三章 不協和音の連鎖

三章 不協和音の連鎖 1—1

 1



 待って、一人にしないで——

 遠ざかる猛たちの足音を聞きながら、蘭は呼びかけた。だが、声には出せなかったようだ。


 強烈に睡魔が襲いくる。

 いったい、なぜ、こんなに急激に眠くなったのだろう。

 職業柄、一日や二日の徹夜は慣れている。今日にかぎって、こんなに抗いがたいほど眠くなるのはおかしい。


 あのお茶だろうか。

 水魚に出されたお茶を飲んだあと、急に眠気に取りつかれたような気がする。


(君のせい……? 水魚)


 うとうとしながら、蘭は考える。

 水魚は危険な人物だ。

 昼の光のなかで見れば、まちがいなく人間だ。言葉をかわし、意思の疎通もとれる。昨日、思ったような妖怪変化ではない。


 しかし、あの包帯の下は?

 なぜ一夜で、あれだけのヒドイ怪我が治ったのか?


 常識的に考えれば、水魚には双子ないし、三つ子以上の兄弟がいるのだ。神社で会ったのは、その兄弟のほう。

 なぜ、一人のふりをしなければならないのかという疑問は残るが。


 でも、それをのぞいても、水魚には何か秘密がある。

 危険な香りがする。

 近づかないほうがいい。


 そう思うのに、惹かれる。


 それは恋という意味ではなく、もっと深いところにある共振性とでも言うのだろうか。

 水魚の内にあるものは、蘭の内にあるものと同じ。

 そんな気がしてならない。


(君は水鏡に映る僕。世界中が敵だと信じ、マンションの一室に閉じこもっていた。自分だけの安全な世界で、孤独にたえていたころの……)


 なぜ、そんなふうに思うのだろうか。

 この別棟のなかが暗く、あまりに閉鎖的で、うらさびしいからだろうか。


 ここは水魚のための金魚鉢なのだ。

 水魚は自然のなかでは目立ちすぎて生きられない、不自然な魚。

 どんなに外の世界にあこがれても、ここから出ていくことはできない。


(水魚……)


 夢うつつの蘭を、誰かがのぞきこんでいた。

 必死に目をあけようとするものの、どうしても睡魔から逃れられない。

 だが一瞬、その姿をかいまみた。


(子ども……?)


 五つか六つの小さな子だ。

 白っぽい着物をきて、髪を妙な形に結っている。

 どこかで見たことのあるような装束……歴史の参考資料とか、そんなもので?


 子どもは薄目をあけた蘭と目があうと、嬉しげに笑って、蘭のとなりによこたわった。

 子どもだけができる無邪気さで、当然のように、蘭の胸にすがりついてくる。


 蘭は本来、子どもは嫌いなのだが、このときは子犬に甘えられたような心地で、悪い気はしなかった。

 子どものぬくもりを感じていると、しばらくして、耳もとで声がした。


「気に入りましたか?」


 水魚のようだ。

 蘭の抱いている子どもにたずねているのだろう。子どもの声は聞こえない。


「そうでしょう? 彼こそ、我らが長年、探し続けていた人だ。世界中の人に愛されるために生まれてきたかのような、この姿」

「では、そのように手配してくれ」


 とつぜん、別の声が聞こえて、蘭はおどろく。

 水魚ではない誰かが、まだ、そこにいるのだろうか。


「承知しました」

「うん。大切な祭だ。かならず、成功させよう」


 そう言って、男の声が遠ざかると、蘭の腕のなかの子どもの気配も遠のいていった。

 かわりに、水魚の声が間近で聞こえる。


「だから言ったのに。早く帰れと。のこのこ自分からやってくるから」


 そう言って、水魚は蘭を抱きあげた。

 このまま、どこかへつれさられれば、二度と外の世界へは出られない気がした。


 蘭はけんめいに睡魔をふりはらおうとした。目をあけ、体を動かそうとつとめる。

 蘭があがいていると、足音が近づいてきた。


「蘭! どこだッ、蘭!」


 猛だ。蘭をさがしている。

 ありったけの精神力をふりしぼって、蘭は叫んだ。


「たける……さん——猛さん……!」


 それは弱々しいかすれ声だった。自分では叫んだつもりだが、かすかに発した、うめき声にすぎない。

 でも、猛はかけてきた。


「蘭——!」


 蘭の体は、猛の匂いに包まれた。

 水魚の腕から、力いっぱい奪いとられるのを感じた。


「蘭をどこへつれていく気だ?」

「失礼。奥に布団を用意したので、そちらで休ませてあげようと思い」

「もういいよ。おれたちは帰るから」

「そうですか。でも、蘭。私に会いたくなれば、いつでも神社へ来てください。ヒマなときには、たいてい、あそこにいますから」


 水魚の声が追ってくる。


 蘭は猛に助けられ、はりつめていた緊張の糸が切れた。

 急速に眠りに落ちていく……。




 *


 八頭家をあとにして、僕らは水田家に帰ってきた。

 でも、今日はみんな、ようすがおかしい。

 蘭さんは眠り薬でも盛られたみたいに眠り続けるし、猛も難しい顔をして、思案にくれている。


「猛——ねえ、猛。あそこで変なとこから出てきたけど、なかに何があったの? なんか、すごくビックリしてなかった?」


 僕がたずねても、猛は答えない。

 無視だよ。もう完全無視。

 と思うと、とつぜん、僕の肩をつかんでくる。


「薫。百合花の部屋をしらべたんだよな?」


 兄は廊下で僕と遭遇したあと、「蘭は無事か?」と言いだして、百合花さんの部屋には入ってない。


「うん。調べたけど、引き出しのなかまで見れないじゃない。けど、個人的な持ち物とかは、全部、かたづけられたあとみたいだった。あの部屋には、もう誰も住んでないよ」

「どこかに……移されたのか」


 兄は悔しそうに唇をかんだ。

 ムリもない。

 ずっと捜し続けて、手がかり一つなかった恋人の痕跡が、やっと見つかったと思ったら、すでに移動させられていたとは。


「やつらは百合花に予知能力があることを知ってるんだな。誘拐したのも、その力目当てか。おれたちが来ることを前もって知ってたんだ」


「兄ちゃんが百合花さんと、念写を通して意思をかよわせてるって?」


「それはわからない。でも、たとえばだ。さらわれてきたばかりの子どものころに、

『今に正義のみかたが、百合花を助けにきてくれるもん』と、彼女が言わなかったとはかぎらない。これまでに百合花の言った言葉は、すべてチェックされて、記録に残されてるのかもな」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る