第52話 いいことが続いた

「カンパーーーイ!!!」


 ガチャッ!!


 大きな声とジョッキをぶつける音。


 といっても、ここは店長の蕎麦屋ではなく、都内のとある居酒屋。九門と一緒にいるのは、合田さん、佐藤さんら、東京の編集部メンバーである。


 そして、みんなから次々に「おめでとう」と声をかけられ、ペコペコと頭を下げているのは、本日の主役・熊田さん。


 新年度を翌日に控えた3月31日、辞令が出た。契約社員だった熊田さんは、明日からめでたく正社員となる。


 手を叩く合田さん。

「いやあ、良かった良かった!」


 同じく佐藤さん。

「熊田さん、頑張ったもんね」


 再び何度も頭を下げる熊田さん。

「ありがとうございます、皆さんのおかげです」


 九門が動いたあの日から、編集部の成績は猛烈な右肩成長を見せた。その快進撃は、かねてから話に上がっていた人員増と共に、契約社員の正社員登用にも繋がることとなった。


 「救世主だよ、ホントに」と九門の肩を叩く合田さん。そして熊田さんも「もう私、なんてお礼を言っていいのか…」と続く。


 「そういうのはいらない」と九門が何度言っても、みんなは九門に声をかけ続ける。


 名古屋から東京に異動して約2か月、九門は周囲の人間と友達のように喋る人間になっていた。打ち解けた相手には「です・ます」廃止、先輩も後輩もない。名古屋時代から続く、いつものパターンである。


 しみじみと思い出す佐藤さん。

「課長も変わったしねえ。あんなに嫌な人だったのが、いまは頼もしいもん」


 またもやハナシが戻る合田さん。

「ホント、それも九門さんのおかげ」


「だから、いいって、そういうのは……」


 組織が雑誌チームとWEBチームで真っ二つだったのも、今は昔。いまのチームは大きな一体感のなかで各々仕事に取り組んでいる。さらに明日から人数も増えるとあって、雰囲気は最高潮。合田さんは「今度からは呑み会も一緒にやるんだ」と意気込んでいるらしい。


 自身は謙遜し続けているが、この流れを呼び込んだのは、間違いなく九門である。救世主という言葉も決して大袈裟なものではない。


 この日の宴の主役は熊田さんのはずだったが、というわけで話題の中心は九門になってしまっていた。


「九門さんにカンパーーイ!!」

「だから、いいっつーの」


 帰り道、九門は熊田さんとふたりで同じ駅に向かって歩いていた。


「合田さんたち、もう一軒行くらしいですよ」

「よく呑むよなあ、ホントに」

「九門さんは行かないんですか?」

「うん、もう眠たいし。週末いっぱい運転したから、まだ疲れてて」

「そっか」


「熊田さんこそ行けばいいのに。折角のお祝いの場だし」

「私はいいんです。九門さんも帰っちゃうし」

「え?」

「いえ、何でもないです」


 3月31日の東京の夜、あちこちで送別会が行われているのだろう。見るからに上機嫌そうな人間がたくさん歩いている。アタマにネクタイを巻く男、寿司折の紐をつまんで歩く男もいる。


 あの紐で吊ってる寿司、どこに売ってんだろう。

 漫画やドラマでしか見たことないよな、実際。


 そんなことを思っていたら、熊田さんが不意に立ち止まり、九門に頭を下げた。もはやこれで何度目か。

「九門さん、本当にありがとうございます。感謝してます」


 九門、「いやいやいや」と、大きく左右に手を振る。

「だから、いいって、ホントに」


「いえ、どうしてもお礼が言いたくて」

「いや、じゃあ……、えーーっと、ありがたく頂きます」

「ふふっ、明日からもよろしくお願いしますね」

「うん、また頑張ろう」

「はい。また明日。おやすみなさい」

「おやすみなさい」


 その夜、九門は「異世界バスケ」を更新した。


 6年生が引退し、主人公たち5年生の代がこれから始まろうとしている。当然ながら主人公はチームの中心選手となり、キャプテンに就任。


 ただ、これまでと少し違うことがあった。


 周囲のメンバーが、主人公のことを「君づけ」で呼ぶのだ。クラブでは上級生・下級生関係なく、「ケンタ」「ナオキ」と、下の名前で呼び合うのが通例なのだが、主人公だけは「君」をつけられるのである。


 新しい代の選手たちが新人戦に向けて練習を重ね、連携を深めていくなか、一方でコートの外に出ると、妙な距離が生まれ始めていた。


 普通の小学生なら気がつかないのかもしれないが、主人公の中身は26歳の大人である。その微妙な変化を感じ取った彼の中に、モヤモヤしたものが生まれ始めていた。


「なんか暗あ~い」

 最新話を読んだサクラが、アイス(白くま練乳いちご)を食べながら、九門に文句をつける。


「そうか?」

「もっと仲良うせんと。同じチームなんじゃけん」

「でもさ、ひとり飛び抜けてたら、こうなるよ多分」

「ふーーん」


「そういや、料理教室は明日からだっけ?」

「そう。4月1日じゃから、同時に入る人がいっぱいおるみたい」

「そっか、友達できそうで良かったじゃん」

「うん」


いかにも「ウキウキ」といった表情。


 最近いいことばっかりだなあ。

 あの寿司折のやつ、自分も買えばよかったな。

 どこに売ってるのか分からないけど。

 

 明日から新年度か。楽しみだな。


 ちょっといい気分で九門は布団に入った。


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