二章 不自然な魚 2—1

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 翌朝、僕らが目をさましたとき、香名さんは畑仕事に出ていったあとだった。

 ご飯が新しく(昨日、みんな、たらふく食べてたもんな)炊かれていた。

 みそ汁は大根と油あげ。

 それに、卵焼きと漬けものが用意されていた。


「むっ。この卵焼き。うまい」

「お砂糖入りでしょ? 僕は食べませんよ」


 蘭さんは京風ダシ巻き至上主義。なので、砂糖の入った卵焼きは食べない。

 僕はどっちも好きだけどね。


「でも、この卵、もしかして今朝ここでとれたやつなんじゃないの? すごいフレッシュ感なんだけど」


 味つけも塩、砂糖、しょうゆのバランスが絶妙。

 忘れかけてた、おふくろの味ってやつを思いだした。


「ああ、あのニワトリ。シメてやりたい! そりゃ僕だって、オンドリが、ときをつくるってことくらい、知識として知ってましたよ。けどね。夜明けどころか、まだ真っ暗な四時ごろから、三十分おきに四、五回ずつも鳴きさわぐなんて、思ってもみませんでした。あいつ、シャモ鍋にしたら、ダメなのかな」


 蘭さんは執筆をニワトリに邪魔されて、ご機嫌ななめ。

 なのに、とろんと眠そうな目つきは、いつにもまして妖艶なのだ。

 蘭さんが女の人だったら、僕、とっくに下僕だな。女王様と呼ばせてもらってるであろう。


「まあまあ、蘭さん。卵、あまってるから、僕がダシ巻き作ってあげようか?」


 にっこり笑って、うなずく蘭さんは可愛い。

 しょうがないので、僕は顆粒ダシを使って、大急ぎでダシ巻きを作った。なれないフライパンなので、厚みがイマイチ。


「ごめん。あんまり、うまくいかなかった」

「かーくんの手料理なら、それだけで美味しいよ」


 ああッ……だから、胸がキュンッてなるから。ダメだから。

 その殺し文句。


「恐ろしい人だ。男だと知ってる僕にも、これだけ効くなんて」

「今日は、しっかり女装していったほうがいいですね。いちおう補正下着は持ってきてるんです。シリコンパッド三枚重ね」

「いいけど、蘭、ほどほどにしとけよ。ほんとに追いまわされたら困るぞ。こっちにいるあいだは、調査の都合で、ずっと、おまえについててやれるわけじゃないからな」


 猛に注意されて、

「そうですね。気をつけます」

 と言ってたくせに、いざ、お出かけ着になった蘭さんは、ちゃんと偽胸(シリコンパッド三枚重ね)をつけていた。

 メイクはしてないというが、充分すぎるほど美女だ。


 僕が見とれたんだから、落合さんが見とれないわけがない。


「や、やあ。来てくれたんだ」

「この村、遊びにきたのはいいんだけど、退屈してるんですよ。村の人たちに聞いたら、ここ、医療施設だっていうじゃないですか。ちょっと面白そうかなって。ねえ、なか、見てみたいな」


 迷ってる。迷ってる。

 だいぶ、グラついてるぞ。

 落合さんの理性。


「ねえ、直輝さん。なかの案内してほしいな。田舎の人たちってシャイで、話してて楽しくないんだもん。あなたとなら、楽しそう」

「そ、それは、ムリだよ。おれはここの係だから、持ち場を離れるわけには……」

「じゃあ、詰所のなかへは入れてくれる?」


 あ、堕ちた。


「……いいよ」


 落合さんは詰所から出てくると、巨大な鉄扉のカギをひらいた。全体は車両用だが、一部に人間用のドアがついている。猫用入口みたい。そこをひらいて、僕らを迎えた。


 いちおう、門は突破。

 しかし、まだ、いきなり研究所ではない。

 白く四角い建物へ続くアスファルトの道と、芝生の前庭。そのかたわらに、駐車場がある。

 上からは山のかげになって見えなかった部分に、別の棟がある。洗濯物がほしてあるし、研究員の宿舎のようだ。

 研究所とのあいだに、小さな公園もあった。


 なんだか、陸の孤島の村のなかに、さらに小さな村が、マトリョーシカみたいに入ってる感じ。


 蘭さんが僕と同じように感じたらしく、

「村のなかに、ちっちゃな村があるみたいですね」と言うと、落合さんは鼻の下をのばした。

 嘘いつわりではない。

 確実に、二センチは伸びた。


「近くの町まで買い物に行くだけで、外出届けがいるんだよ。厳重なんだ」

「なんだか、ナチスのユダヤ人強制収容所みたい」


 むじゃきな(を装おった)蘭さんの笑顔に、落合さんは完全にのぼせあがっている。


「そうなんだよ。食事は社員食堂で出るし、日用品も支給だけど、これじゃ、どっちが監禁されてんだかわからないよなあ」

「どっちが……って、誰かを監禁してるんですか?」


 落合さんは、首をひねった。

「さあ。おれは、ただのガードマンだから、研究所のなかまでは知らない。なんとなく、そんな気がしただけ」


 蘭さんは猛と目を見かわした。


「でも、それじゃ、研究員はおちおちデートもできませんね」


 あ、そうか。富永さんのこと言ってるのか。

 そういえば、そうだ。

 香名さんに聞いた話では、富永さんは毎晩みたいに、水田家に出入りしてたらしいけど。

 いったい、どうしてたんだろう?


 と、急に、落合さんの歯切れが悪くなった。


「あ、うん。そうだね。でも、研究員どうしなら、外に出る必要はないわけだし」


 蘭さんは、落合さんの手をとって、両手でにぎりしめる。


「直輝さんは、そういう相手、いないの?」


 おおっ、すごいな。火がついたように赤くなっていく。


「お……おれは今、フリーだよ。き、君は? ええと……」

「名前なら、蘭。カトレアとか胡蝶蘭の蘭。母が蘭の花が好きだったんだ。女の子が生まれたら、蘭ってつけるつもりだったんだって」


 へえ。そうなんだ。

 女の子じゃないのに、つけたんだ。

 よっぽど可愛い赤ちゃんだったんだな。きっと。


「蘭……ぴったりだなあ。君、す……すごく、きれいだから」

「ありがと」


 蘭さんは、パッと落合さんの手を離した。

 落合さんの残念そうな顔ったら。


 詰所はプレハブみたいな、ちゃちな造りではなかった。コンクリ打ちっぱなしだけど、エアコンやテレビやトイレもついて、わりに快適。デスクの上のちょっとエッチなマンガ本を、落合さんはさりげなく隠した。

 折りたたみの椅子に、僕らは並んで座る。


「でも、そんなに行動が規制されてるんじゃ、外で会うことはできないね」

「おれは君に会うためなら、ナイショでぬけだすよ」

「そんなことできるの?」

「まあ、ほんとはいけないんだけど、門番は、おれだから……」


 つまり、落合さんには門のカギを自由にできる。

 もしかして、富永さんを出入りさせてたのは、この人なのか?

 という僕の読みは、猛や蘭さんといっしょだったらしい。

 嬉しいなあ。僕だって、ボンクラじゃないんだ。


「じゃあ、あなたと仲よくなれば、研究員だって、けっこう自由に出入りできるんだ」


 落合さん、わかりやすい人だ。

 あからさまに、ギクッとした。


「えっ? いやあ、そんなことは……」

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