万華鏡2
クリスタルのグラスに纏わりつく水滴をすくう。
指先からすぐに溢れる。重いだけで機能性のわるいそれにはまた同じように透明な炭酸水を濁すように水滴が纏わりついていた。
持ち上げ、飲もうとすると いとも簡単に重力に負け、冷たさが腿を濡らす。
空腹が思考の片隅をふてぶてしく陣取り、茹だる暑さに立ち向かうよう急かしている。不愉快。
何でもいいわと鳴らすBGMより、蝉の声がクリアに耳に届く。
七日しか地上で生きられない蝉に敬意を払おう。そう思うと、自然と立ち上がることができた。面倒で仕方の無い身支度もうやうやしい儀式のように感じられる。
玄関の扉を開け、たじろぐ。
陽炎と息も出来ぬほどの熱気。えい、やあと一歩踏み出し鍵をかける。退路は断たれた。
駅の前の新しいパン屋さんにでも行こうかしら。飛びっきり甘いシナモンロールとアイスコーヒー。頭に浮かんだアイデアに腹の虫がキュウと返事をする。君もそれが良いと思う?ならば決まり。
駅まで3分、人が生涯働いて得られる賃金と変わらぬ価格のマンションに住む者の特権。大抵の欲しいは数分歩くだけで叶ってしまうのだ。
好きで入っているわけではない、箱。箱入り娘である事に感謝をする瞬間である。
私が入っている箱はだだっ広い癖にひどく窮屈でこのくらいの報酬でも無いと肩に羽でも生やして飛び立ちたくなるの。
先程、母の口から私の耳へ届いた言葉。
「どちらへお出掛けなの?何時に帰ってくるのかしら?今夜はお父様が帰ってくるのだから〇時には帰ってきてくださる?」
..うまく思い出せない、何時だったかしら。
パンの香ばしい香りが鼻先をくすぐる。
取るに足らない問題は消え失せ、自動ドアをくぐる。
バスケット型のトレイと木製のトング。細部までのこだわりに期待が膨らむ。
カレーパン、メロンパン、アンパンにコロネ、クロワッサン。
お目当てのシナモンロールは...あった。
トングで挟み、私のものよと取り上げる。
シナモンの香りが右手の方から優しく香る。レジカウンターでコーヒーも頼み2人がけのテーブルセットに腰掛ける。
涼しさと、目に飛び込む柔らかな緑達にオルゴール調になった古いジャズのスタンダードナンバー。
運ばれたコーヒーの香りも相待って、昼下がりの幸福に花束でも送りたい気分。
真っ白に化粧した、甘い香りのパンを頬張る。身体が痺れるほどの甘さとスパイスが鼻から抜ける。
苦いブラックコーヒーを一口、飲み込む。大当たりね。とても美味しい。
お上品に千切って食べるなんて出来そうもないわ。大口を開けてまたパクリ。
ああ、本当に美味しいわ。パクリ、ゴクゴク、パクリ。
いつのまにか、目の前の幸せは後一口になっていた。夢中になって食べていたのねと苦笑い。
後半分になった冷たい苦味も全て飲み干し、笑顔の素敵な店員さんに
「とっても美味しかったわ、ご馳走さまです。また来るわね」
と一言、感謝を述べて また熱気の中へ。
さて、今夜のお楽しみの準備にかかろうかしら。
この間は文学ヲタクの女の子。大学生のウブな男の子と書店の中のカフェで、夏目漱石についてお互いの考えを伝えあった。
楽しくはあったけど、心は踊らなかったの。
今夜は誰になろうかしら。
ふと、目にとまる 屈託無い笑顔を浮かべる可愛らしいお嬢さん。
惜しみなく足を晒して、手を叩いて大笑いしてらっしゃるの。金の髪は日に透けてまるで高価な宝石みたい。
あの子のようにキラキラと今日を楽しめたら、もしかしたら私も素敵な方と知り合えるかしら。
いいわね、決まり。
どういうお店に行ったら、あの子と同じになれるかしら。
渋谷にでも足を伸ばしてみよう。
ウィッグも買わなきゃ。
あの子が聞くのはどんな音楽かしら、ロック?それとも流行りのラブソング?
切なくて甘くて安っぽい愛を歌う歌なんて、好きなのでしょうね。
スマートフォンを操作し、そんな曲を探す。
ふふふ、気分が乗ってきたわ。
足が軽くなり、スキップをしてみると 翼でも生えたように瞬間だけ自由になれた気がした。
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