プラチナの指輪

『シンシア、僕は必ず帰ってくる。そうしたら君を絶対幸せにしてみせる。』

『嬉しい。待ってるわ、あなた。』

―ええ、待っているわ。


「あなた。起きて。着いたわよ。」

「ああ、エリザベス?」

「やだ、寝ぼけないでよ。寝癖つけて。」

プラチナの指輪をはめた彼女の細い指が、僕の額に垂れた前髪を撫で付ける。汽車での長旅、眠ってしまったようだ。


 新鮮な初夏の空気が、残った眠気を覚まして気持ちが良い。ここは僕の故郷、ニューハンプシャーだ。まあ、故郷といっても、「生まれ故郷」ってわけじゃない。古い親戚が、先祖代々から暮らしている土地なんだ。


「建国時代から住んでいるんだ」というのが、大叔父の口癖だ。流石にメイフラワーには乗っていなかったけれど、それに続けて入植したのが祖先なのだ。彼らの遺した大きな屋敷を、代わる代わる住みながら守っているというわけ。それで、今そこに住む大叔父が、新婚の僕たちを招待してくれたのだ。

 そう、僕とエリザベスは新婚ほやほや。先月、彼女はジューンブライドになったばかり。

 清々しい気候。清らかなドレス。花。ライスシャワー。

 僕らは最高に幸せなところ。


ウィリアムへ:

お前たちの夏の休暇の間、屋敷は開けておく。好きに使いなさい。夫婦水入らずで過ごすなり、友達を呼ぶなり、自由におやり。何かあれば、わしはニースにいる。


気を利かせた大叔父が屋敷を開けてくれたおかげで、使用人を除いては完全に二人きりだ。エリザベスは少女みたいに有頂天でインテリアだの、庭だのを歩き回っている。

うん、2、3日はゆっくりしてから、その辺を見て歩いてもいいな。

休暇はまるまるひと月。まだ始まったばかり!


「エリザベス、良ければこの辺を散歩しない?」

落ち着いてから、僕らはニューハンプシャーの街を散策した。懐かしい景色。新しい街並み。エリザベスは僕の小さな頃を過ごした場所を見てよろこんでくれた。

 数日、街をひと通り見て回り、社交的なエリザベスは街にもすぐに慣れて、

「あなた、ちょっと服を見て来たいわ。」

といって、馬車を飛ばして出かけていった。きっとここを離れるまでに、オートクチュールの箱を4、5個は見ることになるだろうな。

 一方その頃僕の方はというと、かつての遊び場となった公園をぶらぶらしていた。陽だまりに、婦人の広げたパラソルや、乳母の押す乳母車や、ステッキを振りふり歩くシルクハットが行き来している。僕の知古たちも、今ではあんな風に髭を伸ばし始めているんだろうか。

 その時だった。とあるものに目を奪われた途端、記憶の波が一気に押し寄せてきたのは。

 黒髪に、控えめな飾りのドレス。少しうつむきがちの、あの貌…。

「…こんにちは。」

シルクハットを持ち上げる僕の指がぎこちない。

「あら、どうもご機嫌よう…。」

振り向いた彼女の目が、大きく開く。そうだ、このグリーン、覚えている。忘れるものか。

「シンシア、だね。その…久しぶり。」

「…ウィリアムさん。そんな、あの、あたし…。」

このはにかみかたも、変わっていない。


『シンシア、僕は必ず帰るよ。そうしたら、僕は君を幸せにする。』

『嬉しい。ええ、待っているわ。』

あの頃二人はまだ若くて、何も知らなくて、何でも信じていた。

カレッジから僕は遥かヨーロッパへ留学に渡り、何年も経ってから母国へ帰った。その時、すでに互いの指には、別々の婚約指輪が嵌っていた。そして…

「その、失礼になったら申し訳ないけれど、シンシア、君は…。」


ウィリアム:

