消失

第75話 いなくなった

 料理教室から帰ってきたサクラは、玄関を開けた瞬間、いつもと違う空気を感じた。


 部屋に入った瞬間、「無」を感じた。いつもいる人がいない、そしてそれがただの不在ではないという「無」を。


 だからだろうか、リビングテーブルにある置き手紙に気づくのに時間はかからなかった。その「無」の空気のなか、その1枚の紙がやけに大きな存在感を放っていた。


 そこには「ちょっと外に出てくる」と書かれていた。九門の字だった。


 サクラは、カバンからスマホを取り出した。



 ガラガラガラ……。


 間もなく日付が変わろうかという時刻、強面の主人が営む名古屋の蕎麦屋の戸が引かれた。


 店の主が目を向けると、汗をかき、息を切らし、目を腫らしたサクラが立っていた。


 ショートカットの女性が、いつものキリっとした顔ではなくやさしい顔でサクラの前に立った。そして、サクラを抱きしめた。

「大丈夫よ、サクラちゃん」


 サクラは泣いた。こらえていたものが切れたのか。肩を大きく上下させ、声を出して泣いた。


 強面の主人が、ウーロン茶と煎餅を持ってきた。ゆっくり座敷席のテーブルに置いた。

「座んなよ。もう客はいないから。ここからサクラちゃんの貸し切りだ」


 店長が座布団をふたつ置き、奥さんがサクラと一緒に座る。普段ならば座布団を並べるのは奥さんだが、今日は店長だった。


 奥さんとサクラがふたり並んで座り、店長が向かい側に座った。


「大地君が、おらんようになった」


 泣きながらサクラは告げた。涙と鼻水で顔はクシャクシャだった。


「連絡は?」

「してないです」


 あの置き手紙を見て、サクラはすぐに店長の蕎麦屋に電話をかけた。特に詳しい説明もせず、いまから行くとだけ告げた。そして新幹線に飛び乗った。店長は理由は聞かず「店は空けておくから、何時でもいいよ」とだけ伝え、電話を切った。


 自宅の玄関を開けた瞬間のあの空気、そして九門の文字。


 サクラは思った。

 もう帰ってこないかもしれない、と。


 サクラは九門に電話もLINEもしなかった。返事が来なかったら、と思うと、そのほうが怖かった。いてもたってもいられず、店長に電話をかけたのだった。


 九門大地が鬼面ライターであることを知っているのは、サクラと店長、そして奥さんの3人だけである。突然姿を消した九門だったが、その理由がすぐに分かるのもまた、この3人だけである。


 腕組みの店長。

「立て続けに自殺未遂騒動だからな。ありゃショックだろうな」


「はい……」

「アイツの記事が引き金かもしれないことは事実だからな……」


 奥さんが割って入る。

「ちょっと、そんな言い方……」


 しかし、サクラはそれを制する。

「いえ、そうだと思います。だから大地君……」


「大丈夫よ、サクラちゃん喋らなくても」


 サクラは肩を震わせながら続けた。 

「今日、大地君、ちゃんと会社に行ったんです。アタシ、安心して料理教室に行って……。それでニュースとかも見てなくて……。帰ったら大地君おらんくて……。アタシが外に行かずに家で待ってれば……」


 奥さんはそっとサクラの肩に手を置いた。

「サクラちゃんのせいじゃないわよ。自分を責めないで」


 サクラは続けた。

「もっと前から、大地君がちょっと変わっていってるの分かってたのに…。でも何も声掛けなくて……」


 店長は、サクラの肩をポンと叩くと、洗い場に歩いて行った。

「今日はここに泊まっていきな。九門の会社には俺が連絡しとくから。ケンゴロウさんだっけ、あの人に伝えておくよ」


 3人は、1日だけ待とうと決めた。


 それでも九門から連絡が来なかったら、警察に届けようと。そしてふたりの両親にも連絡しようと。なんの根拠もないが、九門が極端に誤った行動に走る可能性は考えなかった。それだけは絶対ないと確信できた。3人とも同じ意見だった。


 と言いつつ、サクラは不安がぬぐえない。

「やっぱり大地君、もう帰ってこんかもしれん…」


 洗い場から店長が否定した。

「それは絶対ない。九門がサクラちゃんを放っとくわけがない。いきなりどっか行きやがって、とんでもねえ大バカ野郎だけどよ、でもそんなことは絶対しねえよ」


「……。」

「信じようや、アイツのことを」


「はい」


 翌朝、

 九門からサクラのもとにLINEメッセージが届いた。


―― ごめん

―― いつかちゃんと帰るから


「大地君……」

 また涙が出た。そして、全身の力が抜けるような形でその場に座り込んだ。


 店長はフンッっと鼻息を吐いた。

「あの野郎、帰ってきたら80発くらい殴ってやろうか」


 サクラは涙をぬぐいながら笑った。

「20発くらいでいいです」


 店長も笑った。

「そうか、サクラちゃんに免じて、減らしてやるか」


 いま九門がどこにいるのかは分からない。

 いつ戻ってくるのかも分からない。


 そんななか、7月の名古屋の空は、腹が立つほどに青く澄んでいた。

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