二章 不自然な魚

二章 不自然な魚 1—1

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 東堂兄弟が出ていったあと、しばらく蘭は一人でパソコンに向かっていた。

 最近、買ったタブレット端末は旅行には便利だが、キーボードをたたく手に、いつもほどの勢いがない。


 寝室として用意された八畳間は、広い縁側があり、そこから庭が見えている。

 木蓮やビワの木のあいだをニワトリがうろつくという牧歌的な景色は、蘭の愛する残酷でグロテスクなミステリーには、そぐわない世界だ。


 しかし、執筆に気が乗らないのは、そのせいではない。

 今回の殺人事件のせいだ。

 わきあがる興味を、どうしても抑えることができない。


(やっぱり、僕も行っちゃえばよかったかな。原稿は月末までに、あと八十枚。今日明日、徹夜したら仕上がるし、だいたい夜のほうがノルしね)


 ニワトリ見ながら、変質者に追いつめられていく探偵を書く気分ではなかった。早々に諦めて、パソコンの電源を落とす。


「ゴメンね。八重咲やえざき。ちょっとのあいだ、監禁されてて」


 自分をモデルにした分身の探偵に言い残して、蘭は立ちあがった。

 研究所の場所は知っているから、今からでも猛たちに追いつけるだろうと考えた。


 ところが、どこですれちがったのか、いざ研究所の前まで行っても、猛と薫の姿はない。

 このときには兄弟は、すでに引きあげて、村を散策していた。

 だが、そんなこと知りようのない蘭は、研究所の詰所でガードマンに聞いてみた。


「目立つ二人づれの青年が来ませんでしたか? ノッポのナイスルッキングと、アイドルみたいな可愛いの」


 ガードマンは蘭の声でふりかえり、そのまま硬直した。二、三度、口をパクパクさせたあと、みるみる紅潮してくる。


「あんた……あんた……」


 男の反応を見て、しまったなと、蘭は思う。

 田舎だと思って、ちょっと油断した。

 そこに一人でも自分以外の人間がいるかぎり、蘭にとってストーカーの脅威はなくならない。ボディーガードの猛と離れて、一人、ほっつきまわるのは浅はかだった。

 とはいえ、護身用の武器を忘れるほどではないが。


「僕のことはいいんですよ。来ましたか? 来ませんでしたか?」


 ガードマンは必要以上に、うなずいた。


「来たよ。道に迷ったって。でも、とっくに帰っていったけど」

「ああ、そう。どうも」


 蘭がまわれ右すると、ガードマンは慌てて呼び止める。


「ああッ、待った。待った」


 窓は固定で開かない。

 ガラス面にへばりついてくるだけだが、そこが開くなら、彼は大急ぎで、蘭の手をつかんでいただろう。


「ビックリしたなあ。君みたいな綺麗な人、初めて見たよ。この村の人? それとも、あの巫子候補の人かな。今度、非番の日にお茶でも飲みに行きませんか?」


 蘭は平らな胸を隠しているスプリングコートの前をあけて、相手の認識のあやまりを正してやろうかと考えた。

 が、思いなおす。


(道に迷ったって言ってたってことは、今日はぶつからずに退いたんだ。僕の色仕掛けが必要になってくるかもしれない)


