レジェンド・オブ・マドレーヌ

賢者テラ

短編

 母は、娘の裕美子がキッチンでガサゴソしているのに気付き、恐れを抱いた。



 ……あの子、まさか何か料理する気じゃないでしょうね!?



 エプロン姿の裕美子の背後から覗き込んでみると、案の定だった。

「アンタ、まさかお菓子焼く気? 悪いこと言わないから、やめときなさいって」



 数日前のことだった。

 土曜日の昼下がり。裕美子は母の言いつけで、自宅庭にある倉庫の整理をさせられていた。

 いや、『させられていた』というのは、適当な表現ではない。

 彼女は母にチラつかされたお駄賃の千円に、まんまとつられたのである。

 バイトもできない中学二年の彼女にとって、月末のピンチ時には千円と言えども魅力的だった。

 だから、すでに報酬を受け取ってしまった以上、当然の労働なのである。

 お金を先払いでもらってしまうと、当然の労働なのになんだか不当な手伝いをさせられてるような錯覚に陥るのが、子どもの勝手なところである。

 裕美子も、その動きからは明らかに『イヤイヤオーラ』が放出されていた。



 倉庫の片隅の、変色した古い段ボールを開けた時だった。

 青いビニール袋に厳重に包装されているものが沢山詰まっていた。外観からではそれが何か分からなかった裕美子は、不思議な興味を持って、その包みを開けてみた。

 中から出てきたのは、焼き菓子の型だった。パウンドケーキやマドレーヌ、クグロフなどの焼き型。ひとつ裕美子が何の焼き型だか分からなかったのは、『フィナンシェ』と言われる洋菓子のものだった。



 その夜。

 夕食の場で裕美子は母に、なぜこんなものが家の倉庫に沢山あるのかを聞いた。

「わたしのおばあちゃん……つまりあなたからはひいおばあちゃんに当たるのかな。パティシエをしていたのよ。それはそれは腕の良い職人さんだったそうよ」

 一緒に食事をとっていた高校三年の姉が、口を出してきた。

「お母さん、パティシエというのは男性型名詞。女性だったらホントは 『パティシエール』と言わなきゃいけないのよ。あとね、本場フランスでは、男性がなる職業って意識があって、女性はほとんど将来の仕事の選択肢として考えないそうよ」

 頭のいい姉は、わが意を得たりとばかりにウンチクを述べてきた。

 母も、食事の手を止めて感心して聞いている。

「しかもね、フランスだとパティシエは日本で言う「医者」に匹敵する社会的ステータスを持つそうよ!」

「へぇぇ~」

 裕美子はテーブルに身を乗り出した。

「ウチの家系に、そんな人がいたんだ。初めて聞いたよ」

「あら。アンタに話したことなかったっけ?」

 母は過去の記憶をたどるかのような遠い目をした。

「そっか……ひいおばあちゃんのことでは、あんまりいい話がないから。アンタには言いそびれてきたのね」

「ん? なんかあったの? ひいおばあちゃんに」

 味噌汁を飲み干した姉が尋ねた。

「……30歳の若さで亡くなったのよ、結核で。今でこそ医療の進歩で不治の病じゃなくなったけどね、昔の人にとってはそれはそれは恐ろしい病気だったのよ」



 裕美子は、食事の後で母から古いアルバムを見せてもらった。

 セピア色の古ぼけた写真には、曾祖母に当たる人物が笑っていた。

 ロングヘアで美人。キリッとした口元からは、負けん気の強さが感じ取れた。

 母の伝え聞いたところによると、女学校を出てすぐに、まだ当時としては珍しかった洋菓子店に見習いとして就職。努力家の彼女は、もともとセンスもあったことも幸いして店一番の職人になった。

 結婚して、裕美子からは祖母にあたる人物を生んだが、その数年後には肺結核を発症。療養生活を送るも、北海道のサナトリウム(療養所)で、その生涯の幕を閉じた。洋菓子店で腕を振るったのは、僅か6年であったという。



「……この焼き型はね、多分ひいおばあちゃんが職人になる前に家で練習するのに使っていたものだと思うわ。今でも捨てられずに残ってたなんて、母さんも初めて知ったわ」

 その小さな出来事は、少なからず裕美子の好奇心と意欲を刺激した。

 曽祖母にあやかって、菓子作りにチャレンジしてみる気になったのである。

 母はそれと気付いて、裕美子を止めにかかった。

 なぜならば……

 裕美子には料理のセンスがないという次元を通り越して、料理をすると 『キケン』でさえあったからだ。



 カレーを作れば、産業廃棄物のような、黒いドロッとしたものが、ご飯にかかって出てきた。

 姉と母は敵前逃亡を果たしたが、人の良い父は娘の機嫌を取ろうと一口、口に含むという命知らずな行為に出た。父はその後、トイレにこもるはめになった。ドアから漏れ聞こえる父のうめきを聞いた姉と母は、あきれてため息をつくばかりであった。

 中学の家庭科の調理実習でも、裕美子は『危険人物』としてマークされていた。

 一度、爆発まがいの事故が起こったことがあった。幸い、ケガ人はゼロ。

 それ以来、火や刃物を扱う工程は任せてもらえなくなった。

 母が止めるのも、ある意味当然のことであった。



 しかしである。

 裕美子の意思は固かった。目が、爛々と燃えていた。

「わったしにはねぇ、きっとひいおばあちゃんの血が流れているのよ! きっと才能があるのよ」

 勘違いも甚だしい裕美子に、母は青ざめた。



 ……間違っても、あんたにゃ流れてないってば!



 なだめてもすかしても裕美子を止められないと悟った母は、神に祈りながらその場を離れた。

 どんなマズいものが出来てもかまいませんから、どうか火事にだけはなりませんように……と。



 器具と材料を前に、裕美子はフンフン~♪ と鼻歌まじりに機嫌よく洋菓子のレシピ本を開いた。

 裕美子が今回選んだのは、貝殻の形もかわいい『マドレーヌ』だった。

「よしっ! 名職人のひいおばあちゃんも私の味方だし、きっとうまく行くはず! 弘樹くんにぜ~ったいおいしいもの食べさせてあげるんだからぁ」



 弘樹というのは、裕美子のボーイフレンド…つまりは『彼氏』である。

 一応、家族は誰も知らない。

 もし父が知ったなら、大昔のマンガ『お父さんは心配症』に出てくる父親状態と化して、弘樹を襲うことだろう。

 彼は、半年前に母を交通事故で亡くしていた。

 目に見えて、彼からは元気や気力といったものが吸い取られているようだった。

 不器用だけれども人一倍純粋な裕美子は、彼を想う『純情』では、朝ドラのヒロインに負けてはいなかった。ただ、もしこのことを弘樹が知ったなら、全力を上げて阻止したことだろう……



「えっと……まず『ボウルに卵を入れ溶きほぐし、砂糖のざらざらしたところがなくなるまですり混ぜる』っと」

 彼女はその通りに、ハンドミキサーで砂糖を入れた卵を攪拌し始めた。

 一見、普通に女の子がお菓子作りを楽しむ微笑ましい風景であった。

 だが、しかし。

 その舞台裏では、恐るべきことがすでに進行していたのだ!



 洋菓子は、『計量が命』である。

 数グラム、モノによっては1グラムの誤差が大きく味や食感を損ねる場合もある。

 裕美子は、エイッとばかりに、実にアバウトな計量をした。

 ベーキングパウダーに至っては、その性質と役割をまったく把握していなかった裕美子は——

「こんなちょっとで効くんかいな?」

 と、余計な疑問をいだき、スプーンに山盛りを投入した。

「これで、効き目ばっちりでしょ!」

 テーブルの端に『お守り』のように置かれたひいおばあちゃんの写真の顔が、少々曇った。



 裕美子は、丁寧に冒頭に書かれてある「準備」の欄を読み飛ばした。

 卵は、室温に戻すどころか冷たいままであった。

 なぜか砂糖はグラニュー糖ではなく、コーヒーに入れたり、はたまた綿菓子でも活躍しそうな『ザラメ』であった。

 どこからそんなものを用意してきたのかは、まったくもって謎である。

 案の定、ドリルのように回転するハンドミキサーをボールにあてがうと、ガガガガガという聞くに堪えない不協和音がキッチンに満ちた。

 道路工事の音でも、まだ耳に優しかった。



 そして、とろろのようなマドレーヌの生地が出来上がった。

 表面には、砕け切っていない砂糖の粒がゴロゴロしていた。

 オーブンの余熱を忘れた裕美子は、生地ができてから慌ててスイッチを入れた。

「ま、いっか~」

 温まるまで生地を放置し、彼女はテレビを見た。

 その間にも、生地の中で恐るべき化学反応が進行していたのだ。



「よしっ、200℃になったわね」

 裕美子は、生地をマドレーヌ型に流し込んだ。

 彼女は、型にバターを塗っておくことをしていない。

 完成品が型にひっつく運命はすでに決定されていた。

 ベーキングパウダーと薄力粉をふるっておくという行為すら、していなかった。

 ダマダマの生地の中に仕込まれたベーキングパウダーの固まりは、時限爆弾と化していた。

 すでにそれは、オーブンの中でカウントダウンを始めていた。 



 ボカン!



