案外、あっけないものだった。

 もしかしたら舞香さんが出ていった時よりも、あっさりしていた。


 だから、出会いがしら、彼女は前回と同じように動揺を見せた。

 コンビニで、手に取ったコアラのマーチをうっかり滑り落とすか、あるいは握りつぶすかしてしまいそうな、硬直具合だった。


「あ」


「えーっと、あの……、こんにちは」


 僕のほうも、まさかこんなに簡単に奇跡が起きるなんて思っていなくて、実際、持っていたコーラのペットボトルを滑り落とした。

 直視できず、それに視線を落とすと、しゅわしゅわと、蓋を突き破ってしまいそうに泡立ったコーラが、ころころと彼女の足元へ転がっていく。


「あーっと、こんにちは」


 お互いに会計を済ませてから、外の灰皿の横に設置されたベンチに並んで座って、そういえば、奢ればよかった、と思っていると、


「薫」


 と、彼女は言った。

 言った口をすぐに封じるように、コアラのマーチを押し込んでいる。それが、言わざるコアラの絵柄で、あ、と思う。


「遊馬です。遊ぶ馬で、遊馬」


「聞いた。こないだ。17」


「あ、はい。今度、18になります」


「へ、へえ」


 あまりにぎこちない会話は、久しぶりに言葉を発したみたいに思えて、ひどく滑稽だった。内海や原にだって、こんなに言葉が詰まることなんてないのに。


「薫さんは」


「あ。えーっと」使っていない小指で外ハネさせた髪の隙間を縫って頭を掻きながら、「女の子に年齢は聞いちゃいけないんだって、お母さんに聞かなかった?」


「あ、うち、両親いなくて……」


「あ――」


「あー……」


 何を生真面目に答えているのか。僕も口をふさぐためにコーラを流し込もうと蓋を開けると、ばっと噴き出した泡が見事にズボンを濡らす。


「あー……」


 それを見て、薫さんはプッと噴き出した。コーラより、小気味いい勢いだった。

 それでようやく、変な緊張が解けて僕も笑えた。


「19。くらい?」


 と、薫さんは言った。

 とてもそうは見えない背格好だったから、


「くらい? って何ですか」


 と視線を投げて問うと、


「うーん。まあ、いいじゃない」


 とごまかされる。まあ、確かに、どうでもいい。


 薫さんは話し始めると饒舌だった。

 ——もし会えたら。

 その、淡い期待みたいなものが、嘘じゃなかったんだと錯覚してしまうくらいには、楽しそうに見えたし、僕も、嘘や冗談ではなく、楽しかった。


 思えば、人と話をしていて、こんなに自分の話をしたのは久しぶりだったかもしれない。昔見た、好きだったアニメの話。いとこの家で読んでいた少女漫画のこと。両親はもういないけど、美智子おばさんや舞香さんによくしてもらったこと。それで、十分満足していること。

 話し始めると、僕も止まらくなった。

 話したくなった。話し続けたくなった。

 舞香さんの代わりの人ではなくて、薫さんという人と。


 それはまるで、雨の中の、群衆の中の、きれいな色の傘みたいに、僕の心の中の、雨模様の中に、トン、と打たれた色彩のように、美しく、愛おしい、そんな時間だった。


 どれくらい時間が経ったのだろう。

 何人もの人がコンビニに出入りし、何人もの喫煙者が煙たそうに僕たちを見ていた。

 夕日が街をオレンジに染め、学生たちが何人も家路を駆けて行った。


「そういえば」


 そこでふいに思い出して、僕は隣で新しく買ってきたアイスを食べている薫さんに声を掛ける。


「何?」


 髪を耳にかけ、斜め下から覗き込むように視線を返してくる薫さんに、


「あの日。あの時。どうして僕を助けられたんですか?」


 訊ねると、彼女はすべて答えを知っているくせに、こちらを試す先生のような、大人っぽい、微かな笑みで、


「あの日? あの時?」


 と聞き返してきた。


 僕はあの日、薫さんに助けられたとき、確かに、——ドン、と衝撃を受けた。

 それはたぶん、すでにあのハイエースに、ぶつかっていたということだと思う。


 でも、気づいたら僕に当たったはずのハイエースは目の前を通り過ぎていった。


 考えないようにしていた、わけではない。

 ただ、あの時の僕はひどくぼんやりとしていたから、気のせいだったんだと、思っていた。


 でも。

 二度は奇跡。

 聞く価値はあると、思った。


 アイスをひと口、挟んでから、今度はえらく子どもっぽい顔をして、


「私ね。時間を戻せるんだよ」


 薫さんは、確かに、そう言った。

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