだと予測できる。

 水は冷たく透明で、人の目には汚れは判らない。皿をすべて荒い、ついでにキッチンも掃除した。水垢だらけのキッチンは返照し、眩しく映る。

 何をしようかと暇を持て余していると、ふらりと立ち眩みが起こる。あの男は栄養不足だと言っていた。

 酔ったような気分と節々の痛みに耐えきれず、ソファーに腰を下ろす。アームを枕代わりに、横になった。

 やがて、何度目か判らない眠気が襲ってきた。




 陶器の割れる音がし、鳥が飛ぶように加速して身体を起こした。目が冴えておらず、何度か擦ると現実が見えてくる。

 寝るときには掛けていなかった毛布が落ちた。

「……何してんの?」

 あの男がいた。シャワーを浴びたのか、しっとりとした髪をぞんざいに上げ、白衣は脱いでいる。水に濡れるとハニーブロンドが濃色となり、艶が乗っている。二度目、今度はガラスの割れる音がした。

「……いきなり起きるな」

「大丈夫か?」

 一度目はカップ、二度目は皿を割った音だ。しゃがむ男に近づき、手を差し伸べた。

「私が割ったものだ」

「きれいな手が傷つくって。袋とかある?」

 男の手が止まる。起きる前は顔が半分髪に隠れていて見えなかったが、初めて間近で見た。

 透き通る肌に細身の顎、機嫌の悪そうな目ははっきりとしていて、一言で言うなら美貌の持ち主だ。

「袋」

 もう一度言うと男はため息を吐き、立ち上がった。

 大きめの欠片は袋に入れ、細かいものは箒で掃いた。この辺りを見ても掃除機はない。使い古した箒が一つだけだ。

「うっし。掃除完了」

「……感謝する」

「どういたしまして」

「食事」

 テーブルには寝る前に取った平たいパンと、葉物が入った卵のスープ、それと見慣れない薄切りにしたカブのようなもの。

 食事をしていた席は金髪の男の席だったようで、向かい側の空いた席に腰を下ろした。

 何も言わずに食べ始める金髪の男。手を合わせ、いただきますとひとりで言うとスプーンに手を伸ばした。

「それは……」

「ん?」

「何の挨拶だ?」

「日本の挨拶っていうか、仏教の挨拶かな?仏教徒ってわけじゃないけど、家でも学校でも教えられなかった?」

 そうは言うものの、目の前の男は日本人には見えない。

「そうか」

 金髪の男は一言呟き、薄切りの野菜にフォークを刺す。薄切りではあるが、厚みは揃っているわけではなく、透けそうなほど薄かったり紙以上の厚みがある。

 見たことがない野菜に興味が沸き、口に入れてみる。シャリシャリと梨のような食感で、甘みがある。特に個性のある味ではない。砂糖そのまま口にしているほど、甘みが強い。

「なんていう野菜?」

「シュガービーツ」

「それってロシアとかで採れるやつ?こういうのなんだ」

「………………」

 無言に包まれた食事会。ふたりは食べ終わり、手を合わせると金髪の男はその様子をじっと眺めた。

「ごちそうさま。皿洗いは俺がするよ」

「……頼む」

 男は立ち上がると、どこかへ行ってしまった。すぐに戻ってくるが、手には新しいバスローブがある。

「あのさ、」

「なんだ?」

「名前、なんて言うの?」

 一番気になっていたことだ。呼びたくても、まだお互いに名乗っていない。

「……お前は、それが聞きたいのか?」

「え?」

「もっと聞くことがあるだろう。なぜ此処にいるのか、ここは何処か、私が何者なのか」

「聞きたいけど教えてくれんの?」

「まずは生きることを覚えろ。息をして、食べ物があり、当たり前のように使う風呂やトイレがどれだけ幸せなのかを感じろ」

 詩のような言葉を口にする男は、バスローブをソファーに置いた。今日からソファーが移住地となるようだ。

「俺、記憶がないんだ。最初は誘拐されたのかと思ったけど、誘拐犯がこんなによくしてくれるはずないし。ありがとうな、今日のご飯も美味しかったよ」

 笑いかけると、金髪の男は反対を向いてしまった。

「……身体に異常が出たら、すぐに言うように」

 金髪の男は言い残し、またもや部屋を出ていってしまった。皿を片付けて風呂に入るまで男は戻らず、シャワーを浴びるとすでにベッドに身体を沈めていた。

 質問など山ほどある。けれど男の言う通りだった。なんとなく、彼は悪い人ではないと直感的に思ったのだ。ならば今の現状を把握し、できることをするしかない。不安で押しつぶされそうでも、家族や友達に会えると信じて。

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