グラス

缶のお酒に口をつけて飲むのでは味気ない。

グラスに10個氷を入れる。一文字一文字を噛みしめるように。

そして細々と糸を紡ぐみたいに注ぐ。

溢れないよう しかし並々と満ちるよう細心の注意を払って。少しでも心乱れたら 零してしまう。

濃紺が街を呑み込んで、全ての音が蒼く染まる。私が私を抱き締める時間。

真っ赤に透けるそれに唇を寄せる。

炭酸の刺激が喉を悪戯に掻き乱す。

感嘆が漏れた。

ソレを優しく撫でる。今日まで有難う。君のお陰で青と橙が溶け合う、身を焦がす夕焼けが一枚手に入ったの。


私がソレに縛られたのは、物心のつく少し前の事のようだ。

緩やかに身体を蝕む病魔に怯え、取り乱したのはバースデーケーキに10の蝋燭が灯る頃までだった。

それからは、まるで恋人の様に寄り添い分かりあい共に生きてきた。共依存。

私の広過ぎる世界にはソレと私しか居ない。

他者を寄せ付けるには余りに儚い、脆くも消えてしまう時間が私を孤高に誘う。

距離、そう。距離があるのだ。絶対的に近付けない。月を手に入れようと手を伸ばしても掴めるのは空虚。

無邪気なその行為に焦がれるほど憧れ、試してみたい衝動に駆られる。その一方で落胆する事に誰よりも怯える臆病な指先は固く拳を握る。

開かなくなった拳は、あの頃の私そのものだった。


香りの様にさり気無く、漂うだけなら許されても良いではないか。そう開き直ったのは確か、生まれて初めて革靴を履いた日。

堅く、誰にも媚びない真新しい茶色の革に足を預けたのが最後。数時間後には純白のハイソックスに真っ赤な染みが広がった。痛い、痛いと心の中で呟き、同時にその事を誰とも共有出来ないという事実が私の心に激しい孤独感を植え付けた。

同時にソレと私の世界が 曖昧に広がる事を切望した。

靴が私に媚びへつらい快適な物になる頃には、上手くやる事を覚えた。

人は、こうされると好意を抱く、こうされると不快に思う。注意深く観察し、噛み砕き消化した。

吐き出して見るとそれはユニセックスの香水のように万人に受けた。

そうか、これで間違っては居なかったのだ。

気泡のように生まれては消える、刹那の優しさに私は居場所を見出した。


気泡...その例えは何故出てきたのだろう..そうだ、忘れていた。少し氷の溶けた赤いアルコールを一口、体内に取り込む。

今夜はどうやら自分の軌跡をたどる日なのだろう。ソレに聴いてもらうのも悪くはない。

君と話す時は声を出さなくても良いから疲れないの。全てを飲み干すまで聞いていてよ。


猿真似なのだから、これは全て嘘なのだから私ではないのだから。そんな誰にするではない言い訳を繰り返し始めたのは、踵の高さが女性の自尊心の尺度だと気づいた頃。

貼り付けた笑顔の仮面は、顔の皮膚と同化され 私の周りには人が溢れるようになっていた。

彼らは私にとって演者だった。

誰の為でもない、私の為に上映される 日常という名の舞台に夢中になった。

客席から眺め、いつだって良い観客を演じた。

大きな声を上げない、物語に消して口を出さない、全てを賞賛する。

こっちにおいでたのしいよ。

差し出される手を払いのけステージに上がる事を拒む。でもその場には居座りたい。贅沢でなんと自分本位な客なのだろう。

そうして、区別しなければ息もできなかったのだ。

どの人の脚本も私には眩しすぎて、一文字だって読むことは出来ない。

緞帳が下りるその時を知らない、無限の広がりを見せる喜劇。

私の居ない世界は希望に満ちていたのだ。


君は全てを知っているね。

なんて意味の無い時間だったのだろう。

喉が渇く。体内から響く、鳴る喉の音は私の輪郭を確かなものにする気がして後数口を残してしまった。

約束は、確か飲み干すまで。

それじゃあ、ここからは君の知らない私の事を。初めて君と会話がしたくなったの。

有意義な時間をあげるから。

唯一だった君にさよならを告げる理由も。


それはある日突然訪れた。

どんな日だったか、何を思ったのかも記憶出来ない程の容量で襲いかかってきた。

突然、今まで大切に守ってきた全てを奪われた。

曖昧な比喩を使うのすら出来ない。

誰とも同じ結末にたどり着くことが出来ない私は誰の心を揺さぶる事も許されない。

誰の物語の登場人物になってはいけない。

喜劇を悲劇に変えて良いのは、他でもないその人だけだ。

万人の中の一人でいい。そうすれば、誰の心に傷を残す事も無いのだから。

でも、耐えきれない。

共に目映い光の中で、霞んだ景色を..。

欲なんか持ってはいけない。何度戒めても、押さえつけれない願い。

その心に微かでも良い、形あるものとして残りたい。

君と二人きりの世界は優しく甘い、変化もない。私はそれに甘えていた。

優しくなくても良い、苦くてもいい、泣き叫びたくなる日が、ボロボロに傷つく日が、虚無感に打ちひしがれる日が、情けない日が、どんな明日が来たっていい。

今日まで本当にありがとう。

君とは さようなら。

どうか、そこで馬鹿にしていて。

さよなら。

手術同意書。名前を書いたら君とは本当にお別れしなきゃいけなくなるね。

成功したって、失敗したって。


乾杯をしよう、終わりの始まりに。

ガラスで出来たソレにグラスをそっと重ねる。

響き、止まらない音が部屋の中でそっと産声を上げた。

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