魔術師カリフ
『ハティ一座 驚異のスペクタクル・サーカス!』
スポットライトを当てたステージから見下ろすと、観客が息を潜めているのが見える。全員の視線は、彼の指先に集中している。魔術師の、褐色の顔から発せられる厳しい眼差しはたっぷりと間合いを見極め、手の中の赤いベルベットを勢いよく打ち払った。
檻の中のライオンは、忽然と消え失せていた。
『トルコの魔術師 カリフ大王 あっと驚く東洋の奇跡!』
楽屋の鏡を前に、頭のターバンを外す。アラベスク柄のローブを外す。顔のドーランを拭う。付け髭と
「看板に偽りなし」−それは、この彼の場合当てはまらない。彼は「カリフ」という名前でもなかったし、「魔術師」でもないし、その上「トルコ」出身でさえなかった。鏡に映るその顔からは、舞台の上の「褐色で厳しい」顔は欠片もなかった。よく髭を剃った、つるんとした白い肌。それが「カリフ」ことマッキンリーの素顔だった。メーキャップをすっかり落としたところで、楽屋の扉が叩かれた。1通の電報−それを見るなり、マッキンリーはげっそりした。
『ドウブツレンタル ライオン1トウ ソクヘンキャクサレタシ エンタイフカ』
「まったく、もうちょっと待てないのか?今月はまだ−」
興行があるのに、というマッキンリーの独り言は飲み込まれた。楽屋の外、檻の中で横たわる、痩せた雄ライオン。乾燥したたてがみは、長いトレーラー暮らしは負担になることを示していた。もう一度、手の中の電報を眺める。レンタル業者の声が聞こえてくるようだった。
『マッキンリーさん、先月と同じ台詞は聞き飽きましたよ。延長はもう聞き入れられません。』
−どうしてもとおっしゃるんなら、檻ごと買い取るんですな。
それは無理な話だった。
マッキンリーがこの仕事を始めたころ、世間は「神秘」だとか「魔法」とかいうものに敏感だった。この国に暮らす白い肌の住民にとって、異国情緒溢れるものは貴重がられ、大人であっても遠い海の遥か向こうの世界は魅力的だった。その頃は、ターバンにローブの姿は威厳のあるものだったし、ハトからウサギ、オオカミ、そしてライオンがショーの相棒になったものなのに−
今では老いたライオン1頭さえ覚束ない。
かつては、相棒は動物ではなかった。人間のパートナーがちゃんといた−
『カリフ大王と麗しのナディア姫 奇跡のワンマンショー』
色とりどりのベールに身を包み、アイシャドウの奥から悩ましげな視線を投げかける美女、ナオミが。
しかし、ある年の悪い風に乗ってきた疫病神が、その骨ばった手で彼女の腰を掴み−咳と熱に浮かされながら、彼女は攫われてしまった。永遠に。その薬指を、一度は金の指輪が飾っていたこともあったが−ああ、もはや見る影も無い。
−ちくしょう、ライオンがいなくなったら、俺は何を見せればいいって言うんだ。今更、俺にトランプだの造花だのを出したり消したりしろっていうのか?
「天才魔術師」と、腕を買われた日々は、遠く過ぎ去っていることに彼はようやく気が付いた。
「ハーディさん、お呼びだそうで。」
銀縁眼鏡の奥から、
「マッキンリー君、来たかね。話というのは他でもないが−」
「ハティ」ならぬ「ハーディ」−それがオーナーの本名−小男だが、抜け目がない老人は、両手を顔の前で合わせながら切り出した。結局、マッキンリーが今回手放なければならないのは、ライオンだけではなさそうだ。
「わかるだろう。わしは、みすぼらしいたてがみのライオン一頭さえないマジシャンと契約する気はない。」
その場しのぎに借りた一室に、トランクに詰め込んだ仕事道具は運び込まれたものの、きちんとしまったのは身の回り品と、亡き妻の思い出の品々だけだ。衣装の入った箱も、小道具が整理された箱も、いつまでも放置されていた。かつてテントや小屋を飾った、ポスターさえも。そして、「トルコ人」のメーキャップとは、まったく縁が切れていた。
マジックの道具をクローゼットに眠らせたまま、何とか食いつないでいたそのとき。朝刊のとある見出しに、マッキンリーの目が釘付けになった。
『ウィンズロウ・ザ・マーベラス ハティ一座を買収』
マッキンリーの胸中は複雑だった。確かに、解雇のことは今でも正直受け入れがたい。しかし、ハーディには、一定期間雇い入れてもらっていた恩義もある。それに、一座のメンバーは人情味のある人間だったし−美しいナオミ、彼女に会ったのも。左手の金の指輪が目の前に浮かんでは消える。
小さな一座だから、大手でやり手の組織に買収されるというのもしかたがないだろう。だが正直−たとえばもし、ハーディが、
「君とは色々あったがね。どうだろう、もう一度ステージに立ってみては?」と言い出したなら、きっと自分は承諾するだろう、とマッキンリーは考えた。
ちょっとばかり探りを入れるだけ、と思っていたのに、マッキンリーの足はいつのまにか「ザ・マーベラス」の事務の入っているビルへ向いていた。受付でハーディの名を告げると、きちんとした身なりの秘書がやってきて彼を通した。
マッキンリーが通されたのは、ハーディの部屋ではなかった。老人はマッキンリーの横に同席していた。白いスーツに身を包んだ、新しい興行主は、にこやかに挨拶を交わした。いくらかヨーロッパ風の顔立ち。撫で付けた髪。口元に、金歯が1本きらりと光った。
「初めまして、マッキンリーさん。ハーディさんから伺っておりましたよ。」
−ここにお通ししたのは、他でもありません。そう言って、両手を顔の前で合わせた。
「実は前々から、ハーディさんとは話していたのですよ。いずれ、あなたのことはこちらからお伺いするつもりでした。本日はご足労いただき、ありがとうございます。」
「そうなんだ。ああ、マッキンリー君には、わしから話して良いですかな。」
「どうぞ、その方が話しやすいでしょう。」
マッキンリーの横の小男は話し始めた。
「先ほどウィンズロウさんが言ったとおりなんだがね。わしら−ウィンズロウさんとわしは、君をもう一度迎えたいとおっしゃっているんだ。どうだろう、もう一度ステージに立ってみては?」
そうです、とウィンズロウが相槌を打つ。「マッキンリーさんさえよければ、新しいライオンをご用意しますよ。若々しい、立派なたてがみのは?新品の衣装も揃えましょう。もちろん、お馴染みのお仲間と一緒ですよ。」
突然のニュースに頭をショートさせながら、マッキンリーはこう答えた。
「ほんとうに、俺でいいのか?」
『トルコの魔術師 カリフ大王 東洋の奇跡をご覧あれ!』
真新しい看板がテーマパークに飾られるようになったのは、それから間も無くのことだった。
自室の鏡の前に座り、ウィンズロウはスーツを脱ぎ、鬘を取った。ヨーロッパ風の顔立ちを作っている、鼻のパテをこそぎ取り、白粉やドーランを拭い去った。
−やれやれ、時間はかかったが。腕の良いマジシャンを雇い入れるのは、悪い稼ぎじゃない。
鏡に映る黒髪と褐色の素顔が、にんまりとほくそ笑んだ。
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