二章 不自然な魚 2—2
ころはよしと見たのだろう。
とつぜん、猛が口をひらいた。
「落合さん。じつはおれたち、失踪した富永さんの婚約者のイトコなんです。イトコに頼まれて、富永さんの行方をさがしています。それで、下北さんに会いたいんですよね」
落合さんは、ショックだったようだ。
何がって、蘭さんの思わせぶりな態度が、調査協力をあおぐための
「ああッ」と、細い悲鳴みたいな吐息をしぼりだし、涙目で蘭さんを見つめる。
かわいそうに。同情します。
「……変だと思ったんだ。こんな綺麗な人が、おれなんか……」
「ごめんなさい。でも、泣きつかれちゃって。お願い。助けると思って、下北さん、呼びだしてくれませんか?」
「ねえ、落合さん。富永さんが、水田さんに会うために
あーあ、ほんと、かわいそう。
蘭さんと猛にダブルで迫られて、まさに、アメとムチ。
落合さんは承諾した(せざるを得なかった)。
「……わかった。ちょっと待って」
もう一度、蘭さんを見て、ため息をついてから、デスクの電話に向かう。
「ああ、第一研究室? 下北さんはいらっしゃいますか? 緊急の用事なんです。ちょっと、ゲート前まで来てもらっていいですか?」
やがて、やってきた下北さんは、僕らの顔を見てあきらめたようだ。
「初めまして。昨日、電話で話した、東堂です」
「そうだと思ったよ。ここじゃ、なんだから、食堂で話そう」
下北さんは、細縁メガネをかけた、やせぎすな人。いかにも神経質そうな研究者そのもの。白衣のポケットのなかに手をつっこんで歩いていく。
宿舎へ向かっている。
僕らは、ぞろぞろと、そのあとについていった。
「こんな方法をとって、すみません。あなたがおれたちをさけてるような気がしたので。やっぱり、おじゃまでしたか?」
猛の問いかけにも、下北さんは応えない。
僕らは芝生をよこぎり、公園の遊歩道を通って、宿舎棟の前まで来た。
そこから、なかへ入るには、社員証が必要だった。社員証がそのままICカードになっていて、センサーにかざすと、入口の自動ドアがひらくのだ。
ゲートがいいかげんなのは、建物のセキュリティが万全だからなのかも。
「社員でなければ入れないんですね。研究所もですか?」
「まあね」
「ずいぶん物々しいんだな。そんなに秘密を守らなければならないなんて、いったい、なんの研究をされているんです?」
「それは富永の件とは関係ない。だろう?」
「ですね」
やっぱり、落合さんみたいに簡単にはいかないか。
広いロビーから、奥へ入っていくと、裏山に面した社員食堂があった。
一面がガラス壁になっていて、絶景が一望にできた。中国山地が幾重にも、かさなりあい、薄紫に雲海のなかに、かすんでいく。
これはほんと一見の価値あり。
まんま、カレンダーの写真みたい。
食堂のなかは人影まばらだ。
時間が中途半端だから、食事をする人はいない。観葉植物や柱で仕切った、個室っぽいスペースに、コーヒーブレイクの人が、ちょっといるくらい。
下北さんは、それらの人から離れて、すみのテーブルについた。
「ちょっと待ってて」
下北さんは、食堂のおばちゃんからコーヒーを四つ貰ってきた。この食堂、社員はタダらしい。宿舎も立派だし、まことに羨ましい身分だ。
「話すことなんてありませんよ。富永とは同じ研究室で、まあ、仲はよかったほうだが、プライベートなことまで、なんでも話す間柄じゃなかった」
宣戦布告のように切りだす。
「水田さんによると、富永さんは失踪する少し前、仕事のことで悩んでいたらしいんです。同僚のあなたなら、気づいたことがあったのでは?」
いつものように仕事の話は、猛担当。
「別に……ないよ」
「でも昨日、あなたは僕らや水田さんに、村を出ていくようおっしゃいましたよね? 僕らの周囲に危険があると、忠告してくれたわけだ。あなたの善意だったと、僕は受けとめているんですが」
下北さんは黙りこむ。
コーヒーをブラックで飲みながら(いいなあ。僕はミルクと砂糖入りじゃないと飲めない)、照れたふうもなく、蘭さんを凝視する。クールな研究員も、やっぱり蘭さんの美貌には弱いのか。
「だから、あなたにお願いしたいんです。このまま何も知らされず、ただ出ていけと言われても、富永さんを心から愛している水田さんが出ていくはずがない」
猛は熱心に説得を試みる。
がんばれ。兄ちゃん。
「そのことは、あなただってわかってるはずだ。あなたが知っていることを教えてください。誰にも口外しませんから。それを聞いたうえで、危険だと判断したら、おっしゃるとおり、僕らはこの件から手を引きます。それで、どうですか?」
こういう駆け引き、猛はうまいよねえ。善意に訴えられた下北さんは、しょうがなさそうに折れた。
「わかった。だが、本当に口外しないと誓ってくれるんだろうな?」
「もちろんです。僕らは大企業の不正をマスコミに暴こうってほど、熱血漢じゃありませんからね」
それで、下北さんは話しだした。
「研究の内容にかかわることだから、詳しくは話せない。富永は研究のありかたに疑問をいだいていた。それで、どうも、さっき君が言ったように、研究所の実体を暴露しようと目論んでいたようだ。それはこの研究所にとって、ひじょうに不利益な事態だった。だからね……」
下北さんが口をにごす。
猛はテーブルの向かいの下北さんのほうへ、頭をよせた。
「組織に消された——と、あなたは考えているんですか?」
下北さんは明確な返答はさけた。
「さあね。でも、何が起こっても不思議じゃない。ここじゃね。君たちが思っている以上に、ここのバックボーンは巨大で強力だ」
一企業なんかじゃないってわけですね?
ああ……いよいよ秘密結社か。
トウガラシみたいな名前のやつなら、いいんだけど……。
「そして、ここで行われている研究には、それだけの犠牲をはらう価値がある。人類の未来を、存在を、根底から変化させてしまうほど重要なものだ」
「iPS細胞の研究ではないんですか?」
下北さんは鼻さきで笑った。
「素人にはそう言っておけばいいさ」
なんか、ほんとに変な秘密結社か?
僕は本格的に心配になった。
「これ以上かかわると、君たちもどうなるか知れないよ。悪いことは言わないから、今すぐ村を出ていくといい。富永のことは諦めて」
下北さんが立ちあがるので、猛が呼びとめた。
「もう少しだけ。水田さんのことなんですが、富永さんは本気でしたか? 口さきだけでなく、本気で結婚しようとしていましたか?」
どういう意味なんだ、猛。
「ああ、それは間違いない。あいつ、部屋にハート形のスタンドに彼女の写真入れて飾ってたよ。研究の大事なときに、よく、あそこまでのめりこめるもんだと、正直、あきれてた」
言いつつ、自分は蘭さんに釘づけのくせに。
「もういいかな? じゃあ、ほんとに早く村を出るように。とくに君みたいな綺麗な人は」と言って、蘭さんをながめる。
「今は重要な選択のときだから」
「なんの選択ですか?」
それには下北さんは答えなかった。今度こそ立ちあがる。
「君たちが出ていくまで見届けないと」
施設内を歩きまわられると、よっぽど困るのか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます