第78話 1か月を切った
「暑っつい…」
冷凍庫からアイス(ガリガリ君)を取り出すサクラ。いまから食べる1本を選ぶのに、10秒ほどかかったことから、どうやらストックはふんだんにある模様。
「痛った…」
キーンときた頭痛に顔をしかめながら、サクラはカレンダーをめくった。スイカの写真の横には、「7月」の表示。
今日は7月1日。
頭痛がおさまったサクラは、ひとりつぶやいた。
「最後の月になってしもうた…」
昨年の8月1日、九門大地は「休職」に入った。その期間は1年と設定されていた。つまり、最終日は今月末、7月31日である。
しかし九門はまだ帰ってこない。
休職期間が終わったらどうなるのか、という話はまだ特にしていないが、サクラも、家族も、編集部も、なんとなくここをひとつの大きな区切りと考えていた。
いまはひたすらに信じて待っているが、もし7月31日までに帰ってこなかったら、そのときはまた新しい考え方に移ろう、と。
だが、機は突然やってきた。
九門が何かをしたわけではない。サクラが何かをしたわけでもない。しかし、機は突然やってきた。
その日、サクラと熊田さんは、ふたりで居酒屋にいた。
あの、お魚の美味しい店だった。
「どう? サクちゃん。ココ、美味しいでしょ」
「うん」
「私、九門さんとふたりで来たことあるの」
「ええ? ふたりーー?」
「あ……」
「コラーー」
熊田さんはちょっと舌を出して笑った。サクラは熊田さんのおでこをコツンと叩き、一緒に笑った。
「あ、台風」
九門の休職期間が終わるまであと一週間という日の夜、居酒屋で魚をつつくふたりは、ふいに店のテレビ画面に目を向けた。
ちょうどゴールデンタイムのバラエティ番組の間の時間、ちょっとだけ流れる各局のニュースは全く同じ報道だった。間もなく訪れる見込みの、超大型台風の情報である。
箸を止めるサクラ。
「最近、こればっかりだね」
「なんか史上最大とか言ってるし、怖いよねコレ」
「うん、全然想像つかないけど…」
「3日後の夜かあ…。お菓子とか懐中電灯とか買っとこうかなあ」
気づけば、その店にいる客はみんなテレビにくぎ付けだった。地球上に2つ同時に発生した今回の台風は、何度も何度も「史上最大」という言葉と共に説明がなされてきた。
台風が直撃する国は、2つあると言われている。
ひとつはアメリカ合衆国。
そしてもうひとつは、日本である。
随分前からメディアは避難の意識を呼びかけ続けてきた。ネット上には「食料の確保が重要」「台風後の停電に備えを」などの情報が飛び交い、いよいよ一大事であるという雰囲気が大きくなっていた。
サクラ、ため息。
「なんかもうスーパーの棚とかガラガラになり始めてるらしいし。あー、憂鬱。なんでひとりのときに、こんなことになるだろ……」
熊田さんもため息。
「私なんてもう何年もひとりよ」
「あら……」
「いいなあ、サクちゃんには九門さんがいて……」
「うん。ま、いまはいないんだけどね」
「うん……」
しばらく店内各所の会話は台風のことで持ちきりだった。
「荒川や多摩川がついに氾濫するらしい」
「1階の家は全滅するらしい」
「停電は1週間以上続くらしい」
「いまのうちに準備しないと食料不足に陥るらしい」
そして、こんな会話も。
「まあ、ほとんどデマだとは思うんだけどさ」
「でも、あの買い占めって何とかならないのかね」
「そうそう、それそれ。デマだって言ってもやるんだよ、みんな」
「ニュースが大袈裟に言うから、いっつもこうなるんだよな」
「でもさ、誰かが買い占めるかと思うと、やっぱり自分も買っとかないとさ」
「だよな。バカが買い占める前にこっちも蓄えとかないと」
熊田さん、もう一度ため息。
「なんか、みんな怖いなあ……」
「うん……」
「何が正しい情報なのか、ホント分かんないよね」
「うん、ホントのことがちゃんと広まってくれればいいのに」
帰り道、
サクラはインスタント食品を少し多めに買って帰った。やはり「もしかしたら」の不安には逆らえなかった。居酒屋で聴こえた「バカが買い占める」という件の一部に自分も入ってしまった気がして、ちょっと落ち込んだ。
帰宅するとすぐにテレビをつけた。九門がいない、ひとりだけの部屋。その寂しさを紛らわせるためか、部屋に戻るとまずはリモコンのスイッチを押すのがいつしか習慣になっていた。
「続いては、台風情報です」
やはりニュース番組は台風情報をしきりに伝えている。
「これまでに経験したレベルではありません」
「想像できる範囲で安全だと思い込まないでください」
「危険区域の方は必ず避難をしてください」
どうやら相当な規模らしい。ここしばらく同じような報道が続いている。不安は増すばかり。恥も外聞もなく、もっとたくさん買い込んでおくべきだったのか。
ソファに座り、いつものようにアイス(白くま)を食べながら、そして頭痛に顔をしかめながら、サクラはぼそっとつぶやいた。
「もう分からん……。大地君、帰ってきてよ……」
そのとき
ピンポーーーン。
インターフォンが鳴った。
「……!!??」
ドキッとした。汗が噴き出した。
いままさに九門のことを考えていたら、インターフォンが鳴ったのだ。サクラは立ち上がった。一度深呼吸をし、モニタを確認した。
九門ではなかった。
そこに映っていたのは、面識のない男性と女性。
サクラはマイク越しに返事をした。
「はい……」
画面の向こうのふたりは、画面に映るように懐から何かを出した。
「……!?」
実物を見るのは初めてだが、それが何かはすぐにわかった。
警察手帳だった。
「え……? え……?」
さきほどの倍はあろうかという汗が噴き出した。胸の高鳴りもまた倍増した。
九門のいない家に、警察が来た。最悪の展開が想像された。朝は「おはよう」のLINEが来たのに。まだ何も告げられていないのに、涙が出てきた。
画面の向こうから、女性が告げた。
「夜分にすみません、九門大地さんとお話がしたいのですが、いまいらっしゃいますか?」
「え……?」
警察は九門に用事があるという。
どうやら最悪の報告があるわけではなかったようだ。ただ、彼らの要件の相手は、いまここにはいない。なんだかよく分からないながらも、サクラは涙をぬぐい、解錠ボタンを押した。
テーブルの上に積み重ねられたインスタント食品が、少し恥ずかしかった。
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