ルールはない。

 戻したい、と思えば戻せる。


「さすがに目の前で人が死ぬのは、見たくないからね」


 次の瞬間には視線を足元に移して、薫さんは小さく言った。

 僕は、いろいろな考えが、彼女の言葉で生まれてしまって、何も返事ができなくなったまま、でもたぶん、ああ、とか、うう、とか、意味を成さない声だけを漏らして、それを聞いた。


 時間は不可逆。

 一度進んでしまったら戻ることは二度とない。

 それが世界のルール。

 100人いたら、100人がそう言う。


 世界史を学んでいても、もちろん日本史を学んでいても、

「時間を戻して戦争に勝利したわけだ」

「一度殺されそうになったことで、時間を戻す決意をしたのね」

 などと言った言葉は出てこない。


 だから、誰だって、平等に、同じ時間軸の上を歩いている。そう信じていたし、それが当たり前だと、思うまでもなく、知っている。


 ただ、薫さんにはそれが適用されないと、彼女自身が言っている。


 時間は可逆。

 そんなこと、ありうるのか?


「やべえやつじゃん」


 原の言葉が、頭の中をグルグルと回る。獲物を狙うトンビのようなきれいな旋回で、グルグルグルグル、回り続ける。ずっと、着地しないまま。


「どうして?」


「さあ。私にはできる。それだけ。身長が高い人に、どうして身長が高いの? って聞いても、たぶん同じでしょう? もともとその素質があった。あるいは私も、戻れーと思って時計を見続けているような時期はあったけど」


 笑って言う彼女が、どんなことを考えているのかわからなかった。

 

 どうして遊馬の周りは人が死ぬの。


 そんなの、わからない。

 わからないことが世の中には多くある。あったって、いいじゃないかと、思って欲しい。誰のせいでもなく、何の原因もなく、ただそうであるという、当たり前のこととして受け入れてほしいことが、ある。


「そうですか」


「案外驚かないね」


「驚きました。そりゃ。驚きましたけど。たぶん。大事なことは理解したり共感したりすることじゃなくて、受け入れることだと、思ったんで」


「へえ。大人じゃーん」


「そんな……」自分の話になるのが今は嫌で、「でも、苦労しないんですか?」


 矛先を変えると、彼女は少し、難しそうな顔をした。


「苦労って?」


「例えば、身体的に負荷がかかる――とか?」


「ないよ。ルールは、ない」


「そんなものですか」


「そんなものなのだよ、少年」


 仮に僕に時間を戻せる能力があったとして、それは便利なものなのかどうか、少し、考えてみたけれど、特別に大きく利点があるようにも、思えなかった。

 戻したところで。というのが、実際だからだ。

 時間を戻して、舞香さんが出ていかないように声を掛けられたか?

 時間を戻して、美智子おばさんが病気を患わないようにできたか?

 答えは否だ。


 だって、何事も、一度は偶然、なのだ。

 偶然は、防ぎようがない。いきなりやってくる。


 舞香さんが出ていかないように、そのときはできたとして、もう金輪際、一切その展開が訪れないわけじゃない。そうなると、二度は奇跡。

 さらに奇跡を起こせたとしても三度目は必然だ。この場合、止められるのが、なのか、出ていくのが、なのか、もう僕には判断なんてできなくなっているだろうし、たぶん、何度繰り返したところで、結局、あきらめてしまいそうな気すらする。


 なら、ありのままを受け入れる、しか、道はないのではないか。


 舞香さんは、もういないのだ。


「さて、と」


 僕が煮え切らず考えの渦に飲まれ始めていたのを感じたのか、殊更大きな声で薫さんは言って、ひざを打つと立ち上がった。


「帰ろっか」


 こちらの返答を待たないまま、自分の出したごみをごみ箱へ捨てに行って、彼女は僕が立つのを待った。

 

 僕は見上げる格好のまま、まだ手に残ったままのいくつかのコアラをじっと見て、


「あの」


「なに?」


「その、えっと――あの、よければ、連絡先を、聞きたいと——その、ええと」


 はは、ときれいに発声して、彼女は笑った。


「いいよ。教えてあげる」


 家に帰ってから、僕は久々に返事のある連絡先にメールを打った。

 LINEはよくわからないからやらない――という主義の彼女に合わせたわけではなく、僕も、メールのほうが好きだった。


 顔文字の装飾もないのに、彼女は、


「遊馬くんは、意外とよく笑う人だよね」


 といった文面を送ってきて、そこで、ようやく、僕は自分がにやけていたのを自覚した。

 

 ああ。と思う。

 二度しか会っていない。話をたくさんしたけれど、本当のところはお互いにまだ何も知らない。なのに。

 なのに僕は、この人に対して、安心感を抱いている。

 安心している。楽しめている。

 この瞬間を。

 ただ、純粋に。




 それから何度か会って、より深くお互いを知って。

 雨が降って、地面に吸収されていくみたいに、どんどん、彼女のことを吸収していく。蓄積させていく。細胞が入れ替わって、もう別の個体かもしれないと感じられても、彼女のことだけは覚えていられるように。

 家にも誘って。

 

 好きなんだ、と自覚して。


 時間を戻せるから、助けてもらったから。

 舞香さんに似ているから。

 そんなこと、一切関係なく。僕は純粋に、薫さんに惹かれていくのを止められないまま、当たり前のことのように、一方向へ気持ちが向かっていくのを、楽しんだりして。


「今度は、手料理を食べてみたいな。誕生日に」


 そんな恥ずかしいことも、言えるくらいに。

 挫けるを、退けて――。




 ——ブブッ


 携帯のバイブレーションで、一人の部屋で、隠すこともなく恥ずかしがることもなく、嬉々として。


 通知画面を見て、言葉が出なくなった。


「遊馬。久しぶりだね」


 ノクターンが、頭の中で、確かに、流れ始めた。

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