脈うたぬ心臓

妙に頭がスッキリした。

鬱蒼とした思考の堂々巡りは続き、感情は色を失った。何色?名前をつけれない、色がない。

二缶目の缶ビールが、温く炭酸も抜けきった先ほど、ふと浮かんだ言葉が私の心に空舞う雪のような儚くも輝く冷たい物をもたらした。

救われたと思った、妙に胸が高鳴り動かずには居られなくなった。

「失踪」をしよう。


そこに居なかった事にする。

一人の人間が28年培った時間を無に帰す。

断ち切り、新たな人間として生き直す。

難しい事なのだろうか?

まずは、探されないようにしなければならない。

元々友達は多くない、数人の気の許せる大切な人に永遠の別れをする。

少しだけ心が痛んだが、仕方のない事だ。

残るものなんて数ヶ月は飲み込んだ鉛のように時々、ヒンヤリとした重みを残す程度であろう。

人には忘れるという、何より素晴らしい能力が備わっている。

浮かぶ顔を一人一人確認し、心配しそうな人の名を書き出す。

5人。片手で足りる事が可笑しかった。

文面を考える。

(少し仕事が忙しくて、余裕なし。ごめん、音沙汰途絶える予感)

(多忙につき、音信不通の可能性有り。ごめん。)

(ケータイが煩わしくなったから解約する。ごめん。適当に、よしなに)

(金欠につきケータイ止まる。すまんね。)

(いつもの一人になりたい病発症、ごめん。)

こんなものでいいでしょう。

最後に残る、細やかな良心によって付けられた謝罪の言葉がうまく伝わらない事を願う。

それぞれ、未送信メール欄に保存をして1つ目の仕事を遂行終了。


次は家族だ、昔から上手く言いたい事を言えなかった人たち。

どんなに長い時間をかけて努力しても柔らかにしか分かり合えなかった人達。

うん、ごめん、ありがとう、大丈夫、わかった、おはよう、おやすみ、そうだね、うん、なるほど、そうするよ、いただきます、ご馳走さま美味しかった、私が悪いから、頑張るよ。

伝える努力をしなかったのも、私だ。

それは申し訳ないと思う。

愛情だったのかしら?情だったのかしら?

ノートを一枚破り、ボールペンを握る。

[少しの間、一人で考えたい事があります。色々な物を見ながらゆっくりするね。心配しないで。必ず帰るから。落ち着いたら連絡します。ごめんなさい。]

筆圧の形に言葉は跡になり黒かったインクは不規則に青く滲む。噛み締める唇から漏れる嗚咽がこれは愛情だったのだと教えてくれた気がした。

それでも、それでもあなた達と過ごした時間は私を形作ってくれた。

愛していたよ、愛されていたよ。

上手くやれなくてごめん。ごめんね。

ハッとして痛いほど唇を再び噛む。聞こえてしまう、それは避けなきゃいけない。

壁が薄く、少しでも大きな声を出せば全てが広がり出てしまう私の部屋。

小さくさりげなく空間を満たしていた音楽の音量を8つ上げる。

音の震える鼻歌で濁すよりずっと良い。

ツルツルとした紙の端の部分指で撫でると凹凸に引っかかる。あやふやでいい、読める。

無理やりニコリと口角を上げて深呼吸。

その日までに見られるわけにはいかない。

財布のお札入れに3つに折り、そこに納めた。


異様な疲労感が身体中を支配する。

時計を見ると午前2時15分。相対性理論だったかな?

私とは相容れない、それでも大切な友人の言葉が耳の奥の方で再生される。

人は楽しい時には時間が過ぎるのを早く感じ、その逆ならば感じ方は遅くなる。

私の中では数十分しか進まなかった時計の針は既に4時間進んでいた。

その事についての文句は、やはり言うべきでは無いと思い直した。

大きな抱き枕に頭を乗せて、両腕を組み横になる。これからしようとしている事の大きさ、寒さも相まって身体が震えるのだ。

それでも、何かに甘えてしまえば決心が揺らぐ気がして毛布の温かみですら跳ね除ける。

微睡みの中、微かに光る豆電球の灯りがいつもより暗く見えた。


目が覚めると、代わり映えのしない天井と目が合う。おはよう、君に挨拶をするのもあと数える程かも知れない。そう思うと呼吸が苦しくなった。

全身は冷え切りガチガチと歯を鳴らすほどに震えている。

脱ぎ散らかしていた、カーディガンを羽織り暖房をつける。

電動ポットに水を入れ珈琲を淹れる。

マグカップを両手で包み、ふーふーと冷ます。

蛇口を捻り少し熱めのお湯を湯船に流し込む。

昨夜の残り物を弁当箱に詰める。

風呂に入る。

着替える。

歯を磨く。

髪を乾かす。

簡単なメイクをする。

日常を、日課を1つずつ辿りながらたまらない程の嫌悪感。

悲鳴のような声で私を送り出すドアに、うるせえな、と悪態をつきながら足跡をつけた。


秋を飛び越えて冬が気怠げに顔を出したような朝。目をつぶっていてもたどり着けてしまうであろう会社に到着するまで、何か音楽が聴きたくなった。数百は保存してある曲名を流すように見ながら、記憶の糸が誰かに必ず繋がる事に驚いた。

良い思い出、悪い思い出は問わずとも誰かの残り香がふわりとあるのだ。

ああ、そうか..私はたった一度でも独りきりになった事が無い。いつだって誰か側にいた。

少しの恐怖、本当の孤独とはどういうものなのだろうか?

居なかったことに、など、不可能...。

受け入れて諦めれたらどれ程良いだろうか。

せめぎ合う思考の片隅で、少し重く湿度の高い男性の歌声が妙に楽しげに耳の辺りでずっと漂っている。二人というフレーズだけが数分おきに耳に当たる。

何度も何度も。


社会との繋がりも切り離さなければならない。

本日、退職致します。余りに自分勝手か。

いつもなら軽い嫌味とともに走る様に離れる上司の机を今日はいつもよりもゆっくりと目指す。

「おはようございます、本日もよろしくお願い致します」

敬礼、のちに、わざと視線をぶつけてにこりと微笑む。

「おはよう、今日はうやうやしいね」

「ははっ、そうです?いつも丁寧真心から挨拶してるはずですけどね」

「入社一週間はそんな感じだったけど、今じゃねえ」

「あら、心当たりが多すぎて」

「そういや、最初は初々しくて可愛かったなぁ」

「人は慣れますからね、残念。でも私はにこやかな方だと思いますけど?」

「今のおっかない顔の方が印象に残るな」

「それは申し訳ありません、なんなら笑いましょうか?」

「いいよ、いい。それで何か用?」

「え?」

「雰囲気が違うから、なにかあった?」

「....ご相談が」

「珍しいね、聞くよ。どうしたの?」

「少し考える所がありまして」

「うん?」

「本日付で退職させて頂きたいのですが」

「...それは困るよなぁ」

「ですよねー」

「1ヶ月後でも困るは困るんだけどな」

「ははっありがたい事で」

「いい仕事見つかったの?」

「ああ、うーん。まあそんな所です」

「そう、分かった。とりあえず聞いたから少し保留でいいか?」

「いや、明日から来ないつもりなんですが」

「いやー、駄目でしょ」

「ですよねー」

「....分かった、少し休む?最近休みなかったもんな。有給使ってないでしょ。一週間ならなんとかしよう」

「落とし所ですか?」

「うん、いまはこれで精一杯」

「分かりました。ではそれで」

「今日中に人は手配しておくから、明日から一週間の有給届け書いといて」

「はい、ありがとうございます」

「それからもう一度話そう。俺も遠い昔にそんな時があったよ」

「そうなんです?」

「うーん、前々から思ってたんだけどさ」

「ん?」

「お前さんは、何も言わないよな」

「減らず口への嫌味ですか?」

「いやいや、怒るなよ。今だってそうだ。結論だけ」

「...ああ」

「相談してくれよ、一緒に悩んでくれる人を作るのもうまく生きるコツだぞ」

「...」

「説教臭いな、ただ、お前さんは一人で仕事してるわけじゃない。少し頼れ」

「今、初めてかっこいいと思いました」

「節穴だな」

「ですね、ありがとうございます」

「何が不満だったんだ?」

「...時間を頂けますか?すぐに言葉にならないんですよ」

「まあ、そんなもんか」

「ええ」

「じゃあ、今日もよろしく」

「はい、お願いします」


雑務をこなしながら、諭すような声を思い出しては搔き消す。

うまく生きる、私はそんなに下手なのか?

悩んでくれる人?もし縋った時にその手を取ってもらえなかったら?

一人じゃない?独りですけどね。

頼る?頼る..。今更どうしろと言うのだ。

それが出来ないから、出来なかったからこうなってしまったのかな。

言葉にならない感情は広がるばかりでいつのしかその重みで、私は身動きが取れなくなった。

誰かとぶつかる事も、誰かを許す事も面倒で。

私が悪い、善悪の判断をする事を諦め全てを自分の愚かさ故だと思うようにした。


上手くやれていた、昨夜まで。

仕事が終わり部屋へ帰ると何かよく分からない違和感があった。

その正体はすぐにわかる、そこに無かったのだ。

たった一つだけ、置いていたはずの場所になかったのだ。

あれ、触ったかな?

机の下に目をやるが落ちていない。

クローゼット?いやポケットかもしれない。

思い当たる場所をしらみつぶしに探した。

手に力が入る、胸がざわつく。

目ぼしい所全てに手と、目をやったがどこにも無かった。

なぜだ?どこに?

部屋の外から声が聞こえる。

「お姉ちゃん謝らなきゃいけないことがあって..」

いまはごめん、少し探し物してるから後で聞かせて。

「うん..あのね、お姉ちゃんのネックレスね」

ああ、知ってたの。どこにある?

「ごめんなさい。今日、借りて、引っ掛けて壊しちゃったの」

...勝手に?まあいいや、直すから返して?

「これ...」

差し出されたのは小さな袋に入った、デザインの少し似た銀色のネックレス。

これじゃないよ、壊れててもいいから返してくれる?

「弁償しようと思って、よく似たのを買ってきたんだけど」

ああ..私のはどこ?

「使えないと思って捨てちゃった」

…そっか、うん分かった。ありがとう。

「ごめんなさい..」

いいよ、それよりこれ高かったでしょ。逆にごめんね

「うん!めっちゃいいやつ」

はははっなるほど。じゃあ貰うね。部屋片付けちゃうから、後でつけてみるね。

「はーい!今日はごめんね?」

もういいよ、風呂でも入っといで。

「うん!」


疲労感から座り込む。

赤いハートの石のついた華奢なそれを扉に向かい力一杯投げつけた。

これじゃない。あれはこんなに輝いていてはいけない。

たった一つ、私が焦がれるほど欲しいと思い手に入れた、どんな時でもそれを着けると胸を張り朗らかに全てに向かえた。

私の心臓は、こちらなの。偽物の脈打つ飾り物なんかに惑わされるな。

暗示のように繰り返し、子供の言う嘘のようなジンクスは意味を持つようになった。

顔も思い出せない、声の低い人に傷つけられた日も、信じていた人に裏切られた日も、沢山の人の前で私はここよと叫ぶ日だって、私の痛み、傷、緊張、喜び、悲しみ、切なさ、もっと言えば感情の全てを肩代わりしてくれていた。

全てを鈍い赤に飲み込んで貰い、私は限りなく無で過ごせた。

片割れ、いや私自身。

もう、いい。もう、いいのだ。

消えてしまおう、また一から始めよう。死んだのだ、そう。私は殺されたのだ。

生き直そう、もう一度、今度は上手くやろう。

「失踪」をしよう。

呼吸が苦しくなる程、身体が震えるほどの鼓動の動きを感じてしまったのだから...。


未送信メール欄を開く。

やはり、もう無理なのだ。耐え切れもしない、全てに。

一通目 さ

二通目 よ

三通目 う

四通目 な

五通目 ら

口のパクパクと動かしながら、考えている一つ一つがすうーっと溶けていくのを感じる。

右手が二回、震えた。

見てはいけない。

一方的でなければならない。

右手の震えが止まらなかった。

ごめんなさいごめんね。

また、震える。

ごめん。

途絶えて、また。

耳に硬さを押し当てた。


「.....」

「さっきのはなに?」

「....」

「あれ?聞こえてる?もしもし」

「......」

「聞こえてる事として話すよ、なにがあった?」

「...あ...」

「何か言いなよ、どうしたの」

「....」

「泣いてるの?今どこ?」

「......会社」

「そう、大丈夫?」

「....」

「あのさ、助けて欲しいならもっとストレートに言いなよ」

「...ごめん」

「今時間ないでしょう、今夜必ず連絡して」

「...はい」

「必ずだよ、分かった?」

「.....お前は...」

「ん?」

掠れて声にはならなかった。

適切な言葉が浮かばなかった、ただそこに居る、繋がっている、その事に触れたかった。

「まあいいや、今日も頑張って」

「うん」


鼻から空気を肺に流し込む。

口から細い糸を紡ぐようにゆっくり、ゆっくりと吐き出す。

今夜、初めて電話口の相手に向かい合う自分を想像して頬を一度だけ叩いた。

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