 蘭は相手の胸のネームプレートを見た。落合直輝おちあいなおきと読める。


「どうしよっかな。すごく暇だったら考えてみてもいいよ。じゃあ、またね。落合さん」


 落合直輝は山間に沈む落日のごときおもてで、蘭を見送っていた。


 まったく男というのは、どうして、ああも単純なのだろう。

 蘭の声を聞けば女でないことは、すぐわかるだろうに、最初に女だと思いこむと、絶対にそのあやまちを認めようとしない。


 あの調子なら、「なかに入れて」と言えば、今でも入れてくれるだろうが、一人で深入りするのは危険すぎる。ここは退却だ。猛たちが帰ったなら、もう用はない。


 蘭は道を引き返したが、このまま、まっすぐ帰るのも芸がないように思えた。

 非道な人体実験の行われる研究所の冷たく白く陰惨なふんいきに、今しばらく酔っていたい。

 我ながら、人には言えない趣味だと思う。


 蘭が、こんなふうになったのは小学生のときだ。

 小学に入学してまもなく、不審者にさらわれそうになった。

 それは未遂ですんだが、心配のあまり、常軌を逸してしまった母に、家に閉じこめられた。


 学校の行き来は車で送迎。

 学校以外の場所は、家族と同伴でなければ許されない。

 自由に遊びに出ることなど論外だった。

 自由意思で外に行ける兄が、どれほど羨ましかったことか。

 毎日、広い屋敷のなかで、一人、時間をもてあました。


 もちろん、母のことは大好きだったし、今にして思えば、自分の身を守れない少年の蘭には、それは適切な処置だった。

 しかし、なんとなく息のつまる圧迫感は、子どもながらに感じていた。


 退屈のあまり、たくさん本を読んだ。

 子ども用の本のなかでは、江戸川乱歩の怪人二十面相が好きだった。

 そこからミステリーに入り、細かい字の並ぶ文庫を手にとったのが、小学三年生くらいだった。


 そうでなくても、ミステリーにはバラバラ死体だの、血まみれ死体だのが出てくるし、文庫ともなると大人の読み物という前提だ。

 刺激の強い描写も多かった。

 八歳の少年が読むには早すぎたかもしれない。


 また、家には読書家の祖父が集めた古い本がいくらでもあった。

 今では差別用語になった言葉が、バンバン出てくるようなやつだ。


 子ども用の制限のない乱歩や正史を耽溺すると、なんだか意識が高揚した。

 幼い蘭は母を愛していたが、でも、その心の内では、自分を閉じこめる母を恨む気持ちもあったのだろう。

 母のような美しい女が、残酷なめにあわされて、殺される場面では、なんとも言えないエクスタシーを感じた。

 現実では晴らすことのできない鬱屈を、そこで晴らしていたのだと思う。


 母は蘭が中二のときに死んでしまったが、少年期にすりこまれた快感は、今や純然たる嗜好となって、蘭の体にしみついてしまっている。


 その後の経過がよければ、その傾向も薄れたのかもしれない。

 だが、最初の彼女が、蘭とつきあったという理由で、クラスの女子のイジメにあい、自殺してからは、蘭にとって女は、もう軽蔑の対象でしかなくなった。


 たぶん一生、まともな恋愛はできないだろう。

 だから、家族なんて持てないと思っていた。

 兄は蘭を嫌っているし、父は溺愛してくれるが、順当ならば、蘭より先に逝く。そのあと自分は、一人で長い一生をすごすのだろうと、諦観を持って受け入れていた。


 包丁をつきつけてくる男や、蘭の名前で、あちこちの結婚式場を予約する女。

 硫酸をあびせてくる女。

 いつもマンション前で待ち伏せする、タクシーの運転手。

 家電の配達のついでに、部屋中に盗撮カメラをしかけていく配達員……。

 そんなものと、孤独に闘い続けなければならないのだと。


 この自分が、まさか、こんなふうに普通に暮らせるとは思ってなかった。

 ストーカーにおびえることもなく、好きなときに好きな場所へ行き、かたわらには、いつでも猛や薫がいてくれる。


 ただの友人なら、いつか、この人もストーカーに変貌するんじゃないかと、危ぶみながらしか、つきあえない。

 しかし、東堂兄弟は、彼ら自身が、特殊な運命を背負っているせいだろうか。蘭の容姿に惑わされない初めての人たちだ。


 彼らとの暮らしは、本当に楽しい。

 ずっと、このままでいたい。

 しかし、そうもいかないのだろう。

 兄弟の運命が本物だとしたら。

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