二章 不自然な魚 1—2
蘭の意識は、過去から現在へ流れ、ふわふわと浮遊する。
思考に沈みながら、用水路にそって歩いていった。
用水路といっても、けっこう深く、幅は一メートル以上あった。澄んだ水は早瀬の勢いで流れていく。
オタマジャクシが、うようよ。
ヤゴやメダカ。
どう見ても金魚じゃないかという赤い魚が、水草のかげを泳いでいった。
自然界では、金魚の赤は目立ちすぎて、敵に狙われやすいという。生存の難しい、人間のエゴが造りだした哀れな種だ。あの金魚も近いうちに、大きな魚か水鳥に食べられてしまうのだろう。
きっと、蘭も同じなのだ。
不用意に敵をひきつける、生存に適さない個体。
天敵のいないガラスの鉢のなかで、大切に守られながらしか生きていけない。
蘭のガラス鉢は、東堂兄弟が守ってくれる、京都の家。
ぼんやりしていたので、水田家に向かう田のなかのあぜ道を通りすぎてしまった。目の前に、鳥居と古びた石の階段がある。うわさの神社に来てしまったのだ。
なんとなく、蘭はそこへ上がってみる気になった。
不死の伝説なんて嘘っぱちだとは思うが、オカルト風味の要素は好きだ。
リアリストであることと、ロマンは別物。
石段をのぼりだすと、両脇の並木が、すべて桜の木だと気づいた。まだ二分咲きだが、最近の陽気で、いっきに花ひらきそうだ。
満開になれば、さぞ美しいだろう。
見たい。
ネット上ではなく、生で桜を見るのは何年ぶりだろうか。
この季節は痴漢が急増するので、うかうか外を歩けなかったのだ。
(咲いたら、かーくんや猛さんと見にこよう)
階段が急なので、ここでドンチャン騒ぎをやらかす連中はいないだろう。
幽玄の美の守られた桜は、じつに貴重だ。
東堂兄弟と見るときのことを想像して、蘭は心が浮き立った。
百段以上の石段をのぼりきると、ふたたび鳥居。杉の大木に囲まれた社があった。
ひっそりと清閑で、人の気配はまるでない。
しめ縄された戸口は閉ざされていて、大きな錠前がかかり、なかをのぞくことはできない。
もっと社の縁起にかかわる、どぎつい何かを期待していた蘭には拍子ぬけだ。いちべつして引き返そうとした。
が、社に背を向けたとたんだ。背後で土をふむ人の足音がした。
驚いて、ふりかえる。
社の柱のかげに人が立っていた。
この神社の造りは、かなりの高床式だ。床下に大人が立って入っていけるほどの空間があった。
そこに人が隠れていたのだ。
「誰?」
蘭がするどい声をだすと、ゆっくり相手は姿をあらわした。
その姿を見て、蘭は立ちすくんだ。
怪談嫌いの薫でなくとも、オバケか妖怪のたぐいかと、一瞬、思う。
その男は真っ白な着物に足袋、ゲタばきという、いでたちだ。
羽織と帯は黒。
しかも、その顔には包帯が巻かれ、半面がおおわれている。
いつ逃げだそうかと、身構える蘭の前で、彼は笑った。
「おどろかせてしまったね。ごめん」
相手のやわらかな物言いに、ひとまず安心して、蘭は構えをとく。
時代錯誤な格好をしているが、ただの人間のようだ。服装に関しては、蘭も他人のことを、とやかく言えない。
「こんにちは。村の人ですか?」
蘭が聞くと、相手は着物のそでに両手を入れたまま歩みよってきた。
包帯をしているが、とてもキレイな顔立ちだ。
蘭は母がハーフなので、気持ち洋風だが、彼は純和風。
浮世絵(鈴木春信あたりの清艶な感じ)の若衆まげをゆった中性的な美青年が、そのまま実写になったようだ。もちろん髪は現代風に切られているが。
「そういう君は、村の人じゃないね」
「友達にひっついて遊びに来ました。とても、のどかで景色の美しいところですね」
京育ちの蘭は社交辞令をかかさない。だが、相手は顔をしかめた。
「それほど、のどかなばかりでもないけどね。君はどこから?」
まあ、そのくらいは告げても、ストーキングの懸念はあるまい。
それに、彼は容姿が美しいから、あまり、その手の心配はなさそうな気がした。
(そうか。猛さんも、かーくんも、人並み以上に整ってるからか。僕に執着しなくても、キレイな顔は見なれてるってわけね。ま、あの二人は、たがいに、ものすごいブラコンだし)
兄弟が蘭につきまとわない理由がわかった気がする。
「京都から」
「へえ。いいね。京都。私の知人も住んでるんだ。一度は行ってみたいな」
「京都を観光するなら、行楽シーズンは、よしたほうがいいですよ。どこ行っても、すごい人ごみだから。梅の季節がおすすめかな。冬景色の金閣、銀閣。糺の森とか。北野天満宮は梅の名所だし」
なぜか、彼は、少しさみしげに笑った。
「私は水魚。水の魚と書いて、ミオ。君は?」
「九重蘭」
「蘭。花のように、美しい人」
いきなり、水魚の手が伸びてきて、蘭の頭部をつかんだ。
蘭はめんくらった。
水魚の体格は蘭と同じくらいなのに、思いのほか、その力は強く、ちょっと蘭が抵抗したくらいではふりはらえない。
「なにす——」
るんだ——と言おうとしたときには、もう水魚の口が蘭の唇をふさいでいた。舌が侵入し、たっぷり唾液が流しこまれる。
蘭は水魚をつきとばすために、根かぎりの力をふりださなければならなかった。
蘭の指がひっかかり、水魚の顔の包帯がほどける。
蘭は、ぎょっとした。
包帯のすきまから見えたのは、皮膚を失った筋肉の赤い色だった。
「水魚、君……」
「ああ、これね」
ほどけた包帯を、水魚は片手で押さえる。
「大丈夫。まだ少し痛むけど、すぐに治る」
すぐに治るような怪我ではない。
あの感じでは、包帯の下は皮膚が真皮ごと、ごっそり、はがれているのだ。水魚のあの傷は、皮膚移植しか治療法がないのではなかろうか。
蘭がすくんでいると、水魚は自嘲ぎみに笑った。
「薄気味悪いよね。ごめん」
そう言って、神社の床下へ帰っていく。
柱のかげで一度だけ、ふりかえった。
「蘭、君は今すぐ帰れ。二度と、この村に来るな」
言い残し、かげのなかに消えていった。
水魚の不可解な行動の数々に戸惑った蘭は、つかのま、立ちつくしていた。
気をとりなおしたのは、何分後か。
水魚のあとを追って、神社の床下に入ってみた。薄暗いが、周囲に壁がないから、まったく見えないわけではない。
なのに、柱のかげを一本ずつ確かめても、水魚の姿はなかった。
もしや、床下を通りぬけて、神社の裏手へ出ていったのか。
村へおりていく別ルートがあるのかと、まわりを歩いてみたが、それもなかった。神社を囲む林に、下へ続くような道はない。
この場所から立ち去るには、どうしても、あの石段を通るしかない。
それなのに、何が起こったというのだろう。
水魚の姿は消えていた。
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