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名前も知らない彼女と別れて、誰もいない部屋に帰って、熱いシャワーを頭から浴びて、でも雑念は流れていかなくて、足のほうへ、じっと沈殿していく。
人の細胞は何年かの周期で全部入れ替わる、と聞いたことがある。
嘘か本当かはわからない。実感なんてないし、話で聞いただけだから。
テセウスのパラドックス、という話がある。
ある物体の構成物をすべて入れ替えた時、果たして最初の物体と、最後の物体は同じものと言えるのか、という問題だ。
人の細胞が何年かの周期で全部入れ替わっていたとしても、内容物が変わらない限り、基本的には同じ物体であり続ける。
でも、じゃあその根幹である心という内容物の構成要素は何で、どこにあって、それは、入れ替わっているのか。心は、気持ちは、概念ではなくて、物体なのか。
あてどもない思考も、沈殿していく。
「遊馬。遊馬は、好きなように生きたらいいんだよ。やりたいことをして、行きたいところに行って。悲しくなったら泣いて、楽しければ笑えばいいんだよ。遊馬。遊馬にはそれが、みんなと同じように許されているんだよ」
舞香さん。
舞香さんの顔が、うまく思い出せない。写真を見ないと、その形状を維持し続けられない。心の、気持ちの中心にいるはずなのに、もう、何年も会っていないから、ただ、それだけの理由で、どんどん、思い出せなくなっていく。
怖かった。
死にそうになった時、僕は怖かったんだと思う。
僕のことを思い出す人はいないから。
舞香さん、舞香さん。
言葉は、シャワーの水圧で、かき消されて、まるで、最初からなかったように思える。
雨音の中で驚いた顔をしていた彼女の顔が、ふっと目の前をちらついた。
彼女はそこにいた。いたから。
部屋干しの匂いがする、少し黄ばんだバスタオル。美智子おばさんの家から持ってきた、小さいころからずっと使っていた同じもの。
それを頭からかぶって、適当なTシャツとハーフパンツに着替え、六畳の小さな和室の隅っこに座る。敷きっぱなしの布団。昨日の夕飯のカップ麺の残骸が残るちゃぶ台。両親が、美智子おばさんが残してくれた、預金通帳の入ったタンス。その隙間に、家具みたいに、座り込む。
携帯を買ってもらった時に初めて登録した、美智子おばさんと舞香さんの連絡先。
今はLINEが主流だから、メールなんてほとんど誰も気にしない。
だから、今も届く。舞香さんの連絡先。
ただいま。今日は雨に打たれて、変な女の子に出会ったよ。
少し、舞香さんに似ていて――
そこまで書いて、指が止まる。
結局、下書きも削除して、僕は、そのまま横になって、頭の中で流れ続けるノクターンの旋律の中、小さく、丸く、静かに、眠った。
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