11

 舞香さんはしばらく僕の家を眺めた後、台所に立った。

 冷蔵庫を開けて、僕の食生活を心配して、料理をすると言った。

 そこに、今日立つはずだった女の子は、もう部屋を出ていった。


「遊馬。ごめんね」


 背中越しに、舞香さんが言う。


「え」


「一人にさせて。でもね。やっと、ちゃんと踏ん切りがついたの。大丈夫。もう私は大丈夫だから。これから二人で——」


 言いかけた時に湯が沸いて、やかんが鳴った。


「うん」


 トントン、と小気味いいリズムで包丁がまな板を叩く。


「あの日ね」


「え?」


「あの日。私が彼に振られた日。覚えてる?」


「うん。ピアノを弾いてた」


「そう。ノクターン第二番。——あの頃、遊馬はまだ小学生だったから、言えなかったけど。本当はね、あの頃、彼の子どもがいたの。おなかに」


「え?」


「それを言ったら、殴られて。そんな気はないって、振られた。今思うと、ひどい男。でも、あの頃は本当に彼のことが好きで、好きで好きで、たまらなかった。振られるなんて思っていなかったし、子どもができたことだって嬉しかったのに。でも、だめだった。お母さんも、わかってくれなかった。それで、家を出たの。——ごめんね、今更になって」


「いや……」


 ——トントントン


「子どもはね、結局、産んだ。父親はもういないけど、うちも父親はいなかったし、悲しい思いをさせるとは思わなかった。私も、お母さんのことは好きだし、毎日楽しかった。——遊馬もいたしね」


「うん」


「大変なことはあったけど、それでも息子のためにがんばろうって毎日思えたし、たぶん、お母さんも自分がそういう苦労をしてきたから、私に無理をさせたくないって、思ってくれてたんだと、今ならわかる。もう伝えられないけど。——でもいいの。私には遊馬がいる。待っててくれる。そう信じてたから」


 ——ねえ、一緒に暮らそう、遊馬。今すぐにでも。


「え?」


「大丈夫。ここでも全然二人で暮らせるよ。でしょ? 狭いけど、いい部屋じゃない。あの頃を思い出す」


「二人でって——え? 子どもは?」


「心配しないで。もう大丈夫だから」


 振り返った舞香さんは、泣いていて、目は、うつろだった。


 想像は加速して、それがたぶん、顔に出た。


「——やっぱり。やっぱり遊馬はもう、変わってしまった? もうあの頃の遊馬じゃないの? ——私だって。私だって苦しかった。真っ当な人生を歩めると思ってた。でも――だって――しょうがないじゃない。世界が私を突き放すんだもん――どんどん、彼に似ていくあの子を、育てる自信なんて――」

 

 取り留めのない言葉を放ちながら、舞香さんは、それでもそこに立っている。


 一度は偶然。

 二度は奇跡。

 三度は必然。


 彼女は、何度死のうとした?


 これは今、必然なのか?


 受け入れるしかないのか?


 畳を蹴った足が、ほとんど無自覚に舞香さんへ向かう。

 鈍い切っ先が、舞香さんの喉へ向かうか、というところで——

 

 僕は——


 僕は、確かに見た。

 部屋に飛び込んでくる、彼女の姿を。

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