第77話 風向きが変わった
9月初旬、
サクラは父親が運転するクルマの後部座席に座っていた。
「困ったらいつでも帰ってきてええからのう」
「大丈夫、お金はいっぱいあるけん」
「そうか、それだけは全然困っとらんか」
「うん、大地君日本一の嫌われモンじゃけん儲かっとるんよ」
いつしかこんな冗談も言えるほどになったサクラを乗せたクルマは、岡山駅へと向かっていた。トランクには大きな旅行カバンが入っている。
サクラは、東京に戻ることを決めた。
実家で1か月ほどを過ごし、心身の健康状態は回復した。自分の家は東京のあの部屋であり、九門を待つのも東京のあの部屋。
「1か月ありがとう、また来るけん」
改札で両親と別れ、ホームへ向かうサクラ。なにか強い決意を感じる表情。階段をのぼりながら、ボソッとつぶやく。
「アタシは大地君の味方じゃけん」
約2時間後、
東京の部屋についたサクラは、腕まくりをし、バケツと雑巾を取り出した。そしてまたボソッとつぶやいた。
「いつでも帰ってこれるようにするんじゃけん」
窓の外の空は、やっぱり青くてキレイだった。
それから寒い冬を超え、花見の季節。
「わっ、花びら降ってきた」
「ふふっ」
4月のとある日、
桜の木に囲まれたカフェのテラス席に座っているのは、サクラと熊田さん。
「サクちゃん、インスタ見たよ。こないだのケーキ、かわいかった~」
「あ、見た? そうアレ結構うまくできたんだ~」
「料理上手で羨ましいなあ、私にも教えてよーー」
「いいよ、今度クマちゃんも一緒に作ろ」
「やった!」
それなりに流暢な標準語を操るサクラ。この地において岡山弁で喋る唯一の相手だった人間がいなくなり、話し方は随分と変わっていた。
そう、九門はまだ帰ってきていなかった。
「九門さん、何やってんだろうね、いまごろ」
「うーん、今日も7時にLINEが来たから、規則正しく生きてそうだけど」
「そっか……」
「クマちゃんは最近どう? 仕事忙しいの?」
「うーん、仕事は大丈夫だけど、新人さんの教育が大変」
「へ~、そんなこともやるんだね」
「すっごい生意気な子なの。昔の九門さんみたいって評判よ」
「ふふっ」
いつからだろうか、サクラと熊田さんがこうやってふたりで話すようになったのは。九門の休職の話をしたあの日、一番顔をグシャグシャにして泣いていた女性は、サクラの友達になっていた。
サクちゃん・クマちゃんと呼びあうふたりは、こうしてたまに会って近況を報告しあっている。
「サクちゃんは? お仕事どう?」
「ボチボチかな、……って、クマちゃん仕事ちょーだいよ」
「わっ、営業された」
「お願いしまっす」
サクラは俗にいう「インスタグラマー」となっていた。
こまめにアップし続けた料理の写真が評判となり、多くのフォロワーを抱える人気者に。まだまだ駆け出しながら、商品プロモーションなどの「仕事」も少しずつ増えてきている。サクラにとって、出版社の編集部に所属する熊田さんは、仕事の依頼主のひとりでもあった。
「でも人気者になりすぎると大変だからね。気を付けてね、サクちゃん」
「うん、分かってる」
「私はもうSNSはコリゴリだなあ」
「そっか」
「あっ、私もう戻らなきゃ」
熊田さんは腕時計を見て、慌てた顔に。
「うん、今日はありがと」
サクラは笑顔で返した。
「こっちこそありがと。頼めそうな仕事あったら連絡するね」
「うん」
サクラが東京に戻ってからもう7か月になる。そのあいだに鬼面ライターを取り巻く環境は大きく変化していた。
ラノベの更新は依然止まっており、twitterもやはりうんともすんとも言わない状態だが、その評価は劇的な好転を果たしていたのだ。
―― 好転
そう、ラノベ「異世界バスケ」と、それを書く鬼面ライターは、支持を取り戻していた。
理由はふたつ。
ひとつは、あのあと一命をとりとめた元代表監督が「自分の行動と鬼面ライターの記事はいっさい関係ない」と公式に発信したこと。
もうひとつは、きわめてネガティブな理由で知名度を上げたにもかかわらず、その作品の面白さは誰も否定しなかったこと。
このラノベを世間に広めた火付け役、夏木修司が日本人史上4人目のNBA選手となったことも追い風だった。連載当初からのファンとして知られる彼は、一貫して作品を支持し続けており、世間の風向きを変える旗手だったといえる。
いや、風向きが変わったどころか、NBA選手が大好きなラノベとして人気がグローバルに広まったので、「拡大した」といっていいだろう。
かくして九門を敵視する人間はいなくなった。
「異世界バスケ」は、世界的な人気バスケ作品となった。いまは日本中、いや世界中のファンが連載の再開を心待ちにしている。最新話のコメント欄は、様々な言語による応援メッセージであふれかえっている。
発車以来激しい上下動を繰り返したジェットコースターは、皮肉にも乗り主を失ってから高い位置での安定走行に入ったのだった。
今度はこんな噂が広まり始めた。
―― 鬼面ライターは生きているのでは?
サクラはボソッとつぶやいた。
「生きとんじゃけん」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます