六章 不可視の殺人 3—1
3
てっきり、僕は池野くんが何者かに殺されてしまったんだと思った。
格子戸の前にすわりこんだ池野くんの顔色は、青ざめて死人のように見えたから。
それに、血の匂いだ。
「池野くん、どうしたの?」
だが、声をかけると、池野くんはふりかえった。
よかった。生きてた。
「あ……あそこに……」
池野くんは、かすれ声で言いながら外を指さす。
「あそこに誰か、立っちょう」
どれどれ。
池野くんが指さしたのは、格子戸のすきまとヤブのすきまが奇跡的に重なったところだ。ちょっとだけ外が見える。
「あ、たしかに誰か立ってる」
外は暗闇で、ろくに見えない。
けど、月明かりや星明かりで、なんとか物の形は見てとれた。
川面に光が反射しているので、滝つぼから続く川の流れはハッキリわかる。
その川べりの細い道に、人間が立っていた。僕らのいる人工洞くつから、ほんの十メートルほどの距離だ。
シルエットから言って、男だ。
そのとき、ひときわ明るい月光が雲間から差した。
「あっ、落合さんだ」
「誰、それ?」
「研究所のガードマンだよ」
ああ、と二人は声をそろえる。「そういえば、いつも詰所に座っちょうな」
「あの人、落合さんって言うんだ」
そうか。二人は表門には用がないから(野菜の搬入は裏門)、落合さんとは面識がないのか。
「なんだ。てっきり、かーくんのキライなオバケかと思った」
それで顔色、青かったのか、池野くん。
もしや、ほんとは同類?
「呼んでみようよ」
でも、二人は、
「うーん。村人じゃないのに、いいのかな」
「やめたほうがいいんじゃ? 場所が場所だし」
「ええっ、でも、そんなこと言って、何日も誰も来なかったら、どうするの? 青年団だって、ちゃんと見つけてくれるかどうかわかんないよ」
ところだ。
僕らが、うだうだ話してるうちに、それは起こった。
なんてことだ。
せっかくの救いの神を、僕らは一瞬で失ってしまった。
わあッと、ひと声あげて、落合さんは夜の川面に落ちていった。
「ああッ、落ちた!」
「大丈夫か? あそこらへん、流れが速いところだろ?」
「落合さん! 落合さん! 大丈夫ですか?」
呼びかけてみるが返答はない。
もがくような水音もほとんど聞こえない。
ほんとに大丈夫なんだろうか。
自力で岸にあがってきてればいいけど……。
僕らはたぶん五分以上も、わあわあ、叫んでいた。
返事はない。
「……どうしよう。おぼれちゃったんじゃないの?」
「どうしようって……どうしようもないよ。ケータイもないし」
「それはそうなんだけど」
僕と池野くんが話していると、とつぜん、安藤くんが「わッ」と、変な悲鳴をあげた。
続けざまにいろいろ起こって、僕はもうビクビクだ。
「な、何?」
安藤くんは変な顔して、目を見ひらいていた。マンガなら、ものすごいタテ線が、顔に入ってるところだ。
硬直したまま、動かない。
しかし、僕が手をかけて肩をゆすると、ハッと目の焦点があう。
「……え? いや、なんでもない」
なんでもないって顔じゃないんだけどなあ。
「それより、かーくん。さっき、奥にトイレあったがねえ? ちょっと、ついてきてごさん? なんか、もう一人で、よう行かん」
え? 僕だって、いちおう、大人のプライドで、どんなに怖いときでもトイレは一人で行くけど……。
「わ……わかった。じゃあ、行こう」
僕は安藤くんにひっぱられて、再度、奥の座敷牢に入っていった。
わきのドアからトイレと滝行(ああ、これを、蘭さんが……)に行けることは知っていた。
安藤くんはトイレに入ると、なかなか出てこなかった。なんか、吐くような音がしてた。
そうか。
安藤くんは霊が怖いわけじゃないんだ。
落合さんが死んじゃったかもしれないと思って緊張したんだな。
そりゃそうか。
僕なんか何度も殺人事件にあって、なれてきちゃったけど、ふつう、目の前で人が死ぬとこ見たらショックをうけるか。
十分もして、ようやく、安藤くんは個室から出てきた。
「ごめん。もう大丈夫」
僕は自分が頼れる男のような気がして、なんとなく嬉しい。
「いいよ。いいよ。じゃあ、池野くんとこ、帰ろうか。池野くんも気分、悪そうだったし」
入口のとこまで戻ると、池野くんはさっきと同じカッコで座りこんでいた。
顔色は悪いし、ものすごい汗だ。
「池野くん。ぐあい、悪いんじゃない?」
「うん……ちょっとね。少しのあいだ、よこになりたい」
うーむ。
そんなにショックだったのか。二人とも。
「奥に布団はあったね。立てる?」
僕は池野くんに手をかして、立ちあがらせようとした。
その瞬間、あやうく、その手を取り落としてしまうところだ。
「わッ——」
ビックリした。
一瞬、氷でもつかんだかと思った。
冷たいなあ。池野くんの手。
「かーくんもふらついちょうね。いいよ。星夜はおれが運ぶけん。かーくん、ここで見張りしといて」
ええーッ! ちょっとダメだって。
ふらついたわけじゃないんだよ。
安藤くーん……。
さっきまで、フラフラしてたのは自分のくせに、安藤くんは池野くんの肩に腕をまわすと、かるがる姫抱きにして奥へつれていく。
僕は一人……暗闇に一人……。
そうだ。こんなときは猛についてくんだ。猛に——って、ピヨーッ!
ついてく人、いなかったあ!
僕はメソメソしながら、入口の格子戸のところにうずくまった。
あーあ。やっぱり、兄ちゃんが恋しいよ。早く帰ってきてェ。猛。
それにしても、ここに座ってると、どっかから血の匂いがするなあ。
もしかしたら、落合さん、落ちたとき、ケガでもしたのかなあ。
それなら、川のなかで、あんまり動けなかったのもわかる。
と、そこへ……。
ガサリ、ガサリと、闇のなかでイヤな感じの物音。
足音……だろうか?
僕は顔をあげて(見張りになってない)みた。
川辺に男のシルエット。
えっ? 落合さん? 生きてたのか?
でも、なんか変だぞ。
しゃがんだりウロウロしたり、ようすがおかしい。
僕は気づいた。
そうか。霊だ。あれは死んで成仏しきれない落合さんの霊だ。
きっと、あまりにとつぜんの死だったから、自分で死んだことに気づいていないのだ。
(お願い! 来ないでェ! こっち来ないでッ)
僕のその考えを読んだように、落合さんの霊はふりかえると、まっすぐ、こっちに向かってくる。
(だから、来ないでって言ってるのに!)
身ぶるいしてあとずさる僕の前に、霊は立った。
「おまえ、何してんの?」
はて? どこかで聞いたような声。
落合さんでは、ない。
もしや、これは霊ではないのでは?
恐る恐る、僕は懐中電灯の光を(あっ、それで、僕に気づいたのか)、そっちに向けた。
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