第58話 また儲かるハナシが来た

 「書籍化のご相談」という件名の1通のメール。


 差出人は、九門の会社の書籍編集部だった。


 九門は出版社勤務なので、業界のことは分かっている。これだけの認知度を獲得しているオンライン小説であれば、この相談が来るのは何らビックリすることではない(とはいえ、自分の会社から来たのには、少しドキッとしてしまったが)。


 むしろ遅過ぎるとすら思ったが、その理由はメールから少し読み取れた。


・この作品が大きな人気を獲得しているのは分かっていた

・だが、ビッグタイトルゆえに、とっくに書籍化の話が進んでいると思っていた

・それは他社も同様でなのではないかと予想している

・しかしそういう動きがみられないので、今さらと思いつつ、連絡してみた


 どうやら各社ともに「今さら話しても遅いだろう」と考えていたらしく、結果的にお見合い状態になっていた模様。


 そんなことあるのか……?

 こういうときは猛烈な綱引きが発生すると聞いていたが、お見合い……?


 さておき、九門は返信した。

「どのような契約になるのかを教えてください」


 相手が自分の会社の人間だけに、思わず「お疲れ様です」と書いて送りそうになったが、慌てて修正し、契約内容を確認したい旨を伝えた。


 ある程度以上の規模の企業では珍しくないことだが、九門はこの書籍編集部の人間と面識がなかった。理由は2点。部署が違うこと、そして九門がつい半年前まで名古屋にいたこと。


 ということでお初の会話となる、このお相手の名前は滑川(なめかわ)さんというらしい。


 おいおい。

 ゴウダさん、シズカさん(佐藤さん)と来て、今度は「骨川」にニアピン賞の「滑川さん」かよ。

 この会社の漫画キャラクターシリーズ、止まらないな。

 そういやドラえもんの単行本で、スネ夫の苗字が滑川になっているコマがあるっていうトリビアあったっけ。

 ってまあそれはどうでもいいや。


 滑川さんは、収益のシミュレーションも出してくれた。


 この作品ならスタートから実売10万部を目指せるとのことで、仮に1冊600円とすると、10万部の発行で6000万円。そのうち10%が印税として作家に渡る契約とすると、九門に入るのは600万円となる。重版がかかればもちろん上乗せされ、さらに電子書籍版の印税も加わってくる。


 因みに、初版で10万部を目指せるラノベなんて、実はなかなかない。そんな規模になっているのは、アニメや映画にもなってみんなが知っている大きな作品だけである。もちろんそこまで展開が拡がれば、映画やグッズ展開の権利料などから別の売上も発生するので、作家の収益はさらに増加していくことになるのだが。


 ともあれ「異世界バスケ」が非常に期待値の高い作品と見られていることは間違いないようだ。


 しかし、この600万円プラスアルファという数字は、九門にはそれほど刺さらなかった。なにしろ、ついこの間ちょびっと書いただけで1000万円以上を手にした男である。


 書籍化となると、編集者がアレコレ言ってくるだろうから(自分も編集者だから分かる)、広告の話の柔軟な対応なんてできないだろうし、せっかくいま自分のペースで楽しくやれているのに、締め切りに追い詰められる生活はしたくない(自分も編集者だから分かる)。そのうえ、手にする金額もいまの自分からするとビックリするような数字でもない。


 それよりなにより、


 この話が進んだら普通に考えて、九門大地が鬼面ライターであることが会社にバレるじゃないか。

 それはもう完全にNGだ。

 副業アレコレの話もあるし、いま絶好調の自分の編集部が躍進のカラクリを知ることになってしまう。

 それはダメだ。NGだ。


 九門にとっては、メリットよりデメリットのほうが大きく感じられた。


 そして、いわゆる「お見送り」の返信をした。

「今回は時間があまりないので見送らせてください。ただ興味はあるので引き続きお話しできればと思います」


 普通ならお金云々関係なく飛び上がって喜ぶ話だろうが、そもそも本を出したくて始めたわけではない。別に自分は作家を夢見て書き始めたタマゴじゃない。九門はいたって冷静だった。


 だが、滑川さんは食い下がってきた。本を出すことのメリット、もっと大きな収益のシミュレーション、出版社だからこそやれること、色々なものを出してきた。


 結構頑張るじゃないか、さすが我が社の編集者、と思いつつ九門は「それでもゴメンナサイ、また話しましょう」と逃げ続けた。


 いまの状態が楽しいんだ。

 これでいい。

 自分は自分のやりたいようにやる。


 数度のやり取りのすえ、滑川さんはやっと折れてくれたが「ほかの出版社から連絡が来ても接触しないでほしい。何かあれば自分と話してほしい」と念押ししてきた。


 分かってるよ、うるさいな。


 その後も鬼面ライターのメールアドレスには様々な連絡が舞い込んできた。先日の広告企画のような露出の相談、雑誌やWEBメディアからのインタビュー依頼、はてまたテレビ出演まで。


 自分の顔は出せないのでほとんどの話は断っているが、それが逆に「鬼面ライターを捕まえろ」という業界の合言葉になったのか、日を追うごとに連絡が増えていくように。


 なんだかみんなに狙われて、ツチノコみたいな存在だな。

 しかし、すごい状況だ。

 さしずめ「イセバス バブル」とでもいったところだろうか。


 もう怖いものなんてない。


 結婚も控えた、まっとうな大人の社会人であるはずの九門だが、このバブルはやはり、その彼をのび太君のようにするには十分だった。

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