 冗談みたいなその音は、本当 『ボカン』 言ったように聞こえた。

 部屋でのん気に『りぼん』の最新号を読んでいた裕美子は、慌ててキッチンに駆けつけた。

 トースターから飛び出たかのように、オーブン内のマドレーヌ型は外に飛び出し、キッチンの床に黒い煙をもうもうと上げて、その存在感を誇示していた。

 オーブンの扉は、機械からちぎれて奥に飛んでいた。

 温度のデジタル表示を見ると、なんの冗談かフル表示の 「888℃」をペカペカと表示していた。

 シュウシュウと嫌な音をたてて黒煙を吐き散らすその異様な物体を喜ぶのは、もはや機関車くらいなものであろう。

 ホムンクルスを生み出す錬金術師でさえ、裕美子を師と仰ぎかねない。

 あまりの惨状に、裕美子はペタリとその場に座り込む。



 涙が一粒、ポロリ。

 また、ポロリ。

 さらに、一粒。



「ウワァァァァ~ン」



 裕美子は、泣いた。

 (いや、本当に泣きたいのはオーブンを壊され修理するはめになるママだろう)

 頭の中で、喜んでマドレーヌを食べる弘樹の顔が砕け散った。

 失敗したことが悔しいんじゃない。

 弘樹を喜ばせられない自分、力づけてあげられない自分が情けなかった。

 帰宅した姉は、着替えもさておき台所に駆けつけ、事後処理を手伝った。

「……あんた。一体、何をどうやったらこんなになるのよ!」




 次の日。 

 昼休み、屋上に続く階段の踊り場に呼び出された裕美子は、ドキドキしていた。

 4時間目の授業中、弘樹から来るようにとメールがあったのだ。

「よう」

 階段を登ってきた弘樹は、そう言って軽く手をあげた。

 心なしか、彼の顔は赤い。

「そ、そのっ、なんだ……」

 口をモゴモゴさせて、何だか煮え切らない態度である。

「一体、どうしたのよ?」 



 そう言い終らないうちに、裕美子の心臓は胸を突き破るくらい飛び上がった。

 なぜなら、弘樹の両腕が裕美子の肩に回り、彼の顔が裕美子の顔のすぐ横に来たからだ。

 抱きすくめられた裕美子は、時間が止まったかのように感じた。

「……ありがとな」

 裕美子は、一体何に感謝されたのか理解できなかった。

「気持ちは、十分すぎるほど伝わったよ。もう一人でお菓子を作ろうなんて思わなくて、いいからな」



 弘樹から真相を聞かされた裕美子は、あまりの不思議な現象に言葉もなかった。

 なんと、昨日のマドレーヌ作りの失敗の様子が、裕美子のスマホから弘樹へと送信されていたのだ。

 裕美子はそんなもの撮った覚えも、送った覚えもない。

 しかし、「ホレ、見なよ」と言って弘樹が見せてくれたスマホの画面を見ると……

 黒こげのマドレーヌを前に泣き叫ぶ裕美子の動画が、見事に再生されていた。

 その動画を添付したSNSメッセージには、『頑張ったんだけど、ゴメンね』とあった。



 あれから、弘樹は母親を亡くしたショックからだいぶ立ち直り、元気を取り戻した。その後、由美子が発生源となる災害(?)を防ぐために、弘樹もお菓子作りを手伝うことにしたのだ。

 色々工夫をして、オリジナルレシピ『オレンジマドレーヌ』を編み出した。

 マドレーヌ生地に細かく刻んだオレンジピール、そしてグラン・マニエとコアントロー(有名なオレンジリキュール)を一定の比率で混ぜたものを、香りづけとして使うアイデアも、弘樹の考えたものである。



 友人も、裕美子の家族もこれは大絶賛した。

 気をよくした裕美子は、夢見るような表情で言った。

「ああん、今度私一人で作ってみようかしらぁ」

 母は軽いめまいを覚え、こめかみに指をあてがった。

「……お願いだから、それだけはやめて」



 8年後。

 都内の、とあるパティスリーで腕をふるう弘樹の姿があった。

 彼は、裕美子とマドレーヌを作ったことがきっかけで、趣味が高じて製菓の道を選んだのだ。

 彼は最近裕美子と式を挙げ、夫婦となっていた。



 お菓子が生んだ、小さな奇跡。

 一体なぜ、誰が裕美子の動画を撮り、弘樹に送ったのか?

 あの事件の真相は、まったくもって謎であったが、彼らはあまりそれを追及することに心を割かなかった。ただ、ありがたく受け取っておくと心に決めたのだ。

 裕美子のアルバムには、今も曾祖母の写真が大事に保管されている。

 夫婦は、時折思い出したようにアルバムを開いては、感謝の気持ちを込めてその姿を眺めた。



 にっこり笑った曾祖母は、働いていた頃のはつらつとしたその姿を、現在にまでも伝えていた。

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