お前には伝えなくてはならないことがある。重要なニュースだから、しっかり心を落ち着けてこれを読みなさい。

お前の幼馴染のシンシア・フローレンスだが、奔馬生結核に罹ったのだ。

お前が再び母国の土を踏むまでには、恐らくだが神の御許へゆくだろう。

可哀想なことだが、潔い態度をわきまえるように。


「ええ、ウィリアムさん。…その手紙にあったことは、一部は本当なの。」

シンシアの話はこうだった。

僕の留学中、確かに結核には罹ったこと。

けれど、それは重症ではなく、療養を続けて回復したこと。

回復の知らせは、僕に届けられなかったこと。

しばらく申し訳なさそうに目を伏せていたが、そんなことで彼女を責められない。やがてシンシアは顔を上げると、透き通ったグリーンの瞳を細めた。

「ウィリアムさん、奥様がいらっしゃるんでしょう。おめでとうを言わせて。」

そう、昔の婚約指輪は今プラチナの結婚指輪に変わり、この薬指に嵌っている。

「エリザベスというんだ。彼女もこの街を気に入っているよ。」

「それは嬉しい話だわ。私たちが遊んだまち…図書館には案内してあげた?博物館へは?」

「彼女は花屋や…百貨店なんかが好みなんだ。」

そのあとしばらくは世間話をして、僕たちは別れた。


「あなた、帰ったわよ!」

はつらつとした、透明感のある声。エリザベスだ。案の定、両手に箱をいくつも抱えて、上機嫌だ。

「お帰り。いいものはあったかい?」

「ええ、うふふ。楽しかったわ。いい色のドレスを見つけたの。ほら、これどう?」

彼女が広げて見せたのは夏らしい爽やかなブルーグリーンのドレスで、彼女の眼の色によく似合う。

あなたはどうしていたの、と聞かれて、僕はこう答えた。

「ああ、公園を散歩してさ。それぐらいだよ。」

 エリザベスはすっかり街が気に入って、色々なところへ出かけたがった。彼女の眩しい微笑みが家を去ると、僕もまた出かける。行き先は、例によって公園だった。そこで探す人物はただ一人。

 いつもながらの控えめな長い睫毛、きっちりと結った黒い髪、そして薄いミントグリーンの夏らしいドレス。彼女の周りは、日差しの輝きも大人しいようだ。

 シンシアと会うたびに、思い出はあっというまに十年の歳月の波を押し返す。

僕らがまだまだ小さかったころの、風のそよぐ草原。しろつめ草を、ひなぎくを、手に手に持っては編んで花かんむりにしたこと。彼女の黒髪に、白と薄紅の花々がよく映える。

さざ波の立つ渚を、手を繋いで駆け出した。白いドレスのフリルが、レースが、白い泡波と共に揺蕩う。

眼にしみるような青葉の森、晴れの日も雨の日も歩いた遊歩道、図書館や博物館の静謐な灯と紙の匂い。

それはやがて、港波止場の景色に移り、今日と同じミントグリーンのドレスをまとい、眼をうっすら赤くしたシンシアの顔に変わる。

僕は両手に巨大でずっしりとしたトランクを抱えて、ニューハンプシャーの遠い港をいつまでも見つめる。

そして、あの、大叔父からの手紙…。

ああ、僕はどれだけ彼女のそばで笑い、そして涙を流したのか。


「あなた、ねえ、あたし考えたんだけど。」

夕食の席でエリザベスが打ち明けたのは、こんな計画だった。

「あなたのお友達、こちらにいるんでしょう?ねえ、ぜひ会ってみたいわ。」

人好きのするエリザベスは、友達を招待してパーティーを開きたいと提案した。僕も、それには賛成だ。エリザベスもこちらで新しい友人が出来ただろうし、そろそろ休暇も後半が見えてきた。締めくくりに、盛大なイベントを開いても良いだろう。

 エリザベスの取り仕切りで、翌日からは準備にかかった。ささやかだけれど、ディナーを用意して、ダンスパーティーを開くのだと彼女は張り切っていた。きっと、あの新しいドレスや靴を見せたいのだろうな。

 その合間にも、昼間にお客を呼ぶようになった。僕の古い友人や、エリザベスの新しい友達が、花咲く庭や、磨いた廊下や、風吹き渡る広間を行き交った。楽しげなざわめき、お茶の入ったティーカップを傾ける音、軽やかな足音が屋敷のなかに響いては消え、消えてはまた響いた。

 ミントグリーンのドレスはどこにも見えなかった。

 

月が昇り、エリザベスは部屋の灯りをキャンドルだけにした。ほんのりと橙色に照りはえる光の中で、彼女は女主人らしく微笑み、お客を迎えた。

 気楽なブッフェにしましょう、という趣旨で、白いテーブルクロスに並んだ皿が満たされ、次第に空になった。ワインが皆のグラスを赤紫に染め、そして消えていった。宴もたけなわというところで、音楽が流れた。

「あたしから皆さんに提案があるの。今日は、せっかく色々な人と知り合えた記念に、踊る相手を選ぶための工夫を凝らしたらどうかしら。」

すなわち、部屋中のキャンドルを吹き消し、月明かりの中だけで相手を選び出す。それが知っている人でも、知らない人でも、手を取り合ってワルツを踊る。その提案に誰もが賛成し、銀の光差す中でお互いパートナーを探した。シルクやサテンがあちこちに揺れるなかで、僕もまた相手を探し当てた。月の光に晒されて、闇の中でもそれと分かるグリーンのドレス。手元の指輪。

 そう、知らないふりをして、僕は彼女の手を取ったのだ。彼女が気づいているのかわからないが、パートナーはやはりこの人しか考えられない。


 お客の波が夜更け過ぎの空気を動かさなくなったあと、エリザベスは耳を疑うような一言を言った。

「あなた、一体誰と踊っていたの?あたしもあなたと踊ろうと思ったんだけれど、違う人に先に取られてしまったわね。」


 その朝は、広間でくつろぐ僕に、階段を駆け下りるエリザベスが飛び込んできた。

「指輪がない!指輪がないのよ!」

 半狂乱の彼女をなだめてなんとか聞き出したことには、なんと彼女の結婚指輪がなくなったのだという。確かに、彼女の左手に、いつも光っていたプラチナが消えているのだ。泣きじゃくるエリザベスの手を取って、僕は言った。

―君、それは残念だったね。でも落ち着いてくれ。大事なのは僕たちの気持ちじゃないか。そうだろう?

 エリザベスの硬く冷たかった手に赤みが戻り、柔らかさが蘇った。青い眼から伝う涙は拭われ、肩の震えは止まった。

「指輪は残念だけれど、もし君が気に入るなら、また買おうよ。」

しかし、その後も指輪は忽然と姿を消したまま、バカンスの終わりが訪れた。

 屋敷を出て、馬車を揺らしている間、どうしても脳裏にあることが張り付いて離れなかった。

「エリザベス、本当に、指輪のことはごめんよ。君の気が済むのなら、どんな埋め合わせでもする。でも、帰る前に、どうしても確かめたいことがあるんだ。」

困惑するエリザベスをよそに、馬車は道を変えて郊外をひた走った。

「どうしたの。ご先祖に挨拶でもするの?」

エリザベスの疑問はもっともだ。ここは僕たちの向かうべき波止場ではなく、霊廟の立つ墓地だからだ。僕はそれに答えず、あるものをひたすらに探した。立ち並ぶ、苔むした灰色の墓石。それに刻まれた碑銘をひとつひとつ覗き込み、ようやく目当てを見つけ出した。

『SINSIRE FLORENCE』


その墓石には、たったひとつプラチナの指輪が添えられていた。

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