変貌

第57話 仕事がどうでもよくなった

 それは、のび太君がドラえもんに便利な道具を与えてもらい、調子に乗って努力を忘れてしまうという、あの恒例パターンに近いものかもしれない。


 九門は、1000万円以上の大金の入金を確認したその日、何かのスイッチが切れたような感覚を得た。得てしまった。


 そして、こう思ってしまった。


―― 会社で働く意味、あるのか?


 翌日、

 通勤の電車のなかでもその状態は続いた。どうにも今日の仕事に対する意欲が湧いてこない。会社に着いても、その状態は続いた。やはり、どうにも今日の仕事に対する意欲が湧いてこない。


「あ、これ私取材に行ってきます!!」

「はい、それも大丈夫です! 今日中に私がやっておくんで!」

 今年度から正社員になった熊田さんが張り切って動いている。


「はい、これ読んだよ。配信してOKね。課長に狙い目の時間聞いといて!」

「あ、私時間あるんで、その配信作業やっときますよ!」

 合田さんがみんなの原稿に目を通し、次々に指示を出す。佐藤さんが率先してヘルプに入る。


「このネタは昼休み狙いだな。11時50分に配信しよう。SNSにも同時に投下だぞ」

 かつては憎しみの対象だった課長が、みんなの強い味方となっている。


 そんなみんなのイキイキとした姿を眺めつつ、しかし九門はやる気が湧いてこなかった。どこか表情にも覇気がない。


 多分、いま隣にケンさんがいたら、いつもの「どうしたの、九門君」だろう。この顔で蕎麦屋に行ったら「ガッハッハ、しけた顔だな。まあ座れ」だろう。


 その夜、「異世界バスケ」を更新した。


 主人公は練習に行かなくなった。

 

 そんなことしなくても自分は他人より上手いし、試合で活躍できる。何よりダンクができる。そんな選手は自分だけだ。


 この小学生は中身が大人なのに、努力の大切さを知っている立派な20代のはずなのに、そんな心境に陥った。いや、大人だからこそ、だろうか。ピュアな小学生ならばそれでも真面目に練習したかもしれない。そう考えると、のび太君がすぐ怠けてしまう理由もよく分からなくなってきた。


「ありゃ、サボり始めた」

「ん?」


 サクラは、最新話を読んだらしい。

「やばいでえ、こんな風になったら。でも分かるかもしれんなあ。頑張らなくてもいいなら、みんな頑張らんよなあ。ラクじゃもんなあ」


「やっぱり、そう思う?」

「うん、思う。あ、でも料理の勉強はちゃんとやっとるで」


 九門、ニコリ。 

「分かってるよ」


 そして、「見て見て」とサクラがスマホの画面を見せてきた。


 インスタグラムだった。


 料理の写真がたくさん並んでいる。どうやら最近、自分が作ったものをアップし続けているらしい。フォロワーも少し増えたという。


「へ~、なかなかやるじゃん」

「いっしっし」

「でも、もっとイイ感じに撮れるのに」

「ええ~、どうやるん? 教えてえや」


 九門は編集者である。さすがにプロのカメラマンと同じ技術はないが、写真撮影の知識はひと通りあるし、どんな写真が美味しそうに見えるかなどのノウハウもある。

 「うーん、でも料理の写真は難しいからなあ。光の加減も大変だし、カメラもウチのじゃ限界があるし……」


「ええ~? じゃあ、カメラ買ってもええ?」

「え?」

「アタシ、ちょっとハマり始めとんよ、コレ。ええ写真撮りたいかも」

「カメラか、まあ全然いいけど」

「ホンマ? ホンマに買ってええ?」

「いいよ、全然」


また「いっしっし」の顔でサクラは笑った。


 決して安くはないが、まあどうってことはない。せっかくこんなに楽しんでいる趣味ならもっと思い切りやったほうがいいだろう。


 あとは、ちょっとしたお礼のような気持ちもあった。


―― 頑張らなくてもいいなら、みんな頑張らんよなあ。ラクじゃもんなあ


 さっき、あのサクラの言葉で、妙にホッとしたんだ。

 どこかにずっとあった罪悪感のようなものが、ふっと消える感じがあったんだ。

 サクラ、ありがとう。

 カメラくらい余裕だよ、全然余裕。

 どうせなら写真教室にも通ってみたらどうだ。


 何もかもが上手くいき、大きな買物だってどうってことない余裕が生まれ、急速に仕事に対するモチベーションが低下していく。反比例するようにラノベへの意欲は増加していく。


 会社員の自分より作家の自分のほうが間違いなく輝いているし、収入も多い。どっちに燃えるかなんて、考えるまでもないじゃないか。


 そんな折、

 九門のもとにまた新しい話が舞い込んでくる。


 一通のメールだった。


 これこそ「想定内」。広告の相談なんかより全然、想定内。むしろもっと早く来てもいい話。遅すぎると感じるくらい。


 メールの件名は「書籍化のご相談」だった。


 やはり来たか、と九門はメールを開いた。


「……!!??」


 瞬間、胸の鼓動が高鳴った。


 このメールの送り主は、九門の会社の書籍編集部だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る