第2話
菜々子と再会して、1週間が過ぎた。
僕は、あの時の興奮がようやく治ってきていた。こんなに自分が動揺するとは思わず、驚いた。
菜々子とは、何もなかった。それは本当だ。
ただ、僕が一方的に憧れていた。だから、美穂に対しては少し後ろめたかった。
菜々子は、クラスの男子の高嶺の花だった。目鼻立ちがしっかりしていて、美人な上にスタイルもいい菜々子にだれもが目を奪われ、あわよくば彼女にしたい、と狙っていた。
僕も初めは、同じ気持ちを抱いていた。高校二年生の夏までは。
高校の時僕は野球部で、その日も地区予選に向けて練習に励んでいた。
お世辞にも強豪とは言えない僕の高校は、地区予選3回戦が運命の分かれ道で、大体毎年そこで敗退していた。過去最高成績は、地区予選準決勝だった。
半ば記念試合のようになりつつあったが、だれも口には出さず、甲子園を目指すことを目標に暑い中練習をしていた。
あとから知ったが、その日は最高気温40度を記録していたらしい。灼熱の太陽が僕らの体をこれでもか、と刺激していた。
あまりにぐったりとしていた生徒に先生も老婆心が芽生えたのだろう。休憩時に補欠だった僕を含めた二年生の数人に、「これでアイスでも買ってきてくれ」とお金を渡した。
暑い中使いっ走りにされたのが気に食わなくて、じゃんけんに負けた1人が行くことになった。
勝負事に弱い僕は、一発で負けた。
ピノでも箱買いしてやる、と恨みながら校門を出た。
学校から一番近いコンビニでも、歩いて10分はかかる。ただでさえ汗ばんでいたシャツが、べったりと体に張り付いて気持ちが悪い。ナイアガラの滝だって顔負けの大量の汗が顔を濡らす。
コンビニに着くと、ちょうど僕と入れ違いで人が出てきた。涼しい風が体に当たって、顔を上げた。目の前に、菜々子がいた。
「あ、、」
思わず声を上げていた。菜々子とは同じクラスだったが、話したことはなかった。菜々子はだれともつるまず、教室ではいつも一人でいた。
僕に気がつくと、菜々子はニコッと笑って会釈をした。水色のワンピースがヒラヒラと風になびいた。
僕も慌ててお辞儀を返した。体から鼻に付く汗のにおいがした。
なんだか急に恥ずかしくなって、僕はそのまま顔を上げずに店内へ入った。菜々子の姿があまりにも洗練されていて、自分の格好がひどく汚く思えた。
僕は、商品を見るフリをしてクーラーの風で十分に涼んだあと、ピノの箱を3箱手に取りレジを済ませて、外に出た。
早速蒸し暑い空気が体を包んだ。せっかく引いた汗がまたじわりと溢れてきた。
学校へ向かおうと駐車場を抜けたとき、僕は悲鳴にも似た小さな声を上げた。
菜々子が、駐車場の端にある段差に座っていた。たった一人で。何をするでもなく。
僕は気になりながらも通り過ぎようとした。菜々子が、僕を呼んだ。
「ねえ」
セミの鳴き声に紛れて、空耳かと思った。まさか、と思いながら振り返った。
菜々子は真っ直ぐに僕を見ていた。
「ねえ、いまわたしを無視して行こうとしたよね?」
?!
僕は、暑さも相まって、頭が働かなかった。
なぜ、そんなことを言われたのかわからなかった。
「えっと、、、」
「女の子が一人、こんな暑い中座っているのよ?声くらいかけてもいいんじゃない?」
「え、、」とんだ言いがかりだと思った。でも、僕は不思議と嫌な気もせず、むしろ、そうだよな、なんて思って「のめん」と謝っていた。
「謝る必要はないよ。ごめんなさい、ちょっとイライラしていて。あなた、同じクラスよね?名前はなんだっけ?」
「鈴木啓介、、だけど」
「啓介ね。わたしのことはわかる?神田菜々子。改めてよろしくね」
僕は、名前を呼ばれてドキッとした。「よろしく」と返した声は弱々しく、確実に、セミの鳴き声に紛れたに違いない。
「ところで、啓介。あなた、それ手に持っているのアイスじゃない?早く戻らなくて大丈夫なの?」
あ、、
僕は、そうだった!と思い出した。手に持った袋が汗をかいてビショビショだった。水滴が滴り落ちている。
「ごめん、神田さん。また学校で」
菜々子は目を細めて笑った。
「菜々子でいいわよ。またね、啓介」
菜々子の笑顔は妖艶で、でも、どこか少女のようにあどけなくて、心を鷲掴みにされた。ずっと見ていたい。素直にそう思った。僕は、必死にその思いを断ち切って学校へ向かった。
案の定、アイスは溶けてしまっていて、ピノの原型は全く留めておらず、チョコレートは袋にひっつき、アイスクリームはほとんど液状になっていた。
先輩からも同級生からも、おまけに先生からもこっぴどく怒られたのは言うまでもない。
だけど、僕の頭の中には菜々子の笑顔の余韻が残っていて、その文句の半分も耳に入っていなかった。
それから、僕と菜々子は学校で会えば挨拶をするようになり、少しずつ会話が増え、休日にも会う仲になった。
菜々子はいつも調子が良くて、自分のペースに僕を、周りの人を、すべて巻き込んでいく魅力があった。
自分から遊びに誘っておいてドタキャンされたことは一度や二度じゃなかったし、朝会ったときは「きょうは帰りにファミレスに行きましょう」と言っていたのに帰りは「きょうは、真っ直ぐ家に帰るわ」と心変わりすることも多々あった。
他にも、ウサギが好きだと言っていたから、誕生日にウサギのぬいぐるみをあげたら、ウサギは嫌いだと言って受け取ってもらえなかったり、購買のコロッケパンを食べたことがなくて気になっていると言っていたから、僕は並んで買ってきたのに、以前食べたことがあって不味いと思ったんだったと言って拒否されたりした。
どうしようもなく、心変わりが激しくて、うそつきで、手に負えないと思いながらも、菜々子のあの笑顔を見ると自分でも驚くほど簡単に赦してしまっていた。
初めて菜々子を見たときに抱いていた感情はすっかり心から消えていたけど、その代わり、友達や恋人、家族とも違う、何か特別な感情を抱くようになっていた。
好きとか嫌いとか、言葉にできない感情で、一つ言えるなら、嫌な気持ちにはならない感情だった。
菜々子との不思議な関係は、卒業まで続いた。菜々子の本性を知っているのはたぶん僕だけで、菜々子が心を許していたのも、見る限り僕だけだった。周りは僕たちの関係を知りたがったし、菜々子と自然に話す僕のことを羨んでいた。それが、高校生活で唯一僕の自慢だった。野球部では結局3年間補欠で、僕たちの代は甲子園はもちろん、地区予選の2回戦も突破できなかった。
卒業すると、僕は東京の大学に進学して、菜々子は地元に残った。大学には進まず、地元に就職をした。
菜々子との関係を断ち切りたくなかった僕は、卒業してからも菜々子に連絡をしたし、その内の何回かは遊びにも行った。
突然、菜々子と連絡が取れなくなったのは、東京に飛びだったあと、だった。大学1年の春。入学式の様子を話そうと菜々子に電話をした。「お掛けになった番号は、現在使われておりません・・・・」電子音のアナウンスが虚しく耳に入ってきた。
地元に帰省して、かつての同級生に菜々子の現状を尋ねたが、知っている人は誰もいなかった。菜々子の職場に連絡もしてみたが、僕が聞いていた就職先はでたらめで、菜々子のことを知っている人は、誰一人いなかった。
そのうち、東京での生活に慣れると地元に帰ることも少なくなって、四年生になって就活が始まった今年は、帰る予定はなかった。
だから、思いがけない再会だったのだ。
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