第4話

菜々子から突然連絡があったのは、10月の終わりだった。

僕は、すっかり菜々子からの電話は諦めていて、卒論に身を入れて取り組んでいた。

ふと、時計を見ると夜中の12時を回っていて、僕は休憩がてらキッチンへ夜食を探しに行こうとしたところに、スマホから着信音が流れた。

非通知、と表示されていて、僕は高鳴る胸を押さえながら電話に出た。

聞こえてきた声は、消え入りそうなほど弱々しく、鼻水をすする音がした。

「けいすけ?」

涙に混じった声であることはすぐにわかった。

「菜々子?どうしたの?」

「会いたい」

声が、震えている。僕はスマホを握る手に力が入った。

「すぐに行く。どこにいるの?」

嗚咽に混じって、「〇〇」と聞こえた。菜々子が言った場所は、僕の家から二駅ほど離れた場所で、思っていたよりずっと近かった。

僕は、すぐに家を出た。自転車にまたがって、先を急ぐ。おそらく、15分もあれば、着く。

菜々子に言われた場所に着くと、河川敷に下りる階段にいつかのように座る菜々子の姿があった。

僕は自転車を降りて、菜々子の隣に座った。

「菜々子、こんな夜中に一人でいるのは危ないだろ?」

「啓介。来てくれてありがとう」

菜々子の声にはまだ涙が混じっていた。顔は、暗くてよく見えなかった。

「何があったの?」

僕は、何気なくを装って訊いた。菜々子は少し動いただけで、何も応えなかった。

僕もきっと教えてはくれないだろうな、と思ってそれ以上は何も訊かなかった。その代わり、ずっと思っていたことを口にした。

「菜々子、僕たちの高校に行かないか?」

「え?」

菜々子が僕の方を見るのがわかった。僕も菜々子の顔を見る。そして、もう一度、今度は強く言った。「僕たちが出会った高校に、一緒に行かないか?」

菜々子が僕の言葉を理解するのに、1分くらいかかった。それくらい、僕たちの間には沈黙が流れた。

「啓介って、相変わらずアホなのね」菜々子が目を細めて微笑んだ。最初に会話をした時と同じ、あの笑顔だった。「行かないわ。でも、ありがとう」

「行かないのかよ」僕は菜々子から目をそらして言った。断られるとは想像していたけど、ちょっと残念な気持ちになる。

「だって、彼氏に悪いもの。啓介と旅行したなんて知られたら、啓介きっとボコボコにされるわよ。啓介と違ってとてもガタイがいいの」

「ひどいな。僕だって筋肉くらいあるよ」

不意打ちで、菜々子が僕の腕を掴む。僕は慌てて腕を引っ込める。

「残念ながら、啓介の完敗だわ」

「なんだよ、筋肉だけだろ」

「実は、わたしの彼氏、高校の時甲子園にも出場しているの。だから、野球でも、、、」

菜々子が哀れむような表情を作るから、僕は「うるせー」と立ち上がった。モヤモヤした気持ちになった。でも、それを悟られるのも嫌で、僕は続けて言った。

「菜々子、もう元気出ただろ。送るから、帰ろう」

菜々子は笑いながら立ち上がった。その顔を見ると、僕のモヤモヤなんてどうでもいい気がしてきた。

「啓介、本当に全然変わらないわね」と僕をバカにする言葉すらも。

菜々子には、ずっとその笑顔でいてほしい。


帰り道、僕たちは高校の思い出を話した。

意外なほど、菜々子は鮮明に覚えていて、僕は何度も怒られた。

菜々子はずっと笑っていて、僕はそれだけで満足だった。


「じゃあ、啓介、ここで大丈夫よ」

菜々子が、急に足を止めて言った。住宅街の一角で、周りは一軒家しか見当たらない。

「家、この辺なの?最後まで送るよ」

「ううん。大丈夫。すぐそこだから」

菜々子はそう言うと僕に手を振って背中を向けた。僕は名残惜しい気持ちを抑えられず、その背中に向けて言った。

「菜々子!また何かあったらいつでも連絡してこいよ。明け方でも夜中でもいつだって、僕は駆けつけるから」

菜々子は、足を止めずに振り向いた。暗くて顔はよく見えなかった。

僕は菜々子の姿が見えなくなるまでその場を動けなかった。



冬が過ぎて、春が来て、僕は社会人になった。

あれから、菜々子から連絡は一度もなかった。

春休み、僕は菜々子を送った場所に足を運んだ。もしかしたら会えるかもと期待しながら。

明るい時間に行くと、そこは余計に家族で住むような一軒家しかなくて、単身者向けのアパートは見当たらなかった。

僕は当てもなく歩いて、どこまでも続く一軒家の途中で引き返した。

あの夜と同じように一人で駅に向かいながら、僕は全く悲観していない自分がいることに気がついた。

何となく、菜々子とはまた会う気がしていたし、突然連絡が来る予感もあった。

燃えるような恋じゃないし、ときめきがあるわけでもない。

愛している、とも違う、特別な感情。


僕の心から菜々子が消えることはない。

これから先何年たっても、きっと。

でも、それでいい。

これもまた一つの「LOVE」の形だ。



ズボンのポケットに入れたスマホが振動した。美穂からの着信だった。

「あ、啓介?いま、なにしてる?時間があるなら、会えないかなぁ?」

昨日も聞いた美穂の声。僕は安心した気持ちになった。

「いいよ。美穂、どこにいるの?」

帰るべきところに帰ろう。

僕は、ホームに続く階段をゆっくりと下っていった。

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