三章 不協和音の連鎖 3—1

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 原稿にかこつけて八畳間にこもったあと、蘭は縁側からこっそり庭に出た。靴がないので、この家の庭歩き用のサンダルを拝借する。

 家の裏手をまわって、薫の目に止まらず、外へぬけだすことに成功した。


 もう一度、神社へ行くつもりだ。

 昨日、水魚は言っていた。

 会いたければ、神社へ来いと。

 さっきは龍吾に見つかったので、成り行きで彼をくどいてみたが、ほんとに会いたかったのは水魚だ。

 水魚が大正生まれの百歳だと信じたわけではない。でも、信じてみたい気分だ。


 蘭が一人になってしまうのは、老いるからだ。

 もし、ずっと今の容姿を保てれば、相手が誰であれ、つなぎとめておける。

 蘭は一人にならずにすむ。


 中学や高校で恋人や親友を自殺させ、ストーカーに追いまわされ、すっかり人間嫌いになって閉じこもっていた、あの日々。


 どうしても外に出なければならないとき以外は、マンションから一歩も出ず、食料や日用品はスーパーのネットショッピング。

 編集者とのやりとりはメールだし、何ヶ月も誰とも口をきかないことも、ざらだった。

 退屈しのぎにテレビを見ても、さわがしさに苛立つだけで笑うこともなかった。

 自分が笑えるすら忘れていた。


 どこまでも、静謐せいひつな日々。

 天球が一室に凝って、のしかかってくるような、重い静寂。

 ときおり、むしょうに泣きたくなる。

 あんな毎日には、もう帰りたくない。


(このさい、龍吾でもいい。おれが愛してる人よりも、おれを愛してくれる人といるほうが、きっと幸せなんだ)


 そのためには、永遠の若さが必要だ。

 水魚に会えば、彼のように、百年も二百年も若さをたもてるのだろうか。

 信じがたいが、でも、もし、そんなことがあるとしたら……。


 石段をのぼっていくと、蘭は社のまわりを一周した。

 水魚はいない。

 今度は来てくれるまで待つつもりだ。

 蘭が社のまわりの柵に腰かけていると、社のほうで人の気配がした。


「水魚?」


 近づいていったときだ。

 とつぜん、背後から誰かがかけよってきた。

 ふりかえった蘭は頰に鋭い痛みを感じた。


 熱い。

 頰が焼けるように熱い。

 生ぬるいものが、ドクドク流れていくのがわかる。

 立ちくらみがした。

 急速に意識が朦朧もうろうとしていく。

 ふたたび、誰かが蘭の上に覆いかぶさってくる。


 そのとき、社のほうから、別の誰かがかけだしてきた。

 それを見て、襲撃者は去っていく。

 やがて、蘭の足もとに人が立った。


「……ひどいことを。この美しい顔に、こんな、むごたらしい傷を」


 水魚? 水魚だろうか。

 その人は蘭のかたわらに膝をつき、のぞきこんでいるようだ。

 その人に抱きあげられたような気がした。


 頰の焼けるような痛みに、何かがふれてくる。

 焼け火箸ひばしをつきさされたような、とがった痛みに、蘭は悲鳴をもらした。


「痛いんだね。今だけ、ガマンして」


 出血がひどいのか目がかすむ。

 気が遠くなり、また近くなり、ふと明朗になった瞬間、その人が何をしているのか気づいた。

 なめているのだ。

 蘭の頰の傷をなめている。


 怖くなった。

 自分はどうなるのだろう。

 このまま、ちゃんとした手当ても受けられず、放置されるのだろうか。


(誰か、たすけて。猛さん……)


 蘭の意識は、そこでつきた